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「ヴェネツィア派の誕生」と歴史的リアリズムの意味(1/3)
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投稿者 鷹眼乃見物 日時 2004 年 12 月 22 日 20:03:55:YqqS.BdzuYk56
 

「オランダの光」と「ヴェネツィアの光」の出会い

 知的概念を前提としつつ図像とパースペクティブ構成を表象したフィレンツェ派と比較すると、ヴェネツィア派絵画の特徴は先ず“何よりも感覚レベルに強い関心を持つ”ということです。このためヴェネツィア派の画家たちは、図像デッサンの脇役として色彩を使うのではなく、アドリア海の光を満身に浴びて煌くような美しい色彩そのもののため、つまり、あくまでも自らの色彩官能を満たすために絵画を制作しました。

 このようなニーズに相応しい技術的条件を与えたのが、15世紀後半にフランドルからイタリアへ伝わった油絵具(テンペラ技法より御しやすい描画技法)の使用であり、ヴェネツィア派の画家たちは次第に油絵具の使用を主とする絵画制作へと傾斜して行きました。この時代のフランドル(ブリュージュ、アントワープ)とヴェネツィアはヨーロッパの北と南を結ぶ二大交易拠点として、国際的で活発な経済活動の場として重要な役割を担っていました。ヴァザーリによれば、イタリアの画家アントネッロ・ダ・メッシーナ(Antonello da Messina/ca1430-1479)がネーデルラント地方に旅行した(未だに確証はないが・・・)とされており、その折に彼は、アイク兄弟の中でも特に(弟)ヤン・ファン・アイク(Jan van Eyck/ca.1390-1441)の強い影響を受けて帰国し、ヴェネツィア派の絵画に大きな影響を与えたとされています。そして、ヴェネツィアに2年間にわたり滞在したアントネッロは、イタリアで油絵の技法に熟達した最初の画家となります。

 ところで、ヴェネツィア派絵画の「光と色彩」に決定的な生命力を与えたものがもう一つあると考えられます。それがムラ-ノ島を中心に生産され続けてきたヴェネツィアン・グラス(ガラス)の伝統です。都市国家・ヴェネチアの原型が成立したのは6世紀頃で、その政治の中心地は現在のヴェネツィアから北東約10kmに位置するトルチェッロ島にありました。1960年代の初め、ポーランドの考古学者らが、この島で7〜8世紀ころにガラスを溶かした窯跡を発見していますが、ここから出土したガラス工芸品を分析した結果トルチェッロ島のガラス技術は北イタリアのフリウリや中部イタリアのラヴェンナとともに北アフリカ・アレキサンドリア(イスラムのガラス技術)の影響を受けたものであることが分かってきたのです。

 8世紀に入り、フランク軍(カロリング朝、王ピピン)に追われたヴェネチアの人々は、現在の都市ヴェネツィアが繁栄しているリアルト島へ移り住むようになりました。やがて、市庁舎を始めとする主要な中枢機能(役所など)がリアルト島へ移動し、サンマルコ寺院が建てられた(829年)ころには行政中枢としてのトルチェッロ島の役目は終わりました。そして、この時代にトルチェッロ島のガラス工芸技術がヴェネツィア本島(リアルト)に伝わったと考えられるのです。

 ところで、イタリア半島ではローマ帝国時代にガラス工芸史上で画期的な「吹きガラス技術」の発明(BC1世紀、ローマ帝国の属州シリア(将軍ポンペイスの支配の頃)のシドン周辺の工房で発明されイタリア半島へ伝わり洗練された)という技術革新が起こっていましたが、この優れた技術で生産されたローマン・グラス製品は、アフリカ・イギリス・スカンジナビア・ロシア・中国・朝鮮・日本という驚くべきほど広大な古代世界へ遍く伝播して行きました。しかし、このガラス技術に代表されるローマ文明のグローバルな席巻は、傭兵隊長オドアケルのクーデタで起こった「西ローマ帝国の滅亡」(476年)によって終止符が打たれます。このような訳でイタリア半島全域で優れたガラス工芸は盛んであったのですが、その中でもとりわけ北イタリアのアクイレイア(Aquileia)のガラス工芸技術は他を抜いていました。現在のアクイレイア市はトリエステに近い人口3千人ほどの小さな町ですが、古代のアクイレイアは海上貿易が盛んな港湾・商業都市であったためビザンツ(東ローマ帝国)、レパント地方、地中海東岸地方及びアレキサンドリアとの交流が盛んに行われていました。そして、最近の研究によると古代アクイレイアのガラス製品とトルチェッロの製品は技術的に共通性のあることが分かってきました。

(注)Aquileia
・・・アドリア海から約25キロ内陸の標高154メートルの盆地で、町の起源はローマ時代に防衛上建設された都市アスクルム(Asculum)まで溯る。ローマ帝政時代には大都市となるが、452年にフン族の大王アッティラ(Attila/位433-453)に略奪されて市民たちはヴェネツィアに逃れた。6世紀にはランゴバルト族(東ゲルマンの一部族/6世紀に北イタリアに王国を建てたが、774年、フランク王カール大帝(Karl/Charlemagne/位768-814)に滅ぼされる)に支配され、カトリック司教座、首都大司教座(Metropolitan)、アスコーリ公国(11世紀〜)などの曲折を経て、1445年以降はヴェネツィアの支配下に入る。現在は、ヴェネツィア・ジュリア州ウディネ県の人口が約3,000人の村で、ローマ時代の遺跡と司教座聖堂が世界遺産に登録(1998)された。4世紀初め頃に、アクイレイアの司教テオドルスが建てたイタリア半島で最も古い教会の一つとされるバシリカが残っている。

 14世紀の初め頃、ガラス工房(窯)からの出火で火事(大火)が多発したためヴェネツィア市街にあったガラス工房とガラス職人たちの一切が強制的にムラ-ノ島へ移住させられました。これ以降、ヴェネツィアのガラス工芸はムラ-ノ島の中に強制的に閉じ込められることになり、島から出たガラス職人は死罪とさえなりました。しかし、ヴェネツィアのガラス職人たちはムラーノ島に居るかぎりは非常に手厚く保護され王侯貴族のような生活を送ることができたのです。考えてみれば、これは当時の世界に類例を見ないほど卓越したヴェネツィア共和国の伝統(ローマン・グラス工法の嫡子的存在)と、当時の先端的なガラス工学技術を死守するための強制保護という、いわば国策的な経済特区政策のようなものであったと思われます。

 現在のムラーノ島(ベネチアの北、約1.5kmに位置する)は、ヴェネツィアン・ガラスで有名な島となっており、サン・マルコ広場またはサンタ・ルチア駅前の乗り場からヴァポレットと呼ばれる水上バスで訪れることができます。また、ムラーノ島全体がガラス工芸で賑わう観光地という訳ではなく、静かな住宅地となっている部分も存在します。

 ローマ帝国時代以降のイタリア半島におけるガラス工芸技術の流れを概観すると美術史上の画期的なエポック(盛期ヴェネツィア派、フェルメール、ロココ絵画、ドラクロワ、ターナー、バルビゾン派、印象派、ルドン、ナビ派、クリムト、マティスなど、いわゆる色彩派(コロリスト)及び外光派の流れの端緒になったという意味で)を創造したヴェネツィア派絵画がムラーノ島に絵画工房を持ったVivarini Family(ヴィバリーニ一族)から始まったということ(以下の“初期ヴェネツィア派”で詳述)は、偶然の出来事だと片付けてしまう訳にはゆかないと思われます。(無論、このような考え方は従来の美術史アカデミズムでは殆ど受け入れられていません・・・)なぜなら、ムラーノ島にこそローマン・グラスの本流たる伝統技術が集約し注ぎ込まれたのであり、ヴェネツィア周辺に絶えず満ちている程よく湿った大気に映る「ヴェネツィアの光」がローマン・グラスのプリズムを通して比類なく輝きながら虹を帯びた妖しい放射光となることをムラーノ島の住人たち、とりわけガラス工芸に携わる工人たちが気づかぬ筈はなかったからです。

 特に、クリスタル・ガラス(プリズム)を透過した光が白色光から分光された単色光であることに注目しなければなりません。ずっと後の時代(17世紀)になってニュートンがプリズムによる太陽光のスペクトル分光で白色光がおおよそ七つの単色光に分解されることを示し、スペクトルで分光された色の中から任意の二つの色を選んで混合すると自然光の中で存在する他の色(固有色)と同じになる「加算混合の原理」(科学的現象としての真実)を実証するより遥か以前の時代に、驚くべきことにも彼らは、この「加算混合の原理」をガラス工芸技術に伴う“体験知”として既に認識していたと考えられるのです。

 ガラス工房が集積したムラーノ島に住む ヴィバリーニ一族(Vivarini Family)などのヴェネツィア人たちは、彼らが生きるその時代の実生活とヴェネツィア(ムラーノ島)という自然・文化・経済の特別なエコロジー環境の中でこそ、この地にしか存在し得ない、時には天空の星々のように煌き、時には朝霧の霞のなかで滲むようで精妙な「ヴェネツィアの光」の存在に気づかぬ筈はなかったのです。

 つまり、最盛期に入る14世紀以降のヴェネツィア共和国の繁栄を支えたのはビザンツ(東ローマ帝国)、レパント地方、地中海東岸地方及びアレキサンドリアなど、東方(オリエント)及びアフリカ北西部(マグレブ)との交易活動であり、これらの地域との貿易港としてのヴェネツィアには異国情緒豊かで多様な色彩を放つ数多のエキゾティックで物珍しい物産が集積していたのです。それゆえ、このように個性的なヴェネツィアの“自然・文化・交易経済”環境こそが、空気に溶け込むようにフラジャイルでありながらも、時には目くるめくようで誘惑的・官能的な色彩を帯びる「ヴェネツィアの光」のもう一つの光源となったのです。

 なお、アントニオの弟バルトロメオ・ヴィバリーニ(Bartlomeo Vivarini/1432-ca1491)はアントネッロ・ダ・メッシーナから油彩画の技法を学び、その技法はアントニオの子アルヴィーゼ・ヴィバリーニ(Alvise Vivarini/1445/46?-1503/05?)が受け継ぎました。アルヴィーゼはジョヴァンニ・ベッリーニからも学び、メッシーナとジョヴァンニ・ベッリーニも交流があったとされています。

(関連URL)
http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/
http://takaya.blogtribe.org/archive-200412.html

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