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プラトンとアリストテレスとの違い 松浦明宏(東北大学) −それは、理想主義と現実主義の差なのか
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投稿者 乃依 日時 2005 年 1 月 11 日 16:07:14:YTmYN2QYOSlOI

http://www.swansongfeels.com/aristotle1.html

  プラトンとアリストテレスとの違い
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松浦明宏(東北大学)
Akihiro Matsuura
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これからアリストテレスの哲学について述べていくことにします。その序論としてアリストテレスの生涯の話をするつもりですが、その前に、序論の序論という意味で、これまで哲学講義の中で見てきたプラトンとの違いについて、簡潔に見ることによって、アリストテレスの哲学のおおまかな特徴を捉えることから始めたいと思います。

プラトンは理想主義者であり、アリストテレスは現実主義者である、とよく言われます。プラトンはイデアという感覚世界から離在するものを実在と考え、感覚的事物を実在と見なさなかったのに対して、アリストテレスは感覚的事物を実在と考え、感覚世界から離在しているイデアは感覚的事物の生成変化を説明できないから無用であると考えた。これは政治や倫理の場面ではなくて自然学や形而上学が問題になる場面での話ですが、いずれにせよアリストテレスがプラトンに比べると、われわれにとって身近な世界に注意を払っていたことに違いはないでしょう。

ここで、ソクラテス以前の時期を哲学の揺籃期、ソクラテスを理想主義の萌芽、プラトンを理想主義者、アリストテレスを現実主義者としてみましょう。そしてまた、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった黄金時代が過ぎ去った後のヘレニズム時代には、エピクロスやストア派といった、一種の諦念の思想が主流となったことや、紀元後には、プロティノスやプロクロスといった新プラトン主義者たちが神秘的な哲学を展開して古代哲学の終焉を迎えた、ということを考えれば、ソクラテス以前の哲学者たち→ソクラテス→プラトン→アリストテレス→エピクロス・ストア派→新プラトン主義者という哲学者の系譜は、順に、哲学の幼年時代→少年時代→青年時代→壮年時代→老年時代→死後の世界ということになるでしょうか。哲学は、プラトン哲学において理想に燃える青年時代をおくり、アリストテレス哲学においてその理想が現実主義的な形で結実し、エピクロスやストア派の哲学において、「今までいろいろやってみたけれど、結局だめでした」と諦めの境地に至って死を迎え、新プラトン主義に至っていわば「あの世の哲学」という形で幽霊のように現れた、というわけです。何かこういう仕方でギリシア哲学全体の流れを捉えれば、何となくではありますが、アリストテレス哲学の位置がわかるのではないかと思います。

このように言うと、おのおのの哲学者についての専門家からは、ただちにお叱りをうけるであろうことは容易に予想できますが、私がここに書いているのは、研究論文のような厳密な話ではなくて、ちょっとしたたとえ話を話しているだけです。その点、誤解なさらないでいただければと思います。

さて、諦念の哲学や幽霊の哲学も興味いものであり、いずれ機会があればこれらについてもお話したいと思っていますが、さしあたりは、理想の哲学と現実の哲学の話に話題を限定しましょう。プラトンとアリストテレスとの違いの話でしたね。プラトンとアリストテレスとの違いについて述べる場合には、ルネッサンス時代の画家ラファエロの作品『アテネの学堂』がよく引き合いに出されます。

たとえば、次のサイトなどをご覧いただければ、画像を見ることができます。
http://www.christusrex.org/www1/stanzas/Aw-Athens.jpg(全体像)
http://www.christusrex.org/www1/stanzas/Ad-Plato.jpg (プラトンとアリストテレス)

この絵の中央に位置する二人の人物のうち、右手を上に向け、天を指差している方がプラトンであり、右手を前方に差し出して、手の平を地面に向けている方がアリストテレスです。両者とも左手に書物を抱えており、プラトンが持っているのは『ティマイオス』、アリストテレスが持っているのは『ニコマコス倫理学』です。

『ティマイオス』といえば、プラトンの対話篇のうちでイデア論が最も顕著に現れた対話篇の一つです。中世においては、「哲学者」と言っただけでアリストテレスを指すほどアリストテレス哲学が主流となったわけですが、一説によれば、中世においてプラトンの著作として一般によく知られていたのは主にこの『ティマイオス』だったと言われます。この対話篇が宇宙創造の神話であり、そこに出てくるデーミウールゴス(イデアを模倣してこの世界を創造した者)等々が、キリスト教の教義の一つ「無からの創造」に通じるところがあると考えられたためなのか、あるいは、いわゆる「あの世」の存在を前提して大衆にそれを信じさせるという、特に中期以来顕著となるプラトンの「神」についての姿勢に何か政治的な意図があって、それがキリスト教の世界においても受け入れられたためなのか。いずれにせよ、プラトン哲学が何か神学的な色彩の強い哲学と考えられていて、その神学的要素がキリスト教世界にも受け入れられたため『ティマイオス』が重視されたのであろうことは想像するに難くありません。

それに比べると、アリストテレスは、プラトンほど神学的な要素を特徴とする哲学者としては見られてはおらず、その意味で「現世的哲学者」として見られていたということなのかもしれません。そのことが、『ティマイオス』と『ニコマコス倫理学』という対照となって、ラファエロの絵に現れていると考えることもできるでしょう。

ところが、『ニコマコス倫理学』は、最終的には「神的なものの観想」というところへ話が落ち着き、アリストテレスが神を見ることを人間の究極の幸福と考えていたことは明らかですし、未完に終わった『形而上学』において展開されている「第一哲学」と『自然学』との違いや、純粋形相、不動の動、完全現実態、といった仕方で、アリストテレス哲学においても神学的要素は多分にあります。したがって、アリストテレス哲学に神学的な要素が欠けていたということでは決してなく、それどころか、アリストテレスが『形而上学』をもし完成していたなら、ひょっとすると、プラトンと同等かそれ以上に神学的な哲学を体系的に記述したかもしれないのです。

その意味では、一般にプラトンとアリストテレスとの違いとして言われている、理想と現実という対照は、見ようによっては、単に、アリストテレスが自らの哲学を完成しないまま死んでしまったことによる一つの「見かけ」にすぎない、と考えることができるのかもしれません。

本当のところがどうなのか、今となってはもはや知る由もないわけですが、一方で、上述のごとく、プラトンを理想主義者、アリストテレスを現実主義者として見る見方があり、他方また、アリストテレスをプラトン哲学を発展させようと試みて挫折した哲学者と見る見方も全く不可能とは言えないように思えるのです。そうなると、アリストテレスという人は、或る意味では、プラトン以上の理想主義者だったということになるのかもしれません。むしろ、単純にアリストテレスを現実主義者だと考えてしまうよりは、そのように自らの仕事を完成しないままその生涯を終えた、悲運の哲学者と考えた方が、少なくとも私には、アリストテレス哲学全体が持つ意味・価値を理解しやすいように思えます。

もっとも、そうは言っても、残された著作だけを見る限りでは、やはり現実主義的色彩の濃厚な著作が多いことは確かなのですが。

ということで、今回はこのあたりで筆をおくことにします。次回は、アリストテレスの生涯について、もう少し詳しく見ておくことにしましょう。

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