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「スペイン内戦」の幻想と傷と癒し
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/541.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2004 年 10 月 20 日 08:04:45:SO0fHq1bYvRzo
 

「スペイン内戦」の幻想と傷と癒し


10月12日は「スペイン国家の日(el Día de la Fiesta Nacional de España)」という名称の祭日です。これは本来「スペイン化の日(el Día de Hispanidad)」と言い、1492年10月12日にコロンブスがサン・サルバドル島にたどり着き、中南米を「スペイン化」するきっかけを作ったことを記念する日です。

今年2004年の10月12日は大騒動でした。軍事パレードに米軍が招待されなかったことにへそを曲げて米国大使が欠席したり、昔スペイン内乱で対峙した共和国軍兵士とフランコ軍兵士の生き残りが並んで出席したり、これまで決して出席しなかったカタルーニャ社労党委員長で知事のパスクアル・マラガィュが軍事パレードの招待席に現われたり、マドリッドの国民党の内紛が露呈したり、と、とにかくにぎやかでした。

米国大使が招待を蹴って欠席したことについては、以前も以下のように投稿しました。

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http://www.asyura2.com/0411/war61/msg/434.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2004 年 10 月 14 日 07:38:41:
米西の冷たい関係、深化?
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その後もこれらのゴタゴタがいろんな方面に尾を引いているのですが、今回はその中から、未だにスペイン人の心に大きな傷を残しているスペイン内戦に関する話を特集してみたいと思います。


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「スペイン内戦」の幻想と傷と癒し


●「仏の嘘をば方便と言ひ武士の嘘をば武略と言ふ。これをみれば土民百姓はかわゆきことなり。」明智光秀の言葉です。この「かわゆき」は「可愛いらしい」つまり「他愛も無い」というような意味にも取れますが、織田信長の家臣の中ではめずらしく古典的教養を身につけていた明智光秀ですから、これは本来の意味の「かわゆし」つまり「かわいそうだ」「あわれだ」の意味に違いないでしょう。宗教家と政治家は様々な種類の方便や武略を用いて哀れな土民百姓を都合の良いように操ろうとする、古今東西、変わらぬ姿です。

ところで「武士の武略」には敵に対する軍事的な謀略のほかに、今で言うプロパガンダ、政治宣伝も含まれるはずです。「敵を欺くならまず味方から」という言葉もありますが、しかし支配者にとって「土民百姓」は断じて味方ではなく、最も恐るべき潜在的な敵です。農民出身の豊臣秀吉が農民から強引に武器を取り上げ検地による監視体制を作り上げたのも、自身がその「土民百姓」出身だけに、そのことを最も鋭敏に知っていたからです。この点を見誤るならプロパガンダの本質を取り違えるでしょう。従って、今も昔も、世界のどこであれ、支配者およびその候補者は、必ず、「土民百姓」に対して政治謀略的なプロパガンダを用いることになります。彼らが「本当の敵」がどこにいるのか知っているからです。

ここに、スペインのセビーリャ大学出版の学術雑誌「アンビト」2000年3−4号に掲載された「戦争とプロパガンダの犠牲者としての市民:スペイン内戦(1936-1939)の例」という論文があります。著者はセビーリャ大学コミュニケーション科学研究員コンチャ・ランガ・ヌーニョ。その一部を翻訳・引用しましょう。

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【前略:訳出・引用開始】

1936年に始まった内戦はスペイン人にとっては可能な限りの最も悲劇的な性質のものであった。同様に、国外ではその展開が情熱を掻き立てるようなものであり続けた。二つの対抗する勢力と大戦間のヨーロッパでの思想的な重荷がそれに油を注いだ。国外からの援助の必要性が、共和国政府をも武装蜂起勢力をも国際的な同調を得るためにプロパガンダの戦いを拡大しようとさせた。両陣営とも、いかに自分たちが犠牲者であるかを誇示し、自分たちの行動を正当化するために理屈を振りかざした。共和政府側がその政治的正統性を武装勢力と保守主義者とファシストによって脅かされていると主張する一方で、相手側はスペインの救済を掲げて人民戦線内閣と「左翼勢力」の横暴を非難した。当然だが、一般市民の苦しみと人権の無視は、どちらの陣営にとっても相手を非難するあらゆる言葉の中心だった。

このような状況の中で、プロパガンダとそのコントロールが最も大切な手段となった。アレハンドロ・ピサロソが断言したとおりである。「スペイン内戦は武器と戦術の実例の宝庫であったと共に、情報とプロパガンダの分野におけるパイオニアだった」のだ。この点に関しては、大戦間のヨーロッパで全体主義のシステムが主役を演じていたことを思い起こす必要がある。スペインの両陣営によって追求された形態はそれに沿っていた。そしてそれはヘスス・ティモテオ・アルバレスが次のように示唆している。

『ここでは、このような全体主義のシステムが幅を利かす。それは党派主義者と狂信者であることによって、少なくとも精神的に帝国主義者であることによって、大衆の共感を得る必要があるし、プロパガンダをすぐれて公的な機能にまで、国家とシステムの中心柱にまで高めるための手段を必要とするのである。』

【後略:訳出・引用終わり】

http://www.ull.es/publicaciones/latina/aa2000kjl/y32ag/75langa.htm

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スペイン内戦は単に軍事的な対決だけではなく、あらゆる種類のプロパガンダの対決でもあったわけです。上記の論文の引用箇所の中で『大戦間のヨーロッパで全体主義のシステムが主役を演じていたことを思い起こす必要がある』と言う部分の「全体主義」とは、当然ですが、ファシズム(およびナチズム)とスターリニズムのことを指します。この内戦がヒトラーとスターリンの「代理戦争」としての一面を強く持っていたことは周知の事実でしょう。

無論3年に渡るこの戦いの勝利者はフランコ、つまりヒトラーとムッソリーニの側でした。ということはとりもなおさず、ヒトラーを支える英米支配層でもあったわけです。「リンカーン部隊」の名で国際旅団の一部として戦った米国市民たち(ユダヤ人が多かったと聞く)が、後にレッドパージでどのような惨い目に遭うはめになったか、を見れば、このことはすぐに合点の行くことでしょう。

そして勝利者のプロパガンダはスペインの「土民百姓」を実効支配することになり、敗者側のプロパガンダの方は亡霊となってさ迷う事となります。フランコ独裁による抑圧が過酷を極めただけに、また何よりもフランコの背後霊としてのヒトラー、ムッソリーニのイメージが強かっただけに、スペイン共和国のプロパガンダの亡霊は英雄的でセンチメンタルな幻影となって、世界中で未だに成仏できずに迷い続けているようです。


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●さて、2004年の10月12日をひかえ、スペインで大変な論争が盛り上がっていました。国防相ホセ・ボノが2人の老兵を「スペイン国家の日」の軍事パレードへの来賓として招待したからです。一人は元フランコ軍青色旅団兵士で独ソ戦でもナチス軍の一員として前線に立った男、もう一人は、元共和国軍兵士でパリ解放の際にレクレルク旅団に参加して戦った男です。
http://www.elmundo.es/elmundo/2004/10/08/espana/1097257745.html

この決定に対して特に統一左翼連合(旧共産党系)は「こんな決定は到底誰をも納得させるものではない」と強く反発し、89歳になる元スペイン共産党書記長のサンチアゴ・カリリョも「もしヒトラーが今生きているとしたら招待するのか」と怒りをあらわにしました。またカタルーニャやバスクの民族政党もこぞってこの決定に激しく抗議しました。

ボノ国防相はこれに対し、これは「スペインの和解」を行動で演出したいのだ、と答え、そしてカリリョの非難に対しては「ヒトラーであろうがスターリンであろうが、大虐殺を行った者は招待しない」とやり返しました。これは当然、当時の共和国軍の主力が共産党(スターリニスト)指導下にあったことを意識してのことです。
http://www.elmundo.es/elmundo/2004/10/12/espana/1097574144.html

ボノの所属する社会労働者党は、フランコ亡き後、スペインの実質的支配者オプス・デイの経済路線に乗って独裁政権の名残を消し去るべく14年間の長期政権を担当し、8年間のアスナール国民党(旧フランコ与党ファランヘ党の名残)政権の後に、3.11謀略「テロ」のおかげで政権に復活しました。基本的に国民党同様に中央集権主義でありカタルーニャやバスクの分離主義は認めないし、「左右」の対峙によるスペイン社会の分裂を最も警戒する政党なのです。

確かに、今回の二人の老兵士の軍事パレードへの来賓招待は、過去60年以上にわたって対立し憎み続けた「右」の現実と「左」の夢との、文字通りの「和解」の演出であったのしょう。この決定の背後にスペインの支配者の狡猾な意図があることは分かっているのですが、なおかつ私はこれを敢えて評価したいと思います。「カタロニア賛歌」に血をたぎらせ国際旅団の自らの命を顧みない戦いに感動し「ノー・パサラン!」を合言葉に散っていった多くの命に胸を詰まらせる者の一人として、敢えて ”¡Sí!(Yes)” を表明します。


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●10月15日付のエル・ムンド紙を見て、思わずハッとしました。次のような記事があったからです。
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『マラガィュは、共和主義者側の銃殺について再認識するように訴える』
http://www.elmundo.es/elmundo/2004/10/15/espana/1097829237.html
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パスクアル・マラガィュはカタルーニャ社会労働者党書記長でありカタルーニャ自治州知事でもあります。彼は10月14日に、バルセロナ・オリンピック会場となったモンジュイックの丘の海側にある、「石切り場の墓地(el Fossar de la Pedrera)」と呼ばれる場所に出向きました。そこには幻に終わった「カタルーニャ共和国」初代大統領リュイス・クンパニィスの墓があります。同時に、名前の分かっているだけでもおよそ3千人、恐らくその数倍と言われるカタルーニャの共和主義者たちの霊が眠っているのです。

1939年2月にバルセロナに置かれたスペイン共和国政府は滅亡しました。大勢のカタルーニャ人たちが、老人も子供も、大雪の降るピレネーを徒歩で越えてフランス領カタルーニャに逃れました。フランスの収容所で飢えと病気で死んだ人は数知れない、といいます。バルセロナではフランコ主義者による容赦の無い共和派狩りが進められ、逮捕者は裁判も無しに連行され片っ端から銃殺され、遺骸は石切り場のがけから次々と突き落とされてその上から土がかぶせられていきました。モンジュイックの丘付近では20年以上たっても、空気が湿ると死臭が漂った、と言われます。

1932年のスペイン革命の後、スペインからの独立を求めたカタルーニャは1934年に独立宣言を発表し、初代大統領としてリュイス・クンパニィスが選出されました。しかし共和国政府はこれを認めませんでした。内戦後クンパニィスはパリに亡命し「カタルーニャ亡命政府」を形成したのですが、パリを占領したナチスのゲシュタポに逮捕されスペインに送り返されました。そして形ばかりの裁判の後に、1940年10月14日にモンジュイック城(現在は軍事博物館になっている)で銃殺され「石切り場の墓地」の土となったのです。

フランコ死後の1976年に、中世カタルーニャの栄光あるジャナラリターッ、つまりカタルーニャ行政府が復活して以来、この「石切り場の墓地」はモンセラット山と並んでカタルーニャの聖地です。毎年クンパニィスの命日である10月14日には必ずカタルーニャ州政府知事と役員たちによる墓参が行われます。ここ以外にもバルセロナ市には内戦の跡がいくつか保存されています。例えばカテドラルのすぐそばにあるカトリック教会の石の壁に無数の弾痕が残っています。これは共和国軍が最後に自滅覚悟で立てこもったフェリップ・ネリ広場に面しており、フランコ軍による猛烈な銃撃と砲撃によって、この場で最後の抵抗が鎮圧されたのです。「石切り場の墓地」とともに、胸のつまる思いを禁じえない場所です。

社会主義者であると同時にカタルーニャ民族主義者であり、そして19世紀カタルーニャの民族詩人ジュアン・マラガィュを祖父に持つこのカタルーニャ州知事は、一介の外国人に過ぎぬ私などよりも何百倍も重い感慨と苦痛で、この「石切り場の墓地」に立つことでしょう。そしてその場で彼は次のように語りました。

「『歯止めのきかない共和主義の闘牛士たち』によって銃殺された人たちの名も、いつかはこの場所に名前が記されるだろう。これには長い時間が必要かもしれないが。」

この『歯止めのきかない共和主義の闘牛士たち』(原文paseíllos republicanos incontrolados)とは、内戦が始まった1936年以来スペイン各地で起こった「赤色テロ」、「共和主義者」を自称する者たちに指揮されて暴徒と化した民衆を指します。共和派支配地域の全域で、保守派、教会関係者、フランコ支持者、ファランヘ党員とその支持者(注:フランコは必ずしもファランヘ党に支持されていたわけではない)などの非軍人に対する凄絶な殺戮と、教会などへの激しい焼き討ちと破壊が繰り広げられていたのです。バルセロナ陥落の以前には、これらの反共和派の非軍人たちもやはり射殺されてこの「石切り場の墓地」に放り込まれました。

マラガィュは、フランコ政権によって殺された者たちと同時に、これらの反共和派の非軍人たちもまた一緒に記念されるべきである、と語ったのです。これは、10月12日の式典での二人の老兵士と同様に、スペイン中を驚かせました。

中央政府首相サパテロはクンパニィスの名誉を称え、この墓参に副首相であるマリア・テレサ・フェルナンデス・デ・ラ・ベガが献花に訪れました。彼女はクンパニィスのような独裁政権下で処刑された人々に対する判決を無効にするための法案を作る中央政府の約束を表明しました。何と驚いたことに、今までこのような判決が「有罪」として生きていた、つまり国家としての正式な名誉回復作業がなされていなかったのです。
http://www.abc.es/abc/pg041016/prensa/noticias/Nacional/Politica/200410/16/NAC-NAC-027.asp

今の所、マラガィュのこの発言自体に対する公式の反応は出ていないようです。しかしカタルーニャ民族主義政党(右派)であるCiU(集中と連合)や左派のカタルーニャ左翼共和党は、中央政府と社会労働者党の行動に対して、この「殉教者」の名誉を横取りしようとしている、と強く非難しました。
http://www.abc.es/abc/pg041016/prensa/noticias/Nacional/Politica/200410/16/NAC-NAC-033.asp

彼ら民族主義者たちにとっては、クンパニィスは、フランコ独裁に対してというよりも、あくまでもスペインに対して戦いスペインに殺害された「民族主義の殉教者」、つまり「カタルーニャ神話」の中の神々の一人でなければならないのです。だからマドリッドの中央政府の「名誉回復」など必要ないし、逆にあってもらっては困るわけです。

そして、この、カタルーニャでフランコ政権に銃殺された2761番目の犠牲者である「カタルーニャ共和国」初代大統領リュイス・クンパニィスは、処刑を前にして次のように書き残しています。

『私を傷つけたすべての人々を、私は許そう。私が傷つけてしまったかもしれないすべての人に私は許しを請う。もし死なねばならないのなら、私は厳かに死のう。私の中には恨みの影すらない。神に感謝しよう。理想によるこんなに美しい死を私に用意してくれたのだから。』
【原文】
A todos los que me han agraviado, perdono; a todos los que haya podido agraviar pido perdón. Si he de morir, moriré serenamente. No queda en mí ni la sombra de un rencor. Daré gracias a Dios, que me haya procurado una muerte tan bella por los ideales.
http://www.elperiodico.com/default.asp?idpublicacio_PK=5&idioma=CAS&idnoticia_PK=155895&idseccio_PK=4&h=041016

民族主義者、特にカタルーニャ自治政府内で共闘を組む相手である左翼共和党からの非難に対して、マラガィュは次のように述べています。

「この国では、記憶することは恨みを持ち続けることと、また忘れることが許すことと同意語であり続けている。」「しかし、カタルーニャは当時のカタルーニャではないし、スペインも当時のスペインではない。」そして、記憶することと許すことは両立しうる、と。さらに彼は、クンパニィスの栄誉を称え名誉回復を図ろうとするサパテロの「勇気」を賞賛しました。
http://www.elperiodico.com/default.asp?idpublicacio_PK=5&idioma=CAS&idnoticia_PK=155908&idseccio_PK=4&h=041016


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●「仏の嘘をば方便と言ひ武士の嘘をば武略と言ふ。」

アスナールといいサパテロといい、しょせんは「右の武士」か「左の武士」かの違いに過ぎません。知り合いのスペインの「土民百姓」の一人がつぶやいていました。「どうせこいつらみんな嘘つきなんだ」と。一皮剥けば「土民百姓」にとってはどちらも等しく敵に過ぎません。「右の武士」のプロパガンダも「左の武士」もそれも、要するに「武士の嘘」以上のものではないでしょう。

スペイン内戦の開戦直後、1936年10月からのマドリッド攻防戦では、一時的に付近まで攻め込んだフランコ軍が共産党系中心の共和国軍によって追い返された後、マドリッド地区で反共和派に対するすさまじい虐殺が開始されたのです。政治犯として逮捕された5千名を超える者たちのうち、11月初旬にわずか2日間で約2千名が銃殺されました。もちろん裁判など行われていません。その後12月初旬までに、共和側の記録では約2700名、フランコ側の主張では9千名の政治犯が、「スターリンへの忠誠心」に満ちた共和国軍によって無条件に銃殺されたのです。
http://www.guerracivil1936.galeon.com/madrid.htm
http://www.asturiasliberal.org/page/articulo/91086
内戦中に、マドリッド地区の刑務所で銃殺された非軍人たちは、政府の統制がきかない『共和主義の闘牛士たち』によって殺されたものを含めて1万2千名に上る、と言われます。スペイン全土での犠牲者と破壊された施設は、計り知れません。カタルーニャでは特にリェイダ市でのカトリック僧と尼僧に対する虐殺が有名です。
http://www.juntadeandalucia.es/averroes/iescasasviejas/cviejas1/histo2/tema4.5.htm

当然ですが、フランコ軍支配地区では反共和派の『闘牛士たち』による虐殺が繰り広げられていました。その犠牲者の中には詩人ガルシア・ロルカも含まれます。スペイン内戦での双方の死者は30万人とも40万人とも言われますが、あるいはもっと多かったかもしれません。フランコ体制の中で銃殺された者は今のところ判っている数でおよそ5万人に上るとされています。フランコ政権はそのような統計を作らず、共和国側も同様で、作ったとしても失われたか、あるいは未だ隠匿されているのかもしれません。戦争中、および独裁体制の中での「行方不明者」の調査作業は今もなお続けられています。

また共和勢力内部での粛清や抗争、特にアナーキストとスターリニストの間の殺し合いでの死者の数も分かっていません。相当の数であろう事は予想されますが、そのような数値統計は残っていないのです。ただ苦痛と惨めさだけが残りました。

私の知り合いの一人に、バルセロナから車で1時間ほどの田舎に別荘を持っている人がいます。別荘といっても、自分の生まれ故郷である人口100人ちょっとの村の空き家を買って改造したもので、バルセロナの中くらいの収入階層には結構このような別荘を持っている人が多いのです。その村は内戦当時は人口が200名ほどだったそうですが、村の老人たちの話によると、村人がちょうど半々に共和派とフランコ派に分かれ、二つのバル(カフェ)にそれぞれ集まっては相手を罵倒しあっていたそうです。余談ですが、その共和派の溜まり場だったバルは今でもあり、少なくなった村人の集会所のようになっています。私もその村を訪ねるたびにそこで地元のオリーブ漬けをかじりながらビールを飲むのを楽しみにしています。

ただ、さすがに村人同士での殺し合いは無かったようですが、フランコ政権誕生後に共和派だった人々には数年の刑務所暮らしが待っていました。密告、裏切り、村八分と小さな村は引き裂かれたのです。それでもまだ直接の戦場になりませんでしたからましだったので、激戦地だったアラゴンのテルエルという都市では、フランコ政権が全スペインへの模範的な見せしめとして、職業も財産も年金まで、元の共和派とその支持者に対して徹底的な差別・いじめ政策をとりました。彼らの巧妙なプロパガンダによって共和派の悪行と不品行、国に対する裏切りが国中に染み込まされたわけです。

では、これは万が一にもなかったでしょうが、共和国側が勝っていたらどうなっていたのか。恐らく同じことが起こっただろう、と想像します。前述の行動を考えれば、どう見ても共和国側の方がより正直で公正であった、とは思えないわけです。いずれにせよ覇を競う者たちは嘘を作り上げ、あるいは真実を隠し、政敵に勝つという政治目的に都合の良い「事実の側面」のみを取り上げて、それを利用しようとするでしょう。

また先ほどの論文の中にあったように、『両陣営とも、いかに自分たちが犠牲者であるかを誇示し、自分たちの行動を正当化するために理屈を振りかざした』『一般市民の苦しみと人権の無視は、どちらの陣営にとっても相手を非難するあらゆる言葉の中心だった』わけで、その狙いは、国際的な協力を得ると同時に、どちらが「土民百姓」をより多く相手から引き離し自分の側につけるか、ということだったはずです。

先ほどのカタルーニャ民族主義者たちは、「悲劇の英雄」「殉教者」として祭り上げる対象としてあの「初代大統領」を取り上げようとするわけで、自分たちのプロパガンダの中で利用できない形にしてもらっては困る、というわけです。彼らもまた「武略を振りかざす武士」なのでしょう。しかし同様のことは、恐らくスペイン共和国に対して大勢の世界中の人々が未だに持っている心情に対しても言えるのではないでしょうか。

私は「土民百姓」の一人です。「土民百姓の味方」ではありません。仏の嘘も武士の嘘も、結局は「味方面した敵のプロパガンダ」に過ぎないのです。「土民百姓」は、何にたぶらかされてどうなるのか、を正確に見抜く知恵を手に入れなければなりません。

「この国では、記憶することは恨みを持ち続けることと、また忘れることが許すことと同意語であり続けている」という苦渋に満ちたマラガィュの言葉は、単にカタルーニャやスペインだけの話ではないでしょう。無論「許すこと」が過去の「嘘」を「記憶する」ことと同意語でなければなりません。祖父の詩人の魂を受け継ぐこのカタルーニャ自治州政府知事は、様々なプロパガンダに引きずりまわされた挙句に悲劇だけを残す「土民百姓」の歴史を、何よりも嘆いているのだ、と思います。

我々も、もうそろそろ、「共和国のプロパガンダの美しき亡霊」に手を振って別れても良いころだと思います。これ以上「武略」や「方便」にたぶらかされない健全な知性を、我々「土民百姓」が獲得するために。

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