★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ37 > 1077.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
日本思想史のための一視点 (村上啓二)
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/1077.html
投稿者 愚民党 日時 2004 年 11 月 25 日 05:36:48:ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 虚像の時代・大国主神と「国引き物語」 投稿者 月読 日時 2004 年 11 月 24 日 13:56:10)

日本思想史のための一視点

2001年5月5日

大分アントロポゾフィー研究会 村上啓二


http://www.oct-net.ne.jp/~veni/murakami2001.5.5.htm

[一]『秀真伝』の発見と「景教渡来の事実」の発見

4冊の本について(紹介をかねて)書くことからはじめます。

(1)『神代の風儀〜「ホツマツタエ」の伝承を解く』鳥居 礼 新泉社

(2)『知られざる古代日本』鳥居 礼 フォレスト出版

『秀真伝[ホツマツタエ]』が、鳥居礼氏がいうように「大国主命の子孫オオタタネコによって紀元126年ごろ編集された『古事記』『日本書紀』の原典に当たる文書である」とするならば、そして、鳥居礼氏らの「神代文字であるホツマ文字の解読が正しい(的を射ている)」とするならば、「ホツマツタエ」の解読と研究は、古代日本人の宇宙観と日本の精神文化の<原像>の解明、その世界史における位置の明確化にとって「不可欠ではないか!?」と思われます。

『秀真伝』は、真淵の師・荷田春満から蒼生子〜荷田訓之〜山口志道へと伝わって、真淵〜宣長〜平田篤胤の系統には伝わらなかったために、江戸国学〜復古神道〜国家神道〜現代の神道家や日本古代史学においては「取り上げられることがなく、真淵〜宣長の系譜に立つ『神代』の研究者たちからは無視される状態がつづいてきた」とのこと。

「ホツマツタエ」の解読に基づく鳥居礼氏の解説を読んでいくと、伊勢神宮の成立の由来、アマテラス神を祀る伊勢神宮とタケミカヅチの命を祀る鹿島神宮、フツヌシの命を祀る香取神宮、アメノコヤネの命を祀る春日大社、オオモノヌシ・クシヒコの命を祀る三輪山の大神社などとの関係、吉野の水分神社に祀られた水分神、子守神、勝手神の<実体>と由来、日本人の心に原像のように息づく恵美須神、大黒神の<実体>などが、筋道たって鮮やかに説明されています。また、「1月=ムツキ、2月=キサラギ、3月=ヤヨイ………12月=シワス」などの日本における毎月の「月の呼び名」の発生が、「ホツマツタエ」の中の子守神の「御種文(ミタネフミ)」に由来するものであることが示されていて、日本の古(いにしえ)の習俗やその発生根拠についての説得力のある説明がなされています。これらの説明の筋道の通った明快性や説得力の強さは、「ホツマツタエ」の信憑性を高めるものになっています。

ここでは、最大の問題になるだろうアメノミオヤ、アメノミナカミヌシ、クニトコタチ、カミムスビ〜イザナギ、イザナミ〜ワカヒメ、アマテラス、ツクヨミ、スサノオ、などについての「記・紀」と「ホツマツタエ」の記事内容の違いについては、触れないことにします。

『秀真伝』が信頼のおける書であることが確定されたなら、「記・紀」の記述では「不明・謎」となっていたことが「絵解きされる」ように明らかになり、アトランティス時代の秘儀の文化(その頽廃したアストラル的霊視力の残存による伝承)に認識の光が射しこんでいくはずです。それによって、「記・紀」の「不明・謎」を江戸時代のガブリエル衝動に駆られた想像と推測or神秘的直感で解明しようとしたがゆえに生まれ、粉飾された真淵〜宣長〜篤胤の言説の幻想性(イデオロギー性)が霧消・無化する、と思われます。そして、これは、江戸国学〜復古神道以来の「神代」の研究が再生産してきたウルトラ・ナショナリズムの解体・消滅につながる、と期待されます(鳥居礼氏の主張やその意図とは逆さまに)。

(3)『隠された十字架の国・日本』 ケン・ジョセフ 徳間書店

(4)『封印の古代史2 仏教・景教篇』久保有政、ケン・ジョセフ 徳間書店

これらの本は、日本古代への景教の渡来・影響をテーマにしています。

景教研究所の所長であるケン・ジョセフ・シニアによると、景教は、聖トマスを初代主教とするアッシリア東方教会の原始キリスト教だったとのこと。5世紀にネストリウスの教説を支持したために、アッシリア東方教会はネストリウス派と見なされ、異端の烙印を捺された。アリストテレス哲学をはじめとした古代ギリシアの文献をシリア語に翻訳し、さらにそれをアラブ語に翻訳した人たちの多くは景教徒であり、ササン朝ぺルシアのゴンディシャプールの学院にも、多くの景教徒がいて活躍したとのこと。

アッシリア東方教会の景教徒の宣教の特徴は、部族ごと、村落ごと、全員(老若・男女・家族全員)が移住して、古代イスラエルの習俗・習慣を捨てる(忘れる)ことなく保持しつつ、移住した先の習俗・習慣を尊重しながら、それに溶けこむような形で「キリストの福音」を広め、浸透させていった、ということ。

『新撰姓氏録』に、応神天皇のとき(199年、最近の学者は5世紀ごろと推定)シルクロ―ドの都市・弓月[クンユエ]の国から秦氏に率いられた人たち約2万人が日本に移住してきた、と記録されています。ケン・ジョセフは、「このクンユエの国は、アッシリア東方教会の原始キリスト教(景教)国であり、秦氏に率いられて日本に渡来してきた約2万人の人たちは、景教徒だった」というのです。

小野妹子と並んで聖徳太子の側近[ブレーン]として活躍した秦河勝は、この景教徒=秦氏を率いる「族長」のような人物でした。これが、聖徳太子を「厩の皇子」と呼ぶことをはじめとした、聖徳太子伝説の中のキリスト教との関連を匂わせる伝説発生に関係しているのではないか。

京都=平安京は、秦氏による土地とお金と人材の提供によって建設されました。この平安京=平和の都はヘブライ語では「エルサレム」となり、ガリラヤ湖のアラム語読み「キネレテ湖」のキネレテを直訳すると「琵琶」となるのだそうです。京都の「祇園」は、「シオン」だったという説を立てる人もいます。その他さまざまな(例えば、聖徳太子が建てた悲田院、光明皇后が建てた施薬院、などの事業〜空海の定めた儀式や親鸞の思想、などへの)景教の影響について書かれています。

聖フランシスコ・ザビエルがヨーロッパ宛に書いた手紙には「福音はすでに日本において語られていると思われる。しかしその光は、今は彼らの罪と異なる教えとによって、薄暗いものとなってしまっています」と記されていて、ケン・ジョセフは、「このようにザビエルは、自分は初めて日本にキリスト教を伝えに行くのではなく、むしろ、昔そこに伝えられたことのあるキリスト教を再び燃え上がらせるために行くのだ、という自覚を持っていたことがわかります」と書いています。このザビエルの自覚は、宣教師の説く教えを聞くときの日本人の熱心さ、すぐに洗礼を受けてクリスチャンになる早さとその数の多さ(最盛期は300万人だったともいわれている)、そして、弾圧・迫害のなかでみせた殉教死する人たちの熱狂的な信仰の篤さ、などによって裏づけられる、と。

ケン・ジョセフ・ジュ二アの記述には、「類縁がありそうなものは何でも景教の影響だ」とする危うさ、検証と実証の甘さ・弱さがありますが、古代日本への景教の渡来とその影響の日本文化への浸透は、今こそ探求・解明すべき時ではないかと思われます。

ここで問題になるのは、「景教の影響・浸透がそれほど大きかったとしたなら、なぜ、景教徒の存在も、景教の影響もなかったかのような古代史像になってしまったのか」「最盛期300万人ものキリスト教徒がいた(100万人が殺され、100万人が海外に逃れ、100万人が隠れキリシタンとなって地下に潜った)のに、なぜ、元禄以後の江戸文化や近世史像は、その痕跡さえも無いかにみえるものになってしまったのか」という問いを、あらためて立てる必要が生じてきます。

16世紀〜17世紀の日本におけるキリスト教弾圧・迫害の凄まじさは、他には古代ローマ帝国の事例しかないほどのものであり、ローマでは、帝国が滅んでキリスト教が勝利して生き残りましたが、日本では、キリスト数が抹殺されて、天皇制―幕藩体制とそれを支える儒教や檀家制度に組み込まれた仏教、そして、江戸時代に乱立の様相を呈して生まれてくる神道各派と日本霊学が、日本人の思想・心を「制圧・勝利」しました。こうなったのは、なぜなのか? そこにどんな霊的力や衝動が作用していたのか? この2冊の本は、新しい問いを現前させます。

[二]キリシタン弾圧と1945年の敗戦

日本の天皇制―幕藩体制は、政治的・軍事的暴力によってキリスト教を弾圧・抹殺しました。だけど、精神的・思想的or信仰的にはキリスト教に勝利したわけではありません(「負けたのだ」といった方がいいかもしれません)。キリスト教徒たちは、毅然として、あるいは歓喜の表情を浮かべて十字架にかかり、火あぶりの苦痛や斬首の恐怖にひるむことなく信仰を貫いて死んでいきました(およそ100万人もの人々が)。このような「死を恐れない信仰の強さ」「死を賭して貫く信仰(精神―魂)の強さ」を神道も、仏教も、儒教も日本人のなかに生み出すことができなかったからです。ここから、日本の知識層(神道家、仏教者、儒者、他)のなかに「キリスト教への底知れない恐怖」が生まれました。日本人一般には、この知識層の抱いた恐怖が感染・浸透すると同時に、「キリスト教を信じると拷問、火あぶり、斬首になる」という恐怖が残り、一向一接の敗北・一向宗徒の「根切り」による殲滅の記憶とあいまって、信仰=宗教への二重の恐怖が無意識的に潜在することになりました。ここから江戸時代の浮世観(現世利益主義、官能的唯物主義)が出てきます。

この「キリスト教への底知れない恐怖」を打ち消す方法として現れたのが、江戸時代の神道各派(林羅山の理当心理神道、吉川惟足の理学神道、度金延佳の神需一致論に立った伊勢神道、山崎闇斎の垂加神道、安倍泰福の土御門神道、玉木正英の橋家神道、……、本居宣長〜平田篤胤の復古神道、その他)の思想と本田親徳らによって創始された日本霊学(古代の鎮魂帰神法の理論化とその実修)でした。だから、そこから形成された「真(まこと)の道たる武士道精神」は、「(藩=お家、国家=お国、天皇=お上のために死ぬことを至上のこととする)殉死の美学」になったのです。

神道各派の思想は、突き詰めれば「日本の神道は、儒教、仏教やユダヤ教、キリスト教よりも霊的に高度なものであり、日本人が純粋に神道的な生き方をしていた(神惟の道を守っていた)超古代の日本文化は、世界最高の文化であって、中国文明やユダヤ〜キリスト教文明は、腐敗・劣化したその亜流にすぎない」という世界宗教に対するナショナリスティックな虚勢(民族宗教の幻想化による虚妄)を正当化するイデオロギーでした。だから、『古事記』を神聖な原典として、このことを真っ正面から公言していた本居宣長〜平田篤胤の復古神道が、江戸末期に口シア艦隊が日本近海に出没しはじめ、阿片戦争の情報がもたらされ、やがてアメリカのペリー艦隊が近づいてくるにつれて、「再来するキリスト教への恐怖」が日本に精神的狂騒状態を生み出したとき(「ええじゃないか」など)、「日本精神の真髄」であるかのように一世風靡し、知識階層(下級武士〜「草奔」と呼ばれることになる豪商・豪農層を含む)への浸透をみせたのです。

「ええじゃないか」の狂騒は、キリシタン弾圧の頂点をなす島原の乱が鎮圧された直後に全国的に湧き起こった「伊勢踊り」と対をなす現象です。「伊勢踊り」とは、「伊勢の神様が、邪教キリスト教の侵略を撃退し、追い払ってくれたことへの感謝を示すために、伊勢の神様に捧げた踊り」でした。この「ええじゃないか」の狂騒が吹き荒れていた時期に、考明天皇は伊勢神宮に参拝して、「再来するキリスト教の侵略をふたたび撃退してください」という起誓文を捧載しています。

イギリス〜アメリカの軍事力による威嚇に屈する形で「開国」した江戸幕府が倒壊し、明治政府(大日本帝国)が成立したとき江戸国学〜復古神道に心酔してきた維新の志士たち=明治政府の高官たちが真っ先に行ったのは、「キリスト教の再渡来に対して国家神道をもって対峙する」ということでした。この国家神道の究極は、日本の天皇に憑依するアマテラス神は世界最高神であり、天皇はその現人神であり、その天皇の「赤子」である日本人が「神惟の道」の生き方を全世界の民族の支配者となって示し、教化し、全世界の民族を神道信者にすることこそ、超古代の世界最高の文化に全世界の民族を立ち返らせる方途なのだという「八紘一宇」の幻想でした。精神的・思想的には国家神道・八紘一宇論、軍事的・技術的にはイギリス〜ドイツから取り入れた軍制度、軍艦・機関銃・飛行機などの武器とそれを生産する機械制工業、すなわち「和魂洋才」によってアジアの侵略に乗り出し、イギリス〜アメリカとの植民地争奪戦に突き進んだ「大東亜戦争」は、「第二のキリシタン弾圧、日本国内の規模からアジア全域の規模に拡張されたキリシタン追放・抹殺だったのだ」ということができます。これは、不敬罪、治安警察法違反、治安維持法違反などを口実にした明治以後の日本人キリスト教徒に対する国家=警察権力による執拗な迫害と対になっていたことは言うまでもありません。

その結果が、1945年の敗戦でした。国家神道は解体・無化し、天皇は「人間宣言」をし、日本霊学の霊魂論(英霊観)は幻覚・虚妄として否定・拒絶されて、威信も信用も失墜してしまいました。これは、神道の観点からいえば、「日本に個有の精神の喪失、魂の喪失」だったことになります。だから、信仰=宗教を失い、国家神道=体制化された共同幻想を失った多くの日本人は、唯物論的な科学主義(科学信仰)を唯一至上のものとすることで戦後をはじめたのです。

[三]21世紀の初まりの現在の位置と方位

戦後復興〜高度経済成長の時期を過ぎたとき、唯物論的な科学主義の限界とその弊害・非人間性があらわになってきました。だけど、その弊害・その非人間性を感受しつつも、日本人には「唯物論的な科学主義を超える思想」がありませんでした。ここに、70年代以後の思想的閉塞と精神生活の混迷・停滞が長くつづいてきた原因があります。

だが、敗戦からあまり時を隔てずに『秀真伝[ホツマツタエ]』が松本善之助によって発見され、研究がすすめられて世に出ることになりました。もし、「ホツマツタエ」が松本善之助〜鳥居礼たちが言うように「記・紀」の原典的な位置にある「ほんものの記録文書、価値ある歴史資料」たりうるとすれば、これによって、「記・紀」の記述と真淵〜宣長〜篤胤らのその解釈から描かれた「古代日本像(虚像)」によって隠蔽されていた「真の古代日本像(実像)」が明らかになってきます。それによってはじめて、古代から(情緒的・習俗的に)連続している日本文化の古層の特質が明確になり、その世界史における位置と役割(民族魂の使命)が認識できるようになってきます。

この「ホツマツタエ」の発見、研究、その成果が世に知られるようになる過程と並行して、「原始キリスト教である景教の日本への渡来」の事実が発見され、研究が開始され、その成果が世に出てくるようになりました。そして、70年代の日本にもたらされた(広まりはじめた)アントロポゾフィーは、「宇宙的キリスト存在を人類にはじめて開示する宇宙的キリスト教」と呼んでいいものです。だから、アントロポゾフィーによる宇宙的キリスト教の日本への渡来は、原始キリスト教=景教の第一波、イエズス会宣教師による近代カソリックの第二派(明治以後のキリスト教各派は、その余波と見なすことができます)につぐ、キリスト教の日本への渡来の第三波ということになります。そして、アントロポゾフィーに方向づけられた精神科学の真理の研究・受容こそが、「唯物論的な科学主義の限界を超える思想」の獲得・形成の唯一の方途なのです。

ここに、『秀真伝』が語る超古代の日本像が日本の精神文化の<原像>で、アントロポゾフィーに方向づけられた精神科学と芸術が認識・開示しようとしている人類史の未来像、その一環をなす日本の末来像が<その原像を高次化した精神文化像=霊我的な文化像>になる可能性がある、という予感が生まれてきます。その可能性の精神科学的検証と探求によって顕れてくることのなかに、日本の地(日本文化のなか)に生きる者たちのこれからの方向性と可能性が見出せるのではないかと考えられます。

このとき大切なのは、「先祖返りしない」こと、「古代の神人状態を理想化しない」ことです。これは、ルーチフェルの誘惑ですから。そして、人間は宇宙的キリストに導かれて成長・変容・進化しているのですから。これを最後に確認して、この試論をしめくくることにします。

2001年5月5日 記

http://www.oct-net.ne.jp/~veni/murakami2001.5.5.htm

 次へ  前へ

Ψ空耳の丘Ψ37掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。