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「ポスト・フェスティバル」とアナアキズム 【『心の病理を考える』木村敏】
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/618.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 9 月 01 日 07:45:01:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 浅羽さんの『アナーキズム』は今読んでいます。 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 8 月 31 日 01:25:03)

ジャック・どんどんさん どうもです。前レスを書いたら妙に「スッキリ」してしまって、
続きが書けないんですが....

『アナーキズム』のあとがきで浅羽さんが書いていますが

「もとより私は、思想史の専門家でも何でもなく、本書にはオリジナルな研究成果もなければ新
たな発見もない。といって、正統的な学術的蓄積を踏まえた啓蒙書でもない。門外漢ゆえの誤り
や脱落もきっと少なくないと思われる。」

確かに何処かで聞いたような話ばかりで「発見」はありません。鶴見俊輔が絶賛した金子ふみ子
が落ちているのは致命傷かもしれませんが、新書という形ではしかたない?いや、よく調べてある。
めてあげてもいい。しかし、読んでいて全く面白くない。なぜか。
それは浅羽さんがアナーキズムあるいは登場する人間たちと全く「共振」していないからです。
つまり浅羽さん自体が「思想」に触れた時の驚き、反発、違和感なんでもいい、そういうものが
全く無い。「公平な立場から」などと言い訳してもダメです。(笑)そういう学術的な資料価値
のある本でないことはご自分で言っている通りですから
べつに「マフノが酒と女に溺れて軍閥化した」という記述に反発しているわけではありませんが
出典を明示しないのなら、カルチュラル・ スタディーズとしても落第ですね。匿名掲示板の
カキコじゃないんだから(笑)

で、前レスで書いたように「等身大の生活者」なるものを持ち出して自分が絶対に批判されない
安全な場所からモノを言う、(浅羽さんお得意の言葉で言えば「甘い」)浅羽さんが吉本隆明の
最悪の読み手であることは良くわかりました。、
吉本−埴谷論争、吉本−花田論争にしろ教祖様は鶴見俊輔と対談して「僕がいまこんなに苦しい
のは若いときに人と喧嘩したからだろう」とか言ってちゃんと反省している。是非見習って戴き
たいものですが、ちなみに上野千鶴子は「あははは、身から出た錆」と笑うんですが(ヒドイなぁ)
鶴見は吉本を庇う、「笑っちゃいけない」とたしなめるんですね。(『戦争が残したもの』)

むしろ浅羽さんは「ひきこもり、パラサイトゆるさーん」という正義の人、あるいは「私の仕事が
ひきこもり、パラサイトな人の『更正』に役立つなら」という善意の人なんだろうな、正直言って
洒落のわからない困った人だと思います。あたりまえですが哲学や思想、文学、芸術はみな有閑階級
が担ってきたわけです。 続けて浅羽さんのあとがきを引用すると

「そんなないもの尽くしの本を出す意味があるとすれば、インターネットとやらが普及するはる
か以前より、つねに読者との直接取り引きを心がけ、どこまでもこうした本の読者となるような
人々の需要に応えるかたちで、日本アナーキズムの長所短所、さまざまな思想的相貌を摘出して
みせた、それのみだろう。」

「とやら」と言ってゴーマンかましているわけですが、この鉄板な自信がどこから来るのか、要は
「オレの仕事は『日本世間様』(by 愚民党さん)が認めているんだ、インテリども頭が高い!」
ってことなんだろうと思う。(笑)


まぁ、そんなところで本題に入りますが映画、サブカルの「裏読み、深読み批評」なら鶴見俊輔の
「漫画批評」や鶴見が「思想の科学」で見出した佐藤忠男の映画批評がありましたが、キャプテン・
ハーロックと「戦争とアナーキズム」というカビの生えたメタファーを良くも持ち出したものだと
思いますね。「戦い終わって日が暮れて」「嗚呼、革命の夢無残」(by 鈴木邦男)って。

ジャック・どんどんさんは木村敏さんをご存知でしょうか、精神科医の。西田哲学の人?で沢山本を
書いていますが、とりあえずは『心の病理を考える』(岩波新書)ですかね。私は木村敏さんの
ハイデガー読解には物凄く「共振」しました。というか「こういう考えがあるのか」と崖から突き落
された気分なんですが、この本でいけば浅羽さんは典型的な「ポスト・フェストゥム=鬱」の人なんだ
と思いますね。前に書きましたがアナーキズムは「今、ここ」なんです。
しゃらくさい言い方になりますが人間は「鬱病」と「分裂病」の間を揺れ動いている、あるいはあいだ
なんてものはそもそもないのかもしれません。
(もう少し続くかもしれません(汗))
--------------------------------------------------
『心の病理を考える』木村敏(岩波新書)

時間の生きかたの三類型

祭りの後、祭りの前
それから何年問か、私が馨病の精神病理を考えていたことはすでに書いた。鬱病患者はなに
ごとにつけ「取り返しのつかないことになってしまった」という特有の後悔の気持ちを抱く。
この取り返しのつかなさが妄想の形をとってモラルの面に現れると、償うことのできない罪を
犯したという「罪責妄想」にさいなまれることになるし、金銭面に現れると、立ち直ることの
できない経済的破局に陥っているという「貧困妄想」を、健康面に現れると、不治の病におか
されたという「心気妄想」を抱くことになるめこの三つが鬱病の「三大主題」と呼ばれるもの
である。

この「取り返しがつかない」という体験が時間の生きかたの障害に基づくものであること、
これはすでに述べたようにゲープザッテルやテレンバッハをはじめ、ドイッやフランスで何人
かの精神病理学者が気づいていたことである。その人たちは、「時間体験」というかたちで意
識の主題になる時間と、それ自体は意識化されないで人間の行動を背後から支配している「生
きられる時間」を区別し、後者は人間の生命的な「生成」そのものと密接な関係をもつものと
考えていた。鬱病患者ではこの生成が阻害され、そのために「生きられる時問」が停滞して、
意識面に回復不能感が出現する、患者はいわば自分自身の背後に取り残される(レマネンツ)と
いうことになる。

私は、この考えは正しいと思った。テレンバッハが「メランコリー親和型」の性格として詳
細に記述しているように、鬱病患者の病前の行動特性としては堅実で経験や前例を重視し、何
ごとにつけ変化を好まないという特徴が挙げられるが、これは時間の停滞に際して取り返しの
つかない事態を悔やまなくてもいいように、あらかじめ講じられている予防策と見ることもで
きる。鬱病患者は一般的に言って「保守的」なのである。
鬱病患者が保守的だとすると、もう一つの精神病である分裂病の患者の生きかたは基本的に
「革新的」である。このことは、典型的な鬱病の発病年齢が人生も半ばを過ぎた五十台に多い
のに対して、分裂病はそのほとんどが青年期に発症してしまうということとも関係があるかも
しれない。とにかく分裂病患者は病前から、大人の世界のしきたりや常識に反抗し、経験の裏
付けがないのに高い理想を追い求め、よきにつけあしきにつけ自分の存在のウェイトを未来に
置いている。ビンスヴァンガーはこのことを、現存在が理想の高みを求める「高さの軸」と、
経験基盤の拡大を求める「広さの軸」とのあいだの「人間学的均衡」が、鬱病者では広さの側
へ丶分裂病者では高さの側へ偏りすぎて、いずれも破綻を来している状態だと理解した。これ
は空間の次元での捉えかただが、同じことを時間の次元で捉えるとどうなるのだろう、と私は
考えた。

「取り返しがつかない」ことを言い表すのに、日本語では「後の祭」という言いかたがある。
実は西洋にもこれとよく似た表現があって、それはラテン語で「祭の後」を意味する「ポス
ト・フェストゥム」である。お祭りのドンチャン騒ぎが終わってから、羽目を外しすぎたのを
後悔する心境を指しているのだろうが、一般には「ことが終わってしまった後」あるいは「事
後的」というぐらいの意味で、とくにそれを悔やむというような語感なしに用いられているよ
うである。

これに対して「ことが始まる前」を表現するラテン語もある。それは「祭の前」を意味する
「アンテ・フェストゥム」で、「ポスト・フェストゥム」ほど一般に使われていることばでは
ないけれど、語感からすると、来たるべき祝祭を予感して緊張が高まっている心境を指してい
るのだろう。日本語にはこれにぴったり該当する言い回しが見当たらないが、強いて探せば
「前夜祭」ぐらいのものだろうか。

この二つの表現で鬱病者と分裂病者の時間的なありかたを表せるのではないかということを
私が思いついたのは、社会学者のルカーチがブルジョアジーのイデオロギーを「ポスト・フェ
ストゥム的意識」と規定したのを受けて、ガベルというフランスの精神科医がプロレタリアー
トのイデオロギーを「アンテ・フェストゥム的意識」と呼んでいることを知ったときだった
(木村洋二訳『虚偽意識」人文書院、七〇頁)。保守的なブルジョアジーが改革を嫌い、なにかに
つけて先例を重んじて、ことが済んでからしか自分の態度を決定しないのに対して、革命家は来
たるべき社会の変革をつねに先取りして、ことが始まる前に行動を開始しようとする。これは
そのまま、鬱病者と分裂病者の生きざまにぴったりではないのか、と私は思った。そしてビン
スヴァンガーが空間的に表現した人間学的均衡の時間的側面を言い表すために、私はこの用語
を採用することにした。

もちろん、ビンスヴァンガーの人間学的均衡にしても私のアンテ・フェストゥム、ポスト・
フェストゥムにしても、それ自体が病的なのではない。それがバランスを失って一方に偏った
ときにあるいは平常からそれが一方に偏った生きかたをしている人が危機に陥ったときに
分裂病や響病のかたちで病的現象が発生するだけのことである。言い換えると、健常者の
なかにもその一方の側がある程度目立つような行動様式を示す人がたくさんいる。経験がもの
をいう実務に適した人、しきたりを重んじ、周囲の人たちとの協調に意を用いる人はポスト.
フェストゥム型だし、直観にすぐれ抽象的な思考を好む人、自分の可能性を大事にする人はア
ンテ・フェストゥム型だと言っていいだろう。

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