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国家からの自由か 国家への自由か
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投稿者 ジャン 日時 2005 年 4 月 27 日 20:35:41: tV9DFzLB7Zpg6
 

(回答先: 民主主義は理想の制度ではない 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 4 月 26 日 23:11:08)

 人権と国家との関係では、権力の分散がベターということのようですが
 それは、アメリカ型民主主義→国家からの自由 人権と国家との関係では、権力の分散がベターということのようですが・・ であり、
 フランス型民主主義 →国家への自由 らしいですよ。

 いつも、転載ばかりですみませんが、そのあたりのことを ある大学研究室のページから転載しておきます。


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                        変幻自在の妖術師:デモクラシー
 すでに政治の世界というラビリンス・ワールド深く迷い込んでしまった私たちを、今回待ち受けているのは最強のボス・キャラの一つと目される「デモクラシー」という名のモンスターである。「変幻自在」とはこのボス・キャラの為にある形容詞といっても過言ではない。攻略法はあるのだろうか。
 こいつの強さの秘密は、逆説的なことにその弱さである。大した攻撃もできず、矛盾だらけのことしかできないくせに、やられてもやられても生き返るゾンビのような奴である。しかしその手口は種明かしをすれば意外に簡単で、要するに「あれは私ではなく、私そっくりの顔をしたニセモノだったのです」との逃げ口上を巧みに用いているにすぎない。それでもあなどってはいけない。弱いわりにはこいつはタチの悪い曲者で、いつも正義の味方の顔をして、結構悪辣なのである。油断もスキもあったものではない。
 この手のボス・キャラには鍛え上げて新手の技を習得したり、秘密アイテムの獲得で立ち向かうのは有効ではない。ここは是非とも、いにしえからの英知に頼りたい。それは「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」という故事名言に集約されよう。そこで今回はじっくりと腰を据えて、変幻に惑わされずデモクラシーの正体を見破り、こちら側の弱みにつけ込むその手口を見極めておきたい。
 デモクラシーも、政治の世界ではご多分に漏れず、古代ギリシァ生まれである。ということは今や齢二五〇〇年を越えんとする老獪な怪物であるということになるが、ところがこいつはモスラのように一度根本的な変態を遂げているのである。アテネを筆頭とする古代ギリシァを席巻した幼虫期のデモクラシーは、今日のそれとは似ても似つかない。

古代ギリシァのデモクラシー
 デモクラシーという名前は周知のようにギリシァ語の合成語であるデーモス(市民)のクラティア(支配)からきている。だがこのデーモスとは、近代人の想定するような「市民」ではない。子どもは言うに及ばず、女性や、在留外国人、さらには「言葉をしゃべる道具」(アリストテレス)とみなされ、人間の数のうちにもいれられない奴隷が除外されていたのである。多めに見積もっても成人人口の四分の一に満たない「市民」にとっては、「私的なもの」を投げうち、ポリスにおける「公的なもの」に献身することが最大の美徳とされていた。だがそれは生命の維持や種の保存という「低次元の」労働が家族(オイコス)内の問題として奴隷や女性におしつけられていたからこそ可能な美徳であった。私生活(privacy)は、人間的能力が何か奪われた(deprived)状態として、それをかえりみるのは卑しいことであるとされていたのである(1)。個人主義はすぐれて近代の産物であり、近代デモクラシーの前提でもあるが、ギリシァ人たちはそれを知らなかった。
 ポリスにおけるデモクラシーの形態も、われわれの知っている現在のそれとはかなり異なる。「都市国家」と訳されることが多いポリスは、「都市」のイメージとも「国家」のイメージともかけはなれた小規模で自給自足の共同体であった。民会は市民全員が参加資格を持つという直接民主制の形態をとっていた。また軍の司令官を除く(2)ほぼすべての公職が、通常1年という非常に短い任期であり、それもくじ引きと輪番制によって選出されていた。まさに素人の、素人による政治である。政治とは専門知識を必要とする事柄ではなく、万人が関与できるものであり、またそうでなければならないという信念は、今や失われてしまったデモクラシー幼虫期の根本的理念だったのであろう。
 このギリシァ世界の没落とともにデモクラシーは堅いさなぎの殻に閉じこもり、永い眠りに入ることになる。眠りから覚め、再びわれわれの前に姿を現したデモクラシーには、幼虫時代の面影はない。
 それでも古代ギリシァのデモクラシーと近代デモクラシーに共通していることが何かあるとするならば、「知識人はデモクラシーがお嫌い」ということかもしれない。プラトンが激烈なデモクラシー批判者であったことは有名だが、すべてにつけて中庸を好むアリストテレスですらデモクラシーを不信の目で見ていたことは確かである。知識人とは、自分が最善の政策についても何がしかのことを知っており、無知で無能な大衆よりその点で優れていると思いこんでいる人間に他ならない。彼らのタチが悪いのは、原理としてデモクラシーを容認するポーズを示しながら、一度自分の意見が少数派に転じ、聞き容れられなくなるや、手のひらを返したようにデモクラシーを「暴徒の支配」と同一視してしまうことであろう。古来、知識人たちは、いかにデモクラシーが悪辣であり、最悪の統治形態であるか執拗に罵り続けてきた(3)。それが手放しの絶対的価値に祭り上げられ、ありとあらゆる政治体制が自己を正当化するキーワードとして用いるようになったのは、第二次世界大戦の結果デモクラシー陣営がファシズムに勝利を収めて以降のことと言ってよい。以後デモクラシーを公然と批判し、否定するということは「ファシスト」の烙印を押されることを覚悟したうえでなければできなくなったからである。「あの」フセイン大統領ですら、自らの力を信任投票によって「デモクラシー」的に正当化せざるをえない。それにしても九九.四七%の投票率に九九.九六%の得票率とはすごすぎる。すごすきるものは誰も信じない。
 しかし、まずは話を少し戻して、さなぎから成虫に変身した近代デモクラシーの特徴を見ておこう。

近代デモクラシー
 デモクラシーがいつさなぎから脱皮したのか、目撃証言は様々に異なる。ある人は、フランス革命やイギリス革命に代表される、いわゆる「市民革命」によって絶対君主が打倒され「人民主権」が成立した時だと言う。またある人は宗教改革期にプロテスタント達が主張した神の前での平等やモナルコマキ(4)の暴君に対する抵抗の理論にさなぎの胎動を見たという。近代デモクラシーは議会主義と結びついた間接民主制をとっているので、その脱皮は中世封建社会における代表制原理から始まっていたとする者もいる。目撃証言がかくも様々であるので、この問題にはこれ以上立ち入らないが、どうも近代デモクラシーとは、胴体を共有しながらも二つの異なる顔を持つキングギドラのような形姿(もっとも頭が一つ足りないし、キングギドラが「虫」なのか「爬虫類」なのか怪しいが)で生まれ変わったようである。その胴体にあたる部分は、近代に成立した自由で平等な個人という観念、一言で言えば「人権思想」をベースに繰り広げられた政治的「抵抗」の思想と運動であるという特性だろう。そのことは次のアメリカ独立宣言(1776)の文面の中にも高らかに唱いあげられている。「すべての人間は平等につくられ、他人に譲り渡すことのできない一定の権利が与えられている‥‥これらの権利を確保するために政府がつくられ、その正当な諸権力は、被治者の同意に基づく‥‥」と。同じ主旨はフランスの人権宣言(1789)にも見ることができる。
 ところがコーラで割ったようなアメリカ型の顔と、ソーダ割の似合うフランス型の顔は異なっている(5)だけでなく、実は相性も悪い。
 すべての権力が人民の同意に基づくとしながらも、イギリスからの独立戦争という苦い体験を味わったアメリカ型のデモクラシーは、新天地での国家創立にあたっても国家権力というものへの猜疑心が強かった。そこで一方では国家権力が個々の人民の自由を侵害しないよう、権力分立を図り、それによる抑制・均衡への配慮が中心的課題になる。また国家と個人の間には、後に政党へと発展していくことになる自発的結社や複数の集団からなる緩衝地帯が整備され、権力の集中よりも権力の分散と競合が重視されることになる。「国家からの自由」を重視するデモクラシーのひとつの顔がそこにある。
 対するフランス型の方は、人民に権力を集中させ、中間団体を(つまりは代議制などを)できるだけ排除する形で「人民の支配」を実体化させようとするものである。もともと絶対王政が強権的に作り出した支配装置としての領域国家を、その支配の対象でしかなかった人民がそのまま受け継ぎ、国王の一手に独占されていた「主権」を人民という集合体に帰属させしめるためには、その国家を一人一人の人民が積極的な政治参加によって自発的に作り上げた組織に組み直すというロジックを用いるしかなかったと言える。フランス型のデモクラシーは、だからこそ「国家への自由」を重視することになる。

ひとつの凶暴化:全体主義的デモクラシー
 フランス型のデモクラシーは戦闘的性格が強い。「すべての権力を人民へ」と要求し、自分たちでつくった命令にのみ自分たちが服従するのだという治者と被治者の同一性、「統治なき統治」を主張するその姿は実に勇ましいし、このようにして獲得されたのが「人民主権」という近代憲法の大原則である。これはまた「プロレタリアート独裁」という、誤解されやすい不幸な用語法のもとでマルクス主義が一貫して追及してきた夢でもある。社会主義革命後には生産手段を独占していたブルジョアジーが一掃され、すべての生産手段が共有され、いわば全人民がプロレタリアートになるのだから、それは究極の「人民主権」と同義語である。しかし夢は夢でしかなく、「人民主権」は絵に描いた餅でしかなかった。治者と被治者の一致という理想は、被治者を治者の地位にまで引き上げて一致させるのではなく、奴隷に主人を名乗ることを許すにとどまったのである。人民が実際に支配している近代国家など存在しない。「主権者」とおだてあげられているだけである。
 「独裁」体制とは、人民がそのようなフィクションに我慢できなくなった間隙を縫って成立する。ファシズムにせよ、あるいは社会主義における一党独裁にせよ、それはまぎれもなくデモクラシーが産み落とした、デモクラシーの進化形態であるとも言える。一九三三年にヒトラーが政権についた時、彼は憲法を踏みにじり、力づくでそれを奪取したのではない。人民による投票の結果、ナチスは国会選挙で単独多数の議席を獲得したのである。
また「雪崩をうったような近年の社会主義諸国の崩壊と民主化の動き」という判で押したようなキャッチフレーズに惑わされて、共産主義国にはデモクラシーがなかったと本気で信じるのも無邪気にすぎる。ソ連という社会は、ソルジェニーツェン(そう言えば彼も「知識人」だったが)が告発するように、ノーメンクラトゥーラと呼ばれる特権階級の支配や個人の人権抑圧を手段とする恐怖の支配によってではなく、高度の福祉と、無理して働かなくともそこそこやっていける賃金を全人民に保障することで獲得された大衆の支持によって支えられていたのである。

もう一つの凶暴化:偽装されたデモクラシー
 ところで考えてみれば、全体主義的デモクラシーは何もフランス型に固有の帰結なのではない。近代国家は全体化のメカニズムを不可避のものとして伴っているのである。「人民主権」は今日ではおよそすべての近代国家の原理であり、すべての人間は「国民」という集合名詞にいやでも組み込まれることになる。しかし「人民主権」とは、異質なハズの人間が、それでも一つの意志に結実できることを(フィクションにすぎないとしても)想定しているのだから、「わたし」が「われわれ」として語ることを可能にする同質性原理を必要とするのである(6)。しかし「われわれ」とは誰のことなのか。その範囲や資格を語ることは同時に誰が「われわれ」ではないのかという排除を語ることでもある。その意味で、本人の意志に関わりなくすべての人間を「国民」に組み込んでおきながら、すべての人間が「われわれ」になることは、おそらく永久にない。奴隷、黒人、女性、子ども、精神病者、犯罪者、外国人、異民族‥‥排除されてきたし、今なお排除されている者のリストは、「排除している者」の目には見えない。そして「公益」や「国益」の名によるしわよせは確実にそこにくるのである。例えば、同じ「日本人」とされながらも、戦前は本土決戦のための時間稼ぎとして捨て石にされ、戦後は一貫して安保体制堅持という「国益」のために「米軍基地との共存」を強いられる沖縄の人たちの「日本人」としての県民感情は、中央の高級官僚には届くことがないのだ。しかもすべての「わたし」は近代国家においては「われわれ」になるよう強いられてしまう。それができないのはエゴイステックな「非国民」であり、悪いのは「おまえ」の方なのである。だから排除されても文句の言える筋あいはないのだ。「われわれ」に留まりたいならば、「他人と異なって生きる自由」などありはしない。その「われわれ」の名前こそ「人民」なのである。
 どこにも存在しない人民という集合体を擬人化して、それに一つの明確な意志を付与し、それをさらに「国益」と読み変える権限を持つのは誰なのだろうか。それはわれわれの権利を保護してくれる番人の特権なのだろうか。だとすればその番人の番は誰がすればよいのだろうか。その答えがないかぎり、デモクラシーなどまやかしにすぎない。デモクラシーなど存在してもしなくても実質的には何のかわりもないからである。

攻略のためのヒント
 先に第二次世界大戦でデモクラシーはファシズムに勝利したと書いたが、本当にそうだったのだろうか。ファシズムが克服されたというわりには、「権威主義政治体制」(7)であるとか「開発独裁」(8)であるとかいった、どこがファシズムとちがうのか極めてわかりにくいデモクラシーがばっこしているのが現状である。また社会主義型デモクラシーというライバルが勝手にこけたのをいいことにタナボタ的「勝利」の美酒に酔いしれるリベラル・デモクラシーも何かうさんくさい。国家が国家であるかぎりは、いかにオブラートでくるもうとも有無を言わせぬ強制力の主体であるという、絶対主義国家と同形の側面が近代国家への転換でなくなったのではない。むしろそれは強化されたのである。
 だとすればこの難敵に対する攻略法も読めてくる。一見やさしそうな顔をした「制度化されたデモクラシー」が現れてきても、それを信用せず、ともかく休まず、それに安住せず動きまわることである。ちょっと手を休め、気を抜くと、こちらの意識の希薄化の中で偽装されたデモクラシーがパワーアップして逆襲してくるからである。
 用心して欲しい。ウィンストン・チャーチルがかつて語ったように、「デモクラシーは最悪の政体」なのである。もっともチャーチルは、われわれにお馴染みの「デモクラシー嫌いの知識人」ではなかった。彼はすぐにこうつけ加えている。「人類がこれまで経験してきたすべての政体を除くとするならば」と。


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(1) H.アレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫)第二章参照
(2) このことは極めて示唆的である。すべての官僚制的組織の中でも、軍隊は手続きの正しさより、「結果を出してなんぼ」の組織であり、民主主義的コントロールという理念から最も遠い。数年前に話題になった『ア・フュー・グッドメン』という映画は、この問題をわれわれに改めて考え直させてくれる好教材である。アテネ人たちはこのことをよく理解していた。また古代ポリスのデモクラシーがしばしば「重装歩兵のデモクラシー」と呼ばれるように、市民に平等に課せられた共同任務として、ポリス防衛の参加の平等性を基盤としていたという事実も見逃せない。
(3) C.B.マックファーソン『現代世界の民主主義』(岩波新書)2頁およびA. アーブラスター『民主主義』(昭和堂)11頁参照
(4) 16世紀になると国王の暴政に対して、ユグノー派(フランスのカルヴァン派)を中心に宗教的な観点から人民の抵抗権を正当化する一連の理論があらわれた。モナルコマキとは「王に刃向かう者」の意である。R.トロイマン『モナルコマキ−−人民主権論の源流』(学陽書房)参照
(5) C.B.マックファーソンは前者を「自由主義的デモクラシー」、後者を「非自由主義的デモクラシー」と呼んでいる。(『現代世界の民主主義』、岩波新書参照)また樋口陽一は前者を「トクヴィル=アメリカ型国家像」、後者を「ルソー=ジャコバン型国家像」と呼んでいる(『自由と国家』、岩波新書参照)
(6) 学術論文においてもたまに「私はこう考える」と書くのではなく、「われわれはこう考える」というスタイルを貫く人がいる。いったい何人から「われわれ」になるのだろうか。長尾龍一が引用している京大のトイレの落書きが頭に浮かぶ。「一人でも人民、二人でも集会、三人でもセクト、四人でも総決起、五人でも全学、六人でも全関西、七人でも全国、八人でも蜂起、九人でも内乱、十人よれば革命」(『リヴァイアサン』、講談社学術文庫23〜4頁)
(7) J.リンスによると、権威主義体制は単なる全体主義とデモクラシーの結合体ではなく次のような特質を持つそうである。1)多元性を持つデモクラシーとも一元的全体主義とも異なり、限定された多元性を持つ、2)全体主義のような包括的イデオロギーがなく、メンタリティーがあるのみである、3)政治動員が広範でも強力でもない。(『権威主義政治体制』、岩波現代選書)
(8) 経済発展を至上目標にし、そのための代償として、政治的自由の制限や政治的独裁を正当化する発展途上国に多く見られる体制。


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