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少子化に抗する可能性『青年期を迂回する精神性』
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/308.html
投稿者 弦楽器の旋律sinceP〜 日時 2004 年 9 月 06 日 00:11:30:rAnickX3xRl7c
 


 以前、異なる掲示板にて討論していた私ですが、今回初投稿をさせて頂きます。精神的に性急さが認められる者に対して、蛇足は不必要である事は論を俟たないが、私が現時点において、本掲示板の特性を、大凡常識を共有するという段階において、理解していない。率直に申すなら、まだ掲示板の個性を把握していないということを、端的に確認したい所以です。

 気を張って、時間を浪費する。もしくは自意識過剰な人間が、掲示板への依存症となるような執拗さを私は避けたいと思っていますので、今回は簡単な事を書きます。私は他の意見を引用しますが、本掲示板の論者である有志は、

 『このように、匿名で自由に書き込みが出来る掲示板でも、自分の理想や現状への疑問・批判を”具体的”に”自分の言葉”や”自分の経験”で語る人が、あまりにも少ないように感じます。』

というように掲示板の特性を規定している。私は端的に心象を露呈すれば、この事しか掲示板の内実を知らないのであるが、それならばお節介な私が、穴を埋めてみようかと持った次第である。また私が後述して語る事は、経験であり、体験記であり、社会的問題との対峙である。
 少子化について幾つか記述するが、日本国外においても、この問題は無関係ではなく、人口の適正な調律が、政府機関によって成される事を無意味化していると考えられ、つまり各人の性欲は個人的な問題であり、多くのデフレ指標の根本的回帰が、生産量の減少ではなく、生産機関の存在其の物に求められるように、新生命の生産量が低いという事より、単に第二次性徴を終えた肉体が転がっているという事が、精神面でのデフレを強めているのではないかと思う。平易に申すならば、デフレとは主に1980年代に過剰投資された多くの生産機関が、「維持費」「管理費」「あった筈の期待」を要求し、ただそこに存在しているだけで、多くの資本を必要とし、人口の減少等の理由により、日本経済が終わる事なき縮小均衡に向かうならば、生産機関の存在其の物によって、デフレから脱却する事は無いでしょう。と、私は観念的に想像する。ただ、問題は、転がっている肉体を、工作機械のように破壊する事は出来ないという事だ。
 此処で私の体験を記述するが、さすがに十代も末になれば、どうしようもなく無力感に襲われるものだ。『私にはもう世界を変えていく力が無い』と思った事は無いだろうか?世界とは、一つには現状の家庭であり、父親であり、固定化された友人像であるが、この問題は深い。
 『世界を変えていく力が無い』という諦観は、ある意味『未知』より発生している。自らが精神的に確認できる範囲内においての知識は、既に習得してしまい、『知識』によって、獲得可能である社会的領域が、大きく縮退してくるのだ。つまり、中学生から高校生、そして受験を経て大学に入学し、今後就職していくという道に沿って、可能性は狭まる。高校までは、受験勉強をする事で、大学合格後の名誉、就職への入り口を発見出来るが、大学生ともなると、いくら受験勉強しても、自分を変える機会がもう訪れる事は無い、急激な変改はもはやありえず、全ては漸進的に蛇行していく。それは五月病の通低に潜む問いだろう。
 つまりこの世界に生命を得てから、未知は忌み嫌われるものであり、常に打倒し、新しい知識を習得して、知的に成る事が要求され、また本人も自負していたはずだが、十代末期以降の『青年期』においては、未知とは固定された壁であり、どうしようもないものであり、自己と社会を互いに変えていく、『相克的な環境』なのだ。多くの若者は、職を得る事で、自らの可能性を断念し、精神科学の用語で定義すれば、去勢される事で社会へ適応していく。

 私は近代的な本質、つまり日本的には戦後民主主義的教育の末路を此処に思う。つまり可能性が常に前面にあり、どうしようもないものとしての未知、言ってしまえばどうしようもない自分を意識させる事が、教育装置の中に無い。受験勉強での敗北は、二点の問題を抱える、それは徹底的な学習の末の敗北ではなく、多くは打算であるという事と、もう一つは受験自体が、エゴイズム(私的利益)の産物である為、仮に受験で敗北しても、自己の限界を冷静に受け止められず、思考停止して反社会的な行動を取る恐れがあるということだ。『青春』とは、「全力で徹底的に自己と戦い、社会へ挑戦し、最終的に社会に屈する(適応する)事」だ。それに関して言えば、受験勉強はそれらの要因を満たしていない。
 例示すれば社会に関して、選挙の事を考慮するのは、社会への屈服(適応)である。つまり、社会的環境下で生きていく事が、即ち人間である。
 ようやく本題を示すが、男子は『父親への反抗』により社会性を獲得し、女子は『女の子である事を社会的に要請され』社会性を獲得する。この二点が確認されず、未知を悟る事がないと、彼らは社会性を獲得せず、自己の可能性に対して自惚れ、『社会的に固定』されない。日本の現状、また出産率が低下傾向にある多くの近代的先進諸国間で顕著であるのは、『未婚化』である。社会学的考察を多分に含ませるなら、婚姻とは社会的な固定化の最たるものである。彼らの多くは自由を信奉し、また自由に拠る自己の可能性を肯定し続けるが、本来社会に屈した人間は、自己保存の感情から婚姻に至る事が多い。このあたりの儀式的感情を忖度することは重要である。
 此処十年来のフェミニストの主張は、少子化が社会的な資本不備を原因とし、あくまで自己の可能性は温存しながら、社会的な構造性に責任を転嫁してきた。しかし日本の統計に関しても、あくまで未婚化が、少子化の直接要因であり、それを疑問視する者は普通の人の感覚、つまり社会的な当事者意識を持つ事を推奨する。つまり産む事が本能的に言って怖いのであり、だから婚姻も忌避され、その理由は、未知を知る事が無いので社会性を獲得せず、男子の場合は『父親の不在』、女子の場合は『何処まで行っても壁に当たらない社会的空疎』が原因である。そして、青年期を経由せず、社会と相克することなく三十代後期以降の養育期に突入し、そして彼らはやっと自己の限界を自覚し、自覚したがもはや葛藤する事も出来ず、子供を養育する知恵も持たず、両親は他界していき、どうしようもないほどの鬱屈と、社会的無責任を併発するだろう。現代の若者の未来には、何か危ういものが待ち受けていると直感してしまうのは、私の悪い癖なのだろうか?
 解決法は何かあるだろうか?私は此処で一つ指摘しておく、それは社会的な趣味を持つことだ。社会に対して関心を持ち、何か変えようと少年期の内から努力すれば、仮に父親や空疎な社会が、自己の限界を指摘する事が無くとも、社会というものが極めて複雑で、自分にはどうしようもない事が意識出来るのではないか。この事を万人には適応できないかもしれない、しかし自覚する者は、社会を目標とする少年期の未知の克服、社会と葛藤する青年期、社会への代償としての養育期を、実践できるだろう。未知を巡る生涯の流れは、消えつつある青年期を回復し、どうしようもないものとしての未知を壁として完成し、それによって未婚化と少子化を回復出来ると私は考える。

 私信 師匠Xが居たら、ご連絡の程を。

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