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故布施辰治弁護士に建国勲章、独立運動家を弁護…韓国【読売新聞】(「義烈団」と金子ふみ子)
http://www.asyura2.com/0406/idletalk11/msg/391.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 10 月 12 日 23:55:07:akCNZ5gcyRMTo
 

故布施辰治弁護士に建国勲章、独立運動家を弁護…韓国

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20041012i314.htm

 【ソウル=豊浦潤一】聯合ニュースなどによると、韓国政府は12日、日本の植民地時代に朝鮮独立運動家の弁護に尽力した故布施辰治弁護士(1880―1953)に建国勲章を授与すると決めた。

 韓国が独立運動の功労をたたえる同勲章を日本人に授与するのは初めて。

 布施氏は宮城県石巻市生まれ。日本で1919年2月、朝鮮人留学生が独立を宣言して逮捕された事件で、自ら無償で弁護を引き受けたほか、1920年代には植民地時代の朝鮮半島に渡り、日本皇太子の暗殺を計画した「義烈団」団員ら多くの独立運動家を弁護した。勲章は、布施氏の孫の大石進日本評論社会長に渡される。

(2004/10/12/23:24 読売新聞 無断転載禁止)

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発掘・日本人シンドラー 布施辰治
http://www.salusalu.com/maruse/books/husetatuji.html

−略−
“大きなオートバイ、サイドカーですか。そこに乗ってですね。あの混乱の中
を運転手に“あっち行け、ごっち行け”言ってですね。あの東京中を回って、
そして震災に紛れて警察が悪いことをしているかどうかとか、“自分の家に来
たらなんか食べ物あるよ”とかですね。一生懸命あの被害に会った人達に“頑
張れ”というアピールというか…。”
布施辰治の娘が書いた記録によると、関東大震災の後、朝鮮人を始めとした
大勢の被災者達が彼の家を訪ね、布施は食べ物を提供するなど積極的に彼らを
助けたといいます。そして布施は特に朝鮮人大虐殺に非常に怒りました。
“考えれば考えるほどあまりにも残酷な悲劇です。朝鮮同胞の6千人は殺害
されました。彼らの魂は死んでも死にきれない無念さでいっぱいです”(布施の
関東大震災被災同胞追悼会演説より)。
彼の悲しみと怒りはそこでとどまることなく、直接謝罪原稿まで書いて朝鮮
の新聞社に送りました。朝鮮人に深く謝罪し、自分の祖国である日本を激しく
非難した布施辰治。しかし、朝鮮民衆のための彼の活躍は始まったばかりだっ
たのです。
3.1独立運動が失敗におわり、非暴力独立運動に限界を感じた反日闘士達は
1919年満州で武装テロ団体の義烈団を結成します。これによって日本がテロに
敏感になっていた1923年、‘上海爆弾事件は無政府主義者達の大陰謀だ’とい
う記事が日刊紙に大きく書かれます。そして、その主謀者として当時日本で無
政府主義運動をやっていた朴烈と恋人の金子文子の名前が挙げられます。彼ら
の拘束はおかしなことに関東大震災がきっかけだったのです。地震発生の二日
後の1923年9月3日東京警視庁は朴烈と金子らを連行します。激怒した日本人
から保護するという理由でした。
イホリョン講師 ソウル大学 韓国史学科
“‘このままだとお前ら(朴烈と金子)はみんな殺される’という事だったの
です。それで日本の警察は朝鮮人の関係者達をみんな連行します。最初は予備
拘束で軽い取り調べを受けるのですが、その中で爆弾のことなどが出てきて状
況が急進展するのです”
その後から朴烈は予想もしていなかった事件に巻き込まれるのです。当時、
朴烈は抗日武装テロ団体である「黒友会」の機関誌「フテイ鮮人」の発刊者で
した。また最初の在日朝鮮人の思想団体である「黒涛会」を組織し、彼自身が
発行と編集を担当し「黒涛」という機関誌を発刊したこともありました。朴烈
は日本警察のブラックリストに載っている人物の一人だったのです。保護とい
う名目で連行されていた朴烈はいつのまにか関東大震災の際に計画された、朝
鮮人団体による不敬な事件の主謀者になっていました。爆弾テロを計画してい
たということでした。しかし、それはこれといった証拠も実体もない事件でし
た。
イムンチャン会長 国民文化研究所
“取り調べの中で爆弾に関する規則に違反したということになったのです。
つまり、爆弾または銃などを不法で手に入れたのではないか...”
こうして朴烈は満州の義烈団から爆弾50個を受け取り、天皇暗殺を計画した
大逆罪人になったのです。
イホリョン講師 ソウル大学 韓国史学科
“朴烈は日本の帝国主義を潰すためには天皇を殺すことが重要だという考え
を持っていて、そのためには爆弾が必要だというふうに漠然と思っていただけ
で、具体的に計画を建てていたわけではなかったのです。それが日本人の判事
によって歪曲されたのです”

それではどうしてこのように大逆事件に拡大されたのでしょうか。この事件
は特別裁判になったのですが、これは日本大審院ができて以来3回しかなかっ
た裁判でした。ところでこの裁判に布施辰治が弁護士として乗り出したのです。
彼の口述を整理した対話集によると、朝鮮の独立運動に敬意を払うという発言
をするほど布施は独立運動家達を支持し、弁護していました。そしてそれだけ
ではなく、朴烈が発行する雑誌には広告を載せる方法で財政的支援もしたので
す。
森正先生 コメントB
“布施辰治はあの最初身柄を拘束されていた時点からですね弁護活動にですね。
参加しているというか、彼が引き受けてやっているんですけれども、事態が次
第に大逆罪というような形になっていった時に普通の弁護士ならもう手を引く
と思いますね。”
イホリョン講師 ソウル大学 韓国史学科
“布施は裁判の過程で事件の不当性や朴烈の無罪を主張します。当時日本は
関東大震災で民心が混乱し、それを落ち着かせる何かが必要だったのです。そ
れで朝鮮人虐殺ということになったのです。しかしそれは全世界からの非難を
浴びることになります。そこで朝鮮人虐殺の事実をもみ消すために朴烈の大反
逆事件というシナリオが作られたのです”

関東大震災に対するお詫びの文(布施辰治)
“朝鮮人虐殺は世界に言い訳のしようがありません。日本の知識人はこのよ
うな行動を震災の不幸より、もっと大きな不幸だと思っています”。
布施は弁論を通して朴烈の無罪を主張しただけではなく、彼のために大審院
と交渉したりしました。朴烈が要求した4つの条件のためでした。それは、公
判廷で罪人扱いしないことと被告人と呼ばないこと、そして朝鮮の服を着るこ
との許可などでした。
森正先生コメントC
“大審院でですね。あの布施辰治はその朴烈の希望をですね。受けて大審院と
何度も何度も交渉してですね。ついに王族の服を着た朴烈が法廷で天皇に見立
てた裁判長に対してですね。徹底的に日本の朝鮮統治の間違いというのを追求
する異例な法廷になったんですね。”
検挙後2年7ヶ月ぶりの1920年3月25日、日本大審院は結局朴烈と金子に
死刑を言い渡します。その時朴烈は“裁判長、ご苦労様。僕の体は君らの好き
にすればいい。でも僕の魂はそうはいかない”と言い、金子は“世の中のすべ
てが罪悪で虚偽で虚飾だ。私はここで朴烈と共に死ぬことにとても満足する”
と言いました。しかし、判決の1週間後二人は天皇の恩赦という名目で無期懲
役に減刑されることになります。そして二人は別々の刑務所に送られることに
なります。ところが、その後妙な事件が起こります。1928年4月収監中の金子
が疑惑のある死に方をしたのです。
--つづく

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