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「皇国史観の歴史家」平泉澄と対馬のアジール 『僕の叔父さん網野善彦』
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/1169.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 12 月 01 日 19:31:26:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 〈本の紹介〉 海の国の中世 [朝鮮新報](平凡社:網野善彦著) 投稿者 あっしら 日時 2004 年 11 月 30 日 14:55:17)

参考スレ
俊輔、新一じいちゃんを語る? 新一、毅一じいちゃんを語る? 投稿者 ジャック・どんどんさん

『僕の叔父さん 網野善彦』中沢新一 より抜粋



『無縁・公界・楽』のころ
帰り際に網野さんから手渡された、平泉澄の著作『中世に於ける社寺と社会との関係』(一九二六年)を小脇にかかえて、名古屋駅から新幹線に乗り込んだのは、たしか一九七六年かその翌年のことだったと記憶する。その本の第三章をとくによく読んで、あとで意見を聞かせてほしいと言われたのだ。そこには「アジール」の問題が取り上げられている。その論文はたぶん、この主題をめぐって日本人が書いたはじめての研究だ。内容はたしかに画期的だが、そこには克服すべき多くの問題点が含まれている。しかし、その克服の作業はまだじゅうぶんにおこなわれたことがない。宗教学から見て、この本の価値をどう判断するか、よく考えてみてくれないかというのだった。
−−略−−

若き平泉澄の知的冒険ー対馬のアジール
大正八年の五月、当時まだ大学院に入りたての学生だった平泉澄は、玄界灘を越えて対馬に渡っている。古記録に散見する、対馬の天童山周辺に実在したという「アジール」の痕跡を確かめる旅であった。これについていちばん古い記録は、朝鮮の魚叔権が著した『稗官雑記』にある、つぎのような記事である。
「南北に高山あり、みな天神と名づく。南を子神と称し、北を母神と称する。家々では素齪をもってこれを祭る。山の草木と禽獣をあえて犯す者なく、罪人が神堂に走り入れば、すなわちあえて追捕せずと」(中沢による読み下し)

南北にそびえる高山とあるのは、南岳は豆酸村の龍良山をさし、北岳は佐護村の天童(道)山をさすと伝えられる。いずれも実在の場所であり、十六世紀後半に書かれたこの記事が信用するに足るものとすれば、かつて天童山周辺の山林ではいっさいの動物や植物を傷つけることが禁じられ、罪人でさえその山林に走り込んでしまえば、もう世俗の法の力の及ばない領域に入ってしまったとして、人々は追捕をあきらめなければならなかった。人類学的に見ても、これはまぎれもないアジールである。「野生の思考」が活発な働きをおこなっていた頃には、人間は自分たちの生きている世界を、社会的な規則がつくりあげている「文化」の領域と、動物や植物の生命を生み出しているトランセンデンタル(超越論的な バルタン注)な力の支配する「自然」の領域とのふたつに分けて、ものごとの意味を思考しようとしていた。社会的な規則の支配できる領域は、まだ今のように地球上に全面化されていなかった。それは人問の開墾した狭い領域に限られていたため、自然の根源につながるトランセンデンタルな力の充満している領域は、「神のみそなわすところ」として、社会的な規則や法の支配圏の外部に置かれたのである。

社会的な規則と法の外部にある神の領域にあえて踏み込んでいける資格をもっていた人は、ごく限られていた。そういう人たちは、たいがいトランスの能力をもっていた。もともと本人のもっていた資質を厳しい修行で鍛え上げることによって、彼らはトランセンデンタルな力の支配する領域に入り込んでいける能力を身につけようとした。こういうシャーマンの原型のような人々の存在は、朝鮮半島では古くから確認されている。はるか昔から朝鮮文化と深いかかわりをもったこの対馬では、そういうシャーマンが「天童法師」の名で呼ばれていた。

このような「野生の思考」は、中世に入ってもますます活発な活動を続けていた。それまで長いこと野生の思考は自らの思い描くところを、神話的思考として表現してきた。ところが中世に入ると、仏教や陰陽道のような高度に体系化された宗教的知識の力を借りて、野生の思考は自分のかかえている思想に、体系的宗教としての表現を与えようと試みるようになる。その中からいわゆる中世の「神道」というものがつくられてきている。

神話的思考にとって、トランセンデンタルな領域は、動物や植物の世界である深い森の中にあった。そこに棲む熊のような動物が、自然の根源にひそむ威力を代表していたのである。ところが国家が形成され、その支配が列島のすみずみにまで及んでくるようになると、社会的規則の外部にあった「自然」の領域の権威は、しだいに侵食されるようになる。そして社会的規則の世界を支える権威である「天皇」が、この「自然」の領域にも支配圏を拡大してくるようになる。それはたしかに一面では野生の思考の没落を示している。しかしそういうことが現実化しつつあった中世という時代は、もう一面においては、新しい形に表現し直された野生の思考と近世的な権力思想とが激しくせめぎ合う、カオスの場でもあったのだ。中世に生まれたさまざまな思想の表現が興味深いのは、そこにまだ野生の思考の生命力が横盗していたからである。
−−略−−

「天童法師」と呼ばれるそのシャーマンたちに守られたこの神域は、みごとなアジールとして
機能していた。この森の中には、世俗の社会をつくりあげている「文化」の原理は、及ぶこと
ができない。社会的規則に守られた「人間の領域」は、その森の入り口で終わり、そこから先
の森の内部には、トランセンデンタルな別の原理が支配しているのだ。そのために、外の社会
で罪を犯した者も、この森のアジールにいったん逃げ込んでしまえば、それ以上の追及を免れ
ることができた。その境界で、言わば世俗の縁が切れるからである。世俗の法が定める善悪の
判断は、そのアジールの内部にはもはや通用しない。こうしてアジールの内部は言わば「善悪
の彼岸」にある、神の領域としての生命を保ち続けたのであった。

その「アジール権」を天武天皇が承認した、とその法師集団では主張されていた。しかも天
童法師の求めに応じて、この法師集団の住まう対馬州全体が、租庸調の課税を免除される由の
詔が発せられたこともあると主張されている。たしかに、これは異常な記事である。古文書ば
かりではなく外国語にも堪能だった平泉澄は(戦後の国史学科に入学する学生の多くが概して
外国語が苦手であるのと、これはいい対照である)、ド・クーランジュなどの著作を通じて、
早くからアジールという概念に通じていた。日本史の表面にはっきりとはあらわれてこなかっ
たこのアジールの存在が、これほどまでに明確な形で表現されている例は、それまで知られて
いなかった。二十代の若者によってなされた、これはまぎれもない大発見である。彼は自分の
目でそこをぜひとも確かめたいと考え、それを実行に移した。

−−略−−

若き日の平泉澄は、そこが天童法師に由来する聖地であるなどという伝承は、のちの時代のこじつけ説にすぎないのであって、むしろこの森林をアジールとする風習は、天童と称する法師集団がそこを管理するようになるよりもはるか以前から、この地におこなわれていたものに違いない、と推論するのである。しかし、そんな推論にはたして事実の裏づけを与えることができるだろうか。
この論文を読んでいた私をとくに感心させたのは、つぎに彼がとった思考の飛躍である。
平泉澄は先の『天道法師縁記』に出てくる、天童法師の墓所とされる「卒土」という地名に
注目する。このアジールの森は、かつて「ソト」という名前で呼ばれていたのである。そのこ
とは江戸時代に書かれた別の地誌に、「卒土の内」や「卒土の山」や「卒土の浜」といった呼
び名が出てくることによっても確認できる。では「ソト」とはなにか。日本語によってこれを
理解するのは困難である。とすると、これは外国語起源であろう。対馬の地理的状況から考え
てか港っとも可能性の高いのは、「ソト」が古代朝鮮語であることだ。

「対馬が位置朝鮮に近きことはいうまでもない。ことに一度壱岐対馬を踏査するときは、この二つの島が相並んでつねに併称せらるるにかかわらず、自然の地理、動植物の分布ならびに古き習慣の著しく相違し、対馬は壱岐よりもむしろ朝鮮に近きを想わしめる……対馬に産する堆の首に白い輪のあるは、山猫の虎に似ているのとともに朝鮮系統であり、その青海村においては今も屍を海岸の石原に棄てて碑は別にこれを立てる風習を伝え、まったく朝鮮と同じ風俗であったと察せられる点が少なくないということである。ここにおいてソトを解するに朝鮮語をもってしようとする試みは、相当に理由するものと言わざるを得ぬ。」(前掲書)

なかなかにこまかい観察眼である。これは歴史学者のあいだでよりも、むしろ民俗学者や人類学者のあいだに見出されることの多いタイプの観察眼である。そしてこの多才の人は、古代朝鮮資料を探って、なんなく「ソト」の語源を見出すのである。それは『三国志』の記事に出てくる。

「韓にこういう風習がある。鬼神を信じて、村々に一人を立てて天神を祭るのである。その者を天君と名づける。また諸国に別の型の村もあって、「蘇塗(ソト)」となしている。大木を立てて、そこに鈴と太鼓をかけ、鬼神を呼び寄せるのである。この「ソト」の内部に、さまざまな逃亡者が入り込むと、「ソト」の人々はみなこれを外に追い出そうとはしない。よく旗竿を立てて、それを「ソト」の標識とする。仏教にもこれとよく似た風習があるが、考え方は違うのであろう。」(中沢の訳による)

ここで平泉澄はあきらかに、対馬を含む北九州の一部と朝鮮の一部とが、かつては同一の生活文化圏を形つくっていたという考えに立っている.しかもそこにはいかなる世俗の権力も踏み込むことのできない、自由空問の思想が生き生きと活動していたのある。この本が書かれてから十数年後、東大教授となった彼がさかん権威を振り回しながらおこなった、罪つくりな皇国史観的な発言からは想像もできないブリリアントな思考である。またそこにはたしかに網野善彦の歴史学的思考にも通じていくような、現代的な思考の萌芽も見出すことができる。
−−後略−−

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