★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 戦争58 > 164.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
済南事変と連続強姦殺人犯 小平義雄
http://www.asyura2.com/0406/war58/msg/164.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 8 月 05 日 20:58:20:akCNZ5gcyRMTo
 

(回答先: 怪しい「株式日記と経済展望」ちゅうのは、誰がやってんの? 投稿者 木村愛二 日時 2004 年 8 月 05 日 17:38:10)

木村先生 いつもながら月並みな挨拶ですが猛暑のなかご自愛ください。
----------------------------------------------------------
済南事変と連続強姦殺人犯 小平義雄

http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/kodaira.htm

【 本人歴 】

1905年(明治38年)1月28日、小平義雄は、栃木県上都賀郡日光町大字細尾の商人宿「橋本屋」に生まれた。小平は6番目の子どもで三男だった。

家系は、母方には裁判長や弁護士になった人がおり、格別の異常は見られないが、父方では父の兄弟5人中、常人はただ1人という異常な血統であった。

父親は義侠心に富んだ性格だったが、飲む・打つ・買うの三拍子がそろっており、家業は思うようにいかず、やがて旅館は人手に渡り、山林や畑地も売り払ってしまう。

そんな家庭に育ったせいか、日光尋常小学校西分校に入学するが、成績は悪く、男子23人中21番だった。小学校に査定要項の記録が残っている。
小学1年・・・不注意、不熱心、無精にして喧嘩せざる日なし
小学2年・・・学用品を時々忘れて来る
小学3年・・・不注意にして不熱心なれば成績不良なり
小学4年・・・性悪く鈍なり、学科に不熱心にして且つ品行よろしからず
小学5年・・・前学年に同じ
小学6年・・・粗野にして乱暴、奸智(かんち)に長(た)け盲動す、成績不良

「操行」は6年間、「丙」であった。つまり、品行が良くなかった。

また、ドモリがひどく、意思がうまく伝わらないとき、すぐ激昂した。弱い者いじめはするが、女性は例外でむしろ親切でさえあった。

1968年(昭和43年)6月16日に起きた横須賀線電車爆破事件の犯人の若松善紀(よしき)も小学2、3年の頃から吃音(きつおん)に悩まされている。若松は親類の子がドモるのを真似ているうちに自分もそうなってしまい、中学に入る頃にはさらにひどくなり吃音矯正所に通うまでになってしまった。1974年(昭和49年)8月28日に平塚で起きたピアノ騒音殺人事件の犯人の大浜松三も小学3年のとき、近所の吃音の子と遊んでいるうちに、自分もドモるようになって悩んでいた。横須賀線電車爆破事件の詳細についてはこちら、ピアノ騒音殺人事件の詳細についてはこちら

1917年(大正6年)3月、小学校を卒業したが、しばらく家にいた。

1918年(大正7年)になって、東京へ出て、池袋の「東洋金鋼」に見習い工として数ヶ月、銀座の「亀屋食料品店」で店員として2年間働いた後、日光へ帰り、地元の「古河電工」の精鋼所で働いた。

1923年(大正12年)6月、18歳のとき、自ら海軍に志願し、横須賀海兵団に入隊するが、この軍隊生活が、元々、粗暴であった彼の性格を助長させることになる。女を知ったのは海軍に入ってからで、横須賀の淫売を買ったのが最初だった。19か20歳の頃である。軍艦の乗組員として、オーストラリア、ヨーロッパに寄港するが、その先々で売春婦を知る。ひと晩泊まって4、5回やったこともあったという。

山東(さんとう)出兵、済南(さいなん)事変では、海軍陸戦隊員として「日清紡績」の工場警備にあたったときは市街戦で中国兵6人を銃剣で刺殺。この戦功によって、勲八等旭日章を授かっている。また、太沽(タークー)では、中国人の家に押し入り、女を強姦したり、妊婦の腹を裂いて胎児を引き出すなどの残虐非道な行為をした。

1929年(昭和4年)5月、24歳のとき、三等機関兵槽となって、海軍を除隊し、精鋼所に復職。

1932年(昭和7年)1月、職場の工場長の姪を紹介され、見合い結婚した。だが、6月ごろに妻は実家に帰ってしまった。理由は、小平が遠戚の娘を妊娠させ私生児を生んでいたことで、親が離婚させようとしていたからだ。

7月2日、復縁を迫った小平は妻の実家に押し入り、妻の父親を殴殺、家族6人にケガをさせてしまう。

1933年(昭和8年)2月4日、東京控訴院(現・東京高裁)は懲役15年の判決を下し、小菅(こすげ)刑務所に服役することになったが、大日本帝国において慶事が重なり2度の恩赦で刑期が短縮されることになった。

東京控訴院・・・1947年(昭和22年)、「東京控訴院」から「東京高等裁判所」に改称。

1940年(昭和15年)9月23日、7年半で仮出所する。小平は35歳になっていた。その後、東京へ出てボイラーマンとして働く。草津に養生に行き、3日に一度は女を旅館に連れ込んだという。

1941年(昭和16年)8月、36歳のとき、サイパン島へ渡り、飛行場建設のため、ローラー運転手として働く。

12月8日、日本軍はハワイの真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争へと突入する。海軍省から派遣された慰安婦を買うことがあった。また、21歳になる娘と関係し妊娠させてしまったことがあった。

1942年(昭和17年)4月、東京に帰り、蒲田の「日本製鋼」で半年、大森の「鈴木製氷」で8ヶ月働いた。この頃から芸者遊びをするようになる。女性を伊東や草津へ連れて行くこともあった。

1943年(昭和18年)8月、海軍第一衣糧廠にボイラー係として就職。のちに主任級になり、下に5、6人の助手がつくようになる。給料は170円、食事付きで、暮らしは楽であった。また、女性が入浴中によく覗き見をした。

1944年(昭和19年)2月、39歳のとき、前科を隠して、知人から紹介された女性と2度目の結婚をする。妻がお産のため、入院すると、手近の女性に手当たり次第に手をつけた。同じアパートに住んでいた未亡人、23歳になるその娘、市電の運転手の妻、お産の手伝いにきてくれた妻の知り合い、その妹・・・。

1945年(昭和20年)2月、男児出生。東京大空襲により、4月、妻を富山の実家へ疎開させる。

その後、5月25日から翌1946年(昭和21年)の8月6日にかけて7人の女性を殺害する事件を起こすことになる。

【 その後 】

[ 小平義雄の供述 ] 

「私は衣糧廠に1年半もいましたから女人操縦はずいぶん研究しました。女に気に入るには衣装でも買ってやるのが一番です。私は相手のスタイルを見て話しかけるのです。『僕は元、大映にいて着付けの方を屋っていたんだよ』などとでたらめを言って『あんたは紺色のブラウスを着て白いスカウトをはいたら曲線美がすばらしくなるよ』とか言ってやると女はほとんど100パーセント有頂天になってしまいますね。しかし、終戦前後は何といっても食糧が女の心を一番動かしました。私はそれを利用したのです」

「まず、女を殴り、次いで頚部を絞め仮死状態にする。この絞め方は、右手を前に、左手を後ろにし、両手で少し上に持ち上げる。2、3分そうしていると、洟を垂らし、手をだらりと下げ、仮死状態になるのである。このときすぐに交わるとは限らない。むしろ30分ぐらい待ち、蘇生したところで、揺り動かす。「私どうしたの、どこかへ行ってたの?」たいていの女が、不思議そうに問いかけ、失禁していることに気づく。そこで、着ている物を脱ぐように命じ、体に付着した糞尿を拭き取ってやる。もはや抵抗を諦めているので、体をひろげて、自らを重ねる。その行為の間、女は目を開いて宙を見つめ、両手を伸ばしている。女を横にして陰部を見て、今入れんとする瞬間がなんともいえないのです。殺されてもいいと思うときがあります。日本刀で後ろから首を切られても構いません。陰部ばかりを見ています。顔なんか見ていません。入れると夢中で私だけ腰を使います。終わると早く始末してしまいます」

[ 小平義雄の妻の供述 ] 

「結婚してから毎晩のように要求はあったのは確かです。稀にひと晩に2回ということもありました。40になろうとする男にしては少ししつこいのではと思うこともありました。ですが、変な要求はしないし、交わり自体はあっさりしたもので、首を締めるようなことはありませんでした。愛妻家とは彼のような人のことを言うのだと思っていました。性的な会話がひとつもなかったから、まさか浮気はしないだろうと安心しきっていました。逮捕されて新聞に載ってからも、しばらくは夫がしたこととは信じられませんでした」

[ 鑑定人の内村祐之(ゆうし)東京大学精神医学教室主任教授・松沢病院院長の供述 ] 

「精神病質である。要するに、本件犯行当時の小平の精神状態には、強烈な性的衝動と、残虐な暴力行為に傾き易い性格特徴が併存していた。この両者が合流したので、性的内容を備えた暴力犯罪がここに生じたのである。それは生まれつき特別な性格と衝動性の組み合わせを持った性格異常者の犯罪で、かかる種類のものは、その軽いものまで数えれば、世上にははなはだ多数に存在する。ただ本件が希有の大事件となるに至ったのは重い強姦殺人の形で、同一人が1年余りの長きに渡って犯行を反復継続したからである。実に、このこと自体、小平の性格異常の決して軽くないことを示すものである。本事件全体が、一時の感動や衝動によって突発したようなものではなく、むしろ計画的に意識的に行われたものと見える。それゆえ私は、小平は犯行当時、自己の行動の許すべからざることを正しく判断のできる理性は勿論、この判断に従って、ある程度まで自制をなし得る意思能力をも把持していたものと認める。すなわち、小平の性欲衝動も感情激発性もそうとう強いものであったに違いないが、しかし、いかにしてもこれらを制御し得ないほど重篤かつ高度の性格異常者ではなかったと判断する。従って小平ははなはだ珍しい型の生来性性格異常者で、しかもなお責任能力のある人格と判定するのである」

内村祐之・・・明治30年、東京に生れる。大正12年、東大医学部卒業。東大精神科、松沢病院を経て、昭和2年、北大教授。昭和11年、東大精神医学教室主任教授兼松沢病院長。昭和33年、東大教授退官。昭和35年、国立精神衛生研究所長。東大名誉教授、財団法人神経研究所名誉所長、同顧問。日本学士院会員など歴任。医博。昭和55年9月17日、逝去。

1947年(昭和22年)6月18日、東京地裁は、「精神病質ながら責任能力あり」と判定。死刑判決を言い渡したが、小平は「死刑は残虐な行為である」と控訴した。

1948年(昭和23年)2月28日、東京高裁で控訴棄却判決。

11月16日、最高裁で上告棄却判決が下り、死刑が確定する。

12月1日、東京拘置所から死刑台のある宮城刑務所仙台拘置支所に移送される。

当時の東京拘置所には死刑を執行する設備がまだなく、関東矯正管区の拘置所の死刑囚は仙台の宮城刑務所仙台拘置支所に送られて死刑執行された。東京拘置所で死刑の執行が行なわれるのは1966年(昭和41年)からである。

1949年(昭和24年)4月ごろ、妻が初めて面会に訪れた。

「自分が疎開していたばかりに、あなたの世話が出来ず、このような結果を招いた。あなたの罪の責任は私にあります」と泣きくずれた。

小平はこの妻の真心が救いになり、教誨師の指導でそれまで捨てバチな態度が変わった。人一倍子ぼんのうな小平は、一人息子の将来について「死刑囚の子供としていじけないように育ててもらいたい」と妻に頼み、信仰へと一歩踏み込んだ。

それからは、落ち着いた生活ぶりになり、熱心な読書と反省の日々は暴行殺人鬼を人間小平に変えていった。

「被害者からみれば、私は八つ裂きにされても当然でしょう」と心の余裕も出来た。

同年10月5日午前7時、小平は、「所長さんがお呼びだよ、小平」という看守の普段と違う緊張に震えた声に、全てを察した。

小平は房内をきれいに掃除、この日のために用意してあった新しい下着と下帯に着替え、紺縞あわせの獄衣に着直した。編み笠をかぶり、特別通用門をくぐって刑場へと向かった。

そぼふる秋雨をながめ、教誨師に「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と言った。

午前9時25分、所長よりおごそかに執行の言い渡しがあった。

「何か遺言はないか・・・」との所長の問いかけに、小平は毛筆を取った。便箋2枚に走り書きの遺言をしたためた。

<自分は荘厳な気持ちですべてを清算し、静かな気持ちで死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うしてください>

小平は覚悟ができたのか、すっかり諦めきった淡々とした表情。関係者はその従容とした態度に胸が打たれた。

出された供物のマンジュウを3つ名残り惜しそうにゆっくり食べた。

再び、筆をとり辞世の句を書いた。

<亡きみ霊、赦し給へし過去の罪、今日の死を待ち、深く果てなん>

「もうほかに、何か言い残すことや欲しいものはないか」所長が最後の慈悲を示した。

「タバコを1本喫わせて下さい」

小平は差し出された「ひかり」を胸の奥まで吸い込んだ。

やがて落ち着いた態度で死刑台に上り、午前9時50分、死刑が執行された。44歳だった。

この事件を元に製作された映画に、『明治大正昭和 猟奇女犯罪史』(監督・石井輝男/小平義雄役・小池朝雄/東映京都/1969)がある。この作品はオムニバス形式になっており、他に、高橋お伝、阿部定などの事件も再現している。

参考文献・・・『殺人百科 3』(文春文庫/佐木隆三/1987)、『日本犯罪図鑑』(東京法経学院出版/前坂俊之/1985)、『犯罪の昭和史 2』(作品社/1984)、『捜査一課 謎の殺人事件簿』(二見書房/近藤昭二/1997)、『日本猟奇・残酷事件簿』(扶桑社/合田一道+犯罪史研究会 /2000)、『戦後欲望史 混乱の四、五〇年代篇』(講談社文庫/赤塚行雄/1985)、『日本の大量殺人総覧』(新潮社/村野薫/2002)

 次へ  前へ

戦争58掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。