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国立療養所の名を借りた「収容所」
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投稿者 でんでん 日時 2004 年 12 月 06 日 13:41:12:2h9LgIXYOVcE2
 

(回答先: Re:障害者差別を条例で排除 宮城県が制定へ【朝日新聞】 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 12 月 05 日 20:32:55)

精神病院と刑務所はよく似ている・・と云うより殆ど同じですね(両方とも仕事で行ったことあります はて〜入所だったかな?・・昔のことなのでうろ覚え・・と瑣末なことはさてをき)。  観客のいない動物園のようなもの・・とでも。  娑婆と完全に隔離して、自殺・自傷行為・逃亡等を防ぎ 事故をおこさないことを第一と・・。  危険なもの、汚らわしいもの、不快なものを世に出さない、見せないシステム=差別とするは当たり前の世界です。

≪べてるの人たちの講演は聴いた事がありますが、切実なんだけど、何か可笑しい、可笑しいけど切実。≫   そうですか・・言いえて妙(日本語変かな)で、納得です。

国立療養所の名を借りた「収容所」

 のどかな田園風景の続く、岡山プルーライン「虫明IC」を降り、山のすそのにそって十五分ほどいくと、その橋は見えてきた。青いアーチを持ったその橋は、歴史を知らないものには何の変哲もない、陸と島をつなぐ普通の橋にしか見えない。彼らそう、ハンセン病で長島愛生園に人所する患者達はこの橋を万感の思いをこめて「人間回復の橋」と呼ぷ。そこには七十年にも及ぷ差別と偏見による「強制隔離」に対する言いようのない口惜しさと、人としての物語を綴ることを許されなかった患者さん達の社会への復権に対する「架け橋」としての熱い思いが存在している。

 府連生活・労働対策委員会の富田委員長をはじめ、四人の委員で長島愛生園を訪れたのは六月十二日。ちょうど「中央福祉学枚」が香川で開催され、帰り道であった。特効薬プロミンの発見で、ハンセン病が「不治の病」では無くなって五十七年、「邑久・長島大橋」がかかり、島と本土が路線バスでつながれて十年、偏見と隔離の「らい予防法」が廃止されて二年、がそれぞれ経過し、患者さん達の生活や人権がどう変わったのか。新しい福祉運動「みどりの風」としりてコーンフリクト問題(施設拒否)を議論していた事もあり、隔離施設としてあったハンセン病療養所を訪れることで、「社会であたりまえに生きる」ことの意味を考えてみたい。しっかりと交流したい、そんな思いで愛生園を訪ねた。愛生園自治会長の石田雅男さんは、遠路からの来訪をねざらいながら満面の笑顔で迎えてくれた。ぬけるような晴天だった。目の前の小豆島を望み、風光明媚な備讃瀬戸の一角に「愛生園」はあった。患者さん達の住居や浴場、治療や介護のための病棟、職員寮などが数多く建っていた。中でも、各宗派のお寺や教会の多さが異様に思えるほど存在しており、この島が「死」と常に向き合づてきたことを容易に想像させる。

 岡山県南東部に位置する周囲十六キロのこの「長島」は、中央部に「愛生園」、西部に同じくハンセン病療養所「邑久光明園」があり、島全体が一つの施設として存在している。橋をわたったところにある有料道路の料金所の様なゲートの存在や、そこにかかっていた「関係者以外の立ち入り禁止」の看板が、「普通の島」でなかった歴史の意味を考えさせる。対岸の中腹にば関西の金持ちの別荘が建ち並び、この島のもつ歴史とコントラストをいやが上にも際だたせていた。長島愛生園は、我が国最初の「国立らい療養所」として1930年に開所された。現在の入所者数は六百三十五人、平均年齢が七十三歳と高齢化している。多剤併用療法により、早期治癒が可能になり、四十歳以下の入所者がないからだ。それだけに、入所者のほとんどは何十年と入所されており、「らい予防法」が廃止になって二年で社会復帰をしたのはわずか二名だけという現実は、社会に厳然と存在する壁の厚さをものがたっている。日本のハンセン病対策の基本だった絶対隔離は、この「らい予肪法」を法的よりどころとしてきたが、不治の病として認識されていた法制定時はともかくも、一九四一年プロミンの発見以降、完治の病になったにもかかわらず、半世紀以上もこの法律が生さ続けたのは、「異様なものを排除する」という日本社会の人権思想の弱さはいうまでもなく、社会にとってこれらの療養所が「恐怖と嫌悪に満ちた、私たちと無縁の場所」であり、中の患者が動扱われようと関心のなかったか。「対岸の小学校に招かれたとき一人のお母さんが『知らない・無関心ということが差別なんだ』と行ってくれた。うれしかったねえ」という石田さんの言葉にその事の意味を痛切に感じた。


「親の死に目に会いたい」人としての思いも「罪」に


 石田さんはかつての実態を語ってくれた。当時の患者は医療は二の次で「楽土建設」という名の下に、重労働をさせられ、窮屈な食料費を補うため「自給自足」である農作や畜産を行った。住民状況も六畳の間に夫婦が仕切なしに二組生活させられ、単身者は十二畳に八人が入れられた。国の医療機関でありながら、医者や看護婦が少なく、注射なども患者同士で、不自由な患者への身の回りの世話は元気な患者が順番で行わざるを得なかった。「監禁室」が設置され、言うことを聞かない患者は収容され、中でも一番「罪」が重かったのは「逃走罪」で、強制収容を絶対としている建前上、「親の死に目に会いたい」という人間としての当然の思いも「罪」とされた。また逃走を防止するための手段として所持金をすぺて取り上げられ、愛生園でしか使用できない「通貨」を持たされた。このように患者が人間として扱われない実態は、国立療養所とは名ばかりで「収容所」といっても過言ではない。中でも人権侵害の最たるものと言うべきは、夫婦になることを認められる条件に「強制断種手術」を強制され、子どもを生むことの喜びすら奪われている。祖国浄化の名の下に、天皇の赤子として「健康であること」が「日本民族」の条件とされ、障害者や病人は植民地政策に何の役もたたない国の邪魔者とされ、国家利害の名のもとに、人として認められずに強制隔離を余儀なくされてきた。「病むものが救いを求めていくのが「療養所」であるはずなのに、その扱いは罪人としての状況よりひどく、国辱として我々を社会から抹殺するがごとくだったんです」。石田さんが語る60年は想像以上に重かった。

 石出さん自身は、1946年十歳で発病し愛生園に隔離された。日本全体が食料難の時期であったとは言え、強烈なひもじい生活を余供なくされてきた。当時は、寺の境内や橋の下などにハンセン病患者が沢山いて、それを取り締まる警察官が地方付で沢山おり、石出さんも散髪屋で名前を聞かれ、ハンセン病と分かってから二日後には愛生園に入所していたそうだ。金泰九(キム・デグ)さんにも話を聞いた。金さんは在日韓国人一世の入居者で、ハンセン病への偏見を、民族差別の視点もふれながら案内してくれた。


「自殺の名所を見に行きましょう」と金さんに案内された。島の南端の断崖絶壁で、ここから飛び降りたらひとたまりもないであろう事は容易に想像できた。ただでさえ、高所恐怖症の私なんかは、とても下を見れない。当時の入所者は絶望的な限界状態の中で、毎日のようにここから飛び降り自殺をしたらしい。金さん自身もここで「飛び降り思案」をしている仲間を助けたらしいが、結局その人も首吊り自殺をしたらしい。自殺防止のための鍵のかかった金網がまわりの風景から浮かび上がって見えた。

「人の死に対して鈍感になる自分が怖かった」と金さんは言う。

万霊山という小高い丘の上にある納骨堂を訪ねた。愛生園でこれまでなくなった三千余体の入所者のお骨が納められている。「全国の施設の中で納骨堂まで持っているのはハンセン病施設位じゃないかな」と金さん。家族からも見捨てられ、骨すら拾ってもらえなかった無念さはいかばかりなのだろう。先祖や家族の墓にすら入れてもらえないすさまじいばかりの偏見はいったいなんなのだろう。この納骨堂は「ここで死んでくれ」と言われているような絶対隔離の終焉の象徴である。言いようのない憤りを感じつつ四人で手を合わせた。隔離の象徴であったろう管理事務所や桟橋が朽ち果て、社会復帰の象徴である「橋」がかけられた今でも、無知と無関心からくる恐怖と嫌悪に満ちた偏見はなくなっていない。

施設そのものが「社会復帰」すること

 この文章を書いている最中の七月七日、香川県の庵治町の幹部が、町営公衆浴場の利用について、同町にあるハンセン病国立療養所「大島青松園」の自治会に対し、「特定の日に利用をするように」と申し入れた事が報道された。自治会は行政の提案を断りながらも「らい予防法」廃止以来見えてきた、町民との交流を気配りした対応をとった事も伝えられた。記事を読んだとき無性に悲しかった。病気への理解や人所者との共生を一番に考えねばならないはずの行政が、「特定日使用」という体裁の良い強制隔離を行ったことに、腑の煮えくり返る思いだ。私には、石田さんが言つた「一人一人の社会復帰よりも、施設そのものが社会復婦する事なんです」という言葉の重みが脳裏に突き刺さっている。私たちはこの愚行に対して、万感の怒りを込めて抗議する。福祉運動「みどりの風」は七月二十日、この問題に対して庵治町長あてに抗議質問書を送付した。現在の日本ハンセン病患者数は七千人で、そのうち六千人余りが全国十三か所の国立療養所と二カ所の民間療養所に入所中で、九○%以上の人がハンセン病自体はすでに完治し、療養所を退所出来る状態にある。しかしそれを可能なものとしないのは、庵治町のようなハンセン病に対する根強い偏見と、七十年に及ぶ強制隔離がもたらした社会との隔たりなのである。「本当は、『らい予防法』が廃止になって何が変わったのかを一番聞きたいのは私達なんです。社会からはじかれてきた我々を今度はどう受け入れてくれるのか。つまり社会がどう変わったのかをみんなに聞きたいんです」という石田さんや金さんの問いかけに、私たちはどう答えるのか、しっかりと考えねばならないと思った。
http://www.rg.med.kyoto-u.ac.jp/JDSN/data/hansen.html

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