★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 日本の事件13 > 722.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
青少年犯罪の凶悪化進む、被害8年連続で増加 藤原智美(著) 『家族を「する」家』
http://www.asyura2.com/0403/nihon13/msg/722.html
投稿者 TORA 日時 2004 年 6 月 25 日 15:21:52:CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu73.htm

--------------------------------------------------------------------------------

藤原智美(著) 『家族を「する」家』
退屈を知ってこそ子どもは想像力を鍛えられる

2004年6月25日 金曜日

◆青少年犯罪の凶悪化進む、被害8年連続で増加
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040622-00000104-yom-soci

内閣府は22日、2004年版青少年白書を発表した。凶悪犯罪の加害、被害件数とも増加しており、青少年をめぐる犯罪の凶悪化が一層進んでいることが明らかになった。

 白書によると、2003年の凶悪犯罪での少年少女(14歳以上20歳未満)の検挙数は2212人で、前年より11・4%、226人増加した。凶悪犯罪の種類別では、「強盗」が最も多く前年比185人(11・7%)増の1771人、「殺人」が同13人(16・3%)増の93人、「強姦」が同12人(5・2%)増の242人だった。

 一方、少年少女(20歳未満)が被害者となった刑法犯罪の総件数は2年連続で減り、38万5762件で前年より2万757件(5・1%)減少した。しかし、このうち、凶悪犯罪の被害は前年より66件(3・1%)増の2204件だった。凶悪犯罪の被害は8年連続で増加した。

 強姦と強制わいせつを合わせた性犯罪の被害も、前年より473件(6・9%)増の7376件にのぼった。

 また、携帯電話などを利用した「出会い系サイト」を通じて凶悪犯罪の被害にあった少年少女は、前年比1・5倍の63人となり、統計を取り始めた2000年の10・5倍に達した。

 親が子供を虐待する児童虐待も増加傾向が続いている。全国の児童相談所が受けた相談件数は、前年度より464件増の2万3738件に上った。統計を取り始めた1990年度以降、増加を続けている。(読売新聞)
[6月22日13時16分更新]

◆ケータイがつくりだす「壁」が家族を分断する

そして電話である。電話はラジオやテレビとはまったく性質の違う道具である。れは会話ができる、まさにコミュニケーションのための道具なのだ。電話もまた当初はパブリックな装置だった。最初、庶民は公衆電話を利用した。やがて高度成長期をむかえ、一般家庭の加入電話が急速に普及した。でも、それは鈴木家、木村家の電話であり、姓がそれに張りついていた。家族共有の「家」の電話であり、子どもはめったに使うものではなかった。

やがてコードレスフォンの子機が出現してから、親は電話の持っている「怖い」一面を知ることになる。子どもが子機を自室に持ちこむ。そこで何が話されているのか分からない。そういう不安が生まれた。それでもたいてい取り次ぐのは親である。誰からの電話か、ぐらいは分かった。「いまかかってきた○○くんはどんな子なの?」などと、子どもにとってははなはだ迷惑だが、親にとってはかすかな手がかりをつかむことはできた。

けれど携帯電話の時代に入ってからは、それさえも叶わなくなった。電話は「はい鈴木です」などと姓を名乗るものではなくなった。それはファーストネームの道具になった。電話もまたパーソナル化したのである。いや、それさえも怪しい。

携帯電話の番号はいまや個人に依拠しているものですらない。それは電話機という機器自体につけられている。最近の若い人たちのように頻繁に買い換えれば、番号はパーソナル化するまえに捨てられる。現在の携帯電話は「個人」の道具ですらないともいえる。

それを象徴するのがメールだ。たとえば、わたしの携帯電話には、見ず知らずの人物からメールが入ってきたりする。「友だちになろう」「メールください」などというメツセージがまったく未知の人間から入っているのをディスプレイ上で目にするとき、奇妙で落ち着かない気分にさせられる。

これらのメツセージは、ただ気まぐれにポタンを押して入れたにすぎないものだろう。彼らはわたしが中年の男であるということなど知らない。おそらく一日に何十本も同じように打ちこんでいるのではないかと思う。そして実際にメールの交換がはじまるケースも少なくないのだろう。

パソコンのインターネット通信でもこうしたことはなかった。こうなってくると、「携帯電話はパーソナルな機器」ともいえなくなる。それは「パーソナルなメディアでありながら、公共の情報空間につねに無防傭にさらされている」というどこか矛盾した、これまでのコミュニケーション感覚では理解しがたい存在になっている。

子どもたちは常にそのようなメディアを身につけながら暮らしている。いや、それは子どもたちだけではない。父親も母親もそれを携帯している。そのメディアは住まいのどこにいてもわたしたちを追いかけてくる。食卓にいても瞬問的に家族問に「見えない壁」をつくる。

Mさんは個室の壁を超えようと、土曜日の夕食会をくわだてた。けれど、携帯電話によって瞬時に見えない壁が出現した。いま一番問題なのは、もしかすると「個室の壁」ではなく、この「電子情報の壁」なのではないか。見知らぬ者同士の距離より、食卓で隣あう親子の距離のほうが遠い、ということが日常化している。

情報化時代の家庭はたとえ同じ屋根の下にいても、家族間に見えない「情報の壁」が張り巡らされている。その壁は実際の壁よりも日々に厚くなっていく。なぜなら、家族の一人が携帯電話で話しているとき、他の者はどこか無視されたような、自分の存在を認められていないような気になる。それが親子だったら、夫婦だったら:…・。

◆ケータイ的な家族関係が増えていく

家族の一人が携帯電話に夢中になっているとき、ほかの家族はその彼を、彼女を目の当たりにしながら、物音をたてないように気を使う。ところが、気を使われているということを、その彼と彼女はまるで気づかないかのように、高笑いしながら話をつづける。

家族であるということで、それも我慢する。が、心のどこかにあの無視されたような感覚、自分を軽んじられたような気分は少しずつ蓄積されていく。誰からかかってきたか不明なだけに、その苛立ちは強まる。せっかくつくった料理が冷めるのもかまわず、小さな電子機器を握りしめ話しっづける子どもに、自尊心がまったく傷つかない親などいない、とわたしは思う。

親の子育てのあり方ばかりが問題視されるが、子どもに傷つけられる親の問題は無視されている。「もう二度と食事などつくってやるものか」と思ったとしても、そう思う親を少しも責められない。それほど親は、この情報化時代のなかで無視され、孤立化する。親は傷つき、子どもは親に無関心になり、やがてそんなまったく「ケータイ的な家族関係」が当たり前になっていく。互いに無関心になれば、腹も立たなくなるのだ。そう思おうと努力することになる。

公共の場で耳障りに感じた着メロも慣れるにしたがって平気になり、いつか自分も同じようなメロディを奏ではじめるのだ。「女房がケータイを食卓に置いたんです。いったい何のつもりだろうと思いました。食事中だからスイツチを切れよ、というとおとなしく従いましたけど」Mさんの言葉だ。「でも、子どもたちは女房の味方をするんです。スイツチを切らなくてもいいじゃないという。それは自分たちがそうしているからなんだけど」

Mさんの妻の気持ちは分かる気がする。彼女は携帯電話をテーブルに置いて、そのことで子どもたちに静かに抗議したのではないか。もしかすると、子どもたちに向かって、夫にこういってほしかったのかもしれない。「食事時にケータイをテーブルに置くのはやめなさい」そういわなかった夫に傷つき、「擁護してくれた」子どもたちの言葉に、二度傷ついたのだとわたしは思う。

家族がコミュニケーションによって成り立つ集合体であるとするならば、情報通信のネットワークに住まいが組みこまれることで、家族のあり方、家族意識も大きな影響を受けるだろう。この変化に無自覚である限り、それは間違いなく家族内のコミュニケーションを薄め、個々人をより「外のコミュニケiション」へと向かわせていくだろう。わたしたちは家にいながら、テンデンバラバラにみんなしていつも「外」を向いている、そういう家族の光景に遭遇することになる。

情報機器のパーソナル化はとど支るとこケを知らない。今度はどんな道具が出現するのだろうかpどんな道具が家族関係を壊していくのか?

◆監禁現場とパラボラアンテナ

新潟で少女を九年間にわたって誘拐監禁するという事件姉起きた。ニュースで映しだされた犯人の住まいはひどく奇怪だった。改築途中で工事を中断したのだという。問取りがきわめて不自然である。家のなかにさらに「もう一つの家」があるといった二重構造になっている。完壁な密室といった感じがする。

それにもまして奇妙だったのが、外壁に取りつけられた何基ものパラボラアンテナだった。窓ガラスは内側からフィルムが貼られてなかを覗くことができない。外部にかたく殻を閉ざしている。だが、外と完壁に断絶をはかり、内側にこもっているというわけではない。宙を飛び交っている無数の電波をキャッチし、殻のなかから社会を覗きたいとする意欲は過剰なほど強い。その象徴が何基ものパラボラアンテナである。

事件のアウトラインが明るみに出てから、わたしは精神科医のKさんに電話を入れた。彼はこの奇怪なパラボラアンテナの住まいについてなんというだろうかp「子どもの秘密基地みたいだった」とKさんはいった。「男の子がよくやる遊びですよね」とわたし。「自分の姿を隠して周りの世界を覗くという欲求が子どもにはある。それが基地遊びです。ぼくらには身の安全を確保し、白已の空問をしつらえたあと、ゆっくりと窓をなが通して外を眺めたいという欲望がある」

パラボラアンテナはその「窓」なのだろうか。テレビがあれば、カーテンを引いてかたく閉ざした室内からでも「社会」を見ることができる。「でも、それは現実の風景ではない。電子化された疑似風景ですね」とわたしはいった。外部を覗いているつもりでも、それは電子で加工された情報を消費しているにすぎない。そこで展開されている社会は自分の関わることができない、いわば架空の世界ともいえる。

「その意味では、現代の住宅には『無数の窓』一が開いているということになる。何も外へ出かける必要はない。自分のテリトリーに身を隠したままで世界を把握した気になれる。しかし、それは幼児的な態度です」とKさん。「そうするといまの住まいのなかには、幼児的世界に人を引きこむ道具があふれていることになりますね」

「もしかすると日本中の子ども部屋は、外に出なくても杜会とコンタクトしている、と思わせてくれる錯覚があふれかえっているのかもしれない」「パソコンネットワークも一種の窓ですね。テレビ、パソコン、ケータイと社会とつながる窓がいっぱい開いている。しかもその窓は現実の窓よりも、ずっと魅力的でダイナミックな窓です」とわたし。「その偽物の迫力やにぎやかさに慣れてくると、個室からなかなか外へ出られなくなる」Kさんはそう警告した。

◆退屈を知ってこそ子どもは想像カを鍛えられる

「でも、実はいま、住まいから子どもの個室がなくなりつつある」とKさんはつづけた。「ええ、たしかに子ども部屋をなくそうという社会的な動きもある。けれどそれはまだごく一部ですよ」とわたしはいった。「いや、『空問としての個室』ではなく、『意味としての個室』のことです。いま、子どもたちは真の意味でこもっていない」Kさんは主張した。

わたしはどうも「個室」の意味を早とちりしていたらしい。「携帯電話などで常に外につながっているからですか」とわたしは訊いた。「パソコン、テレビ、ゲームマシンなどすべてです。これからの時代、真に独りになろうとしても、ますますこもる場所や時間がなくなる」「そうなると、どんな事態が生じるのでしょう?」「子どものころ、藤原さんは家でどんなふうに過ごしていました?」Kさんが逆に訊き返してきた。

ぼくの部屋にあった情報装置といえば小さなステレオセツトくらいだった。それも高校に入ってからで、そのまえはラジオだけだった。電話もテレビもなかった。もちろんヘツドフォンステレオも。いまの子どもに比べると恐ろしく何もなかった。だからなのだろうか、いつも退屈だったような気がする。

「退屈さというのは子どもの特権なんです。退屈さを自分で紛らわす力をつけることも成長の一つなんです」とKさん。かつて気を紛らわす遊び道具を持っていなかった子どもたちは、それを木や竹といった身近な材料を使って自力でつくりだした。道具はなくとも、仲間がいれば自然に遊びがはじまった。それもかなわないときは、雲を見て空想をふくらませたりした。それが想像力を鍛えた。

授業中、ぼんやりと空想を巡らすことでさえ無意味ではない、とわたしは思う。それもまた想像カを鍛える方法となる。だが、最近の授業ではただよ退屈さに意識を漂わす子どもなどいない。彼らは勝手きままに私語をするか、行儀のいい子どもでも携帯電話でメールを交換するのに忙しい。

彼らは退屈という精神状態を知らないのだ。そうとしか思えない。部屋にいるときはおろか歩行中でさえ携帯電話とヘッドフォンステレオで情報の洪水に浸りきっている。「独り」を味わおうとしない。考えてみればこれは恐ろしいことではないか。わたしたちは個人空間で「自我」を育ててきた。

この個人空間というのは単に部屋というだけでなく、「自分と向き合う時間」という意味をも含んでいる。かつて個室といえば必然的に自分と向き合う空間だった。向き合うという言い方がキレイすぎるならば「こもる」といいかえてもいい。

現代の子どもは本当の意味で「独り」になり「こもる」ことがなくなっている。こもらずにもっぱら「情報の消費」に励んでいる。「こもる」というのは「自已意識を発揮させる」ということだ。そこではじめて退屈を成長に結びつけることができる。自分を見つめることができる。

退屈を乗り超えるカは想像力である。想像力が欠如している現代っ子には、退屈に耐える力がない。Kさんが「真の意味で個室にこもっていない」というのは、情報の消費に流されて想像カが衰弱しているという意味だったのだ。人問は「孤独」を大切にしてこそ「成長」もある、というKさんの意見には賛成である。(P157−P167)

家族を「する」家―「幸せそうに見える家」と「幸せな家」
http://bookcity.jp/books/4-06-256821-7.html

(私のコメント)
ケータイが家族崩壊のきっかけになるのだろうか。ケータイのおかげで子供といえども、親に内緒の電話が自由に出来る事は、親子関係に重大な影響をもたらすだろう。いまや高校生は9割がケータイを持っている。ケータイを持っていなければ友人関係すら持つことが難しくなって来ているようだ。

逆にケータイがいやらしい中年男と女子高校生を結びつける道具にもなっている。女子高校生がちょっとお小遣いが欲しければケータイで簡単に援助交際相手を見つけることが出来る。夫婦の間でもケータイのおかげで不倫相手と内密の電話が出来るようになったし、プレイボーイはケータイを何台も持って使い分けることが出来るようになった。

私自身はケータイを持っていない。持ちたくもないし持っていても持ち歩くつもりはない。そんなに緊急を要する連絡などないし、普通の電話やFAXやインターネットのメールなどでいくらでも間に合うからだ。逆にケータイを持つことで一人になりたくとも一人になれない煩わしさもあるだろう。

現代の子供達の危機は藤原氏によると「退屈する時間」が持てないことだという。世の中の情報が子供達にも襲いかかり、学校や塾の他にもケータイやゲームやネットで「退屈する時間」が本当にない。それ以外にも24時間営業のコンビニやファーストフードのお店があり、真夜中も遊びに対する誘惑が一杯だ。

これは都会や地方も関係がない。むしろ地方の子供達の方が娯楽が身近になった分のめり方が大きいのだろう。未成年者の凶悪事件がほとんど地方に起きており、ケータイやネットがからんでいる。テレビゲームの影響もあるだろう。簡単に子供が子供を殺してしまう。

もちろん大人たちの世界もケータイやネットが及ぼしている影響も大きい。男女間も、出会いから結婚に到るまでに、ケータイやメールのない世界は考えられない。以前は電話一本かけるのも大変だったし、ラブレターにしてもたいてい相手の両親に没収されるのが常だった。

もはや両親が子供を躾けたり箍をはめるのは困難になる一方だ。子供がいったいネットで何をしているのか、誰とメールのやりとりをしているのか掴むことは不可能だ。女子中高生がいる場合、誰と交際しているかもわかりはしない。夫婦の間でもケータイで絶えず相手を監視して電話やメールをやりとりしなければならなくなった。カメラ付きケータイまであるから誤魔化しもできない。

 次へ  前へ

日本の事件13掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。