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アブ・グライブからの話・・・[バグダード・バーニング]【バグダード南西に端にある巨大な刑務所】
http://www.asyura2.com/0403/war50/msg/374.html
投稿者 なるほど 日時 2004 年 4 月 02 日 19:02:04:dfhdU2/i2Qkk2
 

バグダードバーニング by リバーベンド


... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...

友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。
 


2004年3月29日月曜日


アブ・グライブからの話・・・

 昨日の夕方、かっきり5時、母が突然、先日ちょっとした手術を受けた母の友だちをお見舞いに行くと宣言した。友だちは、2街区離れたところに住んでいて、イラクでは病床の、あるいは療養中の友人や親戚を見舞うのは義務である。おつきあいの訪問から逃れようとして、さまざま口実を言ってみたけれど、だめだった。母は、頑としてきかなかった。

 チョコレートの箱を持った私も入れて、みんなで出かけたのは、5時40分頃。5分もかからないで、母の友人だちのうちへ着いた。あいさつやら同情や慰めの言葉やらのあと、私たちはぞろぞろ居間に入っていった。居間はもううす暗くなっていたが、停電のため夕明かりを入れようとカーテンは開けてあった。「電気は6時には通じるはずなの・・・だから、灯油ランプをつけてないのよ」と、母の友だちは申しわけなさそうに言った。

 私たちが居間に落ちつこうとしたちょうどその時、向こうのすみに座っていた人が急いで立ち上がった。「どこへ行くの?」と、母の友だち、ウム・ハセンが叫び、次に私たちの方を向いて、あわてて紹介した。「うちの友だち、Mよ。アブ・ハセンに会いにきてるの」。私は、暗さを増していく部屋の向こうのはかなく見える姿に目を凝らしたが、どんな人かはっきり見えなかった。わずかにこう言う声が聞こえた。「もう帰らなきゃいけないわ・・・どんどん暗くなってる・・・」。 ウム・ハセンは、頭(かぶり)を振って、断固として言った。「いいえ、ここにいなさい。アブ・ハセンが後で車で送っていくから」。

 その人は腰を下ろした。ウム・ハセンがお茶の用意に居間を出ると、ぎこちない沈黙が広がった。母が沈黙を破った。「お近くにお住まい?」。「いえ、それほど・・・バグダード郊外です・・・南の端の方。でも今は数ブロック向こうの親戚のうちにいます」。 私は、注意深く声を聞いて、「若い女性、まだ20才から25才くらい、それより若いかもしれない」ということを知った。


 ウム・ハセンがお盆にお茶を載せて、部屋に入ってきた。ちょうどその時、家中の電灯がまたたいて、明るくなった。みんな口の中で感謝のお祈りを唱えた。目がぎらつく電灯の光に慣れると、私は、ウム・ハセンのお客さまを見ようと振り返った。思ったとおりだった__彼女は若かった。20才にもなっていなかったかもしれない。黒いショールをスカーフからはみだした濃い茶色の髪の上に無造作にはおり、黒いハンドバッグをしっかり持って、電灯がともったとき、部屋のむこうのすみに身を縮めていた。


 「どうしてそんな遠くに座っているの? こっちへいらっしゃい」とウム・ハセンは優しく叱って、私たちが座っているソファの隣の大きな肘かけ椅子の方をうなずいて示した。少女は立ち上がったが、私はその時初めて少女がひどく痩せていることに気がついた。長スカートもシャツもぶかぶかで、借り物みたいだった。大きな椅子にしゃちこばって座り、それがますます小柄に若く見せていた。


 「おいくつ?」と、母がやさしく聞いた。「19才」と答が返ってきた。「学生さん? どちらの大学?」。 少女は、ひどく真っ赤になって言った。アラビア文学を専攻していたのだけれど、1年遅らせました、どうしてかというと・・・「どうしてかっていうと、アメリカ軍に捕まっていたからよ」ウム・ハセンが怒りもあらわに頭をふりながら締めくくった。「アブ・ハセンに会いにきたのは、お母さんと3人の兄弟がまだ刑務所にいるからなの」。

 

 アブ・ハセンは弁護士で、戦争が終わってからほとんど仕事を引き受けていなかった。彼は以前、現在のイラクの法制度を評して、「まるでジャングルだ、ライオンとハイエナだらけだ」と言ったことがある。どの法が適用可能で、どの法がそうでないか、誰もはっきりとは知らない。悪徳判事と警官は野放しで、刑事事件を引き受けてもやり甲斐がないのだ。もし裁判に勝ったとしても、殺人者あるいは泥棒の家族が原告を墓にほおり込むのは確実だし・・・犯人が数週間後に釈放されて出てきたら、犯人自ら原告を殺してしまうことだってありだ。


 けれど、この事件については違った。Mは、アブ・ハセンの死んだ友人の娘で、Mがアブ・ハセンのところに相談にきたのは、ほかに誰ひとり関わりあいになってくれる人を知らなかったからだった。

 11月の寒い夜、Mと母親、4人の兄弟が寝ていると、明け方突然ドアが破られた。続いて起こったのは、大混乱としか表現しようのない事態であった・・・泣く声、悲鳴、罵る声、小競りあい。家族は全員、居間に集められ、4人の息子たち(うち一人はわずか15才だった)は、頭に袋をかぶせられて引ったてられて行った。母親と少女は尋問された。「壁にかかった写真の男は誰か?」 それは、6年前、卒中で死んだMの父親だった。「嘘をつけ__かれは、地下抵抗組織のメンバーじゃなかったのか?」 その頃には、Mの母親は極度に神経が高ぶっていた。「あれは、私の死んだ夫よ。どうして息子たちを連れていくの?」。通訳を通して答が返ってきた。「抵抗組織を支援していたからだ」。

 「いったい何をしたって言うの?」と、母親は聞いた。「テロリストに大金を貢いでいるだろう」と通訳が答えた。アメリカ軍は、Mの家族がアメリカ軍襲撃を支援するための資金を出しているという、匿名の情報を受けたのだった。


 ’資金’なんてものはまったく持ってないのだといくら説明してもだめだった。戦争が終わって工場が閉鎖されたため、働いていた二人の息子が失業してからずっと、細々とタバコや菓子を売る小さな店から上がるわずかな金でかつかつ暮らしてきたのだった。食料品を買うのもやっとだったのだ。何を言ってもむだだった。母親と少女も、頭に袋をかぶせられて連れ去られた。

 

 ウム・ハセンがここまで語り続ける間、Mは、誰かほかの人の身の上に起こったことであるかのように、ただうなずきながら聞き入っていた。が、ここからはMが引き取って、続きを語り始めた。Mと母親は、尋問のため空港に連れて行かれた。Mは、頭に袋をかぶせられ、頭上に明るい電灯のある部屋にいたことを憶えている。袋に開いた小さな穴から人の姿が見えたと言った。Mは尋問室でひざをついて座らされ、母親は蹴飛ばされ殴られて床にうち据えられた。

 ウム・ハセンがくれたお茶のカップをもつMの両手は震えていた。「母が、お願いだから、娘を解放して、痛めつけないでと懇願する声が聞こえていました・・・何でもします、何でも言いますってーー娘を解放してくれたら」というMの顔は真っ青だった。数時間暴言暴力を浴びせられたすえに、母親と娘は分けられ、別々に尋問のための部屋に投げ込まれた。Mが尋問されたのは、家族の生活に関するあらゆることだった__誰が訪ねてきたか、誰とつきあっているか、父親はいつ、どんなふうに死んだか。何時間かののち、母親と娘は、かの悪名高いアブ・グライブ刑務所に連れて行かれた。アブ・グライブ刑務所、何千人もの犯罪人と無実の人々の収容所。


 アブ・グライブで、母親と娘は分けられた。Mは、母親はバグダードの外の違う刑務所へ連れていかれたのではないかと思った。恐ろしい数カ月__数度の暴力と看守に男性受刑者がレイプされるのを見た__が過ぎて、1月半ば、Mは突然解放され、叔父を家へ連れて行かれた。そこには、一番年少の弟が待っていた。叔父が、弁護士とつてを利用して、別々の刑務所に入れられていた母と15才の弟をようやく引っ張り出したのだった。Mは、母親がまだアブ・グライブにいることを知ったが、ほかの3人の兄弟のことは誰も知らない。


 Mと叔父は、その後、近所のある人物がM一家にぬれぎぬを着せたことを知った。その家の20才の息子が数年前のMの兄弟とのいさかいを今だに深く根にもっていたのだ。彼は、誰でもいいから米軍に働く通訳にわたりをつけて、Mの名を告げさえすればよかったのだ。ことは、それほどいいかげんに行われたのだ。

 アブ・ハセンは、Mと叔父から連絡を受けた。M一家の昔からの友人で、喜んで無料で仕事をしてくれるからだった。彼らは、ずっと残る兄弟たちと母親を救いだそうと一生懸命やってきた。私はすごく腹がたった__どうして、新聞社に知らせなかったの? どうして赤十字に連絡しなかったのよ?! なんだってじっと待っているの?! Mは悲しそうに頭をふって、もちろん赤十字に連絡をとったと言った。でも、私たちの事件は、何千何万とある事件の一つにすぎないのよ。母親たちを取り返すのは、いつのことになるか。新聞社ですって? 頭がおかしいんじゃない? 母親と兄弟が捕まっているというのに、新聞に連絡して、アメリカ軍当局の怒りを買うようなことできるっていうの? ’連合軍の利益に反する行動をした’として15年もの刑を食らった人々もいるのだ。そんな危険を冒せない。できることは、ひたすら耐えて、祈り続けるだけだ。


 話し終わるころ、Mは静かに泣いていた。私の母とウム・ハセンは拭いてもふいても流れ落ちる涙をぬぐっていた。私はこう繰り返すばかりであった。「ごめんなさい・・・ほんとうにごめんなさい・・・」。口から出るのは、言ってもかいのない言葉ばかり。Mは頭をふって、私の同情の言葉を受けなかった。「いいの、大丈夫___私は運がよかったほうよ・・・ただ殴られただけだもの」

リバーによって掲示 午後11時35分

(訳注:アブ・グライブ刑務所は、バグダード南西に端にある巨大な刑務所。かつては最も恐れられたサダム・フセインの監獄であったが、アメリカ軍により、「バグダッド刑務所」と改名された。だが、状況は以前とまったく同じ。投獄されている人々の家族が刑務所の入り口で何時間も列をなして立っているという。情報を求めて国中の多くの刑務所を訪ね歩く家族も多い。囚人はしばしば移動され、名簿の名前も綴りが間違っていたりして見つけにくいという。バグダッド法律家協会会長によると、逮捕者2万人というが、5万人という数字もあり、誰も正確には知らない。) 


(翻訳 池田真里)

http://www.geocities.jp/riverbendblog/

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