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「サイードの命日に」「自分たちの言葉で語る─エドワード・サイードとパレスチナとインターネット」(ナブルス通信)
http://www.asyura2.com/0406/war60/msg/412.html
投稿者 シジミ 日時 2004 年 9 月 24 日 05:42:34:eWn45SEFYZ1R.
 

http://www.onweb.to/palestine/siryo/parry-said.html

サイードの命日に   編集部(ビー・カミムーラ)

エドワード・サイードがこの世を去って、9月25日(土)で1年を迎えます。

娘のナジュラさんが明かしたところによると、サイードは最後の数日、おおっぴらに泣いていたそうです。パレスチナのために。そして、書いて、書いて、書きまくる自分自身のエネルギーと明晰性が失われたことに対して──。

サイードが闘病の最後の最後まで書くことに情熱を傾けていたことを思うと、書かれなかった=届くことのなかった言葉に思いが行きます。けっして埋めることのできない喪失感とともに。

けれども、サイードが遺していったものは学問や思想の領域に留まらず受け継がれ、広い場所で「サイードの子どもたち」が生まれていることを私たちは目にすることができます。

数々の賞を受賞し、ときには月間100万人のビジターが訪れるという「パレスチナ」を伝えるウェブサイト『エレクトロニック・インティファーダ(EI)』を立ち上げたひとり、ナイジェル・パリーがサイードに端を発したひとつの変奏曲(ヴァリエーション)を記しています。

このウェブサイト『エレクトロニック・インティファーダ(EI)』は、イスラエルの右派新聞『エルサレム・ポスト』までもが「プロフェッショナルの手による、ユーザーフレンドリーで、よい記事が多いウェブサイト。パレスチナ人のCNN」と評した独立したオルタナティブ・メディアで、商業的メディアが伝えないイスラエル─パレスチナ紛争の側面を伝えてきました。ニュースからパレスチナの日常スケッチ、メディア検証、アート紹介、政治的・経済的分析、イスラエルロビーウォッチと多様なベクトルでの記事がピックアップされ、日々、伝えられています。


このサイトが生まれてくる背景にサイードがいたということを設立者のひとりであるナイジェル・パリーは、サイードが亡くなった日に追悼として書き記しました。

1年前に書かれたものですが、ナブルス通信もネット上でパレスチナからの声を伝えていこうとしている「ちいさな仲間」として、サイードを偲ぶためにこの記事を送ることにしました。

ここには初めてパレスチナ人が自分たちの言葉を世界に語るインターネットを持った瞬間も書かれています。[ナブルス通信]


自分たちの言葉で語る──エドワード・サイードとパレスチナとインターネット

Permission to Narrate:Edward Said, Palestine, and the Internet
ナイジェル・パリー/ Nigel Parry
エレクトロニック・インティファーダ
2003年9月25日

 エドワード・サイードのことを考える時、いつも頭に浮かんでくるフレーズがある。それは、サイードが1984年2月の『ロンドン・レヴュー・オヴ・ブックス』に寄せた小文のタイトル、「語ってもよい」という言葉だ。

 語ってもよい。この言葉には、パレスチナの人々は国際社会によって「語ること」を徹底的に拒絶されてきたというサイードの思いが表現されている。そして、シオニストの架空の物語──「無人の地パレスチナは、何世紀にもわたって差別に耐えてきた世界中のユダヤ人にとって格好のホームランドとなり、その不屈の働きによって、不毛の砂漠から豊穣のエデンへと奇跡的な変容を遂げた」という一方的な作り話──に幻惑されてきた世界に向けて、パレスチナ人がみずからの歴史を伝える力が集約されている。

 一連の著作を通じて明瞭な言葉でパレスチナの物語を語りつづけてきたサイードは、1999年に発表された自伝、『遠い場所の記憶』*1で、こう書いている。

 「まもなく気がついたのは、常に権威(オーソリティ)を警戒していなければならないこと、そして、私の発言を封じたり本当の私であることから逸脱させようとする試みと考えられるものに屈することがないよう、何らかのメカニズムを作り上げ、進んでいく必要があるということだった。彼らがこうあってほしいと望んでいる、そんな存在になってはならない。この過程の中で、私は、生涯続くことになる闘いに踏み出し、権力の偽善と恣意性を覆い隠しているヴェールをはぎとる試みに着手した。この権力のオーソリティが依って立つところと言えば、100パーセント、自分たちは誰にも非難されるいわれのない善なる意図のもと、誠実に行動している『モラルの代行者』だという、イデオロギー的な自己イメージでしかなかった」

 サイードはおびただしい個人攻撃を受け、彼はイスラエルとの和平に反対する政治的過激派だというイメージを植えつけようとする陰湿な試みも繰り返された。けれども、イスラエル/パレスチナの未来に関するサイードのヴィジョンは確固として揺らぐことはなかった。パレスチナ人とイスラエル人は、ユダヤ人であろうとアラブ人であろうと、そこに住むすべての人々の権利を守る民主国家において、ともに暮らしていくことができる──サイードのヴィジョンは、この強い信念に基づいている。

 1995年、僕は、ビールゼイト大学[ヨルダン川西岸地区ラマッラー近郊にある、パレスチナを代表する大学のひとつ]のウェブサイトを立ち上げる一員として働いていた。その時、僕の意識にははっきりと、サイードの「語ってもよい」というフレーズがあった。ビールゼイト・ウェブチームは、僕たち自身の「語ってもよい」の実践に踏み出そうとしている。いろんなニュースを載せたウェブサイトを作って普遍的な価値を伝え、学問の世界の自由の確立に邁進し、大学キャンパスと周辺のパレスチナの町や村に文化を育てていくのだ。僕は、そんな思いに奮い立っていた。

 サイードがガンとの長い闘いののち、この世を去った今日からちょうど7年前の1996年9月25日、ビールゼイト大学の学生たちは、抗議デモのためにエルサレムに向かった。パレスチナの首都であるエルサレムの境界をイスラエルが一方的にコントロールしていることに、学生たちの不満はつのる一方だった。そこに、当時のイスラエル首相ネタニヤフが、アル・アクサ・モスクと岩のドームがあるハラム・アッシャリーフの丘をぶち抜く地下トンネルを掘る許可を出したため、みんなの怒りが頂点に達したのだった。*2

 このデモはシンボリックな道程でもあった。ラマッラー近郊の大学からエルサレムまで車だと20分。その間に、様々なイスラエルの「態度」を見て取ることができる。ラマッラーのはずれまで来ると、学生たちはバスから降りて、廃棄された古タイヤに火をつけた。タイヤを燃やすのは、目の前にいるイスラエル占領軍に向かって、来るなら来てみろという、パレスチナの若者の間に広く行きわたっている挑発行動だ。

 オスロ合意のもと、パレスチナ人居住地域でのイスラエル軍の大規模な配置転換が実施されて9カ月、依然としてイスラエル軍による封鎖と土地の没収は続き、時にパレスチナ側の武装グループの自爆攻撃も起こる厳しい状況ではあったものの、公の活動レベルでのイスラエル軍とパレスチナ警察のリレーションシップは何とか維持されていた。そして、双方の側の多くの人がまだ、オスロ合意は、よろよろとした足どりではあっても、この地での1世紀に及ぶ紛争に何らかの解決をもたらしてくれるだろうという期待を抱いていた。

 しかし、その日、パレスチナの学生たちの、いつもながらの投げても届かない場所からの投石と、同じく、まるで効果のない散発的な火炎瓶(モロトフカクテル)投擲に対して、イスラエル軍は異常な狂暴さで応じた。それは、その時、現場にいた筋金入りのパレスチナ人活動家たち、第1次インティファーダの数々の衝突をくぐり抜けてきたつわものたちにさえショックを与えるほどのものだった。燃え上がるタイヤを調べにやってきたイスラエル軍は、ためらうことなく、学生と、途中からデモに加わったラマッラーの住人たちに向けて、実弾とラバーコートメタル弾を区別せず発射しはじめた。この虐殺行為の始まりを、それぞれ個別に目撃していた複数の友人の言によれば、兵士たちは誰かが銃弾を受けて倒れるたびに歓声を上げ、ハイタッチを交わしていたという。イスラエル兵のライフル射撃は正確で、友人のひとりは、その様子を「銃弾1発で死者1名」と表現した。

 現場にいたパレスチナ人警察官の多くは、海外か、国内のあまり人口の多くない場所から呼び集められた者ばかりで、これほどの暴力が自国の人に向けられるところなど一度も見たことがなかった。警察官が何もできずにいる間に、数人のパレスチナ人のデモ参加者が無意味に撃ち殺された。そして、イスラエル軍が、パレスチナの自治区域であるラマッラーに侵入し、事態を眺めていた警察官のひとりを撃った時になってようやく、パレスチナ警察は応酬を開始した。自分たちの絶対的な強さを信じて疑わないイスラエル軍は、オスロ合意によって変わったひとつの重大な事実を忘れてしまっていた。それは、自分たちが、武器を持つ訓練されたパレスチナ人の目の前で、「今回は」人道に反する犯罪行為を行なっている、ということだ。

 続く激烈な戦闘で、11人のイスラエル兵が死んだ。この戦闘では、イスラエルのコブラ攻撃ヘリと機関銃による一帯の一般居住区域への猛烈な掃射爆撃がなされ、周辺の丘には戦車がずらりと配備された。世界各国の報道陣が現場に到着したのは、こうした決定的な事態が起こった最初の2時間が過ぎてからのことだった。のちに彼らが伝えた「現実」は、現場にいた2000人あまりのパレスチナ人と十数人の外国人支援者(インターナショナルズ)が目撃したこととは、あまりにかけはなれていた。

 ラマッラーでのその日、ほんの数時間の間に、パレスチナ人7人が殺され、263人が負傷した。夜になって、僕はラマッラー病院を一巡した。今日、最初に殺されたビールゼイトの学生、ヤセール・アブドゥル・ガーニの母親と妹の悲しみに打ちひしがれた顔を見た。病院の壁はいたるところ血に汚れていて、医療スタッフは壁の血を拭き取る暇もなく、生きている人の体から流れ出る血を止めようと絶望的な努力を続けていた。集中治療室で、僕は、生命維持装置につながれて呼吸だけ続けているヤセールを見つめた。集中治療室にいる者は、ヤセールを含めて全員が、頭か胸を撃たれていた。

 その晩のTVにあふれかえったメディアの報道と、翌日の街頭に並んだ新聞の一面には、イスラエルの広報担当官、ドーレ・ゴールドの何とも一方的な言葉が引用されていた。いわく、「パレスチナ人は、われわれが供与した銃でわれわれを撃ってきた」。現場で事態を目撃していた僕たちの多くは、この不公正な扱いに、はらわたが煮えくりかえる思いを味わいながら、同時に、イスラエルのやり口に「はらわたが煮えくりかえる」しかない自分たちの弱さ、無力さをつくづくと感じてもいた。

 ビールゼイト大学コンピュータ・センターの所長、マルワン・ターラジが、僕のオフィスのドアをたたき破らんばかりの勢いで開いて怒鳴った。「われわれは何かをしなくちゃならん。そこで何をぼんやり待っているんだ!?」 この一喝で、ようやく僕にも、なすべきことの全体像が見えてきた。そうだ、僕たちの側の「語ってもよい」ストーリーを、目の前にあるウェブサイト、www.birzeit.eduに載せるのだ!

 それからの4日間──この暴力の爆発は、最終的に88人のパレスチナ人と16人のイスラエル人の命を奪い、パレスチナ人の負傷者は数千人に達した──、僕たちグループは昼夜を徹してサイトの作業に没頭した。天安門広場で民主化を求めた中国の学生たちがeメールを使って政府の弾圧の実態を世界に向けて発信したように、世界の片隅の紛争領域の住人が、史上初めて、ウェブを使って自分たちのストーリーを語ったのだ。僕たちの装備は貧弱きわまりないもので、次から次に問題が起こった。ストライキのおかげで包囲下にあるラマッラーの写真ショップがすべてシャッターをおろしてしまい、数日間、事件の様子を撮ったフィルムを現像できないという状態にもなった。それでも、僕たちはやれる限りのことをやった。そして、それは充分以上のものだったことがわかった。

 僕たちのサイトの「ラマッラーの現場で:ある街からのレポート」はいわば戦場となり、この最も早い時期のオルタナティヴ・メディアの実験に参加した者にとって、その後の人生を決定づける体験となった。現在のネット上にあふれるサイトに比べれば、ごくごく初歩的なものではあったけれど、時々刻々更新される記事には大勢の人が押し寄せて、僕たちの「未承認ヴァージョン」の真実の声に耳を傾けてくれた。この時初めて、僕は、声なき者に力を与えてくれるインターネットの潜在力の大きさを、全身で体験させられた。筋金入りのジャーナリスト、故アボット・ジョウゼフ・リーブリングの言葉を借りれば、まさしく「『報道の自由』が保証されるのは、唯一、自分自身の報道の手段を持っている場合のみ」ということになる。

 この体験は様々なプロジェクトを生んだ。僕自身は、1995年12月、イスラエルがオスロ合意の配置転換条項によってラマッラーから退去した直後に始めた「パーソナル・ダイアリー:イスラエル/パレスチナ紛争」を続ける決意を新たにし、結局、オスロの日々をつづったこのフォトストーリーは4年間にわたって掲載されて、現在までにゆうに100万人を超える人たちに読まれている。また、1996年9月の出来事をフォローアップする1年めの特別企画、「1996年9月メモリアル」では、1年前に殺された88人のパレスチナ人のうち数人の個人的なストーリーをまとめて、掲載した。

 2000年9月に第2次インティファーダが勃発すると、ビールゼイトでのふたつのプロジェクトにかかわっていたメンバーの多くが新たなチームを結成し、「Addameer's September 2000 Clashes Information Center」サイトを立ち上げた。その後、2001年にスタートしたエレクトロニック・インティファーダは、以来、姉妹サイトのエレクトロニック・イラクともども、継続的な、そして、より多くの人に支えられたプロフェッショナルな形で、サイードの「語ってもよい」というフレーズを実践しつづけている。

 サイードは、パレスチナのリーダー的立場にある人たちからは敬意を払われなかった。僕がパレスチナに住んでいた時期に、堕落した抑圧者アラファトは、サイードの2冊の著書のアラビア語版の出版を禁止した。この2冊は、オスロ・プロセスと、その交渉・実行に際してパレスチナのリーダーたちが犯した過ちを徹底的に批判したものだったが、アラファトは何とラマッラーの書店に治安部隊を送り、文字どおり本をかっさらっていかせるという行動に出た。BBCの「ワールド・サーヴィス」レポートで、怒ったサイードのインタヴューが流された。続いて、パレスチナ自治政府高等教育大臣のハナン・アシュラウィが登場したが、彼女は、「サイードは少しばかり頭に血がのぼりすぎて、どうでもいい事を大袈裟に騒ぎ立てている」と言わんばかりの口調で、インタヴューを鼻先であしらった。また、少しあとのこと、アラファトがヨーロッパのある国を訪問した際に、パレスチナの大使が直接、車中でこの問題を持ち出し、アメリカで最も著名なパレスチナ人の学者の著書を発禁にするのは、言論の自由という権利の上に創設された国の国民に反感を抱かせるだけの結果しかもたらさないのではないかと言ったところ、アラファトは金切り声を張り上げて、「エドワード・サイードなんぞくそくらえ! あいつの話は二度とするな!」と怒鳴ったという。

 1997年の2月、サイードはベツレヘム大学で講演をした。僕は講演会には行けなかったのだが、あとで仲間がスピーチの内容を教えてくれた。サイードは、シカゴで活動しているパレスチナ人の話に触れ、会場を埋める聴衆に向かって、こんなふうに語ったということだった。「メールチェックをするたびに、ひとりのパレスチナ人の若者から必ず、メールのコピーが来ているのに気づきました。それは、彼が、ラジオやTVの記者、新聞の編集者たちに、それぞれのパレスチナ関連の報道について、メールで送ったコメントでした。この若者、アリ・アブニマー*3は日々、インターネットという有力な手法を使って、自分自身のヒストリーをつづっているのです」

 翌日、僕は早速アリにメールを送って、僕もメールリストに加えてくれるようにと頼んだ。アリが送りつづけてきたメールは、パレスチナ人の視点から合衆国メディアを批判するという姿勢を明確に打ち出してしているもので、そのアーカイブはとてつもない批評の宝庫だった。それから2年間、僕たちはメールの交換を続けた。そして、1999年2月、「パレスチナの不確実な状況:リサーチの将来」と題されたシカゴ大学でのコンファレンスで、ついに僕はアリと会った。アリは、このコンファレンスのスピーカーだった。同じコンファレンスで、僕はサイードとも初めて対面した。僕の名前を聞くや、サイードは、僕たちがビールゼイトでやった仕事について賞賛の言葉を述べてくれたが、「ただ」と告白するように「自分はウェブの知識がほとんどなくて、情報ツールとしてはメールのほうを好んでいる」と言った。

 僕は言った。「ご存知ではなかったでしょうか。僕たちが、こんなウェブサイトとメールリストを作ろうと考えたヴィジョンの核心には、あなたがパレスチナ人に与えた『語ってもよい』という言明があったんですよ」

 サイードは、正真正銘、驚いたという表情を見せた。一瞬、考え込み、静かな笑みを浮かべたのちに、「今の話を聞かせてくれてありがとう。今度ニューヨークに来たら、ぜひ寄ってくれるように」と言った。残念なことに、その時すでに進行していたサイードの病によってニューヨークでの再会は果たされることなく終わった。

 今朝、エドワード・サイードは戻ることのない旅に立った。彼が残した著作と言葉(レキシコン)は、パレスチナの未来に関心を持つ、ある世代の人たちに多大な力を与えてきた。サイードは、エレクトロニック・インティファーダをはじめ、同じような多くのウェブプロジェクトが生まれる直接的なきっかけを与えてくれたと同時に、ひとりひとりの人間──僕自身やエレクトロニック・インティファーダの創設者たち、そして、争いのない公正な世界の実現のために献身しつづけている何万人もの人たちに、インスピレーションと励ましとを与えてくれた。

 サイードは、これからも大勢の人に惜しまれ、語り継がれていくだろう。そして、僕たちは、サイードと同じ時代を生きられたことを、いつまでもうれしく思いつづけるだろう。
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翻訳:山田和子

原文:
http://electronicintifada.net/cgi-bin/artman/exec/view.cgi/7/1975
初出はエレクトロニック・インティファーダ、2003年9月25日

[編集者註]
*1  『遠い場所の記憶』 Out of Place:A Memoir, 1999/邦訳=中野真紀子訳、みすず書房、2001年

*2  第1次インティファーダ(1987〜1993年)と第2次インティファーダ(アル・アクサ・インティファーダ、2000年9月29日〜)の間に起きた、この1996年9月25日に始まるデモと弾圧は、「トンネル・インティファーダ」として知られている。

*3  アリ・アブニマー(Ali Abunimah)は、こののち、ナイジェル・パリー(Nigel Parry)、アルジャン・エル・ファセド(Arjan El Fassed)、ローリー・キング・イラーニ(Laurie King-Irani)とともに、2001年、エレクトロニック・インティファーダを創設する。
『エレクトロニック・インティファーダ』:
http://electronicintifada.net/new.shtml

[参照]
"'On the ground in Ramallah' Diary"
http://nigelparry.com/diary/war/waressay.html
http://nigelparry.com/diary/war/index.html

"Addameer's September 2000 Clashes Information Center"
http://www.addameer.org/september2000/

※日本語でもパレスチナのことを伝えるウェブサイトは数多く作られ、たくさんの文章がウェブ上で発表されています。さまざまなそれらの情報をつなぎあわせる試みとして「パレスチナ情報センター」がほぼ1年前に発足しました。
http://palestine-heiwa.org/
サイードの文章の邦訳は以下にかなりの量が集められています。
http://palestine-heiwa.org/ac.html#3
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◇P-navi info 
[ほぼ毎日更新中。編集者ビーのblog。速報、インフォ、コラム]

(編集責任:ナブルス通信)

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