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エゾテリック革命は可能か
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投稿者 マチウ・ドラリュ 日時 2004 年 5 月 04 日 21:48:41:br9JW6TGO1EWs
 

(回答先: ありがとう。感謝します 投稿者 すみちゃん 日時 2004 年 5 月 04 日 11:50:28)

 では、ご要望のエゾテリズムについて。
 その前に、キリスト教のアポリアについて少々。ただし、旅先なので、文献が手元にない。記憶で書く。キリストと呼ばれる男が実在しなかったのは、今では定説になりつつある。死海文書等の解読から、「エッセネ派」と呼ばれるユダヤ教の異端が唱えた主張や神話がキリスト伝説の母体であることがほぼ、確認されている。そういう意味では、「パッション」という映画に、特定の政治目的を読み込むこともできるだろう。

 キリスト教は仏教と違って、「世界哲学」としては稚拙なもので、本来、世界宗教になるだけのレベルではない。それは、母体となった「ユダヤ教」(旧約聖書)の世界観の狭さにも起因している。
 キリスト教が当時の「新興宗教」のレベルを超えていたのは、@「愛」という抽象観念を前面に立てた点。家族愛といったDNAレベルの衝動を超えて、「汝の隣人を愛せ」といった、本来の自然性に依拠しない価値観(観念)をその体系の中心に据えよう、とした点Aプラシーボ的な「治癒」を実践してみせた(らしい)点。つまり、キリストは、精神が肉体に一定の影響を及ぼすことを、どうしてか、知っており、これを布教活動の武器にしていた点---の2つと思われる。「病者の地用能力的(と当時の人には見えた)救済」が「信仰の真実性」を裏付け、庶民レベルに爆発的に普及していったのだろう。しかし、これは、超能力ではなく、今でいう「心療内科」的洞察によった、と思われる。どこでこういう能力を身に付けたかは不明だが。これは「キリスト不在」でもおなじで、エッセネ派は、厳格な禁欲的共同生活をする一方で、「心の力による病気の回復」も実践していたようだから。まあ、「病は気から」という考えは、ずっと昔からあったのかも知れないが。

 では、キリスト教の根本アポリアについて。
 ひとつは「三位一体(トリニティ)」だ。キリストが神なら、どうして人間たるマリアから生まれたのか、という有名な難問だ。「神ー神の子ー聖霊」という公式見解でまとめられてはいる。これは、延々とつづいた神学論争とは別に、地母神信仰のマリアがキリスト教に吸い上げられるプロセスでの葛藤も関係している。この点はあとで。
 二つ目はより深刻かつ存在論的アポリアで、「なぜ、全能の神が創った世界に悪や悪魔が存在するのか」という問いだ。このアポリアを巡り、グノーシス的な発想が、ネストリウス羽ポゴミル派、カタリ派などとして延々と異端として残り続けた。マニ教的、ゾロアスター教世界観なら、はじめから、世界は「神と悪との闘争の場」であり、二元論だから、上記の矛盾は生じない。「全能の神」を措定することで、背理を抱え込んだわけだ。なんとなく、「ゲーデル」問題にも通ずるアポリアだ。キリスト教進学者は1000年以上もこの問題を論じており、ほとんどあらゆるロジックが駆使されている。その一部は日本教文者や福音館という出版社から、出版されているので、興味のある人は呼んで下さい。

 ただし、地母神信仰のところでちらっと触れたように、小生は欧州の宗教基盤はもう少し、汎神論的、エソテリックなものだったように思う。ドルイドもそうだし、北欧のラグナロク神話、メソポタミアの信仰などは、キリスト教の古層にずっとのこっていたのてではないか。「黒いマリア」がそうだし、ルルドの奇跡や、ファティマの奇跡などという形で「超越的な神秘体験」は何度も噴出している。ジャンセニストだったパスカルの「接神体験」もそうだ。ナチスすらそういえないことはない。
 東欧などに残る祭礼でも、秋田のなまはげのような行事が今も演じられており、キリスト教もマルクス主義もこうした民衆信仰に一指も触れられなかったことは明らかだ。「全能の神」による世界創造という”フィクションは、民衆の深層心理まで届いていないのは明らかだろう。ジャンヌダルクにしても、ナショナリズムの形をまとっているが、ジャンヌを通じて噴出しているのは、超越的な神秘体験だ。聖者としてローマ教会がオーソライズした出来事の一部も、キリスト教とは関係ない、個人を時々、襲う神秘体験が多く、たまたま、キリスト信仰の中でそういう体験が噴出したので、キリスト教の「聖者」になっているだけだ。

 この「超越的神秘体験」については、機会を改めて論じるが、「神」の存在を人々が確信するのは、壮大な神学体系よりは、こうした「超越的神秘体験」だ。素朴実感主義という批判もあるが、笠井氏らも、労働価値説による革命では大したことはできない、と考えて、こうした現実を超越していく神秘体験の彼方に「革命」を夢見たのだろう。ブランキやランボーにもこういう資質は強く感じられる。もっともも神秘体験の彼方の革命、といってもイメージも浮かばないが、「言葉にならないことは語れない」というのが、人間の限界なのかも知れない。この点は、ヴィットゲンシュタインもはっきり自覚していた。

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