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朝鮮半島は文明の通り道であって発祥地ではない。。。Sirent Tearsにレス
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投稿者 Ama 日時 2004 年 12 月 06 日 14:30:17:gXAgL6igx81eI
 

日本人のペルシャに対する認識は非常に低く、歴史を全く理解していないと思えます。
Sairent Tearsさんの見識に100%、同意します。

私の手元にある、シルクロード(今と昔)車慕奇、人民中国雑誌、小学館 共同編集 徳間文庫の中から、ペルシャに関して一部を紹介します。

シルクロードは紀元前二世紀から8世紀ー9世紀にかけて中国と中央アジア、西アジア、さらに地中海東岸を結ぶ陸上の幹線ルートだった。3つのルートがあって2つが中国からイラン方面に至る。 もうひとつの北ルートがカスピ海の北を通りトルコに至る。 この主な貿易品は絹と馬であった。絹はシルクロードが開通する以前、紀元3−4世紀に西域、インドに伝わっていた。古代ペルシャはシルクロードのほぼ中央にあたり、中国とヨーロッパの経済と文化を交流させる架け橋の役割をした。とくにペルシャ商人は中国の絹をローマに運んで、もっとも利益の多い貿易をした。 多くのペルシャ商人は長安に定住することになった。その中にはペルシャの王子もいた。 またアラブ人の侵略(イスラム教の台頭)から多くのゾロアスター教徒は中国に逃げ、定住した。 また、キリスト教の一派である景教(ネトリウス派)がペルシャから中国に伝来した。 その石碑はペルシャ寺と書かれており、70人の信者は皆、ペルシャ人であった。 ようするに中国にキリスト教を伝えたのはペルシャ人であった。

古代彫刻芸術の貴重な宝、(昭?六駿)の名馬はペルシャ馬であると推定される。絹がペルシャに伝わり、その代わりに名馬が中国に伝わった。 漢の武帝の時代にはペルシャに使者の使いを派遣した時はペルシャの王は20,000騎を集めて国境まで向かえに出て出迎えた。 当時は中国とペルシャは良い関係にあり、シルクロードは空前のにぎわいを見せた。

ササン朝ペルシャから中国に伝わったものはペルシャ美術、音楽、舞踊、絵画、彫刻 そして食べ物、きゅうり、ほうれん草、ソラマメ、ぶどう、胡桃、ざくろ、など。ポロ球技がペルシャから伝わり、文化人、学者は好んだ。 また、砂糖キビは中国にもあったが製造法は西域から伝わった。 絹の織り方の錦織りもペルシャから伝わった。

第158窟、仏涅槃像。唐。枕の模様はペルシャの連珠対鳥文。 また、第324窟の壁画はけんらんたる、ペルシャじゅうたんというところでしょう。。。。。。

繁栄した唐代文化は西域の文化を吸収して、豊富多彩なものとなった。そして、長安は奈良と京都と友好関係を結んだ。

結論:文化の輸出国はおごり、高ぶってはいけない。 文化の輸入国は卑屈になる必要もない。 感謝して事実を受けいれ、更に友好を深めるべきである。

少しぐらい、経済が発達して豊かになっても 日本人が中国人や朝鮮人、イラン人にたいしておごる理由は全くない。

 


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