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小説「長い陰」証言1.「これは“戦争犯罪”ではなく、“殺人”です。」(かわもと文庫)
http://www.asyura2.com/0406/war57/msg/331.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 7 月 04 日 14:27:35:0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: イラク人虐待:女性の元収容者 尋問の非道さと悔しさ証言(毎日新聞) 投稿者 happyblue 日時 2004 年 7 月 04 日 00:08:06)

かわもと文庫
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/index.htm

以下、「長い陰」というデジタル化された長編小説から、「証言」の部分にみを抜粋しました。

長い陰 目次
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/kage00.htm


証言1 取材者 中山 博
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/kage-s1.htm

 復讐するなら、暗殺者を雇えばよい。わたしには裁判の判決より、裁判をすることの方が、ずっと大切なのです。これは“戦争犯罪”ではなく、“殺人”です。殺人を見逃すことは、次の殺人を誘う最良の招待状になります。若者にこの教訓を残す以外に、私の希望はありません。

シモン・ウィーゼンタール

  
証言1   取材者 中山 博

 

 おかしな言い方かもしれませんが、ある意味では、私は運が強かったのだといえます。なにしろあの炭鉱に強制連行された350人の同朋のうち、日本の敗戦まで生きていられたのは213人にすぎなかったのです。しかもその213人のうち42名は廃人になっていました。さいわいにも私は身体が丈夫だったから、ひどい栄養失調と疥癬に苦しめられながらも、とにかくあの地獄の1年を生きとおしてこれたのです。1944年の10月にあの炭鉱に連行されてから、翌年の8月15日までに、実に半数が日本帝国主義の犠牲にされました。毎日毎日、つぎつぎと仲間が死んでいった。いや、殺されていったのです。あの10ヶ月の間、私が死を思わぬ日はありませんでした。

 東亜鉱業神山炭鉱――私はこの名を決して忘れることができない。それは日本の軍部や帝国主義政府と結託して私の人生を大きく狂わせ、私から故郷と、愛する肉親を奪ったものの名前だからです。

 私と同じような運命に会った同胞がなんと4万人以上もいたと、戦後になって聞かされました。しかも、日本の会社は私たちを牛馬のように酷使し、虐殺しておきながら、賃金や保証金をびた一文支払わないばかりか、政府に働きかけ、強制連行に対する国家補償金として莫大な金を受取っているのです。すべての事業所の“補償金”を合わせると5600万円余にもなるということです。これは1946年当時の金額ですから、現在の貨幣価値に直せば数百億円という驚くべき金額になるでしょう。さらにそれだけではなく、いろいろな名目のもとに、これに倍する金額が政府から企業に流れているということです。それらを合計すると、戦時中の私たち中国人や朝鮮人の犠牲によって、これらの企業がいったいどれほどの不当利得をあげたか想像もつかないほどです。

 私たちの村に日本軍がやってきたのは、1944年9月のある日の夜明け前でした。突然、村全体が激しい騒々しさに襲われ、その音で私は目を覚ましたのです。戸外のあちこちで聞き慣れない怒声がしていました。強く戸を叩く音、女たちの悲鳴、ものの毀れる音。咄嗟に私は、なにかはわからないがとにかく重大な出来事が起こったのだと直感しました。母と二人の妹、兄夫婦に死なれたために私の家であずかっていた3人の子供たちなどを揺り起こそうとしたのです。しかし母と妹たちはすでに目を覚まし、身を固くして部屋の隅で抱きあっていました。

「早く、戸棚の中に!」

 私がそう言い終らぬうちに、我が家の戸が乱暴な音とともにふっとび、銃を構えた男たちが部屋の中に駆け込んできたのです。私たちはあまりのことに声をあげることもできませんでした。日本軍の襲撃だ、とこのときやっとわかったのですが、もうどうしようもありません。息を弾ませた兵隊たちは女を見つけると、何事か目くばせしあいながらにやにやと笑っていました。ランプの暗い光に映し出されたその顔は汗でぬめぬめと光っていた。

 下の2人の子供が怯えて泣き出しました。すると兵隊の一人が駈け寄り、私たちにはわからぬ言葉を喚きながら子供たちを軍靴で力いっぱい蹴ったのです。子供たちは土間にころがり、苦しげに呻きました。

「大人、私たちはただの百姓です。怪しいものではありません」

 私は子供のところに駈け寄りながらそう言いました。しかし兵隊たちに言葉は通じなかったようです。そればかりか、もう一度怪しいものではないと繰り返しかけた私の脇腹に、一人の兵隊の軍靴がめり込んだのです。私は息がつまり、土間に蹲ってしまいました。

 母が良民証をとり出し、それを兵隊たちに示しながらどうか乱暴はしないでくれと泣き声で懇請しました。だがそれも無駄だった。母もまた、銃の台尻で敲きつけられたのです。

 兵隊たちは薄笑いを浮かべながら目くばせしあい、そのなかの一人にひったてられ、私は外に連れ出されました。外に出てみると、薄闇のそこここを日本の兵隊たちが走りまわっているのが見えました。どこの家からも女子供の泣き叫ぶ声や悲鳴、日本人の罵り声、戸や窓を打ち毀す音などがしていた。そして私と同じように寝込みを襲われた村の男たちが、日本の兵隊に銃を突きつけられながら村の真中の広場にむかって追いたてられていくのでした。

 家を出て10歩ほどのところで私の足は止まりました。背後の家の中から妹の鋭い悲鳴が聞こえたのです。それにつづいて銃声が響きました。悲鳴が途絶えた。私には家の中で何が行なわれたのかよくわかりました。陵辱されることに抵抗したどちらかの妹が兵隊に射ち殺されたのです。しかし私は家に引き返すことができません。背後の兵隊が冷たい銃口を私の背中に押し当て、早く歩けと命じたのです。私は言われるままにするしかありませんでした。

 また妹の悲鳴が聞こえました。二度目のそれは下の妹のものだということがはっきりとわかりました。そして再び銃声が悲鳴を消した。今度は2発でした。あのとき母も一緒に殺されたのかもしれません。

 広場にはすでに百人以上の村人たちが集められていました。そのまわりを銃剣を構えた兵隊が人垣をつくるように取り囲んでいます。村人たちは地べたに頭をこすりつけながら「老百姓(ラオパイシン)、老百姓」と口々に言っていました。

 やがて広場の周囲のあちこちの家々から時を同じくして火の手があがりました。明けそめたばかりの白い空に激しい黒煙と焔があがり、ものの爆ぜるぱちぱちという音が無数の谺のごとく聞こえました。ゴウゴウと風が逆巻き、火の粉が地面に坐らされた私たちの頭上にまで飛んできた。もう「老百姓」と呟くものなどいませんでした。兵隊たちのなかには、どこかから持ち出してきた白酎(パイチュウ)の小瓶をぶらさげているものもいました。

 こうして焔の燃えさかるなか、私たちはトラックに詰め込まれ、村から連れ出されたのです。別のトラックには家々から略奪された小麦粉などが積み込まれていたのを憶えています。それが故郷の見おさめでした。

 私たちが運ばれた収容所は、のちに私が連行されていった神山炭鉱の“華工寮”と甲乙つけがたいほどひどいところだった。収容所の周囲には電流を通した有刺鉄線が張りめぐらされ、建物のまわりを二人一組の兵隊たちが四六時中、銃を構えて巡視していました。何回となく逃げようとしたのだが、とても逃げ出すことなどできなかった。

 私たちはトラックから引きずり降ろされ、真っ裸にされて身体検査を受けました。それから数人ずつに組分けされ、それぞれの部屋にぶち込まれた。すでに多くの同朋が収容されていました。私たちのあとからもつぎつぎに新しい仲間が送り込まれてきました。この時期、私たちの収容所にぶちこまれていた同胞の数は二千人とも二千五百人ともいわれていました。

 連行された翌日のことです。夥しい日本兵がやってきて、いきなり一人残らず着ているものを脱がされたのです。なんでもほかの収容者のなかに暴動を計画していたものがいて、それが収容者の中にまぎれ込んでいた中国人のスパイに知られてしまったということでした。全員を裸にして脱走を防止しようとしたのです。衣服は残らず集められ、焼かれてしまいました。

 こうして一糸纏わぬ毎日が始まったのです。部屋ごとに1本のズボンがあてがわれただけでした。私がいた部屋にはおよそ200人ばかりが詰め込まれていました。200人にズボン1本です。そのズボンを穿いてかわるがわる用足しに行くのです。用を足したくともズボンの順番がまわってこず、みんな仕方なしに部屋の隅で放尿したり下痢便をたれ流したりしていました。だから幾日かすると私たちは部屋の真中にかたまってしゃがんでいなければならなくなりました。ほかの場所はみな、ヘドや糞尿で汚れてしまい、横になることもできなくなってしまったのです。

 この収容所の中でいったいどれほどの中国人が殺されたのか、私には推測もできません。ここにいた20日間のうちに、同じ部屋の仲間だけでも13人が死にました。

 私たちが死体部屋と呼んでいた一室には、死体が山のように積まれていました。毎朝巡視の兵隊がやってきて、寝ている仲間を靴で蹴るのです。まだ息があるものでも、日本に送っても使いものにならないと判断されれば死体部屋に投げ込まれてしまいます。幾日かに一度、死体は収容所の庭に掘った長い堀にまとめて捨てられました。

 こうした毎日に絶望し、無理を承知で脱走を企てるものもいました。が、成功したためしはなかった。あるものは監視の兵隊に見つかり、射殺されました。あるものは高圧電流の流れている有刺鉄線に触れ、感電死しました。見せしめのため、脱走者の死体は首を切り取られ、生首が私たちの収容されていた棟のすぐ近くに幾日も晒されていました。

 ある夕方、私たちは日本に連れていかれて働かされるのだと初めて聞かされました。

「期間は約1ヶ月。労働は軽くて賃金ももらえる。安心していてよい」

 収容所で通訳をしていた漢奸がそう言いましたが、それまでのひどい仕打から、誰も信用するものはいませんでした。あの頃、自分だけいい思いをしようとして同胞を裏切り、日本軍に協力していた中国人がそういう収容所などに幾人もいたのです。そいつらを漢奸というのです。

 21日目に私たちは船に乗せられました。6百人あまりの同朋が鉄鉱石と一緒に貨物船の狭い船倉にぶち込まれたのです。食事は豆カスとトウモロコシ粉でつくってある小さな窩窩頭(ウオウオトウ)が1日に1個だけでした。普段でしたらそれはとても人間が食べられるようなものではありません。しかしすっかり飢えていた私たちはとにかくそれを口の中に押し込みました。

 船倉の戸はぴったりと閉じられ、下関に着くまで一度も陽の目を見ることはできませんでした。船倉は暗く、多くの人間が身体をくっつけあってひしめいているものだから、たちまち空気は汚れ、おまけにエンジンの振動と騒音で気も狂いそうでした。

 港を出てしばらくすると、船はひどく揺れ始めました。たださえ慣れない船旅です。このひどい揺れで、せっかく目をつむって胃の中に押し込んだ窩窩頭もたちまちげえげえ吐いてしまいました。胃の中のものをみんな吐いてもまだ吐き気が止まらない。そして船の揺れにつれて、あっちへごろごろ、こっちへごろごろ、鉄鉱石の上を身体がころげるのです。

 船倉ですから便所などもちろんありません。用便はすべてたれ流しなのです。こういうわけで狭い船倉はたちまち異様な臭気で充ち、病人が続出しました。すると日本人は、伝染病だといって、病人を生きたまま海に投げ込んでしまうのです。閉じられた船倉の戸のむこうで病人を海に投げる掛け声を聞くたびに、日本に着く前に私も生きながら海に投げられてしまうのではないかと、何度思ったことかしれません。

 こうして6日のちに下関に着きました。船倉から外に連れ出されたとき、その日はいまにも雨が降りそうな曇り空だったにもかかわらず、私は眩しさでしばらく目が開けられなかった。おまけに6日も坐りつづけ、吐きどおしだったので、歩くことさえままならなかった。仲間の肩を借りなければ上陸できないものもかなりいました。みんな故郷にいたときは元気に働いていたものばかりだったのです。

 簡単な調べのあと、一行は数組に分けられ、わたしたち350人は貨車に乗せられました。こうして丸一日半貨車に詰め込まれて神山炭鉱に運ばれたのです。



シモン・ウィーゼンタールの言葉は1971年12月5日、朝日新聞深代敦郎特派員「ウィーゼンタール会見記」より引用させていただきました。


この作品は1981年3月、私声往来社より出版した単行本のデジタル版です。

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証言2 当日の録音テープより 取材者   中山 博 
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証言3 当日の録音テープより 取材者   中山 博

証言4 当日の録音テープより 取材者   中山 博


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