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政治評論家・森田実氏の母の手記「正へ」【戦死した息子を懐かしみ母から送られた手紙 】
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投稿者 あややの夏 日時 2004 年 5 月 28 日 14:10:52:GkI4VuUIXLRAw
 

2004.5.16
『徹子の部屋』(テレビ朝日、2004年3月16日放送)で黒柳さんが読んでくれた長兄の 戦死と36年前の母の手記

  母の手記 

 去る3月16日(火)13:20〜13:55テレビ朝日の『徹子の部屋』に出演した時、60年前の昭和19年9月15日に戦死した長兄・森田正のことを取り上げていただいた。その際、黒柳徹子さんが母・森田ふでの手記を朗読してくれた。母ふでがこの世を去ってから約30年経ったが、黒柳さんのような立派な方に朗読していただき、母の供養になったと深く感謝している。
 番組終了後、テレビ朝日、事務所、自宅に「黒柳さんが読んだ『森田正のおもいで』の中の手記の全文を読みたいとの御要望をいただいた。有難いことである。最近もご要望をいただいた。数名の方にはコピーを送ったが、それでは対応できないため、このホームページに掲載することにします。
 『森田正のおもいで』は1968年9月15日に、森田正兄の25回忌の法要に合わせ、参列してくれる方に渡すために急いで作成した。次姉の真田弘子が編集し、実務は当時日本評論社で編集の仕事をしていた私(実)が担当し、100部程度作成した。私の手もとに二部しか残っていないため、多くの方の御要望に応じられないことをおわびします。以下、私が書いた「まえがき」と弘子姉が速記した母の手記「正へ」を掲載します。

  「まえがき」

 森田正は、昭和十九年九月十五日、満二十一歳の若さで、戦争の犠牲となって、この世を去った。遠く中支において戦死したのである。家族が、正の死を知ったのは、戦後になってからである。昭和二十一年三月十五日のことである。
 森田正は、大正十二年三月、森田四郎・ふでの次男として生まれた。長男が出生後間もなく死亡していたため、事実上は長男として育った。あとには五人の弟妹がつづいた。幸子、弘子、耕造、実、豊治である。現在、五人ともに健在で、それぞれ独立の充実した生活をしている。私(実)は三十五歳、末の豊治は三十二歳である。父母も健在で、六人の孫がある。
 兄が死んでから二十四年が過ぎた。来たる九月十五日に二十五回忌の法要をいとなむ。この機会に『森田正のおもいで』を出版することになり、私が製作面を引き受けることになった。
 思えば、兄の死を知った日(昭和二十一年三月十五日)のわが家の光景は“悲惨”としか表現しようのないものであった。当時私は十三歳(中学一年)であったが、あのときの家族の悲しみ、とりわけ母の悲しみは、いまも忘れることができない。一家の支柱であった兄の死が、家族に与えた悲しみは、想像を絶するほどであった。その後長い間、兄に関する話題はわが家ではタブーのようであった。両親が少しでも悲しみを忘れてほしいという気持ちからであろうか。
 記録を出版しようということになったのは、両親の悲しみが、いくらかでもやわらいだ証拠である。うれしいことである。この小冊子によって、兄を失った両親の悲しみが、少しでもやわらげられ、残る老後を平穏に過ごしてほしいと思う。これが、これを作ることを思いたった動機でもある。
 はじめの「息子正のこと」は、兄の葬儀が終ってから、父が家宝帳に記録しておいたものの一部で、そのままひき写したものである。
 つぎの「正へ」は、母のとめどもない話を口述筆記したものである。
 「兄を偲ぶ」は姉真田弘子が、兄の手紙を整理しながら、思い出を綴ったものである。
 最後に、兄をよく知っている方々に思い出を書いて戴いた。工科学校時代の親友の佐藤一芳氏、小学校時代の同級生村上弘氏、従姉杉本一江氏の三氏で、この内輪のささやかな思い出ばなしに花を添えて戴くことができた。厚く御礼申し上げたい。
 文集の出版という困難な仕事が実現できたのは、出版を計画し、原稿を依頼したり作成したりする仕事一切を引受けた姉弘子の努力によるものである。感謝にたえない。彼女の手伝いができることを、私はひそかに誇りに思うほどである。
 表紙ととびらの題字は、姉幸子の筆になる。
 昭和四十三年八月
                                   森田 実


  「正へ」

 正、元気かえ。あんたが逝ってしまってから、もう二十五年にもなるんだねえ。その間、一日だって、あんたを思い出さない日はなかったよ。神や仏をうらんだり、自分の不運をなげいたり、あんたがあわれでならなかったり。あんたの事をおもって、どれだけ涙を流したろう。
 優しかったねえ、あんたは。どうしてあんなに優しかったんだろうねえ。「お母さん、あんまり働いてはいけませんよ。楽にしていなさいよ」と手紙をくれたあんた。東京から帰省の時、私の手が荒れてるから、と言って、ゴムの手袋を土産に持って来てくれたあんた。「今は春だから良いけれど、夏は、お母さんは夏やせするタチですから、気をつけて下さい」と戦地から言ってきたあんた。どんなときも、いつもあんたは優しかった。だから余計、私はたまらなくなってしまう。
 長男だから、家が貧しいから、弟や妹が沢山いるからと、どうしてあんなに家の事ばかり心配したんだろう。戦地からも、ずい分、耕造たちに、しっかりやってくれ、って言って来たねえ。どんなに家の事を心配して死んだろうねえ。
 あんたが出征の日、昭和十八年十二月五日、まだ明けきらない朝の五時に、あんたは伊東駅から汽車に乗って出征して行ったねえ。あの時あんたは、送って来なくても良いからって、一人で家を出て行ったねえ。「行ってきます」と言って、そのまま清平丸の角のところに立っていた私たちの方を、とうとう、ふりかえりもしないで歩いて行ってしまったけど、あれは、胸が一杯でふりかえったりなんか、できなかったんだねえ。お父さんも私も何も言えやしない。あんな時代だったのに、「お国の為にしっかりやって来なさい」なんて言葉、思いつきもしなかった。どんなに家のことを心配しているだろう、心残りだろうと思って、胸が一杯だった。上の耕ちゃんさえ十三なんだもの、昔、ほんのチビちゃんだったんだから。それでも、あんただって、はたちになったばかりなのにねえ、かわいそうに。あとから駅へ行ったら、あの列車は何輛あったろう。一列車ぎっしりと甲種合格の人ばっかりつめこんで、そしてみんな殺されちまって。ひどいねえ。甲種合格だから、皆、前線の大変なところに廻されたんだねえ。静岡聯隊は強いなんて言われて。
 静岡に入隊してから、一度面会に行ったね。お父さんと豊坊と弘子と四人で。ぼたもちを作ったり、おこわをたいたり、おすしをつけたりして一杯持って行ったけど、あんたは、はじめそんなに食べきれないから、なんて言ってたね。誰かにあげれば良い、って言ったら、全部持って行ったけど。豊坊は縞の背広を着て、とってもかわいらしかったのを覚えているかしら。あの子は、あんたが行ってしまった時、まだ小学校一年生だったから、ちっとも覚えていないらしいよ。広い部屋で皆が一緒に面会するんで、落着いて話しもできなかったねえ。出征しても、一度や二度、家へ帰される人もあるのに、あんた達甲種合格組は、一度も家に帰してくれなかったねえ。面会がある位だから、もうきっと、どこかへ連れて行かれるだろうって事は覚悟していたけど、十八日にもう日本を発つなんて、あんまりだと思いました。それも何の通知もなくて、こっそり連れて行かれるところだったんだから。
 静岡の本部詰だった炭屋の佐藤秋作さんのおじいさんが教えてくれて、分ったんだよ。だけど、皆、どうして知ったんだろう。軍では秘密にしておいたのに、ずい分多勢の人が集まっていたねえ。十一時の汽車で連れて行かれちまうって事だったから、聯隊の門を出てから駅まで会えるかも知れないと皆六時頃から、あそこで待っていた。お父さんと虎好さんの叔父さん三人で、私達もずーっと、門のところで待っていたんだよ。くし柿だのビールだの、おすしを沢山持ってね。まるで、蟻の様に聯隊の門のところにむらがる見送りの人達を、馬に乗った憲兵が追い払うんだけど、また、たちまち門のところは人だかりがしてね。憲兵は何回でも追い払いに来る。私達はその度に散ってはまた集る。私も夢中だったから追い払われるのなんか、気にならなかったけど、ひどい事をするもんだねえ。何時頃だったかしら、皆が出て来たのは。そうその頃は、何時になったかなんて、ちっとも頭になかったから、どれ位、憲兵と鬼ごっこをしていたか、どうしても思い出せなくなってしまった。
 いよいよあんた達が真暗ななかを、四列に隊列を組んで門から出て来た。すると、見送りの人達は、わが子の名前を口々に叫んで、その合間に、兵隊さん達に「◯◯隊はどこですか」「ここは××隊ですか」と絶叫する。私だって。他の人達以上に、「タダシー、タダシー」って声をかぎりに叫んでね。あの夜は、もうこの世のものとは思われなかった。まるで地獄絵そのままだったね。他の人の声にかき消されないように、あらんかぎりの声を出すんだけど、皆が、他の人より大きい声を出そうとしているんだから。でも、あの夜のことを思うと、あんたも私も、ただただ運が良かったとしか言いようがないねえ。
 家を出る時に、誰かが、自分の屋号を大きく書いた堤灯を持って行くと良いって教えてくれたから、大きい提灯に「森四」って書いて持って行って、それをかかげながら、「タダシやー、タダシや」って叫んだけど、あんたは四列にならんでいる一番端で、それも、私達が立っている方の端で、提灯を見てすぐ気がついてくれたねえ。どうして、あんなに、うまくいったのかねえ。それからは、静岡駅まで一歩も止まらないで行軍するあんたに三人で走りながら、くっついて行ったっけ。どれ位歩いたろうねえ。無我夢中で、そんな事は、何も覚えていないよ。食べものを渡そうとしたら、あんたは荷物になるから持って帰れなんて言ったけど、隣の人も何も持っていないんだから、その人にあげてもいいから、とに角、持って行ってくれって言って、やっとあんたに二包み持って行かせたね。本当によかった。向うへ着くまで食べつないだって葉書を読んだ時は、とっても嬉しかったよ。駅へ近づいた時、あんたは「お父さん行って来ます。叔父さん行って来ます」って言ったけど、とうとう「お母さん行って来ます」とは言えなかったねえ。私へのあいさつが、どうしても口にできなかったあんたの事を思うと、本当にたまらなくなる。とうとう、あんたは、行ってしまった。私に物を言うこともできず、私の方を、じっと見ることもできずに、とうとう行ってしまった。あれが最後だったんだねえ。あんたが行ってしまったのは、とってもとっても辛いことだったけれど、でもあれが、今生の別れになるとは、夢にも思わなかった。戦争はきびしいと言っても、いつかはきっと勝つと思っていたし、そうでなくても、あんたと永久に別れてしまうなんて、そんな恐ろしいことは、考えつきもしなかった。ただ、その時の別れが、一時の別れが、辛くて仕方がなかった。
 駅へ入ってからは、もうどこにあんたがいるのか、ちっとも分からなかった。ホームになんか、勿論入れてはくれないんだから、線路のところに立って見送ったけど、どの辺かも見当がつかなかった。分かるわけはないねえ。夜の十一時だもの。十二月なんだから、寒かったろうけど、季節のことなんか、全然覚えてないねえ。ここでも、憲兵が馬で私達をけちらかしたけど、誰もそんなものにかまっている人なんかいない。あんたがどこにいるのかも分からないままに、とうとう、列車が出てしまった時は、一ペンに力が抜けてしまってね。
 その夜は、駅前の三宝館とか言う旅館に泊ったけど、夜もおそいし、急なことなんで、タタミの部屋がなくてね、三階のベットの部屋だったよ。なれないベットだし、あんたがあんな風にして行ってしまったあとだし、ちっとも休まらなくてね。次の朝、家へ帰る汽車の中で、お父さんが提灯をかかげて、
「この提灯は殊勲功だ」
って言ったけど、本当に、あの提灯がなかったら、六時から聯隊の門に立ち続けて会えないで帰るところだったねえ。そんな人がずい分たくさんいてね。なにしろ、正式に教えてくれたんじゃなし、むこうで、会わさないようにしているんだから。あれでは、会える方がおかしいねえ。私達みたいに、一緒に駅まで行けた人なんて、あまりなかったんだろうよ。
 子供達には、一生懸命勉強しろ、私達には体を大事にしろって、あんたは、何枚も葉書をよこしたねえ。でも、次の年の夏ごろからちっとも手紙が来なくなってしまった。でも、あんたが死んでしまうなんて、どうして、そんな恐ろしい事を、考えつくもんですか。いつかは、帰ってくる、って事だけは、信じていたんだよ。元気でやっているだろうか。戦地は大変だろう、家のことを心配しているだろうなあって事は、心配しつづけていたけど。中支が全滅したなんて話はきかないし、丈夫なあんたが病気で死ぬなんて思いもよらなかったし、それに、何よりも、公報が来ないんだしね。それなのに、あんたは、十九年の九月十五日に、天に昇ってしまったんだねえ。私を残して。どうして、夢枕にでも立ってくれなかったんだろう。あんなに私に優しくしてくれたあんたが、私の知らない所で、知らないうちに死んでしまったというのに、虫の知らせさえ、ないなんて。よく、親しい人に別れを告げに、夢に出るって言うじゃないか。あんたは、中国から、一旦家に帰らないで、そのまま、まっすぐに天国へ行ってしまったんだねえ。
 私は、ただただ、あんたが元気に帰ってくる、としか思わなかったんで、終戦の時にはね、真っ先に、ああ、正が帰ってくる、って思ったもんだよ。便りがなかったんで、ちっとも様子が分からないから、もどかしくて、毎日のように、支那方面から復員した人達の所へ、あんたの消息をたずねて、かけずりまわっていたんだよ。あんたが、いつ帰ってくるのか、その日を教えてもらいたくてね。あんたが帰って来たら、こんな食糧難でも、あんたの好きなものを一杯食べさせてやろうと思って、畠に、いろんなものを作って、あんたが帰るまでに早く実がついてくれ、のびてくれ、って言いながら、世話していたのに。
 それなのに、あんたは、もう、この世にはいなかったんだねえ。私以外の人は、知っていた人も多かったらしいけど、誰も、気の毒がって内緒にしていたもんで、私だけが、あんたの帰りを楽しみに、とびまわっていたんだよ。本当に何て事だろうねえ。そうしてとびまわっているうちに、とうとう、あの、三月十五日が来てしまった。あんたは、いくつも命日がある。あんたが死んでしまった事をはじめてきいた、この三月十五日、本当の命日の九月十五日、お骨で帰って来た日、公報が来た日と。
 あの日も、まだ生きているものとばかり思って、中支から復員した劇場の近くの富田清造さん、ホラ、あんたの葉書に、世話になったって、書いてあったねえ、あの人に様子をききに訪ねて行ったんだけど、帰りは、どんな風にして家までたどりついたのか、ちっとも覚えていないんだよ。お湯から帰ったら、富田さんが復員したってきいたもんで、桶をほうり出してすぐ、富田さんの家へとんで行ったら、
「実は、十九年の九月に戦病死して、私達が火葬にしました。遺骨は私達が持って帰りましたが、博多の復員局に置いてきました。」
と言う話。


「正へ」 のつづき


 池谷の叔母さんが藤井病院に入院していてね、その藤井さんの前も気がつかないで通りすぎて家に帰って来てしまってね。あとで、叔母さんが、「お前がどんな気持ちで、あそこを通って行ったかと思うと……」って言ってくれたけど、富田さんの家を出てからあと、幾日かは、私の記憶からポッカリ抜けてしまって、今だに分からないんだよ。ただ一つ、あの日は、幸子の方が、先に聞いて来てね。幸子は、下田さんにお花を習いに行っていたんだけど、誰かが不用意に、「あそこの人も戦死した、この人も戦死した。森四さんでも死んだ」って話しているのをきいて、驚いて帰って来たってわけ。あれから、幸子は、もう二度とお花の先生の家へは行かなくなってしまった。その事だけは、覚えているよ。あとはなんにも分らない。
 お父さんは、役場に届け出て証明書をもらったり、あんたの預金通帳のこと、保険のこと(こんなものは皆、預金封鎖で何もならなかったけれど)、遺骨引取の事など、とても忙しかったけど、私はもうすっかりふぬけになってしまって、寝こんでしまってね。一日とて、看病してあげられたわけでなし、せめて、あんたのお骨のお守くらい、十分にしたいと思っていたんだけど、丁度、あんたがお骨で帰ってくる頃、今まで、したこともない病気になってしまったんだよ。大腿部に大きなできものができてね。あんたの祭壇の前に床を敷いて、そこに釘づけになってしまった。あんたが呼んだんだねえ。あのときは。それに、お腹なんかこわした事もないのに、下痢のひどいのを起して、痛む足をひきずって便所がよいした時も、あんたが、
「下痢は辛かったよ」
と私に言っているみたいで、何か、お骨のあんたが、私に話しかけている気がしたよ。
 富田清造さんの話や、和田武男さんの手紙から、あの頑丈なあんたが、下痢で死んだって知らされたあとなんで、本当に、あの時は、あんたが私に乗りうつったような気がしたよ。だけど、どんなに辛かったろうねえ。入院すれば死んでしまうからって、皆にたすけられながら行軍をしたなんて。そんなに重症なのに、静かにしていられないで。
 コレラのような病気なのかねえ。何か悪いものを食べたんだろうか。水に菌が入っていたんだろうか。流行で皆がバタバタ倒れるって言うなら、あんたも罹るかも知れないけど、殺しても死なないような丈夫なあんただけが、一人、病気になるなんて。
 荷物も持てないで、ほうり出してしまったんだそうだねえ。そんなに辛かったんだねえ。治療もしてもらえなかったろう。荷物をほうり出す時、何を考えていたろう。何か言いたい事もあったろうに。それとも、何も言えないし、考えられない位、辛かったんだろうかねえ。あんたの、あの体を滅してしまう位だから、よっぽどのきつい病気だったんだね。どんなに辛かったろう。家で横になりたかったろう。「お母さん、苦しい」と声に出たかも知れない。まわりの人に、よくしてもらったかい。ああ、口をしめしてやりたかった。ボタンもはずしてあげたかった。何の看病もしてあげられないで、あんたは、皆の足手まといのようになって、死んでしまったんだねえ。あんなに優しかったあんたを、なんにもみとってあげられないで、殺してしまって。
 あんたの魂が、あんたの体から離れてゆく時、昭和十九年九月十五日の午前十一時頃、私は、どこで何をしていたんだろう。虫の知らせさえなかったんだよ。人一倍親思いで、どこの親子よりもずっと、ずっと強い絆で結ばれていたあんたと私なのに、どうして、私に、なんにも、教えてくれなかったんだろうねえ。心配をかけるからかい。それに、あんたは、夢枕にさへ立ってくれたことが、今だにないねえ。いつか、遺族会で出した本に、
  うたゝ寝の夢になりとも帰り来て
   語れ手柄をおひしいくさの
って歌が出ていたけど、私の気持ちも、この通りだよ。手柄なんかいらない。夢に来て、辛かった話を、思う存分、私にしてごらん。
 隣のサブちゃんも、上のよっちゃんも帰って来たのに、真中でうちは貧乏くじを引いちまったねえ。
 五月八日には、大仁で慰霊祭があって、その時、あんたの遺骨が漸く私達のところに帰って来た。あんたは、お父さんの胸に抱かれて、二年半ぶりに、変り果てて帰って来たね。富田さん達が、戦地でずっと一緒に連れて歩いてくれたそうで、遺骨の袋が汚れていたけど、その為に、本当のあんただと言う気がしたよ。「歯も入っています」って富田さんも言ってくれたしね。沖縄や南方でなくなった人達は、何も帰らないんだから、まだしあわせだって言ってくれる人もいるけど……。
 食糧不足で、子供達も多かったから、しゃにむに働いたけど、どんな事をしても、どうしても、あんたの事を忘れることができない。あきらめられないし、悲しみがやわらぐ時がない。何をしても、心から楽しむこともないし、心から笑うことも、できなくなってしまってね。こんなにしていては、あんたも、あの世で、やすらかにできないだろう。あんたが心配してるだろうと、いくら思ってみても、あんたを諦めることなんかできやしない。戦場で、病死したあんたが、ただただ、あわれで仕方ない。月を見るとね、どういうわけか、必ずあんたのこ事を思い出すんだけど、どういうわけだろうねえ。それに、あんたは、あんなに食べっぷりがよかっただろう。本当においしそうに、「ウマイナア、ウマイネエ」の連発で。だから、あんたが喜んで食べたものを見ても、すぐ思い出してしまう。ほんとに、どうして、いつの日もあんたは、あんなに、やさしくて、気がよかったんだろうねえ。あんたが出征する少し前、瓶山で仕事をしているあんたの所に、弁当を持って行った日のことを覚えているかい。
 あんたは、前から、私の為に、あの古い家を建て直したいって言い続けていたねえ。紺屋の白袴で、お父さんは、到底、建ててくれそうもない。もう、あんたが一人前になって建ててくれるのを待つしかない、と思っていたんだけどそのあんたも、もうすぐ、出征してしまうんじあ、新しい家も、とても当分の間は望めないって、私も諦めていたんだよ。それでも、あんたは、何とかして、私に新しい家に入れてあげたいって言って、自分で設計図を引いて、
「僕が出征したら、おやじに、こんな家を建ててもらいなよ。ホラ、ここが台所で、ここが、玄関で……」
って、説明して、その設計図を、私の手許に置いて行ったね。そんなあんただから、私が瓶山へ行ったら、私を連れて、ほとんど完成するばかりの家を、
「ホラ、ここが台所だよ、ここが太陽室だよ」
って言いながら、案内してくれたねえ。
 あんたの設計図の通りじあなかったけど、耕ちゃんが立派に一人前になって、家も建て直してくれたし、私も新しい木の香りをかぐことができたから、あんたも、どんなにか、喜んでくれたろうねえ。でも、あんたには、とうとう新しい家を見せてあげられなかった。私だって、本当は、家なんか欲しくない。もとの、あのボロ家で良いから、ただ、あんたに帰ってもらいたかった。そうして、あの優しい話し方で、私に話しかけてほしかった。
 富田清造さんには、あの日に会ったっきり、一度も会ってないんだよ。富田さんの家へは、よくまあ一人で行けた、って人に言われるけど、あんたの帰る日をききに行ったんだもの。まさか、あんな話になるなんて、夢にも思っていなかったもの。富田さんの他にも、あんたの事をいろいろと話してくれた人もいたけど、戸田の人なんか、お金を持って行ったりしてね、それっきり来なくなってしまった。
 たきえがね、
 「叔母さん、この上、正が生きていたら、叔母さんはしあわせすぎるわよ」
って言ったんだけど、私は、あんたが死んでしまったことで、もう、他のどんなことも、しあわせだなんて思えなくなってしまったよ。あとに、五人も残っていて、皆、出来の良い子だからって、たきえは言うんだよ。丁度、実に続いて、豊治も東大に入学できたあとだったからね。皆、良い学校を出たけど、でもね、やっぱり、あんたみたいに優しい、良い子は一人もいなかったよ。あんたが早く死んでしまったから、それで良く見えるんだ、なんて言う人もあるけれど、それは、あんたをよく知らない人が言っているだけ。少しでも、あんたを知っている人は、誰でもあんたほど良い子はいなかったって言うし、第一、残った五人の子供達が、ちゃんと認めているのだから。
 どんな日でも、この二十五年の間、一日も、あんたを思わなかった日はなかったし、この年月の間、あんたへの思いが弱まるということもなくて、今日まで生きて来たけど、これからも、死ぬまで、そうだろうと思うよ。お父さんや私が、何かみじめな思いをした時は、余計あんたを思い出してね。お父さんも終戦後、たった一人で仕事をやっていた時は、とても大変で、ふっと、「正がいたらなあ」って溜息をつくこともあったけど、やっぱり、あんたを頼りに思う気持ちよりは、あんたが、あんな可哀相な死に方をしたのに、看とってもあげられなかったあわれさの方が、いつも、先に立ってしまう。
 無為な戦いに、あんたを連れて行って、私の知らない所で死なせてしまったお国を恨んだ事もあったけど、あんたが死んで十年目の昭和二十九年の九月十五日に、そのお国から扶助料が出てね。ずっと、もらっているんだよ。死んだあんたが、小づかいをくれるような気がしてね。でも、これが、あんたのいのちの代価だと思うと、何とも辛くてね。
 去年の七月には、勲章も来たんだよ。そんなもの、今さらもらったって、なんにもならないし、喜ぶ気持にはならないけど、勲記の方は額に入れて飾っておくことにしたよ。あんたの思い出につながるものだからね。
 あんたのお墓を、早く建てたいと思っていたけど、なかなか建てられなくて、やっと、この二十五回忌に間に合わして、でき上ることになってね。きっと、あんたは、
 「そんなもの、いらないよ」
なんて言うかも知れないけれど、私にしてみれば、あんたをも、私をも慰める道は、こんな事しかないんだから、やらせておくれ。お父さんや私でさへ、新しい家に入れたのに、あんたは、新しい家にも入れないで死んでしまったんだもの。お墓ぐらい新しいのに入っておくれ。お父さんは今、お墓の土台に使う石に、一つ一つ、お経を書きこんでいるよ。新しい墓で、やすらかに眠っておくれ。

 吾子(あこ)逝きて
  身は空蝉(うつせみ)のわがいのち
   二十五とせは夢のまにまに

 夫(つま)よりは
  汝(なれ)欲し残れる子らよりは
   汝(なれ)欲しとて二十五とせを

 炎天の
  いくさの庭にたおれたる
   いまわのきわになにをおもいし

 母に語れ
  汝(なれ)がおもひのかずかずを
   いまわのきわの胸にうかびし

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