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米軍ヘリ墜落 学舎の“傷跡”(東京新聞)
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投稿者 彗星 日時 2004 年 8 月 26 日 08:21:34:HZN1pv7x5vK0M
 

特報
2004.08.26

米軍ヘリ墜落 学舎の“傷跡”
『大学、元には戻れない』

 「現場での日米協力はすばらしかったと理解している」−。エアリー米国務省副報道官は二十四日、沖縄県宜野湾市の沖縄国際大学で起きた米軍ヘリ墜落事故についてこう語った。事故処理をめぐり、沖縄県警による現場検証は許されず、住民から「まるで占領下」との声が聞かれるのに。隣り合う普天間飛行場での飛行再開に神経をとがらせている学びの場に、事故が残した「傷跡」を見た。 (早川由紀美)

■創立当初に植えた木々『知らん間に切られた』

 事故現場となった沖縄国際大学1号館の黒く焼けた壁には、大きな爪(つめ)でひっかいたような傷跡が三本残っている。迷走したヘリのプロペラがつけた傷跡だ。そのそばに立つ、黒焦げになってしまった木。

 「『あれは生きるから切るな』と米兵に言った。ちょうど事故現場を指さすように枝が残っている」

 黒島安武・同大事務局長は、その木を見やった。

 ヘリは、壁にぶつかった後、木々の間に墜落、炎上した。沖縄県警の再三の要求にもかかわらず、米軍は日米地位協定をたてに現場検証を認めず、事故から三日後の十六日、機体の撤去を始めた。その際、周囲の木は根元から切られ、土壌とともに米軍が持ち去った。

 「創立当初に、教職員や学生が自ら植えた木。三十年を経て大きくなった木なのに、知らん間に切られてしまって…」

 同大は一九七二(昭和四十七)年の本土復帰に合わせ、日本の大学の設置基準を満たすよう、県内の二つの私立大学が合併してできた。当時はサトウキビ畑で樹木はなく、近所の人たちも庭の木を持ち寄ってくれたのだという。

 地面に、蛍光色の液体が浮かぶ水たまりができていた。「ヘリの乗務員が海上などで救難信号を出すために携帯している粉末が溶け出たのでは」と黒島さん。

■土壌の安全性米軍説明なし

 現場周辺を立ち入り禁止としたフェンスは張られたまま。ヘリが危険物を運んでいたのではないか、という噂(うわさ)も飛び交う。だが、土壌の安全性について米軍からの説明はない。「大学が放射能測定をしてみたが、日常生活で浴びる程度の範囲内で安心した。事故現場は他の場所に比べ若干高い数値だが」(黒島さん)

 建物の一部は崩壊しかかっており、1号館を使っていた事務局の職員らは、図書館に「緊急避難」したままだ。窓ガラスの破片や部品が飛び込んだ場所に席がある職員が事故当時、出張中といった幸運が重なったため、けが人はなかった。しかし、目撃した学生らの不安や恐怖は消えていない。

 「車をこするような音がして、そっちの方向を見ると灰みたいなのがばっと上がって、その後何度か爆発音がした。はじめ、テロかと思った」と、総合文化学部四年の津波古侑奈さん(22)は振り返った。

 「不謹慎な言い方かもしれないけど、炎はきれいだった。でも、その炎がどんどん壁を黒くしていくのが怖かった。その日はずっと動揺していた。今はヘリの音は平気だけど、映画とかで爆発シーンを見ると不安な気持ちがよみがえる」

■平気で暮らしていた…それが異常に思える

 那覇市出身の津波古さんは「那覇とか南部あたりだと騒音がないので、これまで、基地問題はあまり深刻に考えてなかった」と打ち明けた。「大学の上に飛行機が飛んでうるさくて、いつ落ちてもおかしくないと思っていたけど、平気に暮らしていた。そのことが、今は異常に思える。誰も死ななくて良かったけど、飛行再開なんて、本当に異常な事態だ」

 大学図書館に向かっていた卒業生の野原真樹さん(25)は、ドカンという爆発音で現場に駆けつけた。「ヘリは炎上していて、中の米兵が『ヘルプミー(助けて)』と大声で叫ぶのが聞こえた。何とかしないとと思って三十メートルぐらいのところまで近づいたとき、また爆発し、それ以上近づけなかった。何もできないんだという無力感を感じた」

 五分ほどの間に、多くの米兵が駆けつけ、野原さんは現場から遠ざけられた。

 「『じゃまだからどけ』という感じだった。アメリカの土地でもないのに彼らが仕切るなんて、まだ占領下じゃないか。学長も立ち入り禁止に怒っていた」

 その後も地元の声は無視されたままだ。事故を起こしたヘリが飛び立った普天間飛行場の運用中止を訴える宜野湾市の抗議にもかかわらず、事故の二日後から輸送機の発着は再開されており、二十二日には事故機と同型のヘリ六機が「イラクの自由作戦」への展開指令を受けて飛び立った。

 稲嶺恵一・沖縄県知事と二十五日になって面談した小泉首相は「沖縄の苦しい状況は分かる」と語っている。だが、環境問題などで事実上、こう着状態に陥っている同県名護市辺野古沖に代替基地を建設するとの方針に変わりはなく、普天間飛行場の早期返還の打開策はないままだ。

 総合文化学部四年の嶺井笙子さん(21)は考え込む。「基地を辺野古に移すってことは、このいつ落ちるか分からない危険な状態が辺野古に移るってことですよね。自分、出身が名護だもんですから…。危ないから県内で移して、また移してってこと繰り返すしかないんですかね。基地がなくなることはないんですかね」

■「普天間返還へ声上げていく」

 一方、ある教員は言う。「大学は普天間基地とともに発展したという側面もある。体育館建設にしても、隣に基地があるから防衛施設局から多額の補助もある。普天間基地の土地を持つ軍用地主には年間三百万円ほどの借地料が入る。そういう富裕者層がいて、うちのような私学が存在できるという面も見過ごすことはできない」

 渡久地朝明学長は「事故当初、大学を元の状態に戻すにはどうすればいいかと考えた。元には戻りませんね。いつか落ちるかと思っているのと、落ちることを知った後の(ヘリや飛行機を)見上げる気持ちは同じにはならない」とため息をついた。

 「この大学にきて二十七年になる。ずっと私たちの大学と思っていたが、ある日突然(事故後の現場封鎖などで)私たちの大学でなくなってしまったという驚きがある。大学は市民運動に流れるというところじゃないから、制約はあるが、普天間飛行場返還に声を上げていくことになるだろう。時間をかけ、内部の心をそろえていきたい」と続けた。

   ◇  ◇

 大学内外から、事故を後々まで記憶するため、1号館を「遺跡」として残してほしいという声が出ているが、建て替えか改修なのか方針は決まっていない。

 那覇防衛施設局は「日米地位協定一八条によって米軍事故は処理される」と説明する。一八条は、米国のみが責任を有する事故による損害は、75%を米国、25%を日本が分担するとしている。同局広報室は「すべてを一八条でやれるものかどうか調整、検討中」として「物損事故なら話は簡単なのですが、目に見えない心の部分をどう扱っていけるのか…」と話した。

■米軍ヘリ事故の経過

2004年8月

13日 普天間飛行場を飛び立った米海兵隊CH53Dヘリが沖縄国際大建物に衝突し墜落、炎上。米兵3人が重軽傷。米軍が「安全性の確認」と現場を封鎖

16日 米軍が機体回収を開始

17日 在沖米海兵隊が文書で合同現場検証を拒否。在日米軍報道部が「14−16日にヘリ訓練をすべて中止、安全点検を実施」と説明

19日 稲嶺知事は小泉首相と会えず、細田官房長官と面談。米軍が機体回収終了。その後、県警と県文化環境部が現場調査。米大使館が「イラク派遣」で飛行再開通告。外務省は「必要最低限」条件に容認

20日 事故同型を除くヘリ飛行再開

21日 ブラックマン在沖米四軍調整官が稲嶺知事に謝罪。同知事は「安全点検だけで飛行再開は許せない」と抗議

22日 事故同型ヘリが飛行再開

23日 川口外相がパウエル米国務長官に「事故同型ヘリ飛行停止」要請

25日 小泉首相が稲嶺知事と面談

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20040826/mng_____tokuho__000.shtml

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