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高遠菜穂子「イラクのことを伝えると約束」日経ビジネス2004年6月7日号
http://www.asyura2.com/0406/war56/msg/853.html
投稿者 縄文人 日時 2004 年 6 月 18 日 12:34:59:bfek92EqWeCqg
 

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私は4月7日、ヨルダンのアンマンからイラクのバグダッドへ向かう途中で、イラク・ファルージャ付近のムジャヒディン(イスラム聖職者)たちに9日間拘束されました。主にバグダッッドのストリートチルドレンを支援する目的で、通算4回目のイラク入国をしようとしていた時です。

私はNGO(非政府組織)などの組織に属さないのがポリシーで、どこからも資金援助を受けていなかったので、帰国するたびに千歳市の実家近くで搾乳のアルバイトなどをしてお金を作っていました。4回目は、短くて2年、長ければ5年くらいイラクにとどまるつもりだったので、今年2月に一時帰国した時は、朝は搾乳のバイト、夜はスナックで働く覚悟でした。

ところが帰国すると、1月に出た私に関する新聞記事がきっかけとなり、思いもかけず全国からの寄付金が実家に集まっていたのです。4月1日の出国時には、寄付金が200万ほどになっていました。私はこの貴重なお金でストリートチルドレンを支援するための施設を借り上げ、最終的には、イラク人だけで子供たちを支援していける枠組みを作りたいと思いました。

しかし、一歩を踏み出す前に、こういうことになりました。
4月15日の解放後、バグダッドの日本大使館で初めて、私たちが自衛隊撤退と引き換えの人質だったことや、声明文の存在を知り、日本で大事件になっていることを自覚しました。自己責任論や自作自演説も、その後ドバイに移った時に、政府の方や家族の話で知りました。

外務省をはじめとする政府の方々には多大なご迷惑をおかけし、本当に申し訳ないと思いますし、感謝しています。できるなら、私たちを心配してくれた方々にも、私たちのことでお怒りになった方にも、北海道から沖縄まで一人ひとりの前に行って、跪いて謝りたい。そしてイラクのことを話したい。本当に申し訳なかったと言うしかないし、謝りたいです。

でも今はまだ、1人で外に出ることができません。実家に引きこもっている間、武器を持っているイラク人に肉体は焼き殺されなかったけれど、武器のない日本で私の心は焼き殺された、そういう気持ちでした。

私は今、生かされた命を持て余して、ただ泣いて、震えていて、何もできません。解放のために努力してくれたイラク人や、私の意思を継いで現地で子供の支援を続けてくれているイラク人に「ありがとう」を言いに行くこともできない。私がイラクの現状を訴えたら、もし私がイラクに行きますって言ったら、「またこいつ何か言っているぞ」って、橋げたに吊り下げられそうな気がして怖いのです。

でも、この家の向かいにある自衛隊の演習場から、バグダッドで聞いていた音と同じ音が聞こえてきて、それを聞くたびに、米軍の空爆で亡くなったイラク人の叫びが、脚が飛んだ瞬間の子供の声が、体中に破片が入った時の叫び声が、米兵に虐待されている悲鳴が聞こえてくるんです。

今回拘束された時に、「何でこうなるの」と思いました。今思えば、私がファルージャの人に両肩をつかまれて、目だけ耳だけじゃなくて、体で俺たちの苦しみを知ってくれと揺さぶられたような気がしています。

私は解放のために尽力してくれたイスラム聖職者協会のクバイシさんに、イラクの現状を必ず伝えますって約束しました。今はこれからどうしたらよいのか分からないけれど、少しずつ伝えていけたらと思います。

イラクでは毎日、米軍が暴力に訴えて、その結果、個人的な恨みや憎しみがイラク人に生まれ、米軍に報復するという負の連鎖が続いています。その繰り返しでお互いの憎悪は増幅するばかりです。

この拘束事件を踏まえて私が一番伝えたいことは、昨年5月1日に戦闘終結宣言がなされたけれど、そこから一般人と占領軍の本当の戦争、自分たちの生活を守るための戦争が始まったということです。イラク人、特にファルージャや近郊のラマディの人々は、この1年間ずっと苦しんできたのです。

私が初めてイラクに入ったのは、首都陥落後の昨年4月29日です。バグダッドに着いてすぐに、ファルージャで、平和を求めるデモをしていた丸腰の民衆を米軍が銃撃したという話を聞きました。これはまずいと思い、5月1日にファルージャに行きました。ファルージャはバグダッドから車で1時間ほど西に走ったところにあります。

まず病院に行って会ったのが、その米軍の銃撃に遭ったという15歳と21歳の男の子です。粗末な治療を見て、医療品を運ばなきゃと思いました。170床のベッドに対してドクターは1人。ゴム手袋や注射針、酸素と、すべてが不足していました。発電機が動かず、保育器や医療品を保管する冷蔵庫は止まっていました。

ラマディも同じような状態だったので、医療品をファルージャとラマディに届けてもらうよう各国のNGOに要請するため、5月末にいったんアンマンに戻ることにしました。そして、6月頭、協力してくれた日本のNGOの人と数百万の医療品を携えて、再度バグダッドに入りました。

その頃、ファルージャとラマディの治安は悪化の一途をたどりました。サダム・フセイン元大統領がスンニ派だったこともあり、米軍はスンニ派勢力のファルージャとラマディには必要以上に警戒心を持って荒々しい態度を取っちゃう。それが民衆の中に反米感情の種をまき、悪循環が生まれていくのです。6月に入ると一般の民衆も武器を持つようになり、中には夜中に対戦車地雷を埋める人もいました。

検問も増えて夜の外出も厳しくなり、そういう中で、米兵が暗がりで誤って子供を撃ったという話が続きました。一晩明けると、銃弾の跡が200〜300m続いていました。

ラマディのイラク人からはこんな話も聞きました。流れ弾に当たり内臓を損傷したイラク人が、手術をしたけど、いまだに激痛が走る時があって、いつもの診療所に車に乗せられて向かったんです。そしたら途中で検問に遭い、米兵に車から引きずり出され、怪我をしている人が片言で病院と言ったら、「Go home and die!」って言われたって。話を聞かせてくれたイラク人は唇をブルブル震わせながら「復讐を誓った」と言っていました。

家宅捜索も激しくなりました。
米軍は夜中から明け方にかけて、ドアをいきなり蹴破って入ることが多いんです。女性はイスラムの衣装もかぶれないまま外に出されます。「家宅捜索に着た米兵が、妻の夫以外は触ってはいけない部分を触ったので、4人の米兵を撃ち殺した」と、あるイラク人から直接言われ、びっくりしました。

こうした状況は昨年11月にピークを迎え、今年4月の米軍の掃討作戦で、さらに多数の民衆が犠牲になりました。アブグレイブの収容所の虐待の話が明るみに出ましたが、それ以外にも私たちが知り得ないほどの屈辱をイラク人は味わってきたんだと思います。

ファルージャ付近の治安が悪化する一方で、バグダッドでは6月中旬、空爆で家族を亡くしたり、施設から抜け出してきたりするストリートチルドレンが目につき始めました。主に10代半ばから後半の男の子がパレスチナホテル近くにある10回建てビルの半地下のゴミためのような場所に住み、多い時で20人ほど同居していました。

そこは「シェラトン」と呼ばれていました。とにかく異臭がきつく、劣悪な環境で、中ではシンナーや「ハルシオン」みたいな錠剤の麻薬が横行していました。子供たちは物乞いをしたり、靴磨きをやったりして得たお金をドラッグに回していたのです。

ドラッグの影響で、ぶつかったとか、レタスを1枚多く取ったとか、そんなことですぐに仲間同士の喧嘩になって、ナイフや割れたコーラの瓶で切りつけ合うことが1日に何回もありました。自分を切りつける自傷行為も頻発していました。

イラクの大人はそれを放置していたのです。フセイン政権の圧政下ではストリートチルドレンは国の恥とされ、すぐに施設に入れられました。その影響もあって、イラクの大人たちは彼らを「アリババ(泥棒)」と呼び、怪訝な目で見ていました。シンナーの吸い過ぎで泡を吹いて痙攣している子供を蹴る大人もいたほどです。

保護してもすぐに逃げ出してしまうため、各国のNPOも半ば諦めて、素行の良い子を優先して保護していました。結果、シェラトンには素行が悪い子ばかりが残る。そんな彼らを私は放っておけませんでした。自分が中学生の時にシンナーにはまったこともあって、大人に対する不器用さが昔の自分に似ていると思いました。

昨年11月、3回目にイラク入りした時には、イラクの子供が自立できる環境を作るために、シェラトンの近くにアパートを月175ドルで借りました。イスラムでは女性の1人暮らしは許されていません。私はホテルから毎日アパートに通い、1〜2人ずつ呼んでシャワーを浴びせ、新しい服とごはんを与えました。石鹸やパンを投げたり、上げた毛布を売ったりと、物を粗末にする子は本気で怒鳴りつけました。

そうしたら、随分厳しかったイラクの大人たちが協力してくれるようになったんです。みんな毎日のようにアパートに来てくれて、通訳とか洗濯とか掃除とかシャワーとかを手伝ってくれました。建設会社の社長のスレーマンさんは、「建設ラッシュで仕事がとても忙しいから、これで食べ物や服を買いなさい」とお金をくれて、時には子供たちの就職の斡旋もしてくれました。もう、周りのこうした協力が本当に嬉しくて。

でも、だんだんアパートの大家さんが強欲になってきて、家賃を2倍払えと言い出したんです。お金も底を突いていたので、結局アパートを引き払い、今年2月、1〜2年分の家賃をまとめて払えるお金を稼ぐつもりで日本に帰ってきました。前述したように、思わぬ寄付金のおかげで、2ヶ月後にはイラクに出発できたのですが、その途中で拘束事件に遭ってしまったのです。

今回のことで反省したのは、焦っても良い結果は生まれないということです。今思えば、残してきた子供たちのことを心配して焦っていました。現地の友達からもメールや電話で「子供たちが『ナホコはいつ来るんだ』と待っている」と聞かされていて。

でも油断していたわけではありません。自衛隊の派遣で反日感情が出てきていたのは分かっていたから、ちゃんとアンマンのイラク人が集まるバスターミナルとか食堂とかで情報を集めたうえで大丈夫だと判断したんです。

自らの行動についても責任を取っていたつもりでした。私はいまだに何が自己責任なのか考え込むのですが、事件が起こるまでは覚悟だと思っていました。イラクに入る時に覚悟ができていない人なんていないと思います。

事件の前だって、ストリートチルドレンの喧嘩の仲裁に入ってナイフが刺さったり、商店街の爆弾テロの巻き添えになったり、米軍の流れ弾に当たったりして死ぬかもしれなかった。

もちろん私だって死にたくはないですよ。でも、そういう数々の危険の中で、死に方は選べないと思っていました。イラクに入る時や遠出をする時に、ふとそういうことが頭をよぎって、瞬間的に「何があっても一切の責任は私にあります」みたいなことをノートに書き殴っていました。

だけど、やっぱりいくら覚悟しているとはいえ、拘束当初はものすごい恐怖だったし、必死で命乞いをしました。私はお金がなかったので通訳を使えない分、結構イラクの単語を覚えていて、会話の一部が分かるんですね。あれだけ親日家だったファルージャの人たちが「日本人よくない、死ね」と言って、こっちを睨んでいるんです。

拘束中はほとんど私が英語でイラク人と会話をしていましたが、「あいつは英語を話すからスパイに違いない」とかも聞こえてきました。日本で流れたビデオだって、その時はナイフの刃じゃない裏側を首に当てられたことなんて分からずに、本当に死ぬかと思いまいした。彼らが巻きつけている手榴弾が誤爆するかもとか、いろいろなことを考えて、すごく怖くなって、ずっと泣いていました。

ただ3日目から解放までは、リーダーの計らいで安全な場所に移され、ごちそうを振る舞われ、殺されるという恐怖感は激減しました。そこで、私は対話の重要性を改めて感じました。

最後の方になって、英語の話せる人がずっとついていたんですが、その人に「これは最悪のやり方だぞ。日本人はイラク人を危険で怖い人だと思う」と言ったんです。
そしたら彼は「そう思うけど、武器を使う方法しか俺たちには見つけられない。これしかやりようがなかった」と言ってきたんですよ。

私、もうこれで会うのが最後だと思って、思いの丈をぶちまけました。そこではラマディにいる通訳の友達、カスムさんの話もしました。カスムも最初米軍や協力する国への憎しみがあって米兵への攻撃には参加しないけど、賛成だと。同じだったんです、ムジャヒディンたちと。だけど彼は武力はよくないという私の話を分かってくれて、平和について考えてくれるようになったんです。

そのことを言ったら今度は「友達になりたい。どうしたら君と友達になれるだろう」ということを合計2回私に言ってきたんですよ。彼は涙を浮かべて半泣きでした。

私たちの貴重品が返ってこなかったので「あんたら聖戦士と名乗っているけど、結局ただのアリババか。あんたたちを殺したい!」とも怒鳴りました。
これがあんたたちの姿だ、と見せたかったのもあるんですけど。すると、逆に「サラーム(平和)」となだめられて、「なくなった物をリストにしてくれ。カメラとかはどうしようもないかもしれないが、現金だけでもかき集める」と言ってきました。

私は「私たちのお金はイラクのためのお金なの。集めるくらいだったら、集めたお金で薬を買うなり何なりしなさい」と言いましたけど。「それで武器買うなよ」って念を押して。
そしたら解放の時、リーダー格の人が日本へのお土産だと、迷惑をかけたお詫びだと言って大きなピュアハニーの瓶詰をくれたんです。バグダッドの大使館に忘れてきちゃいましたが。

解放された瞬間は何が何だか分からなくて混乱したけど、ともかく無事に解放されて、取材に来た人に「やっぱりイラク人のことを嫌いになれない」と言ったんです。そしたら大使館のテレビで小泉純一郎首相が「もっと自覚を持って欲しいね」と言っているのを聞いて、落ち込みました。もし「嫌い」と言ったらどうなるんでしょうか。

大使館でイラク大使の大木(正充)さんが、「自衛隊が撤退なんかするわけないじゃん。出したばっかりで、体裁悪いし」とおっしゃったのも、すごくショックでした。

私は、もちろん人質を取られたからって自衛隊が撤退するべきではないと思うけど、「体裁」という言葉を聞いて、「全然イラク人のことや自衛官のこと考えてないじゃん」って思って、苦しかったです。

警察庁外事課のヨシムラさんと名乗る方も事情聴取に来て、名刺もくれずに、「聴取の内容は家族にも誰にも言わないでくれ」と言われたんです。結局、そこで話した内容はNHKニュースで流れてましたけど。それで聴取の最後に「分かっていると思うけれど、僕のことは誰にも言わないように。僕にも家族があるから」と言われて。

その時は何も言えなかったんですが、「イラク人だってみんな家族いるよ。その家族を殺されるからこういうことになってるんじゃん」って思って。とにかく、この2場面がすごく苦しかった。で、日本に帰ってきたら自己責任とか自作自演とかの応酬ですよね。申し訳ないと思う一方で、どうしていいか分からない日々が続きました。

でも、元気になれる話もイラクから届いています。
つい最近、早朝に、シェラトンの子供を支援してくれていたスレーマンさんから電話がありました。その電話で「ナホコへの手紙を1000通ほど預かっている。それから、君の意思を継いで子供の施設を開くことにした。その施設の名前はナホコにします」と言われました。

それを聞いて、「やめてよー」と思ったけれど、涙が止まりませんでした。
ラマディの友達のカスムからも嬉しい知らせがありました。

彼からのメールには「米軍と協力しながら平和のためのプロジェクトを進めている。ナホコが誘拐されて、ナホコが言っていたことをやらなければという思いをさらに強くし、既に空爆で壊された2つの学校の工事に着手した」って。
すごいと思いましたよ、本当に。あれだけ依存体質で怒りに満ちていた人たちが、自分たちの手で行動を起こしているんですよ。

私、憲法ってよく読んだことないから分からないけど、第9条に書いてある「対話による紛争解決」っていうのは、こういう地道な積み重ねなんじゃないかと思います。それは、NGOや政府の人だけができることじゃなくて、普通の人が近所の人と、子供と、外国人と平和について話すことも、積み重ねの1つだと思います。

少し元気が出てきたら、イラクから日本人2人が亡くなったという悲しい知らせが届きました。ご冥福をお祈りします。また体中が赤く腫れて、ただ苦しいです。誰の命も傷ついてほしくない。どうしたら、武器を捨てる勇気を持てるようになるのでしょうか。

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