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Re: その1 「戦争を知る」ということ 4
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投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 9 月 10 日 12:35:32:0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: その1 「戦争を知る」ということ 3 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 9 月 10 日 12:23:23)


ぼくたちの戦後責任と平和思想 その1 「戦争を知る」ということ 4
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sengo14.htm

今年(1976年)2月19日の朝日新聞『声』欄に、「満蒙移民にはまだやってこない戦後」というタイトルで長野県の63歳の老人の次のような投書が載った。

 

――移民は棄民に等し 30年余抗す力もついえ 今はつぶやけるのみ!

 戦後の処理をいうにはもはやかびくさいと思う人もいるかもしれない。だが、私たち満蒙移民生き残り者たちには死ぬまで戦後はないだろう。ことに先の国会で軍人一時恩給が決定され、軍人関係処遇は一応の結末がついたとみるべきであろう。

 それはそれで当然である。だが国は満蒙移民処遇については根本的になんの処遇もしていない。北辺鎮護、国の生命線確保と宣伝し、銃とくわを持たせ、中国辺地に送り出した当時の拓務官僚や関係政官界の人たちも今なお現存している。敗戦により難民となったおびただしい数の人びとは死亡し、数少ない生存者も内地の山野を開き、祖国の復興につくし、大方が老齢となっている。彼らは時折会合し、旧交を温め、あるいは墓の記録をつくったりしている。

 国は騒いだり、圧力団体とならなければ耳を貸さないのだろうか。三十年間、関係者は何度も請願陳情をしている。せめて軍人なみの処遇を急ぐべきではないのか。里帰り、帰国者、人さがしの運動にももっと力を入れてほしい。

 

 この投書を取り上げたのは、満蒙移民と彼らがたどらなければならなかった運命が、十五年戦争に巻き込まれたこの国の人びとの、被害者でありながら加害者でもあったことを劇的にあらわしていると思われるし、しかも投書の趣意が、戦後30年を経た現在においてなお、「あの戦争」が自分たちごくありきたりの人びとにとってなんであったかを、多くの「戦争を知っている大人たち」が認識しえないでいることを象徴的に物語っていると思うからである。

 そうはいっても、この元満蒙移民の老人を、あなたも「あの戦争」の被害者である反面、銃とくわをたずさえて満州に出かけていったのだからやはり加害者の一人だったではないか、ときめつけることにぼくはかなりの気後れを感じる。満蒙移民の大部分が、当時の行きづまった経済情勢のなかで生活を成り立たせていくことができなくなった貧農であったことを考えれば、どうしてもそんな割り切ったものの言い方はできなくなる。

 たとえば1938年、満州分村移民第一号となった長野県佐久郡日向村(現・佐久町)の場合、移民した農民は炭焼きをしていた人が多く、「その炭も世界大恐慌のもとで安くなる、炭問屋に買いたたかれふんだくられ、生活にあえいで、その当時、1年で通常の3年ぶんの炭を焼いてしまって、山が荒廃してどうにもならない状態であった」という(山田昭次「近代日本人のアジア観」日高六郎編『シンポジウム・意識の中の日本』(朝日新聞社)所収)。彼らは「内地」ではもはや見出すことのできない生活の手だてを求めて満州に渡った。渡らざるをえないところまで追いつめられていた。こうした食うや食わずの貧農層の存在があってはじめて、日本の満蒙殖民政策は成り立った。

(そもそも満蒙移民政策は、当初、昭和恐慌によって顕在化した農村の疲弊、土地生産力に相対する過剰人口等の構造矛盾を解消するために考えられたのだった。それが恐慌後の景気上昇とともに、ソ満国境の守備や植民地の保安対策のために国内の貧農層を武装移民として投入していくに至る、いわば目的と手段が逆転していく過程は、小林弘二『満州移民の村』(筑摩書房)に詳しい)

 国は、田畑をもたない炭焼きや、狭小な小作地にしがみついていた小作農たちを、満州へ行けば20町歩の地主になれると甘いえさで釣って開拓民に仕立てた。事実、内地にいてはとうてい土地もちなどになれるはずのなかった移民たちは、束の間の地主になれることはできた。しかし、いうまでもなく彼らに土地を与えることによってもっとも大きな利益をあげることができたのは、拓務省や満州拓殖公社や関東軍などさまざまな顔をもった国家であった。移民たちは、植民地満州経営の将棋の駒にすぎなかった。しかも、「北辺鎮護、国の生命線確保と宣伝し、銃とくわをもたせ」と投書にあるように、彼らはただの開拓移民ではなかった。満州東北部のソ満国境に重点的に配置された彼らは、対ソ戦に備えるための辺地守備隊の役目をも負わされていた。

 こういう形で戦争に巻き込まれ、加担させられた彼らの戦後が、焼夷弾の雨の中を逃げまどった銃後の人びとの悲惨さに勝るとも劣らぬものであったことはいうまでもない。ちなみにこういう数字がある。

 

 満州開拓関係者の団体だった開拓自興会と外務省とが長年苦労して確かめたところによると、敗戦直前における在満日本人開拓者移民はおよそ27万人で、そのうち引揚げに至るまでに戦死・自決・餓死・凍死・病死した人が、約7万8500人にのぼっている。すなわち、3人強に1人の割合で死亡しているわけで、軍事専門家の言に従えば、近代戦で相当な激戦をおこなっても、これだけの死者の出る例はあまり多くはないということだ。

 他方、敗戦時における在満日本人の総数は、だいたい155万人といわれており、その引揚げまでの死亡者総数は17万6000人と算定されている。この数字と前記の数字を突き合わせてみて、愕然としない者があるだろうか。――というのは、青少年義勇軍を含む開拓民の在満日本人全体に対する割合は、およそ17パーセントでしかないのに、死亡率はというと50パーセントに近いからである。(上笙一郎『満蒙開拓青少年義勇軍』中公新書)

 

 しかも死者の数が「約7万8500人」という概数であることは、ぼくを含みこんだこの国が、死者たちをひとりびとりの人間としてではなく、ただの数としてしかつかみえていないことのあらわれにほかならない。死者たちだけではない。生存者たちをも、戦争体験の恥部として過去のなかに切り捨てることによって、ぼくたちは戦後を形づくってきてしまった。

 だから投書の老人が、いまだ帰国をしないで中国に残っている元満蒙移民のうち、里帰りや帰国を希望するものにはそれができるように、また行方の知れぬものの所在をつきとめるための、それぞれ手段をつくしてほしいと言っていることは、戦後の復興と、それにつづく見せかけの平和と経済的繁栄を謳歌してきたこの国の底辺で、あってはならぬ存在とされてきた彼らの、ぎりぎり最小限の憤りの声として受け止めるべきだろう。

 しかし投書者のもうひとつの主張である、元満蒙移民に対する「せめて軍人なみの処遇を」という点にぼくはひっかかる。具体的に軍人なみの処遇が何を指すかは、前後の文脈から軍人恩給に準ずるものの支給であることは明らかだろう。軍人も満蒙移民もお国のためにつくしたことには変りがないではないか。ところが旧軍人は恩給を支給されているのに、自分たちにはそうした処遇がなにひとつなされていないのはあまりに不公平すぎる――投書者の主張はこうした憤りに支えられている。だが、軍人なみの恩給を支給するという形で満蒙移民処遇がなされることによって、移民生存者にほんとうに「戦後」がやってくるのだろうか。こういう形で国から見返りを受け取ることによって、彼らが今もまだ重くひきずりつづけている「あの戦争」を、幾分なりとも断ち切ることができるというのだろうか。

 いや、こんな疑問の提出のしかたはあまりに不遜だし、誤解をまねく。たとえ軍人なみの恩給を受けることができるようになったにしろ、この人たちの内部に「あの戦争」が黒ぐろと存在することは明白なのだから。投書者の主張が、そもそもゼニ金を主眼にしたものでないこともわかる。だから言い方を変えよう。この人たちがこの人たちなりの戦後を手繰り寄せるための手だてとして、自分たちにも軍人なみの処遇をせよと主張することが果たして妥当なものなのか。その前に、この人たちにはこの人たちの為すべきことがまだ残されているのではないだろうか。

 それを論じる前に、そもそも軍人恩給とは「あの戦争」に巻き込まれ、加担させられたこの国の人びとにとって何であるのかを考えてみたい。

 この問題については松浦玲氏が『日本人にとって天皇とは何であったか』(辺境社)のなかで非常に鋭い指摘をしていて、ぼくは氏の説くところによって多くのものを教えられた。もっとも松浦氏は戦没者叙勲を主に論じているのであるが、「旧軍人で一定基準以上に軍務に従事したものはすべて(戦没者の場合は有資格の遺族に)戦争中の階級や勤務実績に従って支給されている」軍人恩給についても、ことの本質はまったく同じなのである。ちょっと廻り道になるのを許していただきたい。

 そもそも叙勲とは、誰が、どのような行為を対象に、どのような理由で、誰に勲章を与えることによってその栄誉をたたえるものなのか。

 

 叙勲とは、具体的には、勲記および勲章を授与することである。授与するのは天皇である。現在の勲記は「日本国天皇は〇〇〇〇を勲〇等に叙し、旭日章(または瑞宝章)を贈る」という形式になっている。そして、いかなる功労に対して叙勲するのかというその理由は、書かれていない。

 

 その書かれていない理由が何であるかを、松浦氏は、厚生省援護局叙位叙勲調査室長補佐から、「国のために死んだ」ことが叙勲の対象だとはっきり回答を得ている。これはもちろん調査室長補佐の私的見解などではなく、「戦没者叙勲再開についての1964年4月25日の総理大臣談話は『祖国のために尊い命を捧げた方々に対して国として感謝の誠を捧げ、生前の功績を顕彰する』と、はっきり述べている。

 ここで「戦争を知らない」ぼくら以降の世代のために蛇足をくわえておこう。いくら民間人が「国のため」にあの戦争に協力し、あるいは協力させられ、「○○大空襲」で死んでも、もちろん叙勲の対象にはならない。軍人であって、しかも国のためにつくして死んではじめて、天皇から勲章をもらうことができるのだ。これは「平和憲法」のもとで、天皇と政府が「あの侵略戦争」の戦没者たちの功績をいまだに顕彰しているにとどまらず、将来、この国がぼくらを兵士に仕立ててふたたび侵略戦争へと駆り立てていく可能性とも深くかかわっているので、あとでもう一度、あらためて考えなおしてみたい。

 具体的に「国のために死んだ」とはどういうことを指すのか。

 

 戦争中の叙勲手続きでは、戦没とともに、まず「御沙汰書」なるものが届けられた。これは、“かくかくの理由で勲〇等に叙し旭日章(または瑞宝章)を贈る”という決定の通知である。(中略)その御沙汰書にははっきりと「支那事変に於ける功により」「大東亜戦争における功により」「今次戦争における功により」などと書かれているのだ。

 

 戦後になっても、ことは変らない。そもそも戦後戦没者叙勲が再開された理由は、先の調査室長補佐によるとこうであるという。

 

 この前の戦争での戦没者のうち、約33万8千人に対しては、「御沙汰書」と勲章が届いているけれども勲記が届いていない。また68万6千人については、「御沙汰書」だけが出ていて、勲記も勲章も渡っていない。さらに、当然御沙汰書が出されるべき状況で死にながら御沙汰書も出ていないものが約百万。これでは、死者に対して不公平である。同じ基準で叙勲手続きが最後まで完了されなければならない。

 

 こういう話を聞かされると、「戦争を知らない」ぼくらは当然の疑問につきあたる。あの敗戦によってこの国は「新生日本」として生まれ変わったのではなかったのか。この国が真に平和を志向しているかどうかはさて措くとして、ともかく憲法は大日本帝国憲法から「平和憲法」にかわった。アラヒトガミであり、大元帥陛下であり、大日本帝国の万世一系の統治者である、神聖にして侵すことのできない天皇は、「あの戦争」について自ら責任をとることもなく、またとらされることもなく、今もまだ天皇であるけれども、とにかく国政に関する権能を有しない「象徴」となった。実情はどうあれ、たてまえとしてだけでも、この国の仕組みは「あの戦争」の失敗を境にしてすっかり変わったことになっているはずではないか。それなのに、戦後の叙勲を戦前と同じ基準でやることは、そのたてまえからすら大きく逸脱しているではないか。

 しかしこのことについては、法制上の根拠がちゃんと用意されているのだ。「国の栄典制度は、占領下で一時授与を停止していただけで、敗戦前も戦後も連続して」いるのだそうで、このことを松浦氏に教わってぼくは唖然とした。いったいぼくらの日本はどうなっちゃっているのだろう。憲法まで変えざるをえなかったというのに、栄典制度なるものは、占領によって一時停止していただけで、戦前も現在も同じ価値基準で連綿と生きつづけているのだという。だから、「あの戦争」のさなかと同じ基準で、侵略戦争に加担して国のために死んだ人びとに、現在もまだ勲章を与えることは、当然であるばかりでなく、国の義務なのだという。いったいどう考えたら、「日本国民は恒久の平和を念願し」とその前文にうたった日本国憲法とこの栄典制度なるものはつじつまが合うのだろうか。

 ここまで考えてくればもはやことは明瞭だろう。軍人恩給も叙勲も、すなわちどれだけ大日本帝国が引き起こした侵略戦争に貢献したかによって、現在もまだ支給され、授与されている。もちろんそれは平等に、一律に支給されているのではなく、「功績」の中身はその人間の最終的な階級と勤務実績である。ひらたくいえば、1銭5厘でひっぱられた二等兵だった者よりは、志願兵あがりの軍曹だったもののほうが、中尉だった者よりはもちろん将軍だった者のほうが、立派な勲章と多額の軍人恩給をもらうことができる。

 しかも、ここがもっとも肝要な点なのだが、勲章や軍人恩給の受け取り手である遺族や旧軍人軍属のうち、こうした敗戦前の評価基準によって支給されるものを拒否するものが、非常に少ないということなのだ。松浦氏が調べた京都府の場合、「叙勲手続きを終えたもの約4万5千件に対して、叙勲を拒否したのは、やっと10件ほどだったとのことである。なんと0.02パーセント、しかも、その10件の中には、『思い出すのがいやだから』という理由のものも含まれている。叙勲が不当だからという理由での拒否は、さらに少ないのである。」出し手が当然として出しているものを、受け手もまた、当然のこととして受け取っている。

 これはひどく奇妙なことだ。天皇の名によってひきおこされたあの戦争によって、多くの人びとが兵士として前線に送られ、上官の命令に絶対服従する戦闘ロボットにされ、多くの恨みもない他国の人びとを殺し、補給も途絶えたなかで敵の爆撃にさらされ、ゲリラの奇襲に怯え、多くの戦友の死を見、また銃後の人びとは、父を、夫を、息子を奪われ、その悲しみと怒りを公に表明することすらできず、挙句に「〇〇大空襲」を受け、炎熱地獄のなかを逃げまどい、そのことによってさらに多くの肉親を失い、日本の敗戦によって「あの戦争」が終ったとき、ああ、こんな思いはもう二度としたくない、平和はなにものにもかえられないと、心から思ったのではなかったのか。そのとき心底から感じた平和への希いと、戦後、敗戦前の評価基準によってあの侵略戦争にどれだけ功績があったかを、同一人物である天皇の名によって顕彰する戦没者叙勲や、あるいは軍人恩給を、当然のこととして受け取ることが、遺族や旧軍人軍属の中でどう矛盾せず、どうつながりあっているのか。

 いや、これはなにも、政府と戦没者叙勲や軍人恩給の受け手だけの問題ではない。このことをどのように考えるかということは、この国のすべての人びとが、現在、どのように平和を希求しているのか、あるいは敗戦のときに感じた平和への希いをどれほど風化させているのか、を問われることなのだから。

 こうしたことを言うと、たぶんすぐさま強い反論がなされるにちがいない。おまえは戦争がどんなものだか具体的に知らないし、肉親をあの戦争で殺されなかったから、それでそんなふうに軽々しくものが言えるのだ。とにかくわれわれは国のために戦場に駆り出され、言うに言われぬ苦労をした。だから戦没者叙勲も軍人恩給も、受け取って当然ではないか。

 この論理の根本的なまちがいは、国のために犠牲になったのだから、国がその償いをするのは、あるいは報いるのは当然なのだということだけを強調し、「国のため」ということの内実が、現在の平和を希う視点で見返すとどういうことだったのかにすこしも考慮が払われていないところにある。「国のため」はけっして無色透明の免罪符ではない。いや、「国のため」に何を行ない、何を行なわされたかを現在の視点で考えなおすことこそ、「あの戦争」を二度と繰り返さないためにまず必要なのではないのか。いったい武器を持って他国に攻め込み、数百万とも数千万ともいわれる規模のその国の恨みもない人びとを殺し、それをはるかにうわまわる人びとの財産を略奪したことが、どうして国のためだったのか。

「国のため」という論理がいかにインチキであり、またその論理によってあの戦争に巻き込まれた人びとにとっての自己欺瞞でしかないかは、こんな簡単なたとえ話でも証明することができる。たとえばAという腕っぷしの強い男が、Bに向かってこう言った。おまえ、おれの強盗の手助けをしろ。Bはもちろんそんなことをしたくない。警察へ訴えようかとも思ったが、そんなことをするとあとでどんなひどい目にあうかわからない。いろいろ悩んだ末に、小心なBは、仕方がないのでAの命令に従った。そして強盗が成功したあと、ことが露見して、Aは高飛びし、Bだけがつかまった。Bは事件当事、電話線の切断と奪った金を運ぶことだけを分担していたので、強盗がどのようになされたのか知らなかったのだけれど、実は被害者の一家が皆殺しにされていた。Bは裁判で、あれはAに強制されていやいややったことなのだから、Aから分け前を受け取ることは当然でこそあれ、あなた方から避難されるいわれなどなにひとつない、と主張し、無罪放免されるだろうか。

「国のため」という論理のもうひとつの根本的な誤りは、それがたとえ兵士になったことを強制されたものの論理ではあっても、侵略した側の論理を一歩も出ていないということだ。しかも、志願兵は軍隊内ですこしでも有利な地位を得ようとして志願したのだし、ましてや職業軍人ともなれば、軍人であることによって生計を立てていたのだから、それがたとえ国のためであると信じていたにせよ、同時に自分のためでもあった。

 どうもこの国の大多数の「戦争を知っている大人たち」は、「あの戦争」を自分たちの立場からしか考えられないようだ。それがどれほど危険で恐ろしいことかは、立場を百八十度回転してことを考え直してみればすぐにわかる。もうひとつ、下手なたとえ話をしよう。

 たとえばC国が、いいがかりに等しい口実のもとにこの国に攻めてきたとしよう。どうせ侵略軍がおおっぴらに侵略を始めるための口実などというものは、柳条溝の場合も蘆溝橋の場合もトンキン湾の場合も、それが相手国に全面戦争をしかけるための合理的な根拠になりうるものでなくてもかまわないのだから、要するにどんな些細なことでもいい。とにかくC国はいいがかりをつけて日本に攻め込んできた。そして圧倒的な戦力にものをいわせてたちまち日本の大部分を制圧し、年寄や女子供に至るまでを手当たり次第に殺し、財産を奪い、家々を焼きつくし、女たちを犯しまくった。しかしこうしたC国の侵略に反対するD国やE国の強力な支援のもとに、やがて戦局は逆転し、ついにC国は敗れ、戦争は終った。C国政府も国民も、もう二度とこんな戦争はしないと全世界に誓った。が、その舌の根もかわかぬうちに、やがてC国政府は、国のためにあの戦争を戦った軍人とその遺族に対し、日本侵略にどれほど功績があったかを評価したうえで、それぞれ勲章や恩給を贈るといいはじめ、それを実行に移した。そして平和を誓ったC国民からは政府の方策になんら見るべき反対運動も起こらず、彼らは当然のこととしてそれを受け取った。これをみて、肉親を殺され、家を焼かれ、母や妻や娘を犯された日本の人びとはどう思うだろうか。

 こんなことを書くとまたもや即座に反論がなされるだろう。今だからそんなことが言えるのだ。当時はあれが正しいと誰もが信じていたのだし、ああする以外にわれわれはどうにも仕方がなかった。

 これもまたずいぶん奇妙な論理だ。いや、こんなものは論理ともいえない。たしかにごくあたりまえのこの国の人びとにとって、当時、戦争に協力する以外に方途はなかったかもしれない。しかし目覚めたあとで、それが間違いだったとわかったなら、なぜあの戦争が間違っていたことをはっきりと認め、それをもとにしてものごとを考え、行動しないのか。だいいち、当時はああする以外に仕方がなかったという言訳は、この国の中での内輪の話ではないか。まさか侵略され、肉親を殺された人びとに対して、私たちはああする以外に仕方がなかったのだ、だからあなたたちも仕方がなかったと思ってみんななかったことにしてくれ、とはいえまい。いま反省して間違っていたのなら、たとえ当時それが正しいと信じていたにしろいなかったにしろ、当時も間違っていたのだ。仕方がなかったという口実は、現実がたしかにそのとおりであったにしろ(いや、あの戦争に反対し、抵抗した人びとも、ごく少数ながらたしかにいたことを忘れてはなるまい)、自分たちが行なったことを弁護するための論拠になりはしない。

 要は「あの戦争」が、日本が他国に攻め入ったことによっておこった侵略戦争であることを認識できるか否か、また侵略された人びとの側から見たら自分たちの思想と行動がどのように見えてくるかを想像できるか否かの問題なのだが、軍人恩給についてのこの考察のしめくくりに、再度松浦玲氏の言葉を引用させていただくことにする。

 

 この前の戦争を善かったとあからさまに言う人はいない。その戦争の基礎にあった八紘一宇だとか大東亜共栄圏だとか、天照大神の子孫で現人神の天皇をいただく日本人の使命だとか、そんなイデオロギーを今も信じている人も、ほとんど無い。

 しかし、それらのもろもろが、そのときの国の方針としてやられたのであるからには、それに忠実に従ったものは、いまもなお評価されるべきと、日本人の大多数が思っているのである。

 つまり日本人は、“いまからみれば誤っていたが、当時としては正しかった”という不思議な戦争を戦ったのであり、しかも、その“いまからみれば誤っていたが”は、実質的には“今からみても正しかった”という方向にかなり転化している。

 

 いや、あの戦争は誤っていました。間違いなくそう思っています、といくら口先で言っても、だめである。自分自身の軍人恩給を拒否し、また自分自身の勲章伝達や、肉親への勲章授与を拒否して、はじめて、あの戦争が誤っていたと本当に思っていたことになるのだ。

(つづく)

〔初出:「私声往来第2号」1980年3月〕

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