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チェチェンで何が起こっているのか
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投稿者 クエスチョン 日時 2004 年 11 月 20 日 00:43:24:WmYnAkBebEg4M
 

チェチェンで何が起こっているのか


 『チェチェンで何が起こっているのか』林 克明著、高文研発行、2000円

 読み始めて、いくつかの箇所をご紹介しようと思いました。付箋をつけていったら、付箋だらけになってしまいました。

 そして、最後まで読み終えたら、最後のお坊さんの文章をご紹介するのが一番まとまってて良いのではないかと思ったしだいです。林 克明さんの本文も読み応えがあります。図書館などにもあると思いますので是非ご一読をお勧めします。

 寺沢潤世師の一文と、いくつかの関連書籍が紹介されていたうちのトルストイの著作の部分、あと最後のエピローグの所をご紹介しておきます。

※小生が一番感じた感想は、あまりにも今までチェチェンについて知らなかったと言うことでした。

※OCR処理しました。誤認識した文字は極力直したつもりです。もしチェック漏れがあった場合はご容赦ください。

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寺沢潤世(てらさわ・じゅんせい)

 日本山妙法寺僧侶。1950年、石川県生まれ。
 立教大学独文科を中退して出家、世界的に平和運動を続ける日本山の藤井日達上人の手で得度する。その後、インド、ヨーロッパで各地の人々とともに平和運動を続ける。1991年の湾岸戦争、ソ連邦崩壊、そして1993年のエリツィン大統領と議会の対決など、ロシアという大きな国家が動揺するさまをつぶさに見るうちに、チェチェンと出会った。今日もウクライナの寺でロシア人、チェチェン人の弟子とともに、修行を続けている。


 私が初めてチェチェンの人たちと出会ったのは、1991年8月にソ連で起こったクーデター未遂事件の頃でした。

 その約半年前、1991年1月から2月、私は日本人としてはただ一人、湾岸戦争の軍事行動に反対する世界の市民たちとともに、イラクに留まっていました。湾岸戦争前にベルリンの壁が崩壊、東西ドイツの統一、東側の社会主義国の崩壊があり、ヨーロッパにおける冷戦構造の変化はもうすでに起きていました。世界の対立構造が消えていき、平和の実現が夢ではなくなるという熱い期待感がありました。ところが、それに冷や水をあびせるようなかたちで、湾岸危機が起きたのです。

 世界中がアメリカになびいた。それに対して、100人近くの世界の市民が戦争にノーの声をあげて、まったく非暴力の人間の楯としてサウジアラビアとイラクの国境の砂漠に平和の陣を張ったのです。その中に、私も加わっていました。

 私は湾岸戦争以降、何度か日本とイラクとを往復し、途中でモスクワにいつも立ち寄っていました。その時期、ソ連はまさに混乱しつつありました。当時のソ連は、ゴルバチョフのペレストロイカが行き詰まりを見せたころで、モスクワでは普通の日用品を買うのでも長蛇の列でした。

 8月、イラクヘ向かう途中にモスクワに立ち寄ったとき、ちょうどEND(欧州核軍縮会議)がモスクワで開かれたので、参加しました。会議の目的は、湾岸戦争以後の世界の非暴力平和活動家の新しい行動様式を見い出していこうということでした。

 ところが、その直後、ゴルバチョフ大統領がクリミア半島の別荘で夏休みを過ごしているとき、突然クーデターが起こりました。ロシアのエリツィン大統領は全ロシアにこのクーデターに抵抗するように呼びかけ、モスクワは騒然として、大変な緊張の三日間でした。その三日間、モスクワ市民は抵抗し、バリケードを築き、非暴力の力を世界に見せつけました。私はモスクワっ子の非暴力の生きざまを目の当たりにして感動し、私も自らの身を投じて、いっしょにこの抵抗のバリケードの砦に向かいました。

 非暴力によってこのクーデターは見事に失敗しました。指導層はみんな逮捕され、ゴルバチョフは無傷でモスクワに凱旋しました。しかしその時点で、ゴルバチョフの時代は去った。これはソ連共産党の独裁を無血革命によって終止符を打つ、その歴史的なドラマだったわけです。

 12月8日、ロシア・ベラルーシ・ウクライナの三大統領合意によるソ連からの脱退宣言がありました。他の連邦共和国の大統領もそれぞれ独立を宣言して、ついに12月25日のクリスマス、ゴルバチョフ大統領はソビエト連邦大統領として最後の演説をしました。

 ソビエト連邦の歴史のぺージが、そこで閉じたのです。


 ソ連消滅に向かう怒濤のような激動の渦中で、私は不思議な男たちに出会いました。
8月以降、12月のソ連崩壊までの数カ月の間、私はクーデターの中心であったロシア連邦議会とモスクワ川を挟んだ対岸にあるウクライナホテルに住んでいましたが、彼らはやはりウクライナホテルを宿にしていて、しょっちゅう顔を合わせていました。

 その人たちは、これまで聞いたことがないような抑揚の言葉を交わしていました。彼らには、ほかのロシア社会とはまったく違った一つの独自の行動様式と、仲間のつながりがはっきりと見てとれました。不文律ともいっていいほどの一つの規律が彼らを律している。それに私は強く惹き付けられました。

 まず目についたのは、年長者が現れると、腰をあげて敬意を表する。外部の人と親しくなった場合は、絶対的な律儀さをもって遇する。もし外部の者が敵対者であった場合は、結束して抵抗し、自分たちのつながりを守っていく。かといって、彼らは堅くはないんです。ざっくばらんというか、フーテンの寅さん的な思いやりがある。それでいて、けっこう気障で、あの当時では考えられないような香水をつけて、ぴしっと決まった服を着て、伊達男なんです。

 彼らは、コーカサスから来たチェチェンの人々で、マフィアと呼ばれていました。彼らはモスクワでは厄介者扱いされていました。ソ連の当時の箍がはずれた隙間に割り込んで入ってきた、新しいマフィア勢力。本当に不思議としか形容できない人の群れだったわけです。

 そのうち、たくさんの仏教を学ぶお弟子さんたちが私の周りに集まるようになって、ウクライナホテルを出てモスクワのアパートの一室を借りて、修行するようになりました。そのころ、仏教修業の一貫としてモスクワのあちこちにある大きなバザールヘ托鉢に行きました。そのバザールには、100近くのそれぞれのお店に、ふんだんな野菜や果物が並べられていて、そこを一軒一軒お祈りしながら回るわけです。そのバザールで果物や野菜を売っている人たちは、みんなコーカサスの人たちでした。どちらかというと黒髪で黒い目をして、皮膚の色もスラブ系の真っ自の人たちとは違います。そんな人たちが、お坊さんたちに喜んでリンゴ一つとか、じゃがいもとか、ときにはお金もお布施してくれるのです。五、六人で一時間くらい回って歩くと、三つ四つのリュックサックがいっぱいになりました。

 こうして私は、コーカサスの人々と少しずつ交流するようになっていったのです。


 ウクライナホテルに出入りする男たちの中に、ルスランというひとりの若者がいました。向こうも日本人の仏教僧を珍しがっていたのかもしれませんが、彼はしょっちゅう私の部屋に来て、いろいろなおしゃべりをしました。彼はよく故郷のチェチェンのことを話しました。時々里帰りをするとき、彼は「日本人のお坊さんの友だちがいる」と、私のことを村の家族に話します。そして「必ずチエチェンに連れてくるから、その時は盛大な歓迎をしよう」と、前宣伝をしているのです。私も彼に会うたびに「チュチェンはとても自然が豊かな素晴らしいところだ。いっしょに行こう、いつ行くか」と言われていたのですが、なかなか行く機会がありませんでした。

 それから一、二年経つうちに、ロシアの市場経済の発展の中で、チェチェン人のマフィア集団がモスクワの中でどんどん力を持って、大勢力になっていきました。彼らはアメリカのピカピカのスポーツカーを乗り回して、イタリアの靴を履いて、スーツを着て最高級の香水を振りまき、すっかり羽振りがよくなりました。

 それがある日、ルスランは外車を運転して衝突、ひん死の重傷を負ったのです。同乗者は即死でした。私はインドから帰ってきてそのことを知って、病院に駆けつけました。特別看護の緊急室で見た彼は、食道から胸を切って、足も折って、重態でした。私は彼の枕元で仏教のお祈りをしました。そのとき彼は、声を発することはできないのですが、涙を流しました。生きていることを実感して喜んだのか、私との再会を喜んだのか、私の彼に対する心配に感謝したのか……それはわかりません。ところが彼は奇跡的に生還して、一年ほど後には社会復帰できるくらいになりました。


 1993年には、エリツィン大統領の市場経済改革派と、それに抵抗してソ連時代の権益にしがみつく保守派との対立が強まりました。ルツコイ副大統領と、最高会議議長であるチェチュン人のハスブラートフが反エリツィンの筆頭でした。

 そして10月、ついに、かつては民主ロシアのシンボルだったロシア議事堂(ホワイトハウス)が、エリツィン対保守派の戦場になりました。1000人とも2000人ともいわれる反エリツィン派の議員や一般市民がろう城しているホワイトハウスに、世界中の人が見ている中で軍が猛攻撃をするショッキングな場面のすぐ目の前で、私は太鼓を打ってお祈りをしていました。

 そのときにルスランはホワイトハウスに入って、負傷したひん死の人たちを自分の車に載せて、病院に運んでいました。私の祈っているところにも何度も来て、流れ弾がここには来る、スナイパーがあちこちにいて狙われるから気をつけろと心配してくれました。


 ちょうどそのころ、ルスランのアパートは私のアパートから数十メートル離れたところにあったのですが、彼はどういう風の吹き回しか、突然私たちのお祈りによく顔を出すようになりました。

 ある日のことです。彼は朝から突然私の部屋に来て「いっしょにドライブにでも行くか」って誘いました。私は「残念だけど今は行けない」と断りました。ところが、お昼になるとまた来て、そして夕方になったらまた来て、その時は最初から最後までいっしょにお祈りをしました。その夜は遅くまで、彼が持ってきたシャンペンを飲み交わしながら、その時に限ってしみじみとした話をしました。「あんたがたは前世を信じるのか」と言うから、「仏教徒は前世を信じる」と答えて、「それぞれの出会いにはずっと続く古い縁があって、今の世で出会ったり、友だちになったりして、いろんなことを学んでいくんだよ」と話しました。夜遅くまで話して、彼はいったん帰ったのですが、二〇分ほどしてまた、リンゴやウォッカを携えて戻ってきて、私にくれました。お坊さんに対するお布施のつもりだったのでしょう。それでその夜は別れたのです。


 その翌日の早朝、ルスランといっしょに生活している人から電話がありました。「ルスランが亡くなった」と。急いで駆けつけたら、すでに息を引きとっていました。大柄の身体が大の字で、仰向けになって。ルスランはそのとき二四歳でした。交通事故で呼吸器をなくして、咽に穴をあけて人工呼吸器をつけていたのですが、それが作動しなくなったのが死因らしいのです。そういえば彼は突然亡くなる四、五日前から、足繁く私のところに来ていました。特に亡くなる前日は、何度も私のところに訪ねてきました。もしかしたら彼は彼なりに、自分の死期というものを悟っていたのかもしれません。

 私はお坊さんとしてのお見送りのお祈りをして、お別れに、私が友人からいただいたムスリムの號珀のお数珠を彼の手に握らせて、お坊さんの衣を彼の上にかけました。故郷から駆けつけたルスランの兄と弟は私に言いました。

 「今夜、遺体を故郷に運ぷので、いっしょに来てください」

 その日の夜、私はルスランの兄弟とルスランの遺体とともに、最終の飛行機でチェチェンの首都であるグローズヌイの空港へ深夜に到着しました。機体が空港にストップするや否や、パタンとドアが開いて、ドヤドヤとチェチェンの人たちが入り込んできました。その中のかなりの人には見覚えがありました。それは、ウクライナホテルに私が住んでいるときに会った、ルスランの同僚の人たちでした。

 外に出ると大雪で、タラップの前に数え切れないほどのチェチェンの人たちがいて、ルスランの遺体を待っていました。棺が機体から降ろされると、その棺を車に載せて、何十台という車とともに、その夜のうちに遺体は故郷へたどりつきました。

 私は翌朝早く、彼の家に初めて行きました。そこには年とった両親、兄弟親族がみんな集まって、これからお葬式の準備に入るところでした。忙しい中でペチカをどんどん燃やして、食事や熱いお茶が出され、遠くから来た私たちのために、あれこれ気を使ってくれました。

 外はぼたん雪が降りしきっていました。その外から、異様な地響きが聞こえてくるのです。地面が揺れるような、不思議なリズム感を伴った、深い世界から響いてくるような男たちの声。それに誘われるように表に出てみたら、村中の老人や若者、男たちがルスランの家の中庭いっばいに輪になって、地面を跳ぷようにしてぐるぐると回っていました。何十人もの男たちが、老いも若きも汗だくになりながら何時間にも渡って、地響きをたてて跳躍しながら回る。それが段々熱気を帯び、激しくなっていく。歌うような、吠えるような、合唱の響き。地をゆるがすような足の響き。チェチェンの民に伝わる男たちの祈りを初めて目にして、私は不思議な思いにとらわれました。

 私は能登半島の雪深い田舎の生まれですが、雪国では寒修業があります。仏教のお坊さんが深い雪の中を、夜、修業で歩きます。そのときの祈りの声は、この世ならぬ深い世界からのような声でした。そのことをふいに思い出し、はっとしました。こういう祈りをする民が、この山奥の中にいたんだと。そのときに、私が一目見た時にチェチェン人から感じた、惹き付けられるような力の源がここにあると直感しました。

 そのあとルスランの身体は、親族の一番年寄りの手できれいに浄められ、真っ白な布で被われました。一番近い親族や友だちが遺体にすがって昼も夜も泣き続けました。最後は、村中の男たちが、真っ白な布に包まれた遺体を真っ白な雪の降る山道を墓場まで運びます。女たちは野辺送りには出られないしきたりのようで、みんな家で待っていました。私は野辺送りの行列に伴って歩きました。コーカサスの山のふもとに地中深く穴を掘って、ルスランの遺体を埋めました。村の長老がお祈りをして、彼は生まれた土に帰っていきました。彼らにとっては、自分の生まれた土にやがて帰っていくことは、本当に大切なことなのです。

 そのあとルスランのお父さんが、子ども時代の話をしてくれました。第二次世界大戦の末期、スターリンの時代にチェチェン民族は敵性民族と言われ、一昼夜のうちに根こそぎ強制的に中央アジアの荒野に移住させられました。そこで、アルミ採掘の強制労働をさせられたのです。そのうち、終戦直後に捕虜になった日本軍兵士たちが連れてこられました。彼らも労働に従事させられましたが、一日にグラス半分のミルクと半切れのパンだけしか食事が与えられず、餓えに耐えかねてチェチェン人のところにやってきました。ひとりの日本人兵士が少年だったルスランのお父さんに「懐中時計とミルクを交換してほしい」と言ったので、ルスランのお父さんはミルクを分けてあげましたが、懐中時計は受け取りませんでした。それから親しくなって、その日本兵をイワンと呼び、毎日ミルクをご馳走しました。最後にはとても親しくなって、日本兵は帰国するときに涙ながらに感謝を告げて別れたそうです。

 お父さんはルスランの親友である私を家族の一員として遇したいといって、「これからは自分の家と思っていつでも来なさい」と言ってくれました。


 私はルスランとの約束を果たすために、チェチェンに入りました。そこで初めてチェチェンの村の古いしきたりに触れ、チェチェン民族がずっと伝えてきた祈りの世界を垣間見ることができたのです。

 ロシアのトルストイの作品を読むと、トルストイも恐らく、私と同じような体験をしていると思うのです。トルストイはコーカサスの民の文化の神髄に触れて、人間の霊性、清らかな感性の中にある共同の文化というものをまざまざと感じた。トルストイの現代文明批判、キリスト教文明批判、ヨーロッパの芸術文化批判の根底には、彼自身が体験した強烈なコーカサスの民の印象があるのでしょう。彼らこそ本物の人間の生き方であるという思いが、ずっと最後までトルストイの生き方を律していたのではないかと思います。


 ポスト・ソビエト、ポスト・冷戦。それは二〇世紀最後の世界史的なドラマでした。そのドラマの中から生まれた一番大きい悲劇は、やはりチェチェン戦争だと思います。

 チェチェン戦争は、単なる帝国主義的な抑圧から独立を目ざす少数民族の武装闘争なのか。チェチェン民族が闘っている相手は、ソ連の帝国主義を引き継いだ新生ロシアの一番陰の部分だけなのか。

 今、チェチェンの民が経ている悲劇は、地政学上の間題や、人権、民族自決、独立という軸だけでは測れない。二一世紀の人類を前に、世界を前に、チェチェン民族全体があたかも十字架上のイエスのような受難をしている。その受難の本質は何か。そこに、二一世紀のこれからの世界が向かっていく方向性の一つの鍵が秘められているのではないかと私はとらえています。チェチェン民族の苦しみは何のためなのだろうか。この苦しみは、ひょっとしたら二一世紀の世界の未来図を、黙示録的に暗示するものかもしれません。

 私の初めてのチェチェン体験。雪の中の民の時を超えたような祈りと、今のチェチェンが置かれている苦しみとはつながっていると私は直感しています。おそらく、世界中の少数民族が抱えている矛盾、現代社会が少数民族に押し付けている矛盾が、今もっとも先鋭化した形でチェチェン全土に僧しみ、暴力という悲劇として凝縮されていると思うのです。

 ヨーロッパは口では人権を唱えながら、なぜロシアに対して行動しないのか。ユーゴでは空爆までして、ミロシェビッチを戦犯法廷にかけたというのに。それは、エリツィンのこの言葉に象徴されています。「われわれが核兵器を持っていることを忘れるな」と。ヨーロッパが行動を起こさないのは、核のせいです。核兵器、それは現代社会の矛盾の際たるものです。

 現代社会の、支配者側の人たちは、失うことが恐ろしいのです。現代文明の根底にある価値観。上へ上へと積み上げてずっと前進してきた、その積み上げてきたものを全部失うことを恐れている。その恐れがあれだけの巨大な力を生んだのです。

 チェチェン民族は国際社会の政治的な枠組みの中では触れられない。今の国際社会を律している国際原則、あるいは座標軸にはあてはまらない。それに一番近い姿にある民族は、パレスチナ、アフガニスタン、カシミール、チベットだと思います。それらの民族の共通項は、まず支配者側の国家と比べて圧倒的に余力がない。量の上でも質の上でも、段違いです。もう一つは、人類文化的に眺めていったとき、彼らは権力者としての歴史を持っていません。権力者の書き上げる歴史は、権力者の都合のいいように書かれます。作られた歴史全体の中で、彼らの歴史は記録になっていないのです。

 もう一つは、彼らの多くは「山の民」であって、現代文明、都市文明の価値観の対極の中で生きてきたということです。ポスト冷戦後、いわゆるグローバライゼーションということがいわれていますが、それは現代文明、都市文明の価値観を世界全体にあてはめようとする乱暴な強制です。インフォメーション・テクノロジー、市場経済、デモクラシーといわれているシステム。誰もが抗することのできないような影響力のある流れ。今挙げた少数の民はみな、そういう都市文明の波から一番かけ離れたところにあるのです。

 私が初めてチェチェンの村に入ったとき、今の時代にこんな民が今も生きていたのかと驚きました。彼らの文化は、現代ではほとんど失われた、共同社会の霊的な文化です。メカニズムの文化でもなければパワーの文化でもない、マネーの文化でも、テクノロジーの文化でもない。人類の前史からとぎれていない、人間が本来持っていた霊性、それがもっとも濃厚に共同社会の中で生きている。だから彼らの言動、行動、立ち振る舞いに、説明できない一つの不思議な力があったのです。

 チェチェン、パレスチナ、アフガニスタン、カシミール、チベット。それぞれまったく違う問題を抱えつつ、つながりあっている部分があります。その部分をこれからの国際社会がどうしていくのか。それによって、二一世紀の世界が、過激な宗教感情と民族間の憎悪と報復のエスカレートの中で、ついには文明の衝突にいくか、或いはまったく違った地球共同体に再構築していく、新しい座標軸の一里塚が生まれてくるのかが決まると思うのです。


 第一次のチェチェン戦争が終わったとき、グローズヌイでは戦争終結を祝う式典が開かれ、私も参加しました。ロシアと戦っていた、せいぜい2000人のレジスタンスたちは、みな一介の夫であり、父親でしたから、戦争が終わって家に帰っていた。けれど、この式典では、二万人にもなろうかという戦士たちが広場を埋め、それぞれにライフル銃を空に向けて祝賀の空砲を撃ち続けました。そのころから、チェチェン中に武器が蔓延していった。これは危ない。私はそう直感しました。彼らは国際社会の助けをまったく受けず、ロシアを自力で追い出したために武器への依存を深めましたし、国土も経済も破壊され、若者たちが社会復帰できなかった。そんなところに、中東から資金を得た野戦司令官たちだけがのさばる、いびつな国ができてしまっていたのです。

 チェチェンの男たちはみな、ロシア軍のフィルトレーションキャンプに送り込まれ、想像を絶するような拷問を受け、精神的に外傷を負い、家族も殺された。それを西側は、世界は、見てみぬふりをして助けようともしなかったんです。しかも、戦争が終わったらチェチェンからはさらに関心が遠のいてしまった。人権外交を唱え、あるいはキリスト教の精神をいいつつ、戦争中、戦後を通じて、結局は何もしなかったのだから、チェチェンの人々はそんな価値観を信頼していません。その代わりに残ってしまった経済的な空洞、精神的な空洞を埋めるように、第一次戦争の時の英雄譚や、ワッハビズム(純正イスラム主義)のような過激な宗派が入り込み、野戦司令官たちのトレーニングキャンプで若い人々が教育されていくことで、チェチェンの社会は悪くなっていきました。グローズヌイで、ワッハビズムに対して批判論を展開した大学教授がその場で銃殺される事件がありました。彼は単に非難したのではなく、批判的な立場から対話を試みたのに。


 チェチェンで起こっていることに、私たち市民社会も合め、西側はまったく無力です。最初から見捨ててしまったからです。国連人権委員会には毎年チェチェン問題について、ロシアを非難する声明案が出ます。これはまずEUが提起し、東欧諸国が賛成し、アメリカが賛成し、アラブとアフリカ諸国が続いて、採択されてきました。でも、あの九・一一のアメリカ同時多発テロ事件以降は、アメリカとアラブが積極的でなくなったので、通らなくなってしまいました。

 バーミヤンで大仏が破壊されたとき、世界中からタリバーンや、イスラム原理主義はひどいという声が上がった。しかし、ソ連軍の侵攻から後、アフガニスタンの社会に武器が蔓延して群雄割拠する苦しい時代を体験していたときに、国際社会は注目もせず、助けてもいません。そして九・一一のすぐ後にアフガニスタンが攻撃を受けた。アフガニスタンもイラクも、結局チェチェンの二番煎じでしかありません。主役がロシアとアメリカで違うだけです。

 チェチェンにもアフガニスタンにもあった、あの暗黒の時代に何かをしていれば、状況はもっと違っていたのに。

 世界は「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」と、「ゴッド・ブレス・アメリカ」という、巨大な二元論に組み込まれようとしている。日本も、己を神国と、敵を鬼畜と呼んだ時代がありました。現代の世界の中で、宗教があまねく人々を包摂し、救済するのではなく、人々を分断するための道具にされてしまっていることを私は強く懸念していますし、宗教者のひとりとして、そのような状況に責任を感じています。


 私は三〇年間、地球を遊行する旅僧として世界のあらゆる人たちと会ってきました。その目で見た時に、チェチェン人に一種独特の光を感じたのです。それは説明を超えたものです。その彼らが今、闘わざるをえなくなっている。国家とか経済とか、既成のシステムの中で、彼らは死角になっています。その灯火が消えたときには、人類も長くはない。黙示録的な、イエスの受難にも似た民族の苦しみの本質には、それがあると思うのです。

 国家暴カの本質が、この小さなチェチェンの民のたたかいの中に凝縮していると私は思います。ここ一〇年近くチェチェン民族が経験している、形容しようもない残虐な国家権力による暴力を見つめつつ、もし人類全体がこの問題から目をそらせば、二一世紀の人類全体がチュチェン人と同じような悲劇の道を行くのではないかという予感がずっと私にはあるのです。

ハジ・ムラート

トルストイ全集一〇巻後期作品集(下)
中村白葉訳河出書房新社1973年

解説:人間に耕され、踏みつけられた大地にアザミが咲いている。どんなに踏みつけられても咲き誇ろうという生命力を現した冒頭部分には、ぞくっとくる。ロシア帝国と戦ったシャミーリの盟友であったハジ・ムラートの生と死を描いた小説だ。出てくる土地の名前、チェチェン人の行動、ロシア兵とのやり取りなど、小説に描かれた時代が1851年から数年とはとても思えない。まるで今のチェチェンを見ているようだ。ただ違うのは、一九世紀半ばの牧歌的な雰囲気が、残虐な現代の戦争にはないことである。


エピローグ

 いま私たちに出来ること

 この小さな本の締めくくりを考えていたさなかの2004年2月6日、モスクワでは地下鉄の車両に仕掛けられた爆弾が爆発し、公式発表で39人が死亡した。乗客たちによれば、爆発のあった車両には約200人が乗車していたはずで、生き残って運び出されたのは50人ほどだという。これが確かなら、本当の犠牲者数は数倍にのぼる可能性がある。

 プーチン大統領は、事件が伝わるが早いか、「チュチェン人の仕業だ」と断定し、世界中の新聞の見出しがこれにならった。ある新聞は、記者会見のさいに、「事件とマスハードフ派の関連を証明するいかなる間接的な証拠もいらない」という驚くべき発言があったことを伝えた。大統領のこの発言は、ロシアにおける法治の質を示している。


 チェチェン戦争。私が人道援助団体の職員を務めていたことをきっかけに、闇に隠されたこの戦争のことを記したインターネット上のニュースレター、「チェチュンニュース」を発行し始めて、もう四度目の春がめぐってきた。

 私はいわゆるジャーナリストとしてではなく、一人の活動家として、ロシア側のプロパガンダに隠されたチェチェンの人々の受苦を伝えたいと考えてきた。この人々は無名の人々で、近隣国に逃れて難民となることもできず、山の村々の破壊された家屋で飢え、病みながら暮らしている。ときおりロシア軍のトラックがやってきて家族を連れ去られれば、取り戻すための身代金を集めに集落を、親類縁者のもとを頼ってまわる。わずかな金を握り締めては奪われていく人々、名の知れた政治家でも野戦司令官でもない、この小さな人々の身に降りかかっている苦しみこそが、チェチェン戦争だ。


 私たちはまだ豊かな日本という国に住み、ほとんどが飢えを経験をしたことがなく、工夫すれば遠い外国に何度でも旅行できる。アメリカという巨大な国の傘の下にいて、この枠組みから外れようとしない限り、侵略を受けることもない、とされている。けれどもその安全の結果はといえば、政治的なレベルで扱われるあらゆる問題への無関心が蔓延していて、衆議院総選挙の投票率でさえ、60%を切るのが実惰だ。

 イラクが大量破壊兵器を蓄えている可能性があると主張し、大量のミサイルをもって攻撃を仕掛けた米英。その侵略を反省することもなく、破壊の後始末を「復興支援」と称して自衛隊を派遣するという、人間性からも憲法の理念からもかけ離れた日本政府の決定に反対して声を上げた人々は、全体からいえばごくわずかだった。私たちはいつからこうなってしまったのだろうか。

 しかし一方で、私たちは景気の波に翻弄され、巧妙に職を奪われ、多くの若者たちが使い棄ての人材として使われている。世界ははてしない暴力と、一方的な貿易の自由化という名の「グローバリゼーション」に同時に傾斜しようとしている。そんな中で名もない人々が無法に殺りくされているのを見て見ぬふりをすれば、私たち自身が将来、不正義の被害者や、加害者になる土壌を育てることになる。沈黙することは、賛成とかわりない。


 出来ることはたくさんある。たとえばチェチェン難民を助けるための組織として、「チェチェンの子どもを支援する会」や「市民平和基金」があり、難民支援とともに、チェチュンの存在を知らせるため、各地で写真展や講演を開いている。これらに、わずかでも資金的に支援したり、ボランティアとして参加することができる。あるいは、「日本国際フォーラム」のような、チェチエン問題研究会を擁する独立したシンクタンクの会員となり、研究を通して、日本政府に働きかけるための下地をつくることもできる。

 私が発行人を務める「チェチェンニュース編集室」でも、情報収集や発信のために、書き手や編集者を必要としているし、これらの枠にあてはまらない独自の活動を始めれば、さらに強力な助けになる。ほかにもインターネット上での情報収集と発信は、このところ活発化している。

 冒頭に記した地下鉄爆破のような、チェチェンにかかわる事件が起こったときには、身近な友人とともに意見を交換して手短な声明文を書き、賛同者の署名を集めてロシア大使館や新聞社、テレビ.ラジオ局に届けることができる。署名を集める過程そのものに、日本の社会のチェチェン問題に対する関心を高める意義がある。もしロシア語訳ができる友人の助けが得られれば、声明文をインターネットで世界に流そう。必ず心ある人が、日本からの貴重な意見として別の場所で紹介してくれるだろう。まわりまわってチェチェンの人々にそれが伝わるとき、彼らの抱えている絶望も、少し形を変えるはずだ。

 人権抑圧が続いているにもかかわらず、ロシア政府に対する批判を手控えている日本政府と外務省に、関心を持つ人々の署名を添えた要望書、あるいは質問状を送り、その問答を明らかにすることもできる。チェチェンヘの攻撃が始まったばかりの1999年11月、政府系金融機関の国際協力銀行は、ロシア政府に対する七億ドルのアンタイドローン(使途を定めない融資)に調印している。同行はこの資金が「戦費」に使われる可能性を否定しているが、少なくとも外交の文脈の中では、「日本はロシアの対チェチェン政策を、融資を止めるほど問題視しない」というシグナルとして伝わっている。ほかにもロシアを支援している公的資金を見つけ出し、納税者の立場から質し、結果を公開する必要がある。

 こんな活動をどれか一つでも手がけ、あるいは支援すれば、チュチェンの人々の命を助けるための重要な仕事となるだけでなく、私たち自身の能力や世界観に、大きな変化を生むこと必定だ。

 勇気を持って、正論を語るべきだ。沈黙さえしなければ、きっと名もない私たちとチェチェンの人々の心の間に、細くとも途切れることのない道がつながる。それがいつの日か、ここ北東アジアと北コーカサスとの間の道となって、自由に往来ができるようになることを、私は切に願う。


 最後に、本書を執筆するにあたってさまざまな情報を提供してくれた友人たち、遅々として進まない執筆に耐え、黙々と出版にこぎつけてくれた高文研の山本邦彦さんに、感謝の意を表したい。

2004年3月
                       執筆者を代表して 大富 亮

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