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欧州連合秘史【第1部:CFRからビルダーバーグへ】(レッ・ボルテール)
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投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 1 月 27 日 08:52:54:SO0fHq1bYvRzo
 

欧州連合秘史【第1部:CFRからビルダーバーグへ】(レッ・ボルテール)


「表現の自由のためのレッ・ボルテール(スペイン語版)」に”Historia secreta de la Unión Europea(欧州連合秘史)”と題された記事がありました。2005年1月16日の日付を持つこの記事には「第1部:CFRからビルダーバーグへ」という副題がついていましたので、恐らく数回にわたるシリーズではないかと思います。(なお原文はフランス語で、これはそのスペイン語訳です。)

私はこのEU誕生までの欧州の歴史の中には、今後の世界のあり方を考える際に根本的に大切な要素が数多く含まれていると考えます。そこでこのシリーズを地道に翻訳して空耳版に投稿します。

なお私の翻訳の中で、フランス語やドイツ語などの地名や人名でカタカナで書いた発音のおかしなものがあるかもしれません。また団体名・役職名などが日本語での歴史解説書などにある言い方と異なっているものがあるかもしれません。その際には、お気づきの方はご遠慮なくフォロー投稿でご指摘・ご修正いただきたいと思います。(少々自身の無いものには原文を添えておきますので。)何せプロの翻訳家ではなく素人の個人ですので、その点はご容赦ください。なお、文中の(1)(2)等は本文にある注釈番号です。(注釈も本文の通りに載せておく事にします。)


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http://www.redvoltaire.net/article3503.html

表現の自由のためのレッ・ボルテール(スペイン語版) 
2005年1月16日

(フランス語版:レッゾー・ヴォルテール 2004年6月28日)
Première partie : du CFR au Bilderberg
Histoire secrète de l'Union européenne
http://www.reseauvoltaire.net/article14369.html


欧州連合秘史

第1部:CFRからビルダーバーグへ


[西ヨーロッパが解放された1945年以降、アメリカ合衆国と英国はヨーロッパ合衆国創設の再計画を決意する。何百億ドルも基金、CIAとJICがその共産主義の抑止のための道具を作るべく欧州主義の組織に資金を提供した。アレン・ダレス(Allen Dulles)とジョセフ・レティンジャー(Joseph Retinger)は欧州委員会と欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の創出に成功したが、欧州防衛共同体を押し付ける作業には失敗した。]


1922年にリカルド・デ・コウデンホフ-カレルギ(Richard de Coudenhove-Kalergi)伯爵がその有名な著作「汎ヨーロッパ、一つのプロジェクト」(1)を出版した。このオーストリア・ハンガリーの貴族はフランスの上級官僚ルイ・ルウショー(Louis Loucheur )(2)の分析を取り上げながら、近代の戦争が巨大な産業の力を必要とすることを証明した。それとは逆に、もし資源が共通の権威の下に置かれるなら大国同士の紛争は避けることができる。ドイツの石炭とフランスの鉄鋼が両国にまたがる一つの権威のコントロールの下にあるならこの2国の新たな戦争の回避が期待できるのである。

彼は次に、ジョバンニ・アグネリ(Giovanni Agnelli )(3)による、ナショナリズムの復讐心を解毒するものとしての欧州連邦主義に関する考察を集積しながら、彼の理論を続けていく。そしてアメリカ合衆国をモデルにしたヨーロッパ合衆国の創出を語ることによってもっとこれを進展させることを提案する。
その要点の部分で、一つのヨーロッパ権力の基盤作りを扱っている。それはアメリカ合衆国、ソビエト連邦、大英連邦といった新しいブロックに対抗する能力を持つ。ここで彼のヨーロッパはフランスからポーランドまで広がっていなくてはならないのである。

1926年にコウデンホフ-カレルギは一つの組織を作った。それが汎欧州連合であり、ウイーンで2000名を越える参加者が会議を開いた。その計画は主権国家間の平和な協力に関するものであった。
彼らは、地域民族主義が狂信的となり国民国家を破壊する力によって統一されたヨーロッパ、というファシストの視点には反対した。それは、ギロウム・アポリネア(Guillaume Apollinaire)、アルベルト・アインシュタイン、シグムンド・フロイド、トマス・マン、ホセ・オルテガ・イ・ガセット、パブロ・ピカソ、ライナー・マリア・リルケ、セイント・ジョン・パースといった知識人たちの指示を集めた。ノーベル平和賞を受賞したアリスチド・ブリアン(Aristide Briand )(4)がこの連合の会長に選ばれた。

30年代にはこの計画はアリスチド・ブリアンとエドゥアルド・ヘリオット(Edouard Herriot)によって政治的に支えられた。26カ国が一つのヨーロッパ連邦協会の一部を形作るために接触を図られた。一方では企業家であるジャン・モネ(Jean Monnet)がヨーロッパ連合の名称を確立するように提案していた。マネは当時まだ構成されていた国際連盟の事務次官であり、これが現実的なヨーロッパの政府間組織となると確信していたのである。残念なことにこれらの動きは遅きに失した。ウオールストリートの危機と危険な状態が勃興してくることに耐えることができなかったのである。


[西ヨーロッパのためのアングロ・アメリカの計画]

第2次大戦の終わりまで米国に亡命していたリカルド・デ・コウデンホフ-カレルギは、平和が確立され次第ヨーロッパに連邦組織を作るようにワシントンを説得するロビーの代表となった。彼の努力は1946年(5)の間にCFR(the Council on Foreign Relations:外交問題評議会)(6)によってその考えが採用されたときに花開いた。それはCFRの国務省に対する進言の中に盛り込まれたのだ。

その一方で、元英国首相ウインストン・チャーチルは1946年に「鉄のカーテンが欧州のうえに降ろされた」(7)と宣言した。西側を安定させて共産主義の浸透を食い止める必要があった。1946年5月8日、第3帝国崩壊1周年の際に、CFRの英国における姉妹組織、王立国際問題研究所(RIIA、「Chatham House」と呼ばれる)は、ワシントンとロンドンの共通の立場を表明した。同様のことがジョセフ・H・レティンジャー(Joseph H. Retinger)によって提示された。彼は元ファシスト・ポーランドの政府顧問で、ロンドンに亡命し(8)、女王陛下の秘密諜報員に変身していたのだ。

この立場はウインストン・チャーチルによって、彼流の「ヨーロッパ合衆国」(8)を語った際に、一般に知らされることとなった。しかしながら、この計画はコウデンホフ-カレルギと大戦間の民主主義者のそれとは比較のしようもないものだった。ロンドンとワシントンは英語で考えている。このコンテキストの中では、ヨーロッパは、彼らの間で協力し産業資源のある部分を一つの超国家な要請--- それはほぼ明らかに英語圏の帝国の言葉を使って発せられるものだが--- の権威の下に置くために招かれた国々の、星座のようなものであろう。その同盟は共産主義の影響を受け入れない自由な交易の広範な地域を形作るはずであった。


[西ヨーロッパでのアングロ・アメリカの行動が混乱し始める]

このプロセスが先行した。英国の機関はヨーロッパ協力のための独立連盟(Independent League for European Cooperation:ILEC)を作り上げた。ジョセフ・H・レティンジャーがその事務局長であり元ベルギー首相パウル・ヴァン・ゼエラン(Paul van Zeeland)が総裁であった。

本部はブリュッセルにあり、ドイツ、フランス(9)、イタリア、オランダ、ルクセンブルグ、そしてもちろん英国に、支部が置かれた。米国大使アヴェレル・ハリマンとラッセル・C・レッフィングウエルCFR委員長の主導権によって、米国内にも別に支部が作られた。ILECに課せられた役割は、一つの共通通貨を使う自由交易のヨーロッパ圏を推し進めることであった。

何週間か後、1946年の9月に、CFRの新しい委員長アレン・W・ダレスが、連邦主義者欧州連盟の創設に出資した。これはスイスのハーテンシュタイン(11)にあり、人格主義哲学者たち(12)、特にアレクサンドゥレ・マルク(Alexandre Marc)、デニス・デ・ロウジェモン(Denis de Rougemont)、そして元の抵抗戦闘団(Combate)の長ヘンリ・フレネイ(Henry Frenay)(13)たちが中心であった。

この連邦主義者欧州連盟に与えられた任務は、統一促進のために(つまり各国の主権喪失のために)公衆の意見を動かすことであった。それは現実の政治指導者が実行することのできないような事柄であった。

1947年1月にチャーチルは暫定欧州統一委員会(The Provisional United Europe Committee)を作り上げた。3月には上院議員J.ウイリアム・フルブライトの主導によって、上院と下院が「ヨーロッパ合衆国」を援助する法案を通した。議会はマーシャルプランを享受する国々にこの「合衆国」に参加するように要求した。

コウデンホフ-カレルギ伯爵の理想をアメリカのエリートたちの間で推進させるために、フルブライトは「自由で統一された欧州のための委員会」(The Committee for a Free and United Europe)を作り、ウイリアム・J.ドノヴァンとアレン・W.・ダレス(14)をその責任者に据えた。これが間違いの始まりだった。全員が「ヨーロッパ合衆国」のことを話すが、しかし誰一人同じ理解をする者はいなかった。

1947年の7月、CFRの刊行物はある匿名の記事を載せた。実際にはジョージ・F.ケナンの手によるものだったのだが、彼は共産主義の拡張主義の危険性を説明し抑止政策を推奨した。国防委員会はこの戦略を明確にさせた。つまりこうである。『第1段階』はアングロ・アメリカによって解放されたすべての西ヨーロッパ諸国による連邦という目標である。『第2段階』は中央・東ヨーロッパ諸国をソビエトの衛星諸国から離れさせてそれらを「ヨーロッパ合衆国」に集合させることである。(15)

1948年3月17日に、英国はブリュッセルでフランス、ルクセンブルグと、軍事協力条約に調印した。それは西ヨーロッパ連盟(WEU)の設立であった。チャーチルは、汎欧州連盟、ILEC、連邦主義者欧州連盟を一つにまとめるためにハーグである会議を招集した。5月の7日から10日までの間、800名の人間が彼の呼びかけに応じて、欧州運動を作った。
チャーチルの娘婿であるダンカン・サンディズがこの協会の会長に、ジョセフ・H.レティンジャーが事務総長に選ばれた。(16)しかしながら、この計画の成否はそのあいまいさが維持できるかどうか、にかかっていた。参加者たちは議論を促されたが、常にそれがかみ合うとは限らなかった。

コウデンホフ-カレルギにとっては事態を明確にさせる可能性を捨てることはできなかった。この欧州運動の指導者たち(要するに英国人たち)は、米国の同類たちとの協力関係を確立させるためにワシントンに駆け込んだ。しかし米国人たちは旧大陸の繊細さを全く理解していなかった。ワシントンは即座にフルブライト上院議員による委員会を作り、コウデンホフ-カレルギを隅に追いやった。そして新たなヨーロッパ建設を監督するための新たな機構が作られた。「統一欧州に関する米国委員会」(The American Committee on United Europe:ACUE)である。

その一方で、『第2段階』の見通しを持って、英国情報部統合委員会(Joint Intelligence Committee :JIC)の会長であるウイリアム・ヘイターは、鉄のカーテンの向こう側にとどまっていた諜報員の連絡網を作り上げた。このステイ・ビハインド作戦は捕囚欧州諸国会議(The Assembly of Captive European Nations :ACEN)を組織した。
最終的にローマ教皇庁がこの反共十字軍に巻き込まれた。ピウス12世は1948年9月に、ローマでの連邦主義者欧州連盟の第2回会議に出席した。(17)


[統一欧州に関する米国委員会]

ACUEは1949年5月にニューヨークにあるウッドロー・ウイルソン基金の本部に創設された。何の慎重さも無しに、その執行部会は米国諜報部員のメンバーの氏名を掲げた。会長がウイリアム・J.ドノヴァン(元OSS長官で後のCIA役員)、副会長にアレン・W.ダレス(元OSS、CFR会長、そして後のCIA長官)、執行部長にトーマス・W.ブラデン(元OSS、後のCIA副長官)である。同時に他の役員に、3名の米国労働総同盟・産別会議(AFL−CIO)(18)の諜報活動責任者であるデイヴィッド・ダビンスキィ、アーサー・ゴルバーグ、ジェイ・ラヴストウンが、重要な役を占めていた。

この委員会は最初の公開会議を1949年3月29日に、ウインストン・チャーチルの出席の元で、開催した。それは純粋に公式の公共活動を促進するCIAの非政府的ショーウインドウであった。その本当の機能は、すべてのヨーロッパ連邦主義組織に注意深く資金を提供することだったのだ。

その冒頭演説で、自由を閉ざされたヨーロッパ諸国のスポークスマンに挨拶を送るために、チャーチルは次のように述べた。「10の東ヨーロッパの首都がソビエトの共産主義政権の手の中にある間は、本当の平和はありえない。我々は鉄のカーテンの向こう側にあるこれらの国々と我々なりの関係を持っている。彼らはその代表団を我々の会議に派遣した。我々は彼らの考え、つまり新たな統一ヨーロッパに統合されることをいかに望んでいるか、を知っている。従って、欧州の全体的な統一が目的であり理想であり、それ以下のものではないことを、我々は確信しなければならない。」そして1949年4月4日に、米国、英国、カナダ、フランスは北大西洋条約機構(NATO)に調印した。

ACUEはウエストミンスター条約(1949年5月5日)の予備会議に資金を提供した。それは「自由世界」の政府の規範を定義し拡大する目的を持つ一つの組織を作った。欧州委員会である。その委員長にはベルギーの首相パウル-アンリ・スパーク(Paul-Henri Spaak)が選ばれた。

1949年8月にはソビエト連邦が最初の核実験を行い、ワシントンの驚愕を引き起こした。トルーマンはUSSRが共産主義の拡大のために軍事力を使う用意があることを納得した。ジョージ・F.ケナン将軍は同僚のポール・H.ナイツ(Paul H. Nitze)に取って代わられた。それ以降、世界は二つの中心勢力の間で引き裂かれた。このことがロンドンにとって好ましいと思われる同盟を相対化させた。そしてその結果、英国はその台座から降りてヨーロッパにまとまらざるを得なくなったのだ。これがロンドンの悲哀である。

ACUEは欧州運動に対する直接のコントロールを再び手に入れることを決意した。つまり、英国の方向それ自体を変えることである。知っての通りある危機が作られた。連邦主義者連盟のフランス人たちは指導的機構の中で代表権を持っていないことに反発して、一つの危機、つまり欧州運動へ資金提供するためにACUEによって利用された口実となる危機を作り上げた。
ダンカン・サンディズ(Duncan Sandys)委員長は1950年3月に辞めざるを得なかった。彼はベルギー人スパークと交代し、本部がロンドンからブリュッセルに移された。もう一人のベルギー人ボエル(Boël )男爵(19)が財務担当であった。


[ECSCの成功とEDCの失敗]

1950年の5月8日、アドルフ・ヒトラーの第3帝国崩壊5周年に、フランス外相ロベール・シューマン(Robert Schuman)が、ルイ・ルウショー(Louis Loucheur)とリカルド・デ・コウデンホフ-カレルギ(Richard de Coudenhove-Kalergi)の計画を実行に移し、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の創設を提案した。

シューマンはオプス・デイの本会員だった。このカトリックの隠された友愛は、不名誉な休戦に調印したフィリップ・ペタン(Philippe Pétain)内閣にシューマンが参画していた記憶を消し去ることができるほどのイメージを彼に与えていた。ニューヨークではアレン・W.ダレスがある報道機関会議を組織し、その中で米国の118名の賢人のリストを作り上げた。それはシューマン・プランに援助を与えるACUEのメンバーである。

同じような動機で、フランスの国防相ルネ・プレヴィン(René Pleven)が1950年10月24日に欧州防衛共同体(EDC)の創設を提案した。この組織は、アンリ・フレネイ(Henri Frenay)の連邦主義者連盟によって援助され、当然のごとくACUEに資金を提供された。6カ国が1951年2月15日にパリでEDC条約に調印した。

欧州会議とECSCから受けるベネルクスの違和感にとって、EDCはヨーロッパ人の古いプロジェクトではなくワシントンの援助を受けた一つの機構だった。古代ギリシャの都市連合をモデルにする防衛組織を考えていたアリスチド・ブリアンの理想のアンチテーゼとして、ペンタゴンはペルシャ帝国に比較できる完璧な軍隊の再結集をイメージしていたのである。

ドゴール主義者と共産主義者は国会の中でEDC条約締結阻止に向けて手を結び、国会は1952年5月27日にこれを拒否した。
この麗しい建築物は崩れ去った。NATOの中に戻って戦略の変更が必要となった。ロンドンとワシントンはジョセフ・レティンジャーに信頼を置いた。彼はいまだ欧州運動の事務局長ではあったが、欧州各国の統合の形を推し進めてECSCとNATOの共同体から自由な交易の地域へと前進させるために、有能なヨーロッパの人材をリクルートした。

そのクラブ創設の予備会議は1952年9月25日にパリで実現された。オランダのベルンハルド(Bernhard)王子、パウル・ヴァン・ゼエラン(Paul van Zeeland)、アルチデ・ガスペリ(Alcide Gasperi)、ギィ・モィエー(Guy Mollet)、アントニー・ピナイ(Antoine Pinay )(20)、その他がこの計画に参加した。その後レティンジャーとベルンハルド王子は、CIA新長官ウオルター・ベーデル・スミス(Walter Bedell Smith)(21)と大統領特別顧問のチャールズ・D.ジャクソンに会うためにワシントンに行った。そしてダヴィッド・ロックフェラー、ディーン・ラスク、ヘンリー・ハインツJr、ジョセフ・ジョンソンなどによって米国側の委員会が作られた。その最初の会議が1954年の5月29日から31日にかけて、オランダのビルダーバーグ・ホテルで開催された。

(続く)


[注釈]
(1) «Paneuropa, ein Vorschlag»が、1922年11月にウイーンのNeue Freie PresseとベルリンのVossische Zeitungに同時に掲載された。
(2) 建築物と公共施設の建設に携わる企業家であるLouis Loucheur (1872-1931)はフランスで鉄筋コンクリートを導入した。総合工業学校出身でクレメンソーの親類であり、第1次大戦中には兵器担当相、後に停戦後には産業復興相となった。戦争中も平和時にも全面的にフランスの産業を組織化した。後に労働相となり最初の公営住宅を建設を手がけた。
(3) Giovanni Agnelli (1866-1945)はトゥリン家(トリノ、北イタリア)の開祖であり【ここは意味不明:原文fundador de la dinastía turinense:訳者】、米国でヘンリー・フォードのモデルを研究してイタリアでフィアットを作った。1918年に«La Fédération européenne ou la Ligue des nations»【国家連盟による欧州連邦、とでも訳せるか:訳者】を出版。ベルサイユ条約と国際連盟(国際連合につながる)の反対者であり、強い権力と中央集権による大陸の欧州連邦を提唱。ヘンリー・フォードと同様にヒトラーの賛美者であり、ジョバンニ・アグネリはベニト・ムッソリーニへの援助を惜しまなかった。
(4) 過激なフランスの大臣Aristide Briand (1862-1932)は、1905年に教会と国家を切り離す協約を交渉し、後に20年代のドイツへの復讐主義者に反対し、国際連盟を推進したことで歴史に名を残した。
(5) 次の点を覚えておこう。米国の正史にとって第2次世界大戦の終了は、1945年5月8日のヒトラーの第3帝国の壊滅ではなく、1946年12月31日に行われた戦闘行為終了の大統領声明である。
(6) フランス語ボルテール2004年6月25日の«Comment le Conseil des relations étrangères détermine la diplomatie US»【Url:http://www.reseauvoltaire.net/article14344.html:訳者】
(7) 1946年5月5日、フルトン(ミズーリ州)での演説。
(8) ポーランドがアドルフ・ヒトラーに侵略されたため、シコロスキーのファシズム政権が同盟の一部となった。
(9) 1946年9月19日、チューリッヒ(スイス)の大学での演説。
(10) フランス支部は経済協力欧州連盟(LECE)という名前を名乗った。それはエドゥモン・ジスカール・デスタン(Edmond Giscard d’Estaing)に率いられた。彼はオプス・デイ会員であり、未来の共和国大統領でEcuの創始者である人物の父親である。
(11) 第2次大戦の間、アレン・W.ダレスはベルンで欧州のOSS(米国の諜報機関)を率いた。
(12) 人格主義はエマニュエル・ムニエール(Emmanuel Mounier)によって提唱された哲学であり、キリスト教への尊敬と人間の人格と、そしてファシズムからも共産主義からも評価される集団的行動とを、調和させようとする。この運動は、雑誌L’Ordre nouveau y Esprit【新秩序と精神、とでも訳せるか:訳者】を中心にして発展した。
(13) 1943年からアレン・W.ダレスは、ジャン・モリン(Jean Moulin)の努力を妨害するためにCombate(戦闘団)組織網に資金援助をした。モリンは、フランコ主義者によって追放されレジスタンス国民会議で共産主義者に加わったのだが、フランスにおけるナチ占領に対するレジスタンスの指導者であり、「リヨンの屠殺屋」クラウス・バルビーによって殺害された。
(14) ドノヴァン将軍は戦時中はOSSの長官であり、ダレスは欧州のための補佐官であった。
(15) その反応として、USSRはジャノフ(Jdanov)の主張を採用してコミンフォルムを創設した。米国は対ナチスの同盟を破棄し、それ以降、共産主義の自然の拡張を封じ込めるために、極右政党を含めての右派はもちろん非共産主義の左派からも支持を受けた。全世界の共産主義者たちは、結論を出し左派との同盟を決裂させざるを得なくなった。USSRを当てにすることしかできなかった。そして実際にUSSRは指導者になった。
(16) 名誉会長として次の名が挙がる。ウインストン・チャーチル、コンラッド・アデナウアー(Konrad Adenauer)、レオン・ブルム(Léon Blum)、アルチデ・デ・ガスペリ(Alcide de Gasperi)、ポール-アンリ・スパーク(Paul-Henri Spaak)。
(17) 26名の委員が選ばれた。その中に元レジスタンスのメンバーのHenri Frenay、Ecole d’Uriageの校長André Voisin、Germaine Peyroles、そして哲学者のAlexandre Marcといったフランス人が見える。
(18) Paul Labariqueの研究である«AFL-CIO o AFL-CIA?»および«1962-1972: el AFL-CIO y la contra-insurreción sindical»を見よ。近々、スペイン語訳がなされるであろう。
(19) Boël男爵は同時に「欧州協力のための独立連盟」ベルギー支部の委員長でもあった。
(20) フランス語ヴォルテール2004年3月11日の«Les gentlemen du Cercle Pinay»【Url http://www.reseauvoltaire.net/article12838.html:訳者】
(21) ステイ・ビハインドの組織網は結局はCIAに統合されてしまった。

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