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ワヤクチャさん長くなってしまいました(笑)‥‥とりあえずは無視してもらってけっこうです(笑)
http://www.asyura2.com/0411/lunchbreak4/msg/1430.html
投稿者 荒鳩 日時 2005 年 1 月 14 日 06:40:12:KTVIjZUd/DFzQ
 

「対話」と「合意」の逆説的セキュリティーホール‥‥絶望システム ???

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   「地球政府」構想というのが、地球党をつくって、地球政府をつくるってことですかね?
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地球党って言ったって、地球党一党独裁を目指すものでは無いんですよ。
これは、誤解されてしまいましたね。
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   一党独裁でないなら、むしろ理想の実現など、望むべくも無いでしょう。
   一党独裁だからこそ、理想を確実に実現できるように思うのです。
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独裁でなくても理想の実現は可能です。
それは多くの人々の支持です。
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   しかし、独裁のほうも、支持基盤があって成立するのではないですか。
   けっきょく、似たようなものになる気がしなくもないのです。
   しかも、直接の対話によって意思形成をするということであれば、それは意思決定としては遠回りを意味するでしょう。
   もしかすると、システム構築のために、とてつもないコストを分担しなければならないかもしれませんね。
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それはそうです。
民主主義はコストが掛かるのです。
しかし、コストというものは理想の為にはいくら掛けてもいいのです。
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   理想の実現の為にはコストを掛けてよい、というのも、1つの意見に過ぎないのではないですか?
   つまり、その判断に、それこそ「合意」がなければ“押し付け”になってしまう、というような1つの意見、なのかもしれませんよ。
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コストって経済的な概念であり、実際には労力とか人々の意志の結集が理想社会を作るって事ですよ。
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   ええ、当然そこは押さえているつもりです。
   だからこそ、システム構築にコストがかかり過ぎると、それは直接に人々の生活を圧迫するのだと思いますね、システム構築というのは、生産や余暇の生活時間を削りながらする、大規模な意思形成なのでしょうから。
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地球直接民主主義ね。
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   そういうシステムも、すでにシステムの脆弱性が明らかになっていて「ここにはこういう制度がなければ機能しない」ということが多々見られ始めているのだと思うわけです。

   ワヤクチャさんは何かというと「そうならないような制度をつくればいい」という約束手形みたいなものを濫発されることで、難しい議論を乗り切ってこられたように思います。
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そうならない制度を模索するのが思考の運動なのです。
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   (私も、運動というものをかなり広く捉えているつもりです。そのなかでは当然のように、制度の模索も、システムの構築も、恒常的な対話も、意思形成も、それらのプロセスが全て運動なのでしょう)

   しかし、単に「模索する」運動というのでは済まないと思うわけです。セキュリティーホールは、埋めるしかないでしょうし、人々が自由放任の状況下で「セキュリティーホールを埋めるような合意」をする保証は無いと思います。そういう“見えざる手”は無いかもしれないのです。

   だからといって「セキュリティーホールを明確に意識できないような“合理的な思慮”の足りなさ」を、上からの「教化」で補おうとするのはどうでしょうか。
   もし、そのようにして急速に「啓蒙」するのであれば、それが、けっきょく「強要・強権発動」のようなものにならないとも限らないでしょう。

   そうかといって、自主的で自然な「意思表明」そして「意思形成」を辛抱づよく待っているとすると、意思形成の完了というものは、いったい何時ごろになるのか、果たして、じっさいに可能なのかさえ、危ぶまれるように思うわけです。

   だとすると、論理的な正当性をもって「強権」発動をするほかないのではないか、と思うのですが、その点は後で詳しく述べるつもりです。

   〔ここでいう「強権」発動は、例えば「自然権としての或る種の警察権」ないしは「警察(行為)の自由」にも関わると思いますし、警察権や自治権までも含めて民衆、個人の側からも、発動(行使)可能な「強権」と考えているつもりです。それは、まさに「対話」や「合意」という手順・段階を省く「強権」なのですね〕

   そういう、人間が生き死にするうえで「論理的にどうしても必要な自由」を、「自由権」として、悪い意味ではなく、したがって悪い結果への予想を結論とせずに「強権」と見ているのですね。

   いわば“弱者”の側にこそ、むしろ「権利」としては国家のものに相当するぐらいの「強権」が必要なのではないかと思います。
   それも一定の制約下で、個別に、任意に行使可能であるような、絶対的な意味での「強権」ですね、その自覚を生活の後ろ盾にできるほどの。
   (これは今回の“テーマ”とは直接には関係ないだろうし、また“地球議会”の話のなかでも、あまり声高に云うつもりは無いので、詳細は省きます)

   このような「強権」を頭から悪いものとする、はっきりいえば、日常的に遍く繰り広げられる「対話」と「全員参加の合意形成」を至上のものとするのであろうからには、その根拠を、それを主張する当人が開示しないことには説得力を欠きますね。

   そして、対話という長い過程の先にある最終目標であるはずの、未知で未完の「地球政府システム」に対する各種不安に向けて「不安が的中しないような制度をつくればいい」という論法が用いられるわけですね。

   たしかに「不安を拭う楽観論」は、心理効果としては一定の意義が認められるとしても、じっさいのところ、だだの気休めのようなものかもしれません。

   「システムを補完する制度の実現を保証するもの」が“人類の叡智をもってすれば、きっとできるだろう”という種の類推に未だ過ぎないと思われるからです。
   〔これまで“人類”というものは幾つもの壁(実現不可能なこと)を見つけてきたのだと思いますが〕このことについても、後で述べるつもりです。

   もう、どのくらい、そういう論法を使われたかは知りません。しかし、その件はそれで終わらず、そういう処理をした以上、その制度を実現しなければならないはずなのです。
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その通りです。
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   「そうならないような制度をつくればいい」という命題に変形推理を施すことで「そうならないためにつくらなければならない制度がある」という命題が導かれると思うのですね。
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はい。
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   その制度というものが、所与のものとなっているはずで、それは、複雑な利害判断に委ねて後決めできる問題ではないと思うわけですよ。
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所与では無く、そういう制度を運動によって作っていこうという提案です。
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   そうですか。
   しかし、どうしても作らなければならないものを不確実性の高い「運動」(制度づくりの運動)というものに委ねるところに、疑問を覚えるわけですね。
   これは「どうせ実現には困難がつきまとう」ということと、別種の問題のような気がします。

   この件は、実現可能かという「障害」の問題というよりも、実現しなくてもよいとする「自由」をともなうがゆえの難問ではないでしょうか。
   「システムの障害」というよりも“人のもつ自由”がシステムを阻害するということになれば、解決策はさしあたって「強権」の発動しかないのでしょうね。

   「そうならないような制度」というものは、システム上「不可欠なもの」ということでしょうから、これは強権をもって、是が非でも実現するほかないかもしれません。
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いえ、強権を使わずとも実現可能です。
現在の我々には想像する事は難しいとは思いますが、思想・運動・組織・法などの
柔構造で強権によらずに「地球環境再生」を第一義的に実行する事は可能です。
それが、世論や人々の力なのです。
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   おっしゃっていることが、よくわからないのですが、そして何度もいわせてもらうことになるでしょうが、確実に「意思形成のシステムに不可欠な制度」を決定しなければならないのでしょう?

   そこまで、意思形成に委ねるというのでは、第一に循環論法に陥っているように映りますよ。
   「意思形成の制度が成立する前に意思形成をする」というところに無理があると思うのですね。

   それと(私自身は論理主義者だと思いますが、そうではない)一般の人が納得し、合意するような諸々の「制度」内容は、必ずしも「最高度に合理的なもの」ではないと思っています。

   しかし、その場合に合意を尊重するのであれば「最高度に合理的」ではないものを採用することになりますね。

   すると「意思形成のシステムに不可欠な制度」が採用されず、対案で妥協し、システムが甘くなるケースも生じてくるでしょう。そうなれば「最悪」の場合にはシステムが立ち行かなくなってしまうでしょうね。

   「最悪でない場合」にも、不効率なシステムになったお陰で「充分に意思が反映されない」という憂き事態が、頻繁に起きてくるかもしれません。

   それでも全員が合意しているなら、社会契約として異存は無いのでしょう。
   端的にいえば、これは、意思が充分に反映しないことに合意したようなものでしょうからね、恐らくは「合意の自由の範囲」内で。

   ここで問題として浮上してくる1つが“世代間のタイムラグ”ということでしょう。
   つまり、先行世代の既定事項が、後続世代の意思を規定してしまう問題だと思います。
   平たくいうと、自分が地球に生きているのに、したがうべき枠組みが常に既にあることに対する、若い人の、いいしれぬ「反発」とでもいいましょうか。

   しかし、よくよく考えてみると、この「意思反映における先行世代の優位」という在りかたには合意が無いはずです。
   こと、この部分についていえば「システムの在りかた」に関わる要所ですね。

   後続世代も、やがて先行世代に転じることで均衡が保たれるのでしょうが、これは単に「後で優位になる」ということでしかないかもしれません。
   しかし、それでも願望としてだけなら、同じように「いま‥‥先に、優位になる」ことも望みうるはずです。

   つまり、世代エゴの願望としてみれば、逆順がありえない、あってはならない、というわけではないはずなのです。子供心にも、いま自分が従うべきシステムは、いますぐ自分の意思を反映して欲しいという願望なわけですね。

   意思反映において、その世代が(単なる願望として、合意がどうであるとか、趨勢がどうであるとかは度外視して)「先攻め」と「後攻め」のいずれにしたいかは、思考実験上とりあえず、その“世代”の好みでよいわけでしょう。(むろん厳密には世代間の連鎖的・永続的な均衡を保った上でなら、なお判りよいでしょうが)
   しかも、ここで“世代としての寿命”のことまでを慮ると、一部を除いて誰しも自分の寿命が判らない以上は、誰もに「先攻め」の参画が急がれるのかもしれません。

   しかし、一般に先行世代のほうが早く反映されるのでいいのではないか、という説明は、説明としては可能だと思います。
   そうでなければ“子供にまで”意思を確認しなければならないはずなのです。

   そして「勝手な願望」を制して「後続世代が先に優位になる」のはおかしい、とのことなら、これは「論理と強権」に過ぎないのではないでしょうか。

   また、生きているうちに地球政府へと意思を反映させてみることに特段の必要もなければ、ましてや、その「世代意思が、世代遺志のようにして、死後へと残存することは、意味なくして害がある」と思えるわけです。(こちらは逆の世代エゴということになるでしょうね)

   要は、生きて地球政府に参画して(強制でなければ、唯一絶対の“幸福”への方法論であるとか、これが“愛”の唯一絶対の対象であるなどと、何らかに説得されて支持して)いる間だけ、そして「意思形成」と「地球政府」のコストを負担している間のみ(現役世代の)意思が反映されていればよいのでは、と思うわけです。
   これを「期間の一致」と呼びましょうか。しかし、これがなかなか難しいのではないかと思われます。

   そうやって細かくみていくと、さらにはシステムの更新時、つまり代議制ならば議会選挙までは、意思が反映されないでしょうし、直接制ならば、例えば何年かに一度の意見集約の場面まで、意思が反映されませんね。(政策本位の、リアルタイムの「支持率」制ならば別でしょうが)

   したがってシステムを、隅々まで合意で成り立たせようという「1つの思想」には、理想的な意思の反映は不可能という意味で、それそのものに合理性が無いかもしれません。

   尤も、合意するだけで合理性が無くてもよいのであれば、その「合意(合議)主義」の思想も、合意された思想として、先行世代の間で合理的に成立することでしょう。(ただし、この「合意主義の合意」は必要ということですね)

   つまりは「合意の徹底への合意」もしくは「合意の拡張への合意」というのか、すなわち「優先的合理性の排除への合意」ということですね。
   そして後続世代に「意思反映の減耗」を強いることにもなるのでしょう。

   こうしてみると、どうしても避けて通れないのが「合理性」と「合意(合議)制」との2元論ではないでしょうか。

   どちらも「思想的なもの」といえば、そうであるに違いないかもしれません。
   ただ「合理性」のほうには「合理性」というだけに、合理的根拠がともなっているはずなのです。
   それに対して「合意(合議)制」のほうは、根拠としての総合意思(いわば主観と客観)は、詳細の見えづらい人心の内部にあると思います。

   とくに主観、すなわち個別(の)意思、個別(の)価値というものは、それが地球政府全体のシステム設計の「出来栄え」へと、どのように昇華され、いかなる関係をもつのかが判りにくいわけですね、少なくとも他者(外部環境に在る人)にとっては。(むろん、これ自体が「合理」的な観方ではあるでしょうが)

   翻って「合理性」というものは「合理的目的への合理的対処」の実効性ということからして、理想的な地球政府という目標に対しても、直接的な意義を、なおも保有している、ということなのでしょう。

   もし、地球政府が「決定事項を遵守させる」ようなシステムであるなら、そして「合理性」であれ「合意制」であれ同じに遵守させられるのであれば「合理性」の追求がなされているほうが、生活者としては“安全”でしょうね。

   「合理性」の追求と、その「権威化」が失敗の連続だったように言われるのは、それこそ「最悪の(望ましくない)事態を防ぐような制度」を持たなかったからなのでしょう。

   (したがって「合理性」と「合意制」とを同じ条件で考えるとすれば「システムに不可欠な安全な制度」をつくることで、合理性の追究に立ちはだかる問題点は解消され、もはや「合理性」の強要には、強要以外の問題は無い、というような話になるはずです。そうすると、改めて問題なのは、むしろ「合理性が無いこと」である、という話になってくるかもしれませんね)

   〔ここでは、便宜的に「最悪の事態」と形容し、ジェノサイドなどを暗示させているつもりですが、犠牲者の人数規模の大小は、何某かの「実在」者の視点からすると、そこまで「決定的」ではないものと思われます。事件というものを直接の因果関係に即して分節し、マスに括って捉えられた「一大惨事」というものは、当事者(わけもわからずに巻き込まれて事切れた被害者)の眼というよりも極端な話、誰かの視点でしかないのですね。そうなると犠牲が多いことが即、見ている全員の不幸というには、それなりの飛躍が介在するのだろうと、断っておきたく思います〕

   「最悪の(望ましくない)事態を防ぐような制度」が実在し、システム上に獲得されたと証明されるときには「合理性」は完全性をもつでしょうから、完全であることが疑いようもなく、揺るぎ無いものであるとき、コストを度外視すれば「強権」による“押し付け”が「可能」なのですね。(もちろん、このことは少なくとも今は「仮定」でしょうが)

   「強権」というものが、物理的な脅威という裏付けをともなわずに実行されるさいに(ということは脅威という「犯罪性」「犯罪蓋然性」が除かれているとして、ですが)それは確言(絶対命令)による権利の行使にほかならないでしょう。

   そうなると「合意(合議)制」というもののほうは、もはや、意思決定への意思を、いったん個別に再分配しただけの、漠然とした「安全」性を目指していることにならないでしょうか。

   そこで担保される安全性というものは、単に、一方的に分散させた「弛緩による緩衝」もしくは確率論的な分散による「安全」ないしは「安全期待」ということに過ぎないでしょう。

   それは「暴走」を鈍らせる働きはしても、他方では「対処」を遅らせる働きをも持つような、リスクの平均化(これも分散)ということに過ぎないのだと思います。

   これは本当の意味での「意思の完全自由」(分散)を意味しないばかりか、それを損ねているように思えるわけですね。
   そして、そういうところに、地球政府の“架空性・夢想性”が、如実に顕れてしまう気がするのです。

   むろん個々人が意思形成に、正しさを選び取る自由度は高まるでしょうが(しかし、不参加の自由は喪われますね)それとて「正しさ」そのものの域に達した本当の「合理性」には敵うべくもないでしょう。
   それでも、先行世代はシステムに合意し、運用を始めるかもしれません。

   しかし、そうしたことをしたところで、それは、システムである限りは仕方ないのだ、という「論理」で押し切っているに過ぎないかと思います。そして、これを先行世代による「強権」と称しうるのですね。

   そのようなわけで「意思形成のシステムに不可欠な制度」については、例えば今いった、押し切るようなかっこうになるのでしょうから、合意形成をする限りで「意思形成のシステムに不可欠な制度」なるものは「強権」をもって実現せざるをえない可能性が出てくるのですね。

   そして、さらに、ここで大きな問題が、先ほどの話を伏線として起きてくることになるはずなのです。
   というのは、せっかく恒久的な地球政府がスタートしても、それは、その世代の支持で成り立っているに過ぎないのではないか、ということです。

   もういちど詳しくみてみましょう。

   まず、世代というものは連続的で境目は見出せないはずですね。
   しかし、死生観として、意思形成の「参加対象」となる人たちの顔ぶれは、着実に更新されているでしょう。

   世代というものを勘案すると、システム自体を含めて何もかも、果ては構想まで、一から決め直さなければならないことになるかもしれません。

   なぜなら、厳密にいうと、全員の合意による地球政府というものは、新生世代(新しい形成「意思」主体)の参画にともない、理論的には“絶えず潰してしまい、いったん白紙状態に戻さなければならない”はずだからですね。(これを“合意の新陳代謝”とでも呼びましょうか)

   その合意形成に成人として参画した人々が全て寿命を迎える百年前後が「合意された、システム自体」の耐用年数でしょう。
   または徹底した「多数決」制ならば「少数」に転じるまでの数十年が、地球政府の耐用年数であるわけですね。

   そうなると、支持世代が少数と化したのに、なおも残る人たちに支持を依存していては、地球政府は「虚偽」のものともなりうることでしょう。すでに述べたように、いったん形成された意思に“残留性”を認めることは、後続世代にとって「強権」となるはずですから。

   しかも厄介なのは、新生児は絶え間なく生まれ続け、一般に有権者とされる新成人も、絶えざる連続性をもって、意思形成の場に「供給」されてきているはずだ、ということでしょう。それらの意思が随時「政策に」反映されねばならないとなると、もうこれは大変なシステム上の負荷に他ならないではないでしょうか。

   政策決定がボタン投票ならば、まだ可能なはずです。しかし意思形成において対話するとなると、無限にはいかないでしょうから、どれぐらい続けるのか、という話に移り、期間を区切ることになるでしょう。ところが、その決定された期間のサイズそのものには、有資格者である新たな現役の意思は反映されていないのですね。

   では、後続の人は、先行する人の決定に従わざるをえないでしょう、これは「論理」のはずです。そして「論理」には合意がなく、合意が無いということは「強権」だというのは具体的に、こういう場合なのでしょうね。

   もちろん、今みてきたのは、存命世代と新生世代との人口比を無視したシミュレーションであるはずです。
   反対意見を、それが少数であることを加味して処理できる話もあるでしょう。

   そのとき、システムは多数決に依存しているはずなのです。
   しかし、多数決が「論理」に過ぎないのであれば「合意」が必要ですね。

   そして多数決は、現「社会」でも少なくとも直接の合意は得られていないかもしれません。
   この場合には「多数決について合意を得るための合意」が、まず必要となるでしょう。

   しかし、多数決そのものが議決(対話)すべき案件で、多数決を使えない以上、社会原理としての多数決を全員で認めるか、採決の方法として暫定的に多数決を全員で認めて、社会原理としての多数決を最終決定するかですね。

   いずれにしても全員一致以外の合意を経ることからしか、多数決の「制定」は有りえないでしょう。
   そして、もし否決されれば、そこでは多数決は使えないでしょう。

   むろん多数決が使えないという決定は、決を採った場、つまり、集計する1つの「そのブロック」のみでしょうから、高次の、全体の集約過程でどうなるか、まだ判然としないとの推測もできるかもしれません。(これは「全員同時の多数決制」でない場合ですね)

   「現実」的な予想としては、少数しかない「否決」の“場”での幾つかの「否決」は、多数決によって後に破棄されるのでしょう。

   しかし、その場合にも、多数決は使えないことが考えられるはずです。
   念を押しますが、いま決めようとしているのは多数決の採否ですね。

   そうなると、にわかには多数決を使うわけにいかないでしょう。
   多数決への完全合意が無ければ、多数決そのものを採ることはできないのではないか、というわけです。

  (全体として多数決を問う合意があるときに)全体として多数決を問うさいには、多数決の否決を、多数決で破棄することはできないので、この時点で(全員合意が為されない段階で)終わってしまう(自動的に決議、合意されたとみなされる)というわけでしょうね。

   そうなるとけっきょく、多数決を採用するために、全員の合意、承諾、委任といったものを要することとなり、また少数派が多数決を支持・容認することは考え難いために「現実」的に多数決はできない、という話になりかねません。

   ところが、或る意味、もっと“恐ろしい話”があるでしょう。

   そもそも「合意する」という行為には、合意があるのでしょうか。
   つまり、対話をし、それで納得できれば合意するという、単位作業への合意ですね。

   合意を確実にするために、合意が要るのでは、その確実な合意は不可能でしょうが、合意を想定して、作業を進め、結果的に合意に至ることはできるでしょう。

   しかし、全員のシステムとして合意する場合には、そうはいかないでしょうね。

   まず、そこでは、合意する可能性のある人が、自主的に、その(掲げられた目的の)“場”に出向くということで「合意の合意」が成り立つはずなのです。

   合意への合意というのは、向こうからやってくるものと思うわけです。
   そうでないとすれば、すでに別のところで合意がある、ということですね。

   だとすると、合意も有りうるつもりで合意形成の場を訪れる人のほかは、合意への合意をもっていない可能性があるとみなせますね。
   システムとして合意するということは、したがって、合意への合意がないにもかかわらず、合意への合意のないところで合意しようとする「強権」発動にほかならないでしょう。

   さらに続けます。

   それでは、対話というものに合意はあるでしょうか。
   合意への合意と同じ意味で、対話への合意というわけですね。

   対話したくない人がいるとすると、その人からは対話への合意が得られない、という謂いかたが出来るとすれば、それで、その人の意思表示は終わりかもしれません。

   しかしながら、合意なしでは、多数決は為されえないでしょう。
   要は、先に述べたことがもし正しければ、多数決そのものを採択するには、何らかの全員の合意が必要となるはずだからですね。

   したがって、少数といえども、その少数を置いて先を急ぐことはできない、ということになるでしょう。
   しかし、少数の“個々の人々”の「多数決への合意」を、何の強権的なプレッシャーも与えずに待っていると、世代も移ろいゆくところ、ほとんど永久に合意は不可能ということになりかねないはずです。

   それでは成立しないから、という「論理」で多数決を採用する、あるいは、多数決は普遍の「論理」なので多数決を使えるのだ、となると言わずもがな、それは「論理」であるということで、合意なき「強権」発動となってしまいかねません。

   というわけで、合意が無ければ(物理的な裏づけのほうはともかくも)行使しうる「権利」として「強権」になる、ということなのかもしれません。
   もしそうなら、多数決に依存し、一切を合意で形成する全員参加の一元システムは、それで全て終わりでしょう。

   すでに「合意への合意」を示している“残る人々”で、合意形成への、合意された開始期日が訪れているなら、それらの合意に沿って、合意形成しなくてはならないでしょう。

   しかし、それは地球政府というのではなく、最大規模の或る政府への支持をもった多数の人たちの、或るコミュニティに過ぎなくなる、ということですね。

   「合意への合意」も「合意そのもの」も、それを対話で得ようとすると、対話に参加されない時点で、それは終わりということになるでしょう。(投票に相当する「意思表示」率が百%を要するのであれば“合理的意識”の有る1人でも、事情ぬきで参加しなければ終わりであろうことから、ですね)

   繰り返しますが、対話したくない人に対話を要求することはできず、対話への合意を得られないとすると、その先には進めなくなってしまうかもしれません。(これが「対話」一元論の初歩的な問題なのでしょう)
   すると「対話」がモラルとなって“義務”を履行しない人には(あるいは様々な)批判を浴びせうる(ような“根拠”が「形成」される)のでしょう。

   “システムとして対話する”ということは、したがって、対話への合意がないにもかかわらず、対話への合意のないところで対話しようとする「強権」発動にほかならないでしょう。

   ところで、新生世代というものは、意思表明していない少数として生まれてくるため、意思を表明する・しないに関わらず、少数として捨象することができる、それが多数主義である、ということのはずです。

   しかし、そうなると多数者である先行世代の決定意思を、少数が受忍することになりかねないかもしれません。
   そもそも多数決とはそういうものであろうし、そうであるならば多数決(とされる、システム側のもつ議決権、議決権能)というものは、内実としても「強権」以外の何ものでもないのでしょうね。

   しかも、多数決に頼らざるをえないというのは「論理」であるはずです。
   もはや多数決には合意すらないし、もとより犯罪的決定も出来る、というわけですね。

   じっさいに「全体意思」の形成過程で、個別の意思を集約すれば、誰か人気を博す人の提唱で、もしかすると「多数決よりも好まれる制度」というものが採択される可能性もあるでしょう。

   ところが、その意思の集約も、けっきょくは多数決に依存している、というのですね。

   以上、ざっと見てきました。
   早い話、合意などというものは、生きている人の“傲慢”に過ぎないという論理は、しかし、ともかくも、このようにして「仮定」されるのだと思います。

   話を戻しましょう。
   第二に、地球政府の陰で自明視されているかの「対話」という準備作業そのものが、論理的産物でしかなく、じつは未だ「合意」されていない制度的プロセスなのだとすると、暫定的な意思形成をするしかないでしょう。
   しかし、そこまで遠回りするのなら、いつまで経っても、制度が始まりませんね、遥かな未来の話というならば納得できるのでしょうが。

   第三に、もしそうだとすると、そもそも地球政府を目指さなければ根本的解決は無いということ、そして、それは人々の支持ないしは合意によるものだということ、さらには、そのために対話し、意思形成するということに、いまみてきたように数々の疑問が残るというわけです。

   第四に、そもそも、こうやって話している論理にしても、地球政府の構想にしても、一定の「先行する論理的枠組み」(の共有)のなかから、出ているのではないかと思うわけです。

   ゼロからスタートしている気でおられるかもしれませんが、私自身、グローバル憲法というような、似た試みに参加していた時期もあり、枠組みとして理解できるということがあります。

   また、そういう問題意識のある人が、集まりそうな場ということが“底上げ”になっているのですね。
   ゼロから話しても、一般の無関心な人に相手にしてもらえる可能性は極めて低いでしょう。

   最後に、いまこれを論じても仕方が無いかもしれませんが、強権に見あう「不可欠の恩恵」が果たして得られるのかどうか、ですね。
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強権を使った時点で、その社会は息苦しいものとなり人々は幸福とは言えず失敗です。
強権なしに地球環境再生をする事は可能だと考えます。
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   まずは、精密な論理として本当に、誤魔化し無く可能か、ということですね。
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この為には長期に渡る目的意識的啓蒙活動が必要になります。
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   目的意識を共有できれば、という「括弧つき」ではないですか。
   その恩恵は、必ずしも人類全員が要するものではないかもしれず、場合によっては社会の加害構造とは無縁の人にまで、コスト負担や、抑圧を強いてしまうかもしれません。
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そうなってしまえば、失敗です。
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  また、それらの制度が、はたして原理的に整合するのか、つまりは「ひとつの無矛盾の制度群」に解を導けるのかどうか、ということも精査する段階にきている気がしないでもありません。
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これらの問題は抽象的に論ずる事は危険です。
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   危険とおっしゃる具体的な根拠はわかりませんが、感覚的には私は、抽象的に論じないことのほうが、危険だと思っております。

   これまでの失敗、不毛な議論は、むしろ具象の話だと思います。
   専門家以外にも、具象の議論は夥しく為されてきたと思います。

   あまりに具象性を備えた思想は、その判りやすい可視的な魅力の半面、事実性の移行によって「現実」離れを起こしてしまうリスクがあるわけですね。
   その点、抽象というものは、内包を減らして外延を増やすということでしょうから、ある範囲を、あるいは大きな範囲を、徹底的に網羅するようなカテゴリということですね。

   具象は「事実が逃げていく」ということと「細かな論点・争点が逸れていくという」2重の“差延”を内蔵していると思います。(動く車窓から、具象画を描くようなものかもしれません)

   万一混同されても困るでしょうが、抽象と架空とは、厳然と異なるでしょう。
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具体的にこれならできるという順を追ってシミュレーションとして考える必要があります。
形而上学に陥ってはならないのです。
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   これもやはり、予想の範囲で、そう言われるわけですよね。

   まさかとは思いますが、抽象と形而上学とは厳格に区別していただくように切にお願い申しあげます。
   何か、抽象的であることが形而上学的であるかに、摩り替える方が多々見受けられるのではないかと思っています。

   論理主義者にとって、神秘や真理は、その内容が「概念」記号として口述・筆記され、顕現していない間、少なくとも、いったんは無視してかまわないと思っています。
   仮に真理の絶対性が主観的に感得されても客観的には無意味ということで、検証可能で記号的な(観念による)証明を要するはずなのです。

   反面、例えば「社会的性欲」という概念を作るとすると、もちろん耳慣れないでしょうが、誰かの外観(言動)のなかに(意図せざると)「社会的性欲」に関して内的・外的な構造が認められるとすれば、実体的にも、この「社会的性欲」という概念は措定できるかもしれません。

   これは便宜的な概念でしょうが、概して、あるかどうかが判らないことよりも、できれば確実とされることを根拠として、さらに判ることを生み出すようにして判断していきたいわけですね。
   論理主義者は、論理的に探求すればよいはずであって「神秘」や「真理」との二元論はとるべきではないでしょう。(それ自体、論理に悖るかもしれません)

   形而上学に主として、有るとも無いとも検証不能な概念が含まれているとしましょう。
   すると例えば「もしかすると誰かが将来、ひらめくかもしれない良い知恵」というのも、有るとも無いとも検証不能な概念ですね。

   こういうものを根拠の一部として補って、楽観主義的な進歩史観で、システム構築の推進を見切り発車することが、具体的に危険と申せましょう。
   なぜなら、それにともなうコスト負担に対して、それが持続的に実効性を持つ保証が未だ見えないと思うからですね。

   ここでするシステム構築というものは全員参加ではなくて、準備作業なのでしょうが、それを公言するときには、まだ理論として未成熟であることを示唆しないことには、虚言に陥ってしまうかもしれません。
   いまも述べたように楽観主義的な進歩史観が「絶対的な」論理矛盾を超えるつもりでいたり、さもなくば「絶対的な」論理矛盾が見えていなかったりするとき、抽象論理的なシミュレーションこそが、確実性の高い見通しを与えてくれるはずだと思うのです。

   地球政府が、経済とのバランスをとるべき巨大事業であると思われても、否、そうであるからには影響が余りに大きいことも含め、大雑把な法意識で進めてしまうと、根本原理で大きく蹉跌する恐れがあるというのですね。 

   やはりそれも、論理主義者にとって、論理的に可能でないものは、たとえ合意がえられようとも、不可能だと思われるからです。
   不可能なこと、できない恐れがあることを前提に、話を進めても無意味でしょう。

   じっさい抽象的であることは、白黒を付け易い場合が多いかもしれません。
   具象性が高まれば、情報量が増え、着眼点が増え、際限のない論点の変更が可能になるとすれば、少なくとも基礎論の段階では避けるべきでしょう。

   具象を例示するのも、集合の元として交換可能な一方、それらが個別的になると、固有の問題に対処していかなければならず、コストが増大していくのではないでしょうか。
   これが私のいう不毛な議論だと思うのです、見かけに関わらずの。

   (会話そのものを楽しむというのではなく、目標がはっきりしているなら、抽象性をあげることこそ望みすれ、その逆は、私としては考え難いかもしれません)
   まだまだ眼前に横たわる原理的な問題が多い一方、解決ずみの事案は、むしろ少ないという状況ではないでしょうか。

   人々を巻き込み、無駄な争いで多くの犠牲や見えざる抑圧を生むことなく、ルーズな処理による思わぬ陥穽のリスクを減らすにも、緊密な最小限の論理で詰め、抽象論理を軽視しないでいていただくことを重ねて申し上げる次第です。

   そもそも、こうして、とりあえずで行われているような「対話」の絶対的有用性が万一、論理的に否定されるとき、対話も形而上学の一概念ということになってしまうことでしょう。
   論理的に認められるものが、とりあえずは、確実に「存立」するのだとすれば、なるべくなら抽象論理的・形式論理的に語るべきであって“より確実性の低い”具象で語るべきではない、というふうに思います。断定的であるためには絶対的である必要があるのでしょうね。

   (ちなみに、恐らくはワヤクチャさんが、あっし○さんを“追いつめた”ときも、抽象論理に属する内容だったのではないでしょうか)

   私は「明確な事実情報」もさることながら、本質に迫る抽象論理でこそ、難問の決着がつくのだろうと思っていて、むしろ具象こそが、手持ちの無数の知識で“煙幕を張って”核心を避け回るような、そういう「逃げ」を往々にして許すのだと思います。
   先ほどは、これを不毛な議論といったはずです。

   (しかも1対1では幸か不幸か“多数決”もできず、水掛け論でしょうから、これについても「抽象論理」で闘うしかないのでしょう。対話で決を採れば、たとえ参加者が3人でも終わってしまう、そのようなものが対話であり、多数決の本質なのかもしれません。対話と多数決とは相補的な対立概念で、どちらも自立せずに対極を要する、かなり危うい概念であるかもしれない、というようなことを、形而上学の話の文脈で触れておきたく思います)

   左派と左派、右派と右派、左派と右派、そして中道が散々やっても“一晩かけても”結論や合意に至らない、信じられないような数々の議論は、これなのかもしれません。
   (したがって私にとって“いかにもバトルらしい対話、キャッチボール”には、じつは参加者としての興味は余りなく、コミュニケーション観察者として興味があるぐらいですね)

   抽象は抽象として成立し、具象も具象として成立するとして、具象は抽象化できたとしても、その逆は難しい、というのか、抽象から具象では架空になってしまうかもしれません。
   この点でも抽象が優位でしょう。むろん、それだけ守備範囲が広いと思うからですね。

   およそ抽象化が不充分であるときには「法文」が文学に終わり、解釈に諸説を生じて混乱を招くというのも抽象論理としての詰めの甘さでしょうね。(地球政府のシステムの骨格は、具体的には「法文」ということだと思います)

   いまだかつて成立した地球政府という“期間的存在”が一度も無いのであれば、具象(描写)としては話のしようがないでしょうしね。
   
   地球政府は、もちろん“幸福”への実効性がなければ運用価値は無いでしょう。
   しかし実効性があったところで、別の誰かの受ける被害(罪)無しでは、地球政府を経営できないと結論づけられる場合には、地球政府を良きものとした、美化するイメージは「形而上学」のあつかいですね。

   3人寄っても、百人の学者が集まっても、不可能なものは不可能であって、不可能なものを論じても、それは「形而上学」でしかないのだとすれば、避けるにしかず、ということなのでしょう。
   じっさい“凡百の秀才”を集めても、決定的な結論が得られないというのが、これまでの多国間の国際会議でよく見られた風景なのかもしれません。

   (そう考えてくると、一般に生活者が「抽象」を避けて議論するのも、話の前提に潜んでいるセキュリティーホールの検証過程を省き、得意分野で議論を楽しみたい、また楽しませたい、人を集めたい、参加させたいという、意識・無意識の行動なのかもしれませんね)

   抽象的なシステム構築にしろ、本源的な問題の解法にせよ、ここでいうような「地球政府の真偽」という一大テーマの土台づくりには、やはり「哲学」をせざるをえないのだと思います。そのとき、対話を支えるのは基本システムに関わる抽象的な言葉だと思います。言葉から逃げるわけにはいかないでしょう。

   良し悪し抜きで、哲学から革命思想が生まれるようにして、抽象的な設計思想を固めるところから入るのが、システム設計ではないかと思うのですが、如何でしょうか。
   ただ、この場合、思想を詰めることで、地球政府の設計も大幅に制約されるらしいことは上述の通りだと思います。それでも、もし可能というのであれば、選択幅が狭められたほうが、迷わずに済むのかもしれません。

   (なお、今回は、錯綜した集中的対話による熱狂、ポピュリズムについては判断停止、としているつもりです)
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