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日本労働運動史──1868-1914 (二村 一夫 )
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 10 日 20:41:04: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 国内唯一の亜鉛・鉛鉱山、日鉱金属が来年3月末閉山〔読売〕 投稿者 ネオファイト 日時 2005 年 2 月 10 日 20:26:26)

日本労働運動史──1868-1914

二 村 一 夫 著 作 集

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/ams.htm


1) 政治経済の概況

〔明治維新〕

 1868年は近代日本の出発点であった。この年、2世紀半にわたって続いた徳川将軍による支配は終わった。この明治維新の直接の契機は、欧米の列強がその軍事力を背景に日本に開国を迫ったことであった。明治維新からちょうど10年前の1858年に、徳川幕府はその圧力に屈し、アメリカをはじめオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で、長年の鎖国政策を改め、貿易を認める条約を結んでいた。この条約によって、1859年から、イギリスの綿糸をはじめとする大量の工業製品が日本に流入しはじめ、同時に生糸、茶の輸出は激増した。日本の綿作は壊滅し、生糸を使う織物業者らは原料の高値やその不足に悩んだ。さらに、金銀の国際比価の違いから、金が大量に流出したため、幕府は金の品位をいっきに3分の1に減らす金貨改鋳を実施した。これは急激なインフレーションをもたらし、とくに主食である米の価格は急騰した。全国各地でこうした事態に抗議する民衆暴動が起きた。外国の軍事的圧力や民衆騒擾に対応して、幕府や諸藩は軍備を強化せざるを得なかった。また幕府は、藩に対する統制を強化するため、一度は緩和した参勤交代制をふたたび強め、費用のかかるものとした。ただでさえ財政赤字に苦しんでいた各藩は、その財源確保のため、家臣の俸禄削減や租税の増徴に頼り、下級武士や民衆の生活はさらに困窮した。事態に的確に対処できない幕府に対し、支配層である武士の間にも不満が高まった。幕府反対派が多数を占めた長州など一部の藩は、朝廷と結んで公然と幕府を倒す運動を展開した。最終的には、幕藩体制は幕府や諸藩の財政危機と外国からの圧迫に対する政策をめぐる支配層の内部分裂によって自壊したのである。

 天皇は、それまで5世紀余の間、政治的な実権をほとんど失っていた。しかし、古代から続く天皇の歴史的、宗教的権威は生きていた。幕府も幕府反対勢力も、それぞれの正統性を確保するには、朝廷の支持を獲得することが重要であった。そして最終的には、薩摩、長州など幕府反対派がこれに成功した。この変革が明治革命でなく、王政維新("Restoration"=復古)と呼ばれる理由はここにある。しかし明治日本は、国際、国内両面での深刻な危機を乗り切るためには、自らを統一的な国家として再編し、政治的、経済的自立を確保することが急務であった。このため明治維新は、"Restoration" という言葉が示唆するような単なる反動的政変でなく、〈革命〉的変革としての性格をあわせもたざるを得なかったのである。1871年には、全国260余りの藩が正式に廃止され、中央集権的な明治政府が誕生した。同年末には<士農工商>の身分制度は廃止された。職業選択の自由、移住の自由などが認められ、資本主義経済発展の前提条件が作られた。しかし政治機構は、明治天皇を頂点に、幕府転覆に成功した旧薩摩藩、長州藩などの武士が官僚として実権を握り、専制的な支配をおこなった。

 1889年に大日本帝国憲法が制定され、議会も設置された。議会は貴族院と衆議院から成る二院制であった。貴族院は皇族と、旧大名や明治維新の功労者を任命した世襲制の華族、および多額納税者の互選による議員で構成されていた。衆議院は公選であったが、有権者は25歳以上の男子で、一定額以上の納税者に限られていた。その数は、1890年の第1回総選挙の時で45万人、全人口4000万人の1.1%に過ぎなかった。なお、選挙権資格は1900年に拡大されたが、有権者は100万人弱、人口比では2.2%であった。なお、男子普通選挙権が認められたのは1925年のことである。議会は単独では法律を決める力はなく、天皇の承認を必要とした。また政府は天皇が任命する大臣によって構成され、裁判も天皇の名によって行なわれた。軍隊は天皇直属とされ、内閣や議会の関与を認めなかった。憲法は国民の権利や自由を認めてはいたが、すべて「法律の範囲内」において許されるものとされていた。こうしたことが憲法の定める枠組みであったが、その実態は時代により、また法の執行に当たった関係者の性格によって違うものとなった。

〔経済発展〕

 明治政府は富国強兵、殖産興業をスローガンに、近代技術の導入に力を入れた。軍工廠だけでなく鉄道、電信、鉱山、機械、紡績、製糸、ガラス、煉瓦、印刷など各種産業分野に官営の工場を設立した。これらの工場では、欧米から輸入した機械を備え、外国人技術者を高給で雇い、技術の移転をはかった。この政策はすぐには成果を上げなかったが、1880年代後半に入ると日本経済は成長を開始した。日清戦争(1894ー95)、日露戦争(1904ー05)という2つの戦争を経過して、日本経済は急速な発展をとげ、日本は欧米以外ではじめて工業化に成功した国となった。〔第1図 掲載略〕(2)

 この間の経済成長の起動力となったのは繊維産業であった。開港以来、輸出の主要商品であった生糸の製造は、農家副業としての零細な家内工業に始まり、次第に多数の小規模なマニュファクチュアとして発展した。1905年にイタリアを、1909年には清国を抜いて世界最大の生糸輸出国となった。織物業は当初は国内需要が主であったが、同様に零細な問屋制家内工業から、マニュファクチュアとなり、輸出産業に成長していった。紡績業は国内の織物業の旺盛な需要に支えられ、当初から輸入機械を使用する機械制大工業として急速に成長した。1891年には綿糸生産額は輸入額を超え、さらに1897年には輸出額が輸入額を超えたのである。

 製糸業とともに早期から発展したのは鉱山業であった。銀や銅が鎖国中でも中国やオランダに輸出されていたことが示すように、日本の非鉄金属鉱山業は長い歴史を有し、17世紀後半には世界最高を記録するほど繁栄していた。主要鉱山の大部分は徳川時代に発見されていたが、採掘が進むと坑内の湧水を処理できなくなり、明治維新当時は多くの鉱山は廃山同様となっていた。しかし、1870年代になると、外国人技術者から官営鉱山に伝えられた開坑採鉱への火薬の使用や排水ポンプの導入が急速に普及し、これらの鉱山は再生した。炭鉱業も、はじめは外国船への燃料供給や製塩用が主であったが、輸出の増大と、国内での各種工業の成長にともない、動力源として急速な発展をとげた。

 1872年に東京・横浜間29キロで営業を開始した鉄道も、20年後の1892年には3108キロに達し、さらに20年後の1912年には1万1425キロに及んだ。

 金属機械産業は軍工廠や造船業を中心に成長した。これらの部門では、開国前から幕府や藩政府によって工場が設立され、欧米製の機械設備も導入されていた。明治政府は、これらを接収した上、さらに多数の官営工場を新設し、規模を拡大したたのである。

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