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「相互監視社会」の到来が生み出す恐怖〜公権力と市民、アウトローの関係性(宮台真司)
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投稿者 エンセン 日時 2004 年 7 月 10 日 12:39:18:ieVyGVASbNhvI
 

 
09 - July
◆ 「相互監視社会」の到来が生み出す恐怖〜公権力と市民、アウトローの関係性

■本稿では、暴対法改正が意味するもの、背景にある問題点を考えてみたい。対暴力団対策という大義の裏には、「政府と官僚の関係」、「脆弱な司法」、「マスコミの腐敗」など、実にいろいろなものが絡み合っている。

○ 不安を煽るメディア

■近代社会は、個人の自由と平等を保障する。ゆえに、各人の意思によって権利義務関係が成立するものだとされる。そして、後者は「私的自治の原則」につながる。すなわち、〈社会〉の問題は〈社会〉で解決するのが原則で、凶悪事件など、〈社会〉が自ら解決できない例外的な場合にのみ〈国家〉が介入する、というあり方が基本だとされる。
■しかし、最近になると、〈国家〉が国民を厳格に管理しようとする一方で、国民すなわち〈社会〉のほうも、〈国家〉による権力的な介入を望むようになってきた。その背景には、〈社会〉が自分で問題を解決できるという「自信」を失っていることがある。なぜそのようになってしまったのか。
■かつてムラとしての地域社会が存在していた頃は、「近所づきあい」があり、揉め事をまとめるムラの顔役も存在していた。だから、今日ならばつまはじきにされるだろうツッパリや不良も、チンピラやヤクザも、ムラの顔役が容認する限りにおいて、たとえ法律が──〈国家〉が──許容しないことになってはいても、それなりに受け入れられていた。
■もちろん現在ではそうした〈社会〉は、とっくに崩壊した。トラブルを自分たちで──〈社会〉で──解決できなくなってくるにつれて、警察に、つまり〈国家〉に、しっかりやってほしいと思うようになるのは、ある意味で自然な流れだろう。かくして、かつてなら〈社会〉の顔役から、〈国家〉の警察へと、要求の宛先が移転されていくのだ。
■その意味で、今日、家庭内暴力(DV)やストーカーから女性や子供を守れなくなった日本の〈社会〉が、〈国家〉の積極的な介入を望むようになるのは、致し方ないとも言える。しかしその結果、「民事不介入の原則」はどんどん範囲が狭められ、警察権力が及ぶ範囲が際限なく拡がっていくことになる。暴対法の誕生もその延長線上にある。
■ここで私たちが思い出すべきことがある。近代社会は、本来、「〈国家〉とは怖いものだ」という認識を出発点としていたはずなのだ。だから、市民(国民)と統治権力(国家)が社会契約を結んで、国民は憲法を通じて〈国家〉に命令し、この命令の範囲内で〈国家〉が法律を通じて国民に命令するという形になった。
■国民が、歴史的闘争の末に,〈国家〉を憲法という命令に服さしめることで、恐い〈国家〉を何とか手なずける──これが近代社会の最大の柱であるところの「立憲政治」の意味だ。我が国でも、治安維持法の下で特高警察が活動し、社会主義者が激しく弾圧されていた頃、官憲は、〈国家〉は、何よりも恐れられていた。
■しかし今どきの日本人たちは、〈国家〉よりも、テロリストやアウトロー、外国人犯罪のほうが恐いらしい。国民が、自ら血を流した闘争の末に、何とか〈国家〉を手なずけた経験を持たない日本人たちは、〈国家〉が恐いという自分たち自身の経験を、西洋近代社会に比べると忘れてしまいがちなのだ。
■かくして日本人たちは、〈社会〉の問題を〈社会〉で解決する気概を失い、あれもこれも〈国家〉に依存したがる幼児的マインドに陥った。「何かというと先生に告げ口する弱虫小学生」のような存在に成り下がった。〈国家〉の威を借りて強がるだけの脆弱な虫けらどもが〈社会〉にあふれてきているのだ。
■こうした傾向を後押ししたのがマスコミだ。かつては「テロ」などと呼ばなかった対象まで、〈国家〉の役人が言うがままに、何もかも「テロ」だと称するようになった。何もかも「テロ」だと称することは、〈社会〉のほうが〈国家〉よりも恐いという印象を強める機能を果たす。時代の流れを呼んで役人どもはワザとそうしている。
■かつてハイジャックはテロと呼ばれなかった。「海外旅行するときはテロやハイジャックには気を付けて下さい」という具合に、テロとハイジャックは別カテゴリーとして並列された。79年のダッカ空港事件も「テロリストがハイジャックをした」というふうに報道された。今ではハイジャック自体がテロだと呼ばれてしまう。
■テロリズムやテロリストの「テロ」は「恐怖」を語源とする。この言葉は、クーデターと並んで何やら「国家転覆」の匂いがする。「犯罪」と呼ばず「テロ」と呼ぶことで、「〈社会〉が〈国家〉を脅かしている」「〈社会〉のほうが〈国家〉よりも恐い」といった印象が強められる。マスコミがこうした流れに加担している。
■宮崎学氏も指摘しているが、青少年を含め強姦や殺人などの凶悪犯罪は、戦後から一九六〇年代前半にかけての二つのピーク時から見ても大幅に減った。ヤクザの抗争事件も明白な減少傾向だ。だが、ひとたび“凶悪事件”が起こるとマスコミが大騒ぎするから、何となく「〈社会〉は犯罪が増加している」という不安を抱かされる。
■これは九・一一以降に顕著になった「空気を利用した〈国家〉支配」に通じる。〈社会〉に対する漠然とした不安が醸成されていく。不安が昂進するにつれて〈社会〉は自らが解決できないと思い込み、〈国家〉が何とかすべきだとの意識になる。〈国家〉がそれを百も承知で、マスコミを使って〈社会〉に対する不安を煽る。
■たとえば「街頭の監視カメラの設置を望んでいるのは市民だ」という図式が、人為的に広められる。実際には、警察と結託した地域ボスが針小棒大な煽り立てによって商店会や商工会の要求を取り纏める場合が目立つが、いったんマスコミを経由すると「町に変な人が増えて恐いから、住民たちがカメラの設置を望んでいます」となる。
■とはいえ、警察利権と結んだ地域ボスや警察発表を垂れ流すマスコミの「煽り立て」があるにしろ、現に煽り立てられてしまうのは、相当なリアリティがあるからだ。ありていに言えば、地域共同体の空洞化を背景にした不安によって、監視カメラが、かつて存在した消防団とか青年団による〈社会〉防衛の代替物になっているのだ。
■むろん、代替物とは言っても、心理的なものだ。カメラを設置しても、実際には死角の問題もあって、真剣に犯罪を犯そうとする者どもに対しては役に立たない。しかし、たまに「子供を誘拐する犯人像」が撮れると、そればかり繰り返し報道されるから、ますます需要の「声」は高まる。
■しかしこの「声」とは、社会心理学的な背景を支えにしながら、その内容はマスコミが作り上げたものだ。警察庁は「体感不安」という言葉を使うが、言い得て妙という他はない。市民は、現に自分や隣人が犯罪被害にあったから不安になっているというより、マスコミに煽られる形で「不安だ」と思うようになっているのだ。
■社会心理学的な背景を支えにした「体感不安」に過ぎないから、この種の不安に駆られた者どもは、アウトローや外国人犯罪に対してメディアは容赦しない。昨年あたりから暴力団同士の抗争で市民が巻き添えになる事件が続いた。これはよろしくない。だが注意してみると十件は連続していない。同じ事件が何度も報道されて不安が増幅されたのだ。
■暴対法改正作業はこの不安を利用した。「悪いことをする暴力団を取り締まろう」と言えば大半は大賛成する他ない。私がフィールドワークする青少年についても同じだ。青少年犯罪は減少傾向なのに、衝撃的事件を繰り返し報道し、「子供たちは恐ろしい」との不安が植え付けられる。かくして少年法重罰化や有害メディア規制の流れが作られた。


○ 利権発生装置としての法律

■暴力団や少年の犯罪は悪いに決まっている。テロも恐いに決まっている。しかし、この「恐怖」に落とし穴がある。恐怖が法を作るのか。恐怖に駆られた国民が、「〈国家〉がもっと厳しく取り締まれ」という具合に「声」を上げ、「声」の高まりを受けて、法律が作られたり改正されたりするのか。そう見えるが、実態はそうではない。
■むしろ、これらの「声」は、新法の生みだす権益がほしい政治家や官僚たちに、市民のためという「大義」を口実とした策動のリソースなのだ。信じられないかもしれないが、新法を作ったり法改正をしたりすればカネになる。だから、新法が特定の利権に奉仕しないようにするには、官僚エリートに対抗した市民エリートによるチェックが不可欠だ。
■たとえば盗聴法を考えよう。まず盗聴機器は高度なテクノロジーが駆使される。今や電話だけでなく、ファクシミリや電子メールまで内容を傍受できる時代だ。だからこそ、メーカーの選定から、機械の購入規模まで含めた利権が構成される。この利権は、政官のみならず、財の領域にまで及ぶ莫大なものとなる。
■そもそも法律文書は、句読点をどこに打つか、「てにをは」をどう変えるかだけで、巨大な利権が発生し、移動する。中央の官僚たちはそれを見抜く訓練を十年以上重ねて、法案作成実務につく。句読点や「てにをは」で生じる利権は、訓練によって法律文書リテラシーを獲得しない限りは見抜けない。国民はただ「大義」に踊るだけだ。
■ちなみに、新法が儲かることをうまく利用したのは田中角栄だ。角栄は道路法やガソリン法など三〇を超える議員立法を手がけ、そのたびに儲けまくった。一方で、小学校しか出ていない角栄は、豪雪地帯の住民という「弱者」の味方であり、官僚に頼らずに議員が法律を作るべきだという理念を持っていた。皮肉な事実である。
■利権があるから、改正暴対法の他にも新法や改正法が次々生まれる。DV法や児童ポルノ禁止法、集団強姦罪の新設など、既存の刑法の適用範囲なのに敢えて作る。例外なく権益と結びついている。もちろん利権だけが目的だとは言わない。しかし法案の句読点や「てにをは」まで熟読できる国民がいたら、法案内容の恣意性に目を剥いたに違いない。
■もちろん、あまり露骨にやって失敗する場合もある。「不正アクセス禁止法」は、「インターネットのサーバーへの不正なアクセスを禁止する」という大義名分を掲げ、警察庁主導で進められていた。しかし、これがとてつもない警察利権を生むことを、旧通産省と旧郵政省の官僚が見抜き、内々の段階で廃案にされたのだ。
■私はその経緯を複数の官僚から直接聞いた。だがマスコミにはまったく報道されなかった。実に遺憾だ。だが、官僚エリートならば他省庁が「大義」を掲げて作成した法案のウラにある権益事情はすぐに見抜けることが示された好例で、その意味で興味深い。それにしても、官僚をチェックできるのが他省庁の官僚だけとは、何とも情けない国民だ。
■最近は元官僚による暴露本の出版も増えている。いいことだ。スピンアウトした役人が、シンクタンクやNPOを作るケースを増えている。いいことだ。ヤメ検やヤメ警を含めたこうした「ヤメた官僚」たちが、それなりのネットワークを形成してチェック機能を果たせば、「大義」の裏にあるものも表面化するだろう。
■記者クラブに加盟しているマスコミ各社の番記者は、ウラ事情を知り抜いているにもかかわらず記事にしない。記者クラブ運営は税金を使って賄われているのに、クラブの人間だけが事実を知っていて報道されないのは問題だ。鈴木宗男だって急に外務省で力を持ったわけではない。クラブでは有名な人間だったのに報道されなかっただけだ。
■クラブにいればリーク情報に不自由しない。お上の言うとおり報道すればわざわざ調査報道をする必要もなくてラクだ。こうした怠惰を支えているのは会社の利権や組織防衛だが、各記者の自己保身も見逃せない。自分だけが「いいカッコ」して異議を申し立てても、評価されるどころか窓際に追いやられるだけなのは眼に見えている。
■それどころか下手をすれば懲戒解雇。だが、会社を辞めてフリーでやっていける記者だけの力量をもった記者が、クラブのぬるま湯に保護された日本で、どれだけいるか。冗談ではなく、本当に路頭に迷うことは間違いない。こういう田吾作記者どもが、記者クラブ制度を温存しているのだ。
■こうした事情を最も露骨に表したものが、自衛隊派遣に関連したイラクでの「報道協定」だ。自衛隊員の安否情報は、防衛庁の許可がないと報道できないというのだ。自衛隊の活動に妨げになることも、報道できないというのだ。いったい何なんだ、これは。どこにそんな国があるんだ。日本のマスコミは「世界の恥さらし」。
■現地の戦況報道は、軍隊の派遣や軍隊の活動の是非を国民が判断するために必要な情報だ。国民が〈国家〉を国民の利益になるように操縦するために憲法的にアクセスが保障されている。こうした報道を規制する政府とそれに追従するマスコミの癒着関係には怒りを覚えるが、これも調査報道をサボって「特落ち」を恐れるマスコミのだらしなさだ。
■ゆえに私は過去数年にわたり、一貫して以下の三点を呼びかけて来た。第一に、こうした百害あって一利もない記者クラブは即座に廃止せよ。第二に、調査報道による公正な競争を支援するべく販売店制度を廃止せよ。第三に、記者クラブの大船に死ぬまで乗れるという怠惰な安心をツブすべくマスコミ各社の人材の流動化を推進せよ。
■ところが既得権益を手放したくない脆弱な田吾作が多いので簡単にいかない。自浄能力がないくせに「社会の公器」を自称し、自らが政府と癒着しているくせに「政官財の癒着を批判する」などとホザき、何かというと「報道の自由だ、表現の自由だ」と偉そうに抜かすマスコミは、すぐに抹殺されて然るべし。テレ朝などいつ潰れても構わない。

○ 文春問題と司法

■報道の自由と裁判との関係について、田中眞紀子の長女の離婚問題を記事にした『週刊文春』に対する東京地裁の出版差し止めの仮処分決定を例にして、考えてみる。東京高裁が地裁決定を覆したが、各所で記したとおり、私はこうなると読んでいた。理由の一つは、世界の恥さらしともなるような、東京地裁の処分決定理由の稚拙さだ。
■憲法的な常識では、「プライバシー権」と「表現の自由権」は、等価な権利ではない。後者のほうが圧倒的に重い。プライバシー権侵害について民事的な賠償請求が認められることがありえても、出版差し止めの仮処分をこの程度の記事で出すことは、憲法的な常識をもつ判事ならばあり得ない。
■補足するなら、田吾作議員たちが、名誉毀損やプライバシー侵害の賠償額の高額化を要求している。異口同音に「アメリカに比べて低すぎる」と言うのだ。馬鹿丸出しだ。アメリカは賠償額も高いが、名誉毀損やプラバシー侵害の認定の敷居も高い。特に政治家や官僚などの公人の場合には、めちゃくちゃ高い。
■アメリカの場合、名誉毀損は、記事に(1)公共性か、(2)公益性か、(3)真実性か、のいずれかがあれば、成立しない。例えば、真実でありさえすれば、記事に公共性や公益性があろうがなかろうが名誉毀損は成り立たない。加えて、公人の場合は、挙証責任を自らが負う。(1)〜(3)の全てを満たさないことを、政治家や官僚が自分で証明しなければいけない。
■とりわけ公人については、たとえ記事が真実でなかったとしても、「名誉を毀損するためにワザとウソを書いた」ということが証明されない限り──挙証責任は公人側が負うのはさっきと同じだ──名誉毀損にはならない。アメリカを持ち出す田吾作議員たちは、こうした基本的な知識を知ってモノを言っているのか。
■さて、たとえ記事に真実性があってもなりたつのが、プライバシー侵害だ。プライバシー権は、別名が自己情報制御権で、自分が見せたいように自分を見せる権利のことを言い、住居不可侵権から派生した。ところが、公人(政治家と官僚)についてはプライバシー権が原則として認められない。日本の田吾作議員どもはその理由を知っているか。
■理由は簡単だ。テレビ番組で「青少年犯罪の激増」について聞かれて「道徳教育の徹底」の必要を訴える政治家が、愛人を何度も中絶させた上に「中絶するほど女は具合がよくなる」とホザき、「お前の母親ともセックスしたい」などとのたまうとしよう。この場合、愛人をめぐる彼のプライバシー情報が、彼の発言のもっともらしさを左右する。だからだ。
■同じことだが、人類の恒久平和を訴える政治家が、ディアハンティング(鹿打ち)を趣味にしているとしよう。やはり彼の趣味をめぐるプライバシー情報が、彼の発言のもっともらしさを左右する。それが有権者が投票する際の判断基準になる。有権者の投票は〈国家〉の命運を左右し、国民の利益に直結する。だから、公人にはプライバシー権がない。
■このようにプライバシー権は、名誉を毀損されない権利に比べても、はるかに制限事項が多い。合衆国憲法の修正第一条に来る「思想・信条・表現の自由」の重さに比べれば、ずっと軽い権利なのだ。東京地裁の田吾作裁判官はこの常識を知っていたか。知っていれば先の処分はあり得ない。その意味で世紀の恥さらし。だから高裁でひっくり返った。
■なにゆえに、この種の田吾作が裁判官に任用されるのか。聞くところによれば、担当裁判官は出世頭のエリート裁判官だったという。いったいどういう任用制度になっているのか。それも関係するが、私が地裁の仮処分決定が高裁で覆ると思ったのには、もう一つの理由がある。
■日本の戦後裁判史を見ると、一審で権力側、二審で市民側に有利な判決が出て、最終審で権力側が勝利する傾向がある。一般に、高裁がガス抜きに使われながら、最終的には行政権力──万年与党勢力──を翼賛する最高裁判所の「思うがまま」になる。そうなるのは、内閣が指名する最高裁判事の人員構成に秘密があるが、今回は省略しよう。
■さて、日本のマスコミはこうした事実を報道しない。報道しないで、高裁での決定の覆りに、「言論の自由が守られた」と大喜びするばかり。既述のように、記者クラブ制度の下で「御用ジャーナリズム」と化しているマスコミに「言論の自由」を云々されても、腹を抱えて笑うより他にない。
■文春側にも落ち度がある。形式的には田中真紀子の長女は私人だ。政治家でも公務員でもない。でもアメリカには、私人でもリスクリクテッド・パブリック・フィギュアの概念がある。平和主義的な文筆活動で社会的影響力を行使するジャーナリストが鹿打ちの趣味を暴露されたら、プライバシーの侵害にならない。仕事と趣味に内容的関連があるからだ。
■似たことだが、見做し公人という概念がある。マスコミ上で活動するがゆえに世論を動かす力を持つ者たちには、相対的にプライバシーが認められない。世論の動きが公益性に関連しうるがゆえに、である。田中真紀子の長女の場合も、この見做し公人に当たる可能性が高い。文春は、見做し公人に当たることを、記事の中で実証するべきであった。
■日本は二世や三世の議員が多すぎる。真紀子の長女も政治家になる可能性がある。その可能性の高低を記事の中で書くべきだった。さらに、長女が母親の選挙の際に選挙カーから応援スピーチをしていたなら、これは世論の動員なのが明白だから、見做し公人たりうる。そういう実態があったのかどうかを記事に書くべきだった。文春側も意識が低いのだ。


○ 政治意識を変えるには

■古今東西どんな社会にも利権争いはある。日本の場合、右と左のイデオロギー争いを隠れ蓑に、右や左も利権を温存する。右は農村や土建業者、左は組合や記者クラブが「利権」になっている。これは、幕末における長州閥と反長州閥の藩閥利権争いが、帝国陸軍の「統制派」と「皇道派」のイデオロギー対決に擬されていた時代と、何ら変わらない。
■昨今問題になっている年金制度も、厚生労働族の権益が絡む。欧米の年金制度は「積み立て方式」で、“自分のために”積み立てる形式。積み立てたお金が手付かずのまま留保されているのが当然のこと。日本では「賦課方式」といって、次世代を養うために今世代の保険料が流用される。
■ところが、その日本で、なぜか「特別積立金」という名目で、140兆円から200兆円がプールされている。140兆円から200兆円というのは、額が正確にわからないからだ。わからない理由は、そのカネが郵便貯金と同じように財政投融資に使われ、特殊法人に貸し込まれているからだ。
■特殊法人への融資は年7%の利回りだが、特殊法人の大半は赤字の垂れ流し状態。なのに役所は「赤字は存在しない」という。何のことはない。貸し付けたお金の大半は不良債権化しているが、それを糊塗するために追い貸ししているのだ。お金を貸した側が、借金返済のためのお金をさらに貸しておいて、「不良債権化していない」とシラをきるのだ。
■しかも、この特別積立金は、天下り役員の自動車や住居を建設するために支出されている。欧米ならば、自分のために積み立てたお金が、どこの馬の骨ともわからぬ者どものために勝手に流用されているなどということが分かった段階で、直ちに政権交替のスキャンダルになる。
■欧米が「積み立て方式」なのは、成熟社会化したからだ。人口構成が長方形型ならば、「積み立て方式」と「賦課方式」とで、社会的機能に大差がない。だが、少子高齢化が進んで、人口構成が逆ピラミッド型になると、「賦課方式」では、若い世代ばかりが負担を負う不公正な帰結をもたらす。
■日本の場合、なぜ「賦課方式」にしないか。「積み立て方式」にすれば、貯金と同じで、自分のために積み立てたお金に手がつけられていれば、国民が激昂する。だから「賦課方式」ということにしておいて、国民にはよく分からないところで、こっそり特別積立金を積み立てて、(元)役人どもが自分のポケットに入れるのだ。こんなバカな国があるか。
■先日、江角マキ子スキャンダルが起きた。社会保険庁が広告塔に使っていた彼女が国民年金の掛け金を滞納していたのだ。彼女の言い訳では、税理士任せだった青色申告用紙の所得控除欄に国民年金の分が書いてあったので、収めたものだと思ったらしい。所得控除の際に年金の納付証明書が必要とされないので、まったくあり得ない話ではない。
■この問題の本質はシンプルだ。国民年金の掛け金を国税局が徴収すればOK。こうした未納問題は一切起こり得ない。なのに、わざわざ「社会保険庁」を立ち上げてシステムを複雑にしているのは、いったいなぜか。厚労省が、財務省に、年金利権を死んでも渡したくないからだ。
■システムが複雑だと確認作業も困難になり、経費もかかる。もっとシンプルにして浮いたカネを給付分に回せばいいが、権益があるから絶対にそうならない。これは厚労族と年金に限った話ではない。日本の政治と官僚組織のすみずみまで同様な現実が覆う。「公を騙って私腹を肥やす輩」を、売国奴と言う。売国奴どもが日本を覆い尽くしている。
■いい材料もある。隠された既得権益をきちんと処理しようとする政治家や官僚も多少は出てきている。当然報道はされない。だが少しずつ“動き”にはなってきている。オンブズマンが長年囁かれてきた警察の裏金づくりの実態を暴くようにもなった。政治家と官僚の中にも、市民の中にも、カネよりも「正しい生き方」を選ぶ人間が出てきている。
■背景には、社会が「豊か」になったことがある。「貧しい」時代には、カネは力になった。カネのある人間はそれだけで尊敬された。今は「豊か」な社会になった。カネがあっても、さしてレスペスクトされない。カネだけで尊敬されるようなコミュニケーションは、特定業界の下位文化に過ぎなくなった。
■これは社会学でいう「新しい社会運動」と同じ背景だ。かつては、自分や自分の隣人が強者によって疎外されるから、疎外からの回復を求めて立ち上がる。それが社会運動だった。今は違う。南北問題はかつての貧困問題と違って地球の裏側の見えない領域の話だし、環境問題もかつての公害問題と違って未来の子孫の話だ。それでも立ち上がる。なぜか。
■自分が強者によって屠られる弱者だからというのでは必ずしもなく、「豊か」な社会の中で「正しい」生き方をしたいからだ。「正しい」生き方が気持ちいいというのは、むろん「豊か」な社会を生きるノンキな人間のエゴイズムだ。でもそれでいい。さもないと、先進国の連中が、南北問題や環境問題にコミットすることは、あり得なくなってしまう。
■とはいえ、問題が生きるか死ぬかの「唯物的な動機」ではなく、「正しい」生き方ができるかどうかという「実存的な動機」になると、正義を追求するがあまりの潔癖主義の弊に陥る可能性も出て来る。政治行動──目的のために集合的動員を図る行動──の評価は、目的達成の度合=実効性によって図られるべきだ。時には糞まみれになる必要もある。
■日本ではなぜか「左翼」的な潔癖主義が横行する。こうした現状は日本が未だに「ムラ社会」であることに起因する。同じ穴のムジナで集うから潔癖主義的な競い合いになる。同じ穴のムジナ同士じゃないと政治感覚や利益を共有できないから、同じムジナで集い、出る杭を打つ。そこでは現実主義者が嫌われてしまう。馬鹿げている。
■全く同じメカニズムで、同じ穴のムジナ同士で利権を追求しているときに、一人だけ「正しいこと」を言う人間が出て来ると、内容的に間違っているからでなく、むしろ正しいからこそ、「偉そうにしやがって」、とツブされてしまう。日本では、内容的な正しさによって影響力を持つことができない。正しさよりもノリの良さが追求される。
■右も左も同じことなのだ。運動の有効性や理念の正しさよりも、同じ穴のムジナのノリを壊さない気配りが必要とされる。自分の頭で考え抜いた「普遍的な正しさ」よりも、浪花節的な濃い人間関係のノリに支えられた「文脈依存的な正しさ」にすがろうとする。こういう田吾作を、「普遍的な正しさ」によって動員し、動機づけることは、不可能に近い。
■現行憲法をGHQの押し付けだなどと言って逃げる人間がいるのは、憲法が理念だからだ。敗戦後の日本人は、憲法が、国民が〈国家〉を操縦するための理念を書き記したものであることを理解できなかった。だからGHQにまともな草案を提示できず、GHQから提示された草案に修正案を提示できなかった。押しつけられるほどの民度もなかった。
■GHQはそのことを事前に理解していた。だから近代天皇制──権力ではなく権威を天皇に配当する立憲政治のシステム──を憲法第一条として残した。「陛下が日本の民主化を望んでおられる」「陛下がアメリカに従うことを望んでおられる」という〈虚構〉を、ガバナビリティを上昇させるリソースとして使った。
■かくして、戦後体制において、国民が自らを自在に操縦するハズの「国民主権」と、永久に変わることなかるべき「象徴天皇制」と「対米追従」とが、矛盾なく両立することになった。その意味で、欽定憲法ならぬ「アメリカが与えた憲法」によって「国民主権」と「象徴天皇制」が規定されるというのは、田吾作に相応しい、良く出来た仕掛けだった。
■この憲法を変えると言うからには、私たちが豆腐頭の田吾作であることをやめるのでなければならない。ところが、先頃またもや私にお声のかかった憲法調査会には、「日本国憲法には国民の義務が書いてない」などとホザく、実にあきれた議員どもが集う。私たちが豆腐頭の田吾作であることをやめるために憲法を変える日は、いつ来るのだろうか。
■「憲法とは、国民から〈国家〉への命令である」との常識を微塵も弁えない田吾作議員どもが憲法改正を論じ合う日本。「愛国心とは、計算可能な国民益を増大させるべく、国家にコミットしようとする志である」ことを微塵も弁えない田吾作どもが、意気軒昂に愛国心を語り合う日本。憲法改正も愛国心も百年早い。
■近代諸国では、再分配政策に反対するのが「右」で、賛成するのが「左」。反対するから「小さな政府」になり、賛成するから「大きな政府」になる。「小さな政府」になるから、「大きな政府」なら担うだろう部分を伝統的共同体や性別役割分業に委ねて「保守」になる。だからアメリカでの極右とは、国家を頼らずに自立することを目指すミリシアだ。
■ところが、田吾作国家日本では、日の丸に一体化したがるのが「右」で、赤色旗に一体化したがるのが「左」となる。欧米近代でいう「右」「左」とは何の関係もない。むしろ共同体的な小児性において日本の「右」と「左」は目糞鼻糞だ。昔はコミンテルンや赤色旗が「勝ち馬」に見え、昨今では国家や日の丸が「勝ち馬」に見えるだけの話。
■〈社会〉と〈国家〉の正しい関係のあり方について日本人が理解するには、まずこうしたムラ的で田吾作的な政治センスを変えることが課題になる。理念を持たない田吾作国民と、それをいいように支配する田吾作エリートが跋扈する日本。裁判官と検察官と警察官とがもたれ合い、第四権力たるべきマスコミまでも記者クラブの下でもたれ合いに連なる。
■田吾作と売国奴だらけの日本を何とかするにはどうすればいいか。民度の低い国民が利権官僚や利権政治家をチェックできないならどうすればいいか。戦前の右翼が、君側の奸臣を排除するべく一人一殺の理念(血盟団)を掲げた気持ちも、分からなくない。「やはりアウトローの出番だ」となるのかどうか。ここから先は、宮崎学氏の議論に委ねたい。

カテゴリー:お仕事で書いた文章
投稿日時:11:30:34
投稿者:宮台 真司

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