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Re: 「実証主義」と現代史についての一考察(2)
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投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 4 月 03 日 08:39:46: SO0fHq1bYvRzo
 

(回答先: 「実証主義」と現代史についての一考察(1) 投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 4 月 03 日 08:38:49)

「実証主義」と現代史についての一考察(2)


ご存知の通り「実証主義」は自然科学の分野ではその絶大な力を発揮します。それはなぜなのか。

初期の科学実験の代表であるガリレオのピサの斜塔での実験を考えてみても、この実験を行う人間がイタリア人である必要は無く、ロシア人がやっても日本人がやっても、またピサの斜塔ではなく那智の滝の上から二つの鉄の玉を落としても、グランドキャニオンで落としてみても、全く同じ結果が得られるでしょう。

日本で水を分解したら酸素と水素が出てくる。ところがこれをアフリカでやったら塩素と窒素が出てきた、などということは起こりえません。10年前に水素を調べたら空気より軽かったのに、いま調べたら鉄より重かった、などということも決して起こりえません。

つまり、場所、実験者、時に関係なく、普遍的に語ることができる事実に関しては明らかに「実証」できるわけです。誰がやってもどこでやっても、繰り返し検証できる事柄に対して有効な方法論が「実証主義」としてまとめられているわけです。

ではそれを敷衍して、どの範囲まで「実証主義」が通用するものか、考察してみます。

たとえば地球の歴史に関して、6500万年ほど昔に恐竜が絶滅し新生代が開始した、ということは、米国のキリスト教原理主義者でもない限り、常識となっているのですが、もちろん恐竜の絶滅を繰り返し実験することは不可能です。ただ過去200年以上かけて多くの学者によって開発された方法を使って、そして現在では恐竜の骨の化石やその周りの岩石に含まれる放射性同位元素の比率によって、その年代をかなりの正確さで言い当てることが出来るし、この検証自体は、方法さえ正しければどこで誰がやっても大きな違いは無いでしょう。したがってこれは完全に「実証主義」が通用する範囲です。こうして6500万年ほど以前にいきなり恐竜がいなくなったことが証明されます。

自然の生態学についてはどうでしょう。これは実験室で繰り返し確認することが基本的に不可能なもので、例えば山火事の後でどのように新たな生態系が作られていくのか、を知るために、いっぺん裏山を燃やしてみよう、などということはできません。(中には本当にやってしまうヤツもいるかもしれませんが。)その代わり世界中で観察のデータが蓄積され研究者同士の情報交換が進めば、ある条件の下である現象が普遍的に観察されることが分かりますし、土壌の成分や動物のフンなどを実験室で分析・検証できる、というような要素もあり、やはりここでも「実証主義」が大きな役割を果たすことになります。また現在解明されていない、あるいは現在の科学レベルで十分な説明のつかない現象があったとしても、そのくわしい観察データを保存しておけば、物理学や化学など他の分野での新発見によって解明できる可能性があるでしょう。

自然科学では、なによりも「自然界はあるがままの実態であり意図的に嘘をつくことは無い」という・・・、本当にか、と聞かれるとちょっと困るのですが、少なくとも何千年間人間が付き合っている限りは、そうだ、という確信に基づいて判断できるわけです。

数学にしても、論理や方法そのものが意図的に嘘をつく、ということはありえないわけです。たとえ一つの論理を完全に証明することが原理的に不可能であっても、その有効性は誰にでも繰り返し確認できるものでしょう。

ただこういった自然科学でも、単純な「実証主義」を超えた、一種の「ひらめき」のような感覚、単なるデタラメな「山勘」ではなく厳密な観察と論理を積み上げた上でなおかつそれをポンととびこえるような英知が必要であることは、自然科学の歴史を少し覗くだけで十分に納得できる話だと思います。ここにある意味で「実証主義」の限界が示されているように思えます。

ただしこの「限界」は決して「実証主義」がだめだ、ということは意味しないでしょう。詳しいことは全く分からないのですが、数学で「不完全性」が証明された(ゲーテル不完全性定理)
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第1不完全性定理は「いかなる論理体系において、その論理体系によって作られる論理式のなかには、証明する事も反証することもできないものが存在する。」というもの。
第2不完全性定理は「いかなる論理体系でも無矛盾であるとき、その無矛盾性をその体系の公理系だけでは証明できない」というものである。
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ということは、決して数学が「不完全なものである」という意味ではなく、自然科学の論理体系には新しい高い次元の世界を切り開く人間の英知が働くという可能性を示しているのではないのか、という気がします。


それではこれを人間の世界に広げてみるとどうなるでしょうか。

たとえば犯罪捜査の場合、当然ですが犯罪自体を繰り返して実験することは不可能です。そこで、ある人物の靴跡が殺人現場に残っている、その人物の指紋が残っている、被害者の体についている彼の体液や髪の毛、身体の一部などから血液型やDNAの型が等しいことが証明される、彼にアリバイが無く、犯行時刻前後の行動についての供述があいまいで矛盾点が多い、動機が十分にある、目撃証人がいる、等々の「証拠」となる事柄がそろったら、彼が犯人である、と証明できる、ということで、確かに「実証的」ではあります。

ただしこれは条件があります。それらの「証拠(自白を含む)」が第三者(捜査側を含む)によって捏造されたものでなければ、ということです。また、それを「証拠」として採用する裁判官がその犯罪解明について一切の利害関係(感情的な好悪を含む)を持っていなければ、という条件付きで、です。

ここまでくると、「実証主義」もちと怪しくなるでしょう。岩石に含まれる放射性同位元素の量は決して嘘をつきません。方法さえ適切であれば誰がどこで調べても必ずある有効な範囲の「回答」を与えてくれます。しかし人間は正直者にも嘘つきにもなれます。意図的ではなくても利害や感情的な好悪が絡む場合には、カラスが本気で白く見えるようなことすら起こりうるでしょう。

証拠捏造のほかに、警察が拷問に近い方法で、あるいは催眠術に近い方法で、供述を取って「自白」させる場合もあります。しかし、それらの「証拠」が『警察のでっち上げである』ということの証明は、もし警察が嘘をつき通して捏造の証拠を抹消してしまえば、永久に不可能でしょう。

もちろん『警察がでっちあげたものではない』ことの証明もまた不可能なのですが、しかし、もしも裁判官が警察とグルになっておれば、やはり冤罪、ということになってしまうでしょう。裁判がどこまで「実証的」でありうるのか、は、非常にあいまいなものであることになります。

さあ、だんだんヤバくなってきた。では人間の歴史の場合はどうなのか。先ほどの古生物学のようにいくのでしょうか。

バチカンにキリストの姿が写った布というのがあるそうです。これが本当に2000年近く前のイエス・キリストがいた時代の布なのか、という検証は、布の材質や織り方と他の考古学的な研究との比較、炭素の同位元素による年代の推定などで可能でしょう。こうしてこの布はキリスト時代よりもはるかに新しいものである、ということになっています。ところがこのように実験室で分析可能なものですら、熱心なカトリック信徒の学者が行う場合には別のデータが出てくる(?)ことすらあるようです。さらにはこれが偽物だと科学者が言ったとしても、聖骸布を信じきっている多くの信者はその布を拝むことをやめないでしょうし、彼らにとっては誰がなんといってもキリストさんの体を包んだ布なのです。

人間の歴史どころか、米国の狂信的キリスト教徒にとっては、宇宙は6000年前に神が創ったものであり、考古学や古生物学での実証などどこ吹く風です。これじゃWTCをぶっ壊したのはイスラム原理主義者だ、と何の「実証」も抜きに信じ込むのも当然で、彼らにとっての「歴史」はハルマゲドンに向かって突っ走る「神の計画」でしかありません。

自然界とは異なり、人間は意図して嘘をつく存在なのです。また嘘を信じ込む存在なのです。それでも先ほどの布のように物体として残っている「証拠」なら、何とかその真偽を確認できるでしょう。しかし人間が書き残した文書の場合はどうでしょうか。それを書いた人間は正直にも嘘つきにもなることが出来る人間です。意図しなくても嘘になる場合もあります。さらにそれを研究し分析する人間も同様です。どんな研究者にも利害関係や感情的な好悪、愛憎があります。ここから逃れることは何人たりとも不可能です。

「そのために社会科学の体系があるではないか!」とおっしゃる人もいるでしょう。ではその体系をつくったのは誰か。やはりある時代に生きたその時代しか知らない人間です。自然界では、例えば水素原子の質量が酸素より大きくなることはありえません。しかし人間の世界では、どれほど優れた体系でも必ず反例が出てきます。それが作られて時間がたてばたつほど反例は多くなるでしょう。そうなるとその体系にこだわる人は、「些細な例外的なこと」として意図的に無視するか、あるいは「このカラスは白い」と屁理屈で言いくるめるしかなくなります。

自然科学では、程度の差はありますが、新しい論理が生まれてそれが実証できると、科学者、特に物理学者は意外とあっさり頭を切り替えます。これが本当に科学的な態度だ、科学を信頼しているからこそ切り替えることができるのだ、と私は考えます。

ところが人間の世界では一つの歴史観に猛烈に固執する人が多く見られます。たとえそれが現実に合わなくても今度は現実を屁理屈で言いくるめて都合の悪いところは無視して自分の歴史観に合わせて解釈しようとします。そしてそこに「実証」という言葉が都合よく利用されることになります。

それほどに人間の世界は、自然界とは異なり、嘘と本当が入り混じった複雑怪奇な世界なのですが、このような対象に対して、果たして常に自然科学と同様の方法論で通用するのでしょうか。その限界は明らかではないのでしょうか。そしてその方法論が通用する範囲と限界、その限界を超える場合にはどうすべきなのか、を、考えていくべきでしょう。

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