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イラク現地レポート[米兵・自衛官人権ホットライン]
http://www.asyura2.com/0403/war49/msg/266.html
投稿者 なるほど 日時 2004 年 3 月 10 日 17:02:50:dfhdU2/i2Qkk2
 

「米兵・自衛官人権ホットライン」は、自衛隊のイラク出動という既成事実に対し、
「在イラク自衛隊監視センター」のスタッフを2月26日、イラク現地に派遣しました。
元自衛官で、挨拶程度ですがアラビア語も話せるスタッフです。約6ヶ月間の滞在を考えています。

 政府・自衛隊当局は報道規制し、都合の悪いものにはふたをし、自衛隊派兵の成功だけをアピールしようとしています。私たちの現地派遣は、そのような政府・自衛隊当局のもくろみに抗して、自衛隊派兵の実態をイラク住民の生の声、出来うるならば現地に派兵された自衛官の声を通してみなさんにお伝えします。

「しかたがない」「行ってしまったならしょうがない」そして、「賛否を問わず自衛官の無事を祈ろう」という「黄色いハンカチ」運動へ。はたして、この雰囲気が自衛官や家族の人たちの心を正しく反映しているのでしょうか。

 私たちは危惧します。「自衛官の無事を祈る」という絶対的な論調の前で、派兵そのものの本質的問題や実態が覆い隠されていくのです。

 既成事実の重みに押しつぶされず、自衛隊を監視し、実態の検証を市民の側から行う必要があります。本来の「シビリアン・コントロール 」(市民による軍隊組織の監視・統制)の実践として、「在イラク自衛隊監視センター」を位置づけています。

2004年2月26日

「米兵・自衛官人権ホットライン」


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3月1日(イラク現地到着報告)

まずは、報告が遅れてしまったことをお詫びします。

27日の19:00にアンマンに到着したが、もうすでに日が落ちていたのでこのまま

イラク・バグダッドに行くには危険であると判断して、アンマン市内のホテルに一泊し

ました。そこから何度も日本に国際電話を掛けようと試みたのですが、回線が混み合

っているためなのかなかなか通じなかったので結局、コンタクトはイラクに着いてから

することにしたのです。しかしこれが報告の遅れに繋がるとはこのとき、まったく予想

も出来ませんでした。

その日の朝にホテルを出て、いちど航空券のチケット会社であるアエロフロート・

オフィスに行ってチケットのフィックスができるか確認したところ、数日かかると言う

のでそれは待てないと言ってそのままイラクに入ることにしました。

アンマンからイラク国境まではその日の正午近くに着いたのですが、そこからイラ

ク・バクダッド市内に行くバスは無いと国境警備員が言うので、仕方なくイラク人タ

クシーを拾って行くことにしました。

このイラク人ドライバーは英語がまったく話せず、私も片言のアラビア語で何とか

コミュニケーションを図ってようやくおたがいに意思を疎通することができました。

唯一救われたのはこのイラク人、名前をカシームといいますが、彼が正直者だっ

たということです。これがヨルダン人のドライバーだったらボッタくられてどうなって

いたか・・・。

それで、このカシームの運転で無事にイラク入りを果たせたのです。それまで必要

以上の会話以外は、終始無表情で通すのかと思われた彼も、私が上空を米軍の武

装ヘリが何機も通過するのを見て「あんなの撃ち落してやりたい」と言うとそれを聞い

た彼が初めて顔に笑みを浮かべるのを見ました。

やがて、18:00頃になるともうすでに陽が落ち始めてきました。バグダッドまであと

40キロという所まで来て彼が私に提案しました。「この先は、米軍が検問をしている。

暗くなると連中は走ってくる車のライトめがけて見境なく射撃するので危険だ。ラマデ

ィに弟の家があるので私とそこに一泊して翌朝にバグダッド市内に行こう」と言うのです。

さすがに私も、ここで撃たれてはかなわないと思い、一計を案じて弟の家に泊まらせ

てもらいました。弟の家に着いて驚いたのは、タクシードライバーの弟の家にしてはず

いぶんと立派な造りの家だったからです。ちゃんとした庭付きの一軒家で玄関を入る

と絨毯敷きのロビーがあってソファーが並んでいます。私は、カシームから「これに着

替えて楽にしろ」と言われて渡されたアラブの部屋着に着替えてくつろぎました。そし

て、ソファーに座っている私の前には、小さなテーブルが置かれそこに灰皿とかタバコと

か適当に置いたついでにさりげなく私に見えるように、彼が自分の車のキーホルダーを

置いていきました。そのキーホルダーには、イラク軍の部隊章と思われる楯型の飾りが

ついていたのです。そこで私は初めてわかったのですが、彼が一見無愛想な正直者のタ

クシードライバーに見えたのも元は軍人だったからなのかと・・・。

しかし、彼は私とロビーで取り留めのない自己紹介などを交わしている間じゅうすっと

元気がないのでどうしたのかと聞いてみると、「今日は、朝早くヨルダンまで行って19:00

頃に弟の家に着くまで、ずっと運転していたから疲れた」と答えたのです。彼がアスピリン

を常用していると言うので、私が「おまえ、頭に熱、あるか?」と尋ねても、「ただ、頭痛いだ

け」と言っているだけでした。

彼の弟の子供たち、小さな女の子二人が部屋の奥のドアから、ちょこっと顔を出して

こっちの話をずっと聞き入っていました。そして子供たちに「これは大人の話だ。子供

はあっちに行ってなさい」と、子供たちを追い払うとまた、頭が痛いといってソファーに

うずくまってしまう。私は彼の様子を見て、なんとも言えず、ただ彼の境遇を我が身に

例えて考えると居た堪れない気持ちになりました。彼は、ついこの間までイラクの軍人

としてそれなりの収入を貰って生活してきたのでしょう。でも、それ以上に「軍人としての

権威」など彼を支えていた大きなものが崩れ去って自分がどこに不満をぶつけたら良い

のか解らなくなってしまっている。タクシードライバーとして仕事に出れば、赤の他人に右

へ行け、左へ行けと言われるままに「ロバのように従う毎日」。こんな今の生活に本人が

嫌気を指しているのではないかとさえ思われます。

すると、外から突然、くぐもったような爆発音が1〜2分の間隔を空けて数発聞こえてき

ました。すぐに短い自動小銃の発射音。私が驚いて外を気にすると、カシームは、「毎

度のことだ問題ない」と言って、笑いながら平然としています。

しばらくして、カシームの弟が帰ってきました。彼は兄とは違って帰ってくるなり挨拶も

そこそこに、すぐにメッカへ夜のお祈りを始めるくらい信心深いムスリムです。性格も正

直そうなのは兄と同じですが、何か気持ちにゆとりを持っているような感じでした。

彼らと一緒に夕食を食べました。家族の女性は子供たちを除いては誰一人私の目

の前には出てきません。だから男だけ3人で食事をしました。

食事が済んでチャイを飲んでいるときにも、兄は弟に何か頼み込むような感じでペラ

ペラと話し込んでいました。ネイティブなアラビア語を「普通の速さ」で喋っていたので

私の理解できる、聞き取れた範囲だけの内容で推測すると、「お金の話」だったようで

す。私はそんな話には首を突っ込まないでチャイを啜ってタバコを吹かしているだけ

でした。

寝るときは、カシームが私とロビーで雑魚寝しました。

その夜、一晩中、米軍のヘリが引っ切り無しに飛び交う音がしていました。

翌朝、07:00頃に私は、カシームの目覚し時計で起こされました。さすがに元軍人だ

けあって朝起きるとすぐに車のエンジンを掛けてスタンバイしていました。私は全然

寒さなど感じませんでしたが、アラブの人も冬はストーブを炊くほどの感覚なのです。

そして、私たちは泊めてくれた家族への挨拶もしないままに早々にバグダッドに向け

て車を出しました。夜は気が付かなかったのですが、道すがらカシームのキーホルダ

ーと同じ部隊章を大きく掲げた旧イラク軍の駐屯地前を通り過ぎました。そこは、もう

荒れ果てた建物と鉄くずが敷地内に散らばっているだけの燦燦たる状態です。私は

彼に「ここは君がいた部隊だろ?」と聞くと「そうだね」と苦笑いをしながら答えるの

みでした。

バグダッドの手前まで来たタクシーステーションで彼は、「俺はここで自分の家に

帰らなくてはいけない。別のタクシーを紹介するからその車で行ってくれ」と言われ

て車を替えました。代金は私が彼に払ったうちから出していたので、そのまま市内の

OWC近くにある安ホテルに直行したので

す。


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3・3Mar.2004.

今日は、イスラム教シーア派にとっては、「アシュラ」という犠牲祭で、バグダッド

市内ではシーア派の人々、あるいはその近所の人々が経営している商店街は喪に

服してどこも閉店します。シーア派にとって、イラク第二の聖地でもあるカドミーヤ

という街には、モスクへの礼拝と殉教者アリーを追悼するためにバグダッド近郊の

街から何万人というたくさんのシーア宗徒たちが集まってきます。この犠牲祭は、

昨日の二日から準備を兼ねた前夜祭が始まり、すでにバグダッド市内では数万人

のデモや集会が行われました。そして、今日は翌朝まで礼拝その他行事が執り行

われます。


私とハルブは、そこでインタビューを試みようと朝から打ち合わせと情報収集の

ために近所のインターネットセンターに入りました。すると、知り合いの店員が私た

ちにシーア派に関する新しいニュースを教えてくれたのです。なんと、この日の早朝

にイラク第一のシーア派の聖地カルバラとアドミーヤの街のモスクで爆発があったと

いうのです。その時はまだ詳しい情報が判らず、死者が20名、負傷者100名以上で

今後もまた死者が増えるだろうというものでした。

ハルブは、死傷者の数からして「これはかなり大きな爆発だったのだろう」と言っ

て、もしかしたら現場はかなり緊張した状態になっているだろうから近くまで行けるか

どうか判らないという危惧を抱いていました。

 私たちが車でカドミーヤの近くまで来てみると、もうすでに道路という道路に黒い

服を着たシーア派宗徒たちが一路モスクへと集まって来ていました。ただ一様に皆、

昨日までの集会やデモのような賑やかさは無く、ご婦人方や年配の方々は、ただ黙々

と静かに歩いています。それでも若者たちは10人、20人くらいづつトラックの荷台に

分乗してそれぞれに何かを大声で叫びながら続々と集まってきます。商店街はすべて

シャッターを降ろし、まるで日本の元旦のように閑散としていました。私たちは途中

で車を降りて、徒歩でカドミーヤのモスクまで行くことにしました。

毎年、「アシュラ」の犠牲祭当日は、宗徒一同喪に服すため、体に傷をつけるなど

して盛大に騒いだ後は静かに礼拝をするものなのですが、今回の祭りは早朝の爆

破事件のため、静かなうえになお、ピリピリとした緊張感が周囲を歩く人々から伝わ

ってきます。その緊張感を逆なでするかのように騒々しい爆音を響かせながら米軍

の武装ヘリコプターが警戒のために何度も何度も上空を旋回しています。私たちは

群集の人込みに紛れて、ティグリス河に掛かる橋の上まで来ると対岸には米軍の戦

車2台が砲身をこちらに向けて停車していることを確認しました。私たちは堂々と戦

車に向けて写真を撮っているとちょうど礼拝を済ませて戻ってくる人々の中からひと

りがハルブに「ちょっと」と言って呼び止めると「この先は、カメラを持った外国人は立

ち入るととても危険だ。みんな気が立っているから米軍と一緒にイラクを占領している

と思われている日本人が来ていると知られたら、例えジャーナリストでも群集から何

をされるか判らないぞ!」と小声で警告してくれたのです。ハルブもそれには同意権

だというふうに納得したようで、私に河向こうには行けないと伝えて来ました。仕方な

いので私たちはその橋の上で通りすがりの人たちにインタビューをすることにしたの

です。(インタビューの内容はハルブがアラビア語から英語に訳してくれますので後で

報告します。

その他、街頭で今回のテロ事件のことをインタビューしたのでこれも後で報告するこ

とにします)


ここで、注目するべきことがありました。ティグリス河の少し手前にスンニ派のモ

スクがあります。ちょうどシーア派の人々はこの前の街道をとおって行くのですが、

この日はとても暑くて道行く人々は長時間歩き詰の人も多く、喉を潤す水が欲しいだ

ろうということでスンニ派のシェーハ(導師)が飲料水やチャイを無料でシーア派の

宗徒たちに配るよう指示を出していました。そのおかげでシーア派の宗徒もスンニの

宗徒もおたがいのイスラムの兄弟として労わり合っていました。けして、欧米の一部

メディアで報じられているような宗派間のいがみ合いなど、「爆弾テロ」が起きた直

後の非常事態だというのに、ここでは微塵も感じることはありませんでした。

 なお、今回の爆破テロはシーア派をターゲットにしたものだそうで、イラクではカ

ルバラとカドミーヤの聖地に爆弾が仕掛けられ、カルバラでは死者25名、負傷者100

以上の被害を受けて、それとほぼ同じ頃にバグダッド市内でもカドミーヤを含む、

三ヶ所のシーア派聖地が爆破テロを受けて負傷者多数の180人の死者を出しました。

巡礼者からの伝聞によると「テロリストたちはイランから来た」と言っていました。

しかし、その後に私たちが別のシーア派宗徒から得た情報によると「テロリストはパ

キスタン人である」と言う人もいました。『アル・ジャジーラ』ではやはり、「犯行はパキ

スタン人」と報じています。いずれにしてもイラクの親米政権発足に反対する外国勢

力の犯行であることは間違いないでしょう。しかし、その代償はあまりにも大きすぎ

ます。

私の泊まっているホテルは、旧テレビ局のすぐ前に位置している安宿です。そこには

日本人のジャーナリストなども泊まっているようですがあまり顔を会わせることはあ

りません。その旧テレビ局は戦争中にバンカーバスターという爆弾を受けて、屋上か

ら地下階まで穴が開いています。こういった種類の爆弾は一説によると劣化ウラン弾

を使用しているのではないかと日本でも問題にされていましたが、ここバグダッドで

は市街地の真中にこのような被災地が何ヶ所もあって人々は平気で日常生活を送って

います。実際、このテレビ局跡の建物も外観は普通ですが半壊程度で済んでいるの

で、今はシーア派の政治組織が占拠して事務所代わりに使っています。毎日何人もの

人が出入りしているのでもしかしたら何ともないのかも知れません。


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1、 イラク国境の警備状況

 ヨルダンからイラク国境に入る手前にサダム時代からのアーチ型をしたゲートがい

まだに残っています。そこをくぐると国境警備員が一人立っていました。彼のユニ

フォームは、オリーブ・ドライブ色の旧軍服から階級彰を取っただけのものでベレー

帽すらもかぶってはいませんでした。もちろん銃も携帯せず、ただゲートを通る車を

目で追いながら「確認」しているだけです。そこを過ぎるともう一人同じ格好をした

警備員が立っていてパスポートチェックをしているのですが、隣国ヨルダンの出国ス

タンプがあるかの確認もそこそこに手招きで「行け」と合図を出すくらい簡単な

チェックです。以前、私がサダム時代に訪れたときに比べると彼らには威厳も覇気も

まったく感じられません。そして私は車を下りて徒歩で入国審査事務所の前まで行か

なくてはなりません。そこまで来ると、客を待つイラク人タクシードライバーや米軍

の迷彩服を着て小銃をぶら下げた若いクルド兵、そして何者だか判らないイラク人が

何人も屯していました。私は、審査事務所に入って驚いたのは、30席くらい待合のい

すが並んでいるのに私以外に誰もいないがらんとした薄暗いロビーになっていて、審

査カウンターにはガラス窓越しに初老でスーツを着た男性が一人だけ座っているだけ

でした。彼は、私が日本人だとわかると「アラビア語は話せるか?」と言うので「少

しだけ」と答えると、「名前は?」、「職業は何だ?」と無愛想な態度で聞いてきま

した。私は「私の仕事はフリーランスのジャーナリストです」などと適当に答える

と、別にプレスカードなど身分を確認するわけでもなく、面倒臭そうにノートに記入

してからスタンプを押して入国できたのです。ヨルダン人のタクシードライバーによ

ると、「ヨルダンからバグダッドまでのバスは無い」と言われたのですが、実はちゃ

んと運行していたのです。

2、 国境からバクダットまでの風景ー戦争の爪痕

 イラク人ドライバーのタクシーを拾ってバグダッドまで約5000キロの道のりを走ら

せることになりました。どこまで行ってもまっすぐな道路ですが、思ったほど道は破

壊されてはいません。ただ、時々至るところに機関砲で撃たれた穴ぼこがありました

が、ちゃんと砂で埋められています。しかし、だんだんと進んでいるうちに送電線の

鉄塔が見えてきました。それも、2〜3塔おきに倒れたり途中で無くなっていたりし

て、役に立たない状態です。また、時々、道端に壊れた車両が放置された状態になっ

ています。高速道路なのですが、道路の照明灯も壊れたままの状態でした。時折、米

軍のヘリコプターが上空を警戒飛行しています。なお、バグダッド市内へは米軍の

チェックポイントが置かれていて、夜間に制限速度以上で進入してくる車両にはタク

シーだろうが容赦なく銃撃されるそうです。

3、 最初のバクダット市内の風景

まずは、警察官の姿が圧倒的に少ないということです。国道の交差点には、土嚢が積

まれてあり、そこには新生イラク防衛隊が重機関銃を据えて警備しています。しかも

彼らは、イラク人でありながら米占領軍の補完的役割を担っているので顔を誰にも知

られないようにハッタで顔面を覆っているのです。自分や自分の家族にゲリラからの

報復を恐れてのことでしょう。

 市内では、やはり主要なビルディングは、旧政権の庁舎を除くほとんどのマンショ

ンやホテルを米軍や統治委員会に参加している政治組織が占拠していました。特に

CPA本部が置かれている旧大統領府や米軍施設周辺はコンクリートのブロックで塀

を張り巡らせ、その周りを蛇腹の鉄条網で覆って一般人の立ち入りを禁止していま

す。驚いたのは政治犯収容のために作られた刑務所がなんと市内中心にあるスポーツ

スタジアムの敷地を丸ごと使用してあるということです。その他にもサドン・スト

リートに面した高級マンションにイスラエル人軍事顧問団の住居として接収されてい

ました。その前の道路側には取分け高いコンクリートの壁を置いて、周囲のイラク市

民から隔離しています。


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3月6日

 私の泊まっているホテルは、サドン・ストリートにある『アンダレス・パレス・ホ

テル』といって、現在では一泊10ドルで泊まれる市内で一番安いホテルです。そこに

はなぜか日本人のフリーランス・ジャーナリストが多く泊まっています。また、同じ

『アンダレスホテル』の名前でストリートも同じところですが、もうひとつホテルが

あります。これは米軍将校が接収している『パレスチナ・ホテル』のすぐ近くで市民

から隔てた防御壁の内側にあります。ここには、CPAお抱えのメディアが現地人ス

タッフを雇って事務所を借りているのです。共同通信のバグダッド支局もここにあり

ます。

 日本人フリーランスに付いているイラク人ガイドからの情報ですが、「日本人

ジャーナリストが多く泊まっているホテルはレジスタンスに狙われる可能性が高く

なってきた」とのことです。

ちなみに現在、イラク人でジャーナリスト付きのガイドに雇われているのは旧政権

時、情報省の役人や軍将校だった人たちが多いのです。なかには、大学生やちょっと

英語の堪能なタクシードライバーなどが安くガイドとして雇われることもあります

が、政治組織や宗教団体の要人に人脈を持ち、アンダーグラウンドの根回しが出来る

人材となると、やはり地元の情報通でなければ勤まりません。そういえばその話を聞

いた次の日には、私の泊まっているホテルのロビーに『私服のポリス』らしき、アラ

ブ顔の男たち5人が入って来て何か警戒しているような感じに見えました。なんで

『私服のポリス』と思ったかと言うと、彼らは一様に周囲を警戒するような鋭い目を

して、手に手にトランシーバーを持っていました。日本の公安と決定的に違うところ

は、彼らは人前で「不本意に」目立ってしまうのです。もしかしたら彼らは、日本人

ジャーナリストをガードするためにCPAから派遣されていたのかも知れません。要

らぬおせっかいというものです。

夕暮れ時になると、サドン・ストリートも米軍の装甲車が以前にも増して走り回るよ

うになりました。連中が余計に動き回るので、逆にこっちが近隣住民から睨まれて動

けなくなってしまいます。「もう、バグダッド市内も潮時かな」とすら思わされま

す。明日、3月7日の早朝には念願のサマワに出発します。無事に着くかどうかは判り

ません。


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07.Mer.2004.(サマワ自衛隊報告)

早朝、バグダッドを出発。一路、サマワに向けて南下した。バグダッド市内のホ

テルで知り合った22歳のフリーランス・ジャーナリストX君と意気投合してガイドも一

緒に三人の移動となった。相変わらず車での移動でガイド料の支払いもX君と半々

でシェアすることにしました。それでもガイド料は高いので、できるところまで協力し

て情報を引き出すことにしました。ただ、私のイラク訪問目的は自衛隊を観察するこ

とですのでそちらに的を絞っていくつもりです。

 さて、ガイドのハルブですが、相変わらずフセイン政権時の『旧き良き時代』を今

でも大事にするエリート層出身のためか、それとも戦争前に軍隊を定年退職して悠悠

自適に暮らせるはずだった世代層で自らの「既得権益」を失いたくないためか、話し

をすると必ず『サダムの功績』とか「米軍の攻撃によってサダムの造った設備がこん

なに被害にあった」などと懇々と喋りつづけます。もちろん私は、「サダムの悪行」

を知っているし、そもそもそういう抑圧体制自体が大多数の民衆を苦しめてきたこと

は事実でした。ちょっと偏っているかなと思います。

 いよいよ、サマワ市内に入るとそこは私が地図を見て考えていたよりもずっと大き

な街でした。住民のほとんどはシーア派で、フセイン政権時にはほとんどその恩恵に

あずかれない人々でした。商店街のメインストリートは「占領軍景気」なのか、いろん

な物資が数多く並び一見、活気にあふれているかに見えます。実際、バグダッド市内

に比べると人口の少ないわりには商店街を行き交う人々の顔色が違って見えました。

ガソリンスタンドで車の燃料を補給するときでもバグダッドのように(今は、列を作って

順番待ちをすることは無い)量を測ってきっちり給油することなど無く、燃料が満タン

になっても溢れるくらいにドバドバと注ぎ込みます。これは何故かと言うと、サマワの

オイルラインはクウェートの製油プラントから引いてくるので幾らでも使えるのです。

バグダッドのガソリンスタンドでは、タンクローリーでわざわざ運んできたガソリンをい

ったんスタンドに補給するので値段も高く、質も悪いというわけです。


いよいよ自衛隊の駐屯する『マァスカリ・ジェシー・ヤバニーエ(日本軍駐屯

地)』に行くことになりました。すでにサマワ市内には日本のマスコミが数多く滞在

していたので取材に必要な情報を教えてもらうことが出来ました。早速、私たちは教

えられてとおりの手続きをとって取材の申し込みを済ませると、その足で駐屯地に向

かいました。市外地からの距離は思ったより遠かったのですが車で30〜40分かかる

ところにあります。


最初の印象は、土漠のような表面を掘り返して整地しているようでした。「サマワ

市内に住んでいるイラク人を雇っているのか」と第一次先遣隊長の佐藤三佐に、直

撃インタビューを試みたら、なんと「サマワ在住のイラク人かクウェート人を雇ってい

ます」とのことです。大型のダンプカーが何台も何台も引っ切り無しに砕石を運ん

では出入りをしています。私はこのダンプカーのドライバーに「イラク人か?」と聞くと、

彼は「そうだ、イラク人だ」と答えたので、「マネーは幾ら貰っているんだ」と聞いてみ

たら「6000か7000ディナールだ($5)」と言って。おそらく一回の運び賃のことでしょ

う。警備のアルバイトも、1ヶ月の給料が$200だと言っていました。


サマワ市内の商店街は、一見品物が多くて活気があるように見えますが、実は

それもごく限られた大地主・族長たちだけが儲けているのです。商店街の片隅や

喫茶店のパーラーでは、毎日何人ものいい年をした男たちが椅子に座ってチャイ

を飲みながら駄弁っています。彼らは失業者なのです。おそらく、サマワ市内でもか

なりの数に上ると思います。いくら「小泉さんが自衛隊派遣と現地の雇用は両輪の

輪だ」などと言ってもこれでは、サマワのような一都市だけの経済がバブル的に潤っ

ただけです。イラク全体の経済バランスから観ても、むしろ不安定要因を作り出すだ

けだと思います。


写真で、報道陣に囲まれているアラブ人が自衛隊駐屯地の地主です。この日は

ちょうど部隊側との値段交渉を行った帰りでした。交渉は上手くいったようで佐藤

三佐と別れ際にキスを交わしていました。しかし、土地を追われた小作人たちの問

題はまだ何も話し合われていないようです。今後どうなるのか心配です。

この他にも、サマワ市内でオランダ軍と米軍の共同作戦で、まったく何のいわれ

も無いのに「バース党関係者だ」という嘘の理由をつけられて攻撃された民家も取

材してきました。後ほど報告をまとめて送ります。

http://www.jca.apc.org/gi-heisi/page017.html
http://www.jca.apc.org/gi-heisi/


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