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「高度経済成長は復活できる」増田 悦佐 (著) 田中角栄は戦後日本政治の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ。
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投稿者 TORA 日時 2004 年 12 月 17 日 16:16:23:CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu85.htm
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自民党の社会主義者、田中角栄は戦後日本政治
の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ。

2004年12月17日 金曜日

◆「高度経済成長は復活できる」 文春新書 増田 悦佐 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4166603892/249-2925147-5829911

◆角栄政権社会主義革命説

この本は、日本経済の高度成長が七〇年代前半に終わったのは、経済成長を敵視する杜会主義革命家が政権奪取に成功したからだという主張を展開する。その社会主義革命家とは、積極財政、拡大志向、そして利権政治の親玉として、社会主義的な思想信条とは対極に位置するように見える田中角栄だ。

なぜ、田中角栄の経済政策は、「積極的な国土開発」を謳いながら徹底した反成長思想に貫かれたものだったのか。なぜ田中角栄の作った政治、経済、社会をおおう諸制度が奇蹟とまで賞賛された日本経済の成長率をその後三〇年間に及ぶ長期的な衰退に導いたのか。そして、なぜ田中角栄は失脚しても、利権社会主義の弊害が延々と日本国民を苦しめつづけているのか。こうした疑問に対する答えを出すのが、この本の目的だ。そして、最終章ではどうすればこの袋小路から抜け出せるのかも論じたい。

この本は「本を読む暇もないほど忙しく働いているのに、なぜ自分の生活はいつまでたっても豊かにならないのだろう?」と感じている大都市の勤労者にこそ読んでいただきたい。高度成長の主役だった日本の大都市勤労者の大多数は、日本経済への貢献度に比べれば慎ましい生活をしている。それなのに「勤労所得が高すぎることが日本経済停滞の元凶だ」なんていうとんでもない言いがかりまでつけられて肩身の狭い思いをしているからだ。

明るくひたむきだった戦後の日本杜会は、いつどのようにして暗く滑稽な「終わりなき日常」の世界に変質してしまったのだろうか?さあ、その一部始終を見とどけるための時問旅行に、読者の皆さんをご招待しよう。(P13〜P14)

◆田中角栄は革命家だった

田中角栄は、単なる保守党政治家ではなく、体制内革命を成就した革命家だった。佐藤内閣をできるだけ長持ちさせ、クラウンプリンス福田赴夫の首相就任を阻止しながら行われた党中党建設、派中派建設は、革共同・革マル派もうらやむ手際の良さだった。

終戦直後、まだ田舎の道路にはリヤカー、大八車、自転車しか通っていなかった頃、これからの時代に地方有権者をつなぎとめる政策は道路建設だと見破ったのは、長嶋茂雄もうらやむ動物的カンのたまものだろう。来日したアメリカのワトキンス調査団が、「先進諸国の中で、日本ほど劣悪な道路網が放置されてきた国はない」という報告書を出した一九五六年より三年も早い一九五三年には、独力で道路特定財源化法案を成立させていたのだ。

都会の有権者は争点次第で投票行動も違ってくるが、いったんつかんだ地方の有権者は本人が大都市圏に移住しない限りずっと支持基盤になる。ここに眼をつけた、「地方から攻め上って都市を包囲する」選挙戦略は、毛沢東もうらやむ辺境革命理論の実践だった。

一言で言えば、田中角栄は戦後日本政治の中で唯一政権奪取に成功した革命家なのだ。彼は政治手法を自民党の先輩代議士たちからではなく、三宅正一や小林進などの社会党の農民運動指導者から学んだと言われている。

〈初当選のころの田中は、有権者との付き合い方を〃日農〃を指導していた当時の三宅正一社会党代議士から伝授されたと言います。"田中君、一票が欲しければまずそこの家に上がってお茶をごちそうになることだ。そのうえで、お茶代を置いてくるんだ"と。有権者とのスキンシップですね。それを、若き日の田中はそのまま実行した〉

〈地下タビに脚絆、昼メシどきになると握りメシを抱えて農家の縁先を借りる。"すいません。ちょっとここでメシを食わせてもらってもいいですか"。"……まア、家に入りなさい"ということになる。家に上がればしめたもので、持論を訴え、聞いてもらうことで"一票"を手にしていくことになる〉
(小林吉弥、『高橋是清と田中角栄-日本を救った巨人の知恵』、二〇〇二年、光文杜知恵の森文庫)

こうした政冶手法だけを拝借して、政治理念や哲学は旧来の自民党の現状維持思想のままということがありうるだろうか?一晩農家に泊めてもらえば、そこでどんなことに困っているのか、どんなものが欲しいのかといった話をじっくり聞くはずだ。こんな選挙運動をして当選した政治家が、泊めてもらった農家で聞かされた不満や要求を解決しようとしなかったとしても、「あの人はうちに泊まってくれたことがあるから」というだけの理由で、票を取りつづけることができるだろうか?日本の農民をそこまで見くびってはいけない。

自分のところに不満や要求を聞きに来た代議士が、国会ではその不満や要求を無視するような政策を取りつづけたら、一度や二度は許しても、いずれは落選させるだろう。ましてや、田中角栄は自民党の代議士だ。社会党の代議士のように「努力はしたが、政権を握っていないから官僚組織を動かせなかった」という言い訳は通用しない。

つまり、田中角栄の政治手法は必然的に政治理念をも社会党系の急進農民運動の理念に変えて行ったのだ。そして、田中角栄は、地方の農民たちが抱いている大都市圏に対する劣等感と羨望の念、そしてその裏側にある「われわれは、もともと都会人に比べると非常に不利な立場にあるのだから、都会人に一泡吹かせるためなら、多少は汚い手を使ったとしても許されるはずだ」という意識を完全に共有していた。

◆「弱きを助け、強きをくじく」正義の味方を自任

次の一節は、いろいろな角栄本にも引用された有名なインタビュー記事の一部だ。

〈子供が十人おるから羊かんを均等に切る、そんな杜会主義者や共産主義者みたいなバカなこと言わん。キミ、自由主義は別なんだよ。(羊かんを)チヨンチヨンと切ってね、いちばんちっちゃいヤツにね、いちばんデッカイ羊かんをやるわけ。そこが違う。分配のやり方が違うんだ。大きい奴には"少しぐらい我慢しろ"と言えるけどね、生まれて三、四歳のは納まらないよ。そうでしょう。……それが自由経済というものだ〉
(安広よしのり編著、『田中角栄・悪の語録』、一九八三年、日新報道刊)

田中角栄は社会主義・共産主義というのは機械的な悪平等の思想だと思いこんでいて、自分の主張こそ由緒正しい社会主義・共産主義の理想だとは夢にも考えなかった。「官公庁が発注する仕事は、一定のパーセンテージを中小企業に割り当てなければいけない」という官公需法も、「大型店の新規開業には地元の零細商店の合意を必要とする」という大店法も、「とにかく農民の生活水準を都市勤労者より低くしてはいけないのだから、生産者米価を上げるのに理屈は必要ない」という生産者米価の政治加算も、全部「チョンチョンと切って、いちばんちっちゃいやつに、いちばんデッカイ羊かんをやる」政策だった。

だが、後進地域や幼稚産業は、小さな子供ばかりが集まった地方や産業ではない。それぞれの地域で径済活動をしているのは、まぎれもないおとなたちだ。そういう地域や産業に過剰な保護を与えればどうなるか?「小さな子供」として優遇すればするほど、少しでも大きな保護を引き出すことばかり考える「ヒネた子供」になるだけだ。

なぜ、こうした政治姿勢を終世貫いた政治家が自民党総裁・日本国総理大臣の座を奪うまで、自民党代議士でいられたのだろうか?当時の左翼政党と進歩的文化人の大部分は「しょせんは自民党の一派閥の領袖に、そんなに立派なことができるわけがない」と見ていた。

一方、自民党内の筋の通った保守主義者たちは、「いくら教育のないなんでも我流の人間だといっても、かりそめにも自民党内の有力派閥の指導者がそんなに経済効率を無視した政策を本気で推進するはずはない」とタカをくくっていた。右も左も、田中角栄の主張を貫く急進平等主義は本気で推進するはずのない票目当ての口約束だと信じていたのだ。

しかし、田中角栄は陣笠代議士時代から議員立法を駆使して「社会的弱者」のための利権連合を着々と作り、支持基盤を拡大していった。ニクソン大統領の強硬な要求で繊維製品の対米輸出を自主規制させられた事件が、いい例だろう。佐藤内閣の通産大臣だった田中角栄は、どうころんでも憎まれ役にしかなりそうもない交渉でアメリカ側の要求をほぼ全面的に受け入れながら、独断で札束で頬をひっぱたくような巨額の補償を繊維業界にばら撒いた。結局、この交渉を通じて中小零細企業の味方のイメージを確立してしまった。

一九七二年の自民党総裁選勝利は角栄革命の始まりではなく、最後の総仕上げだった。田中首相時代に作られた「社会的弱者保護」の仕組みは、一九七三年制定の大店法ぐらいだ。もう一九七二年の自民党総裁選の段階では、たとえ福田赴夫のような古めかしい緊縮財政主義者が総裁に選出されたところで、財投資金の大盤振る舞いは避けられないような状態になっていた。福祉、生産者米価の政治加算、地域政策、中小企業対策といった各分野で積み上げてきた「弱者」保護政策によって、日本の国家予算は膨張する一方だったからだ。

◆田中角栄はこの革命をひとりでやってのけた

もうひとつ、田中角栄が自民党内で革命を起こそうとしていることが、なかなか周囲に感づかれなかった理由がある。自分の政権奪取能力、政策遂行能力、利害調整能力に絶大な自信を持っていた田中は、政治理念を宣伝して同志を募るという過程を省略し、たったひとりで革命[を成し遂げた。田中角栄の秘書であり越山会の統括責任者であった佐藤昭が述べているように、「毛首席には周恩来同志がいましたが、田中には周恩来さんがいなかった」(新潟日報報道部、『宰相田中角栄の真実』、一九九四年、講談社刊)のだ。

田中角栄は選挙に勝ちたい人間ならだれでも受け入れながら自民党の中に党内党を建設し、多数派を抑えた瞬間に一気にクーデターを仕掛けるという革命戦略を持っていた。そして、自分のかき集めた手勢がどんなにお粗末な集団かということは十分承知していた。

(「世の中に悪党は、それほどいない。悪党はだいたい、オレのまわりに集まっている」彼は微かに笑った)
(「お前がこれから会う相手は、大半が善人だ。こういう連中が、一番つらい、切ない気持ちになるのは、他人から金を借りるときだ。それから、金を受け取る、もらうときだ」)
(早坂茂三、「駕籠に乗る人・担ぐ人-自民党裏面史に学ぶ』、一九八八年、祥伝社刊)

逆に、自分の配下は、いわれのない金でも平然と受け取れるような連中ばかりだというわけだ。手勢は金目当ての雑兵ばかりでたったひとりの革命をやってのけるという戦略は上り坂の時期には大きなプラスになつたが守りに弱かつた((P80〜P86)

◆田中角栄に同志的連帯を感じていた社会主義国の指導者たち

角栄政権のプラスのほうに眼を転じれば、首相在任中にやってのけた功績がふたつある。日中国交回復と、ソ連共産党書記長ブレジネフに「日ソ間には北方領土という未解決の問題が存在する」と認めさせたことだ。どちらも、社会主義政権相手の仕事だった。

後に訪朝議員団団長として北朝鮮を訪問した金丸信が朝鮮労働党の国を挙げての「熱烈歓迎」に手も無く丸めこまれてしまったのも、もともと国家社会主義者同士だったからだ。さらに、「遅れてきた田中角栄」鈴木宗男があれだけロシアの官僚たちと肝胆相照らす仲になれたのも、お互い国家社会主義者同士で話が通じやすかったからだ。

日本中に増殖した田中角栄とその亜流たちには、「人間は自由意志を持った動物だから、行きたいところへ行き、やりたいことをやり、住みたいところに住む。それを統制でねじ曲げようとしたら、とんでもないロスが生じる」という経済学的発想はちんぷんかんぷんだった。そんな「わけの分からない理屈」をこねる連中より、革命世代の中国共産党首脳陣、旧ソ連官僚、そして北朝鮮労働党の同志諸君のほうが、はるかに気心が通じたはずだ。

世界中にたったひとりだったかもしれないが、一九七二年という早い時期から田中角栄政権誕生の本質を「革命家」による政権奪取と見抜いていた社会主義国指導者がいた。彼は、岩波書店の総合誌「世界』に掲載されたインタビューで以下のように答えている。

(日本人民の闘争が強まったために佐藤反動政府は追い出され、田中政府がこれにかわりました。これは日本人民の闘争の結果だといえます。われわれは日本人民の闘争を高く評価し、それを全面的に支持します)
(坪内祐三、『一九七二-「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』、二〇〇三年、文塾春秋刊より引用)

当時の北朝鮮国家元首、金日成だ。まさに、「英雄、英雄を知る」と言うべき洞察力だ。

いや、近年出版された青木直人著『田中角栄と毛沢東-日中外交暗闘の30年』(二〇〇二年、講談社刊)を読むと、毛沢東も田中角栄を「日本に革命を起こした同志」と見なしていたようだ。歴史に残る毛沢東.田中角栄会談は茶飲み話ではなく、実務家同士らしく「米ソ覇権主義二大帝国に抗して、日中同盟を作ろう」という議論をしたらしい。

その後毛沢東は没し、田中角栄が言葉と知的能カの大半を失ってからも、中国は律義に一線級の政府や共産党の要人を田中のもとに送りつづけた。毛沢東が「田中角栄先生は革命運動における同志だ。決して礼を失することがないように」と遺訓を遺したのだろう。(P180〜P181)


(私のコメント)
この本は表題につられて買ってみたのですが、中味は田中角栄論であり、「高度経済成長は復活できる」という主題とは少しずれている。私自身は高度経済成長は幾つかの幸運が重なったものであり、田中角栄の「日本列島改造論」が高度経済成長を潰したのでなければオイルショックなどの要因もあるだろうと思う。

しかし、最近の増大する財政赤字の要因の多くは田中角栄の社会主義的な政策が財政支出の増大の要因になっているのも確かだ。公共投資にしても過疎地に高速道路や新幹線を作ったところで、産業が新興するのでもなければ黒字経営が出来る見込みもない施設が後に残されるだけだ。むしろ著者の主張するところの、都市再開発こそ景気回復させるという論は以前にも株式日記に書いたことがある。

むしろ、田中角栄こそ日本における社会主義革命に成功した唯一の人物としてみる論こそ、今までになかった田中角栄論である。なぜ、アメリカの共和党政権が田中角栄を失脚させたのかは、もっぱら独自のエネルギー戦略を展開したからロックフェラーの逆鱗に触れたという説が有力ですが、むしろ田中角栄が日本で社会主義革命を成功させたからだと言うほうが、説得力があると思う。

田中角栄が日中国交回復に成功したのも、彼の社会主義的な政策が、中国共産党の首脳達に共感を呼んだのだということも筋が通る。ソ連のブレジネフ書記長との話し合いでも北方領土問題で前進が見られたのも、田中政権が一種の社会主義政権とみなしていたからだろうか。彼が作った様々な弱者保護政策である大店法や農業保護政策も、グローバル化する世界とは逆の保護政策だ。

自民党内にこのような大派閥を形成できたのも、日本の農家などからの支持を集めたからであり、それが大都市を包囲して一気に革命へ持ってゆく手法は毛沢東の革命戦術であり、だからこそ中国やソ連も日本こそ社会主義国家の仲間としてみる要素になったのだろう。それに対して危機感を持ったからアメリカのキッシンジャーは角栄を失脚させたのだ。

このように体制内社会主義革命は潰されましたが、角栄の後を引き継いだ経世会はその後も中国共産党との友好関係を続けて、日本を社会主義国家体制を維持し続けようとしましたが、小泉政権の誕生で、構造改革という名の反革命政権が出来て、橋本派は追い込められて、対中国、北朝鮮政策も大きく変わろうとしている。

日本の野党は社会主義を掲げながらなぜ政権が取れなかったのだろうか。外交防衛政策で現実的な政策を取ることが出来ず、万年野党に甘んじてしまった。ところが田中角栄は外交防衛政策は現実路線をとりながら、経済政策は社会主義政策を取り入れて政権の奪取に成功した。だからこそ元共産党員の野中広務が自民党員であり橋本派の実力者として君臨できたのだ。

小泉政権の登場は反社会主義政権の誕生でもあり、リベラル政党から保守政党へ変わりつつあり、自民党内だけでリベラルと保守の政権交代が行われている。野党が政権をとれないのは外交防衛政策が非現実的なものであり、民主党が政権を取れるかどうかは外交防衛で現実的な政策が取れるかどうかなのですが、田中角栄的な人物は民主党にはいない。社会主義者でも政権が取れることは田中角栄が証明している。

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