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阿久津村事件:亡き姉の息子(甥)に送ったメール
http://www.asyura2.com/0406/idletalk11/msg/218.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 9 月 28 日 15:43:34:0iYhrg5rK5QpI
 

日航機御巣鷹山墜落事件を告発している方の「自己紹介」です。

http://www1.odn.ne.jp/~cck42770/Link6.html#Anchor69195

亡き姉の息子(甥)に送ったメール    元に戻る  Top に戻る


 XX 様

 先日 兄の法事の際、貴方からお尋ねのあった私達兄弟
のこと、父や母のことなどについて、貴方の母の弟とし
て、兄弟を代表する形で書き残します。

 私達一家は、下に書くような事情によって、戦争が終
るまで治安維持法による監視の対象とされていました。
 私達はそのことを一切口にしませんでした。 また、
周りの人達も 口にしませんでした。 周りの人達は、
私達一家をかばって黙っていたのであり、私達は、黙っ
ていることが父や母を守り、自分達を守ことなのだと信
じていたのです。 このことが幼いながら年長であった
姉の心をどれほど傷つけたかを解ってやって下さい。

 昭和 59 年の夏、叔父の KK さんが亡くなられまし
た。 私達兄弟は三人揃って田舎に帰りました。 
姉はその時、私に分厚い新聞の切り抜きを渡してくれま
した。 阿久津村事件の真相を知らせた下野新聞に連載
中の「曙光」でした。 姉はこれから葬儀に行く「KK
さんは立派な人だったのですね、それに家の父も」と、
感動を隠すことなく露にしました。 姉は姉なりに阿久
津村事件と我が家の関りを知り、心を傷めてきたのです。
そして、今回、始めてその真実を知ったのです。
私達兄弟は父や母を尊敬し、誇りにして生きて来ました。
私達 三人はその夜 遅くまでそのことを話し合いました。 
心が満たされた夜でした。 しかし、私はうかつにも
姉が置かれていたもう一つの面を見落していました。
それは、姉の生き方そのものに係わることでした。 姉が、貴方の父方である Fさん一家との付き合いに消極的
だと言われたのは、知事である Fさんに反発した訳ではなく、姉の心の支えであった父や母に対する誇りを守
ることに精一杯だったのだと思います。 そして貴方に、権威にすがって生きるのではなく、苦しくとも自分
の力で生きていくことを願ったのだと思います。


私の履歴書

      父 ◯◯ XXX
      母 ◯◯ XX
      私 ◯◯ X 
        生年月日 昭和 14年 (1939 年) XX 月 XX 日
        出生地  栃木県XX群XX村XXX XX 番地

1. 自然と人情

 私の故里は栃木県の北部、那珂川の支流である箒川沿の 旧 XX村(現在は XX町)である。 XXX 地区は
金毛九尾の狐が跳び跳ねたと云われる那須野ガ原の西端、箒川の左岸に位置し、南北に道路が通り、その両側に
屋敷林を構える家々が続き、各戸が 1 町 5 反歩ほどの田畑を持つ比較的豊かな純農村地帯であった。 周りに
は 良く手入れされた水路がめぐらされ、所々に水車が架けられ、沢山の魚が泳ぎ、夏には無数のホタル やヤンマ
が飛び交った。 集落の西側を箒川が流れ、東側には里山が広がっていた。 この箒川と里山は子供達の絶好の
遊び場であった。 我が家は、教職を止めた父が分家をしてもらった初代の農家であり、周囲の人々に助けられ、
暖かい人情と豊かな 自然に恵まれ、貧しくはあったが穏やかな生活を送っていた。


2. 時代(阿久津村事件を中心に)
 
 しかし、時代は最悪であった。 昭和 4 年 (1929 年) 10 月 24 日 ニューヨーク株式市場の大暴落により始ま
った世界大恐慌の嵐はこの長閑な日本の山村にも容赦なく襲いかかった。 米価の暴落、逼迫する農民の生活、
多発する小作争議、そのような世相を背景にして、昭和 7 年 (1932 年) 1 月 9 日、私達の村とは遠く離れた
宇都宮近くの阿久津村で小作争議に端を発するある事件が起った。 この阿久津村事件は、それまでの小作争議
などとはまったく異り、死者 5 名、重傷者十数名、検挙者 300 名に及び、日本中を震撼させた大事件であった。
しかし、この「日本社会運動の青史を飾る阿久津村事件」は、その動機、目的が曖昧にされたまま、農民運動と
は区別され、単なる「騒擾事件」として処理され、歴史から抹殺された。

 当時、普通選挙法が施行され、投票を目前にし、世間が騒然としていた。 栃木一区(宇都宮を含む県北)に
は二人の有力な候補者がいた。 一人は 田中 内閣の実質的官房長官であった政友会の 森 恪 幹事長、もう一人
は農民組合の指導者 麻生である。 前回の選挙において僅差で破れた 麻生 は活発な労農運動を展開し、選挙戦
を有利に進めていた。 危機感を深めた森は 政、財会を通して大量の資金を調達し、その資金を以て無瀬の徒を
集め「大日本生産党」を組織した。「大日本生産党」は徒党を組んで町を濶歩し、労農党の指導者を襲うなどし
た。 警察はすべて見て見ぬふりをした。 そればかりか栃木県出身の著名な作家である 山本 有三 を逮捕する
などして弾圧体制を強めた。

 昭和 7 年 1 月、 かねてから難渋した交渉を進めていた阿久津村 石末の小作争議を仲介していた全農阿久津村
支部の事務所近くに「大日本生産党」が事務所を開き、常時 30〜40 人の生産党員を配し、農民宅を襲うなどの
挑発行為を繰り返えすようになった。 そしてついに「大日本生産党」は全農 阿久津村支部事務所を占拠した。
このような事態を受けて全日本農民組合は、1 月 7 日 宇都宮で常任委員会を開き、同事務所の奪回を決議した。
 1 月 9 日の未明、その決議による動員に応じた 200 人を越す組合員が阿久津村石末を目指した。 東の空が
白む頃、戦闘が開始された。 組合員が支部事務所に到着すると事務所は空であり、周辺で見張っていた生産党
員が組合員に襲い掛かってきた。  組合員は憤怒の形相で生産党員に立ち向かった。 勝敗は自ずから明らかで
あった。 生産党側は 5 名の即死者と十数名の重傷者を石末の干田に放棄し、用意してあったトラックで宇都宮
方面に敗走した。 農民組合側に負傷者はなかった。 事件が終わった頃、周りを支援者が囲みその数は 300 人
以上になっていた。

 この事件に 3 人の 私の家の縁者が係わり、逮捕、起訴、有罪とされ投獄された。 六尺の真槍をふるって戦い
の先頭に立った I.Y は 母の実弟であり、 真剣を持って獅子奮迅の戦いをした K.K は母の妹 YY の夫、
猟銃を持って戦った F.K は 母の従兄であった。 3 人の罪名は殺人、及び 殺人未遂、刑期は I.Y が懲役 15
年、K.K 10 年、F.K は 7 年であった。
 父 は村では数少ない東京の大学で教育を受けた者として信望が篤く、剣道七段、練師の腕をふるって組合員を
指導していた。

 事件から 2 年半 後の 昭和 9 年 8 月 28 日、この事件の主魁とされ、小菅刑務所に服役中であった I.Yが
獄死した。 翌 29 日、父 は I.Y 家を代表して I.Yの 長男 、弟、妹 の三人を伴って
小菅刑務所に赴き遺骨を引き取り、年老いた母が待つ XX村 XXXの生家に戻った。
I.Y の葬儀は 昭和 9 年 12 月 3 日、農民組合葬として行われた。 
「戦士 I.Y 君は 日本社会運動の青史を飾る阿久津村事件において十五年の刑を受け
小菅刑務所に服役中去月 突然死去仕り候。 葬儀は十二月三日午後一時、XX群XX村
XXX I.Y 君の自宅に於て 組合葬を相営み申すべく此段御通知申上候」とある通り、
当初自宅に於いて執り行われる予定であった、しかし、あまりの会葬者の多さに急遽式
場を近くの箒川の河原に移して行われた。 当日 天気は良かったものの北風が強く、
会場の弔旗と赤旗が一層激しくはためいた。 また読み上げられる弔辞は参列者の胸を
打ち、会場は一種悽愴の気運を脹らせた。 組合葬は 会葬者全員が焼香の後、最後に
以下の追悼歌が斉唱された。

 1. ああ 過ぎし日の三年の    2. 那須連邦に抱かれて      3. ああ思い出も新たなる
    暁寒き筑波嶺を           箒川の清流に            阿久津の村の乱闘に
    迎えて起こりし銃声は        我らの闘士は生をうけ        暴逆の敵 ファッショを
    ここぞ忘れぬ阿久津村        飢餓にひんする農民を        土中に深く埋め去り
    弱者の起ちし時なるぞ        率いて起ちし熱血児         同士と共に戦いし
    戦士伊藤の起ちし日ぞ        戦士伊藤の地はここぞ        戦士伊藤は遂に逝く

 上記の会葬通知と追悼歌は父が書いたものに相違なく、この追悼集会のことは以降 近在の語り草となった。
 しかし、父の活動はこの「組合葬」に終わることはなく、その活動は、この事件によって逮捕、投獄された
人達とその家族を救援する活動に続いていった。 父は、剣をペンに持ち替えたのである。
父が原稿を書き、村の有能な若者達が旧家の蔵の二階でガリを切り、謄写版で印刷されたビラが女達の着物に
縫い込まれ、仲間から仲間へと届けられた。 治安維持法の下における官憲の弾圧と、一部の心無い人達の目
を逃れながら行われたこの活動は全員が解放されるまで続けられた。

 前にも述べたように、この阿久津村事件は単なる小作争議として見るのも、ましてや「騒擾事件」として見
るのも正くない。 事件 は明らかにある意図の下に構築された政治的謀略事件であった。
 それは、この事件がもたらした次のような結果を見れば明らかである。 生産党側は 5 名の死者と十数名の
重傷者を出しながら、事件の直後に雨散霧消していた。 農民組合側は 1 名が獄死し10 年程投獄された者が
20 人。 村に帰ってみたら、組合は壊滅していた。 生産党も農民組合側も 犠牲ばかりが大きく、この事件
によって得たものはなにもなかった。
 一方、ただ一人この事件の仕掛け人であり、当時の政権党、政友会の幹事長であった 森 恪 は、不利を伝え
られていた選挙戦に勝利した。 そして、足尾銅山の鉱毒事件などの影響を受けて波及していった栃木県下の
労働運動、農民運動の発揚と、進む労農統一、全国に先駆けて進んでいたこれらの政治勢力はこの事件を機に
一掃され、以降栃木県は保守王国となった。

 我が家には時々サイドカーに乗って憲兵が来た。


 3. 時代(戦争)

 ◯◯ 家はすぐる大戦で長男を失った。 
終戦の年の寒い朝、役場の人が 紫の風呂敷包を持って我が家を訪れた。 それは、長兄の戦死を知らせるもの
であった。 父は桐の箱を裸電球の下に持って行き、曲がらない膝の前に置いて静かに蓋をとった。 中には
二つの紙包みが入っていた。 一つには 4〜5 片の爪が入っており、もう一つには遺髪が入っていた。 父は
突然 桐の箱を持って立ち上がり「うおっ、うおっ、うおっ、」と三度泣き、母は言葉にはならない苦悶の声を
あげて、父にしがみついた。 土間から見上げたその光景は生涯私の忘れられないものとなった。
 長兄 は父母の自慢の子であった。


 4. 青年の自覚

 家でも世間でも一切語られることのなかった阿久津村事件と我が家との係わりについて初めて意識したのは
世間の雑音からだった。 その後、高校に入って図書館で何冊かの本を読んだ。 しかし、それらはいずれも
農民の側を一方的な加害者とし、I.Y などを殺人者と決めつけるなど、私を納得させるものではなかった。
身内の英雄的な男に憧れる青年の一途な思いは私の胸にくすぶり続けた。
 そんな折、私は左腕が筋肉炎になり、近くの元 軍医さんに手術をしてもらった。 勿論痲酔など無く「覚悟」
の一声でメスを入れ、血と膿みが吹き出し、痛みがなくなったことを覚えている。 何度めかの消毒に行った時、
奥様の京子さんが包帯を替えながら「XXさんは先生の若い頃にそっくりだわ」などと言い、父の昔話をした。
 白いカーテンで仕切られた明るい日射しのあふれる診察室で話された京子さんの話は、その上品な言葉使いと、
立ち居振舞いと共に大いに私を戸惑わせたものの、今は世捨人 然りとしている父の過去の一面を知り、その父
が、所謂 旧家の地主さん達にも尊敬されていることを知り、私に、その時の 診察室のような明るさと暖かさ、
勇気と希望を与えてくれた。

 その頃から私の読書の傾向が変わった。 それまでの吉田 玄二郎の「山上の思索」のような観念論的な散文
ではなく、島崎 藤村の「破戒」や「夜明け前」のように、人間の生き方を描いたものが主になった。 そして、
その読み方も作品の書かれた時代と社会的背景を考えるようになった。
後に、文芸部に発表した「日本文学の自然主義と島崎 藤村」は、何故、 藤村が処女作の叙情詩「若菜集」を発
表しながらその後「破戒」や「夜明け前」を書くに至ったのかを論じたものであった。 それはまた、明治維新
を日本の「夜明け」と期待した当時のインテリゲンチャーの悩みと父の生き方を重ね合わせたものであった。
 ちなみにその小論は、早稲田大学を出て新任された若い先生に絶賛された。

                   2002 年 6 月 09 日   Joggle   元に戻る  Top に戻る   

E メール を使った活動の例     元に戻る   Top に戻る

From: Abcdef TAKAMI
To:

Subject: 何か一言書きたかったので

ごいちさんの掲示板からやって来たのですが・・・。

 ・・・ 以下中略

ここにあらためて事故の解析とその根底にあるものの正体を読み、心がシンとなりました。
まとまりが無くてスミマセンが、何か書きたかったのでメール致しました。

-------------------------------------------------------------------

From:
To: Abcdef TAKAMI 

Subject: 「航空安全」の確立のために貴方の力を貸して下さい

 私のホーム・ページを読んで下さいまして有難うございます。 また、「沈ま
ぬ太陽」を読まれ、感銘をうけたとのこと。 文面から医療関係者(女医さん?)
と拝察いたします。
私も医療関係者が現場でどのように苦労をなさったのかは、実際に見聞し、また、
「墜落遺体」などを読んで分かってはいるつもりでした。 貴方や、貴方の先輩
にも多大な迷惑を御掛け致しました。 航空機事故はあってはならないことなの
です。 貴方の持てる力を国民の願いである「航空安全」の確立のために貸して
下さいますようお願いいたします。

私は「沈まぬ太陽」と私のホーム・ページは双児の兄弟であると思っております。
社会派作家である 山崎 さんは、この小説で、現在の日本を覆っている拝金主義
と企業倫理の欠如が一体 何によってもたらされたものかを主人公「恩地 元」の
半生を通して、人間活動の面から描きました。
私は技術屋、科学的事実に基づいて、拝金主義と企業倫理の欠如が「空の安全」
に何をもたらしたのかを明らかにしました。

「恩地 元」(本名 小倉 寛太郎)は私の尊敬する先輩であり、日本航空労働組合
で共に戦った同志であります。
山崎 さんとは 小倉 さん を通して知り合いました。 事故の原因、技術的背景
などを 執く聴く彼女に「それは私が書きます」などと答え 「Joggle は生意気だ」
などと、すっかり嫌われてしまいました。 これも結果論ですが、技術論議はあの
小説には馴染まないと思い、双児の道を選択した私の判断が正しかったのだと思っ
ております。

以下に、私の近況を知って戴きたく、知人に宛てたメールを添えます。

-------------------------------------------------------------------------

アメリカのイラク侵略には勿論反対です

タイトルの問題について、私が今、感ずるのは歴史に対する無力感です。
社会主義建設の実験が妙なところでコケてしまって、資本主義万歳と思いきや、
それが、自らを規制することを拒否し、無制限な競争を生み出し、これこそ自由
主義社会の実現だなどと僭称し、膨張を開始した。 病理学的には、このような
現象を癌と云う。
人間社会の癌も規制を受け付けない。 オイ オイ そんな自由 ありかヨー!。
「規制緩和」「経済のグローバル化」なんて大ペテンダアー!と、叫んで暴れた
いところだが、残念なことに、若い頃からの不摂生が祟り、自らの身に癌を抱え、
死にゆくのを待つ身となった。
べつにうろたえることはない。 こうなったからには、生きている間は 明るく、周
りの人達に愛され、今まで 私を育ててくれた人達の恩に報い度い。
 そんなワケで「空の安全」を目指す活動に 一層力を入れることになりました。
 そんなワケで下のようなことになる訳でありまして ハイ。
 これがまた、パソコンを使い、脳ミソを使い、時間も使い、結構楽しいものであり
 まして ハイ。
 今回、私のホーム・ページ http://www1.odn.ne.jp/~cck42770/ に Appendix
として http://www1.odn.ne.jp/~cck42770/image/sub/submain.html を加え
ました、どうぞ一度御覧になって下さい。

 そのほかの時間はほとんど音楽を聴いて過ごすようななりました。 今、専ら聴い
ているのはバッハの平均律クラヴィール曲集(私の好きな 若林 顕 君が尊敬する
師匠である 亡きリフテルの演奏で)殊に、第 8 番 変ホ短調の フーガ が好きです。
バッハの最高傑作と云われるこの曲を、ストイックなリフテルの演奏で聴くと、
いつも、背中に鳥肌がたつ。

 それにしても、この曲を若林の演奏で聴きたい。 それまで持つかな1

           2003 年 6 月 20 日   Joggle  元に戻る   Top に戻る

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数年前にこのHPを知ったのですが、沖国大の米軍ヘリ墜落事故で、いったい航空機の点検・整備というのは車検制度なみに行われているのかどうか、再度検証してみたく、キーワードをたたいてみたら早速ヒット。著者の「自己紹介」にも再会できたことに感激です。サイトは健在でした。

日本の航空機整備というのはいいかげんなもので、車検に相当する飛行機の点検整備などなきに等しい実情がわかります。ジャンボなど耐用年数は十数年なのに20年も30年も飛ばしてる。まともに「車検」なみのことをやれば数十億円飛んでしまう。そこででたらめな安上がりの点検・整備をやったことにして飛ばし続ける、という旨の告発がなされています。


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告発サイトの構成は下記URLでご参照ください。

http://www1.odn.ne.jp/~cck42770/Main0.html#Anchor1374123

この ホーム・ページ を構成する各論

  以下の各章はリンクで結ばれています、
     どうぞクリックして読み進んでください。  冒頭に戻る


 1.  急減圧はなかった  急減圧は事故調によって創作されたもの

 2.   垂直尾翼と尾部胴体の破壊について報告書の欺瞞

 3.  後部胴体(セクション 48)のリベットの破損

 4.  垂直尾翼破壊の真相 

 5.  後部圧力隔壁破壊の真相

 6.  B 747 型機をめぐって

 7.  日本航空の経営陣と整備

 8.  航空事故調査委員会

 9.  規制緩和と航空事故


  附録  1.  写真集

      2.  NOTE  (自己紹介、その 他)


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