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「After Theory 第1章 忘却-の政治」テリー・イーグルトン 『早稲田文学』2006年1月号(1)
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投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 12 月 20 日 05:50:49:akCNZ5gcyRMTo
 

『早稲田文学』2006年1月号よりOCR入力



After Theory


--第1章 忘却-の政治
テリー・イーグルトン
訳、解題  北野圭介

1.忘却の政治
文化理論の黄金時代は遠く過ぎ去ったものとなった。ジャック・ラカンやクロ-ド.レヴィ・ストロース、ルイ・アルチュセールやロラン・バルト、さらにはミシェル・フーコーといった面々による、時代を切り開いた書物が世に送り出ざれたのは、もう数十年も前のことである。レイモンド.ウィリアムズ、ルース・イリガライ、ピエール・ブルデュー、ジュリア・クリステヴァ、ジャック・デリダ、エレーヌ・シクスー、ユルゲン・ハーバーマス、フレドリック・ジェイムソン、あるいはエドワード・サイードらが、その活動初期世に問う革新的な仕事も同じく遠い昔に発表されたものである。以後多くの文章が発表されたが、こういった開拓の父たちや母たちがもっていた大きな野心やオリジナリティを認めることがでぎるようなものはほとんどない。開拓の父たちや母たちのなかには、突然の不幸に見舞われてしまった人々もいる。それは宿命だったのだろうか、ロラン・バルトはパリでクリーニング店のトラックに、ミッシェル・フーコーはエイズに、その命を奪われることになった。同様な運命はラカン、ウィリアムズ、ブルデューにも訪れた。ルイ.アルチュセールは妻を殺め精神病院へと収監されることとなる。神は構造主義者ではないようだ。

だが、これら思想家の考えの多くは、類まれなる価値をもつものとして依然読まれ続けているし、上記の思想家のなかには今日なお十分に重要度の高い仕事を生産し続けている人々もいる。したがって、この本のタイトルを見て、「理論」はもはや終わったのだ、そしてわたしたちはみな平穏に理論以前の無垢な時代へと舞い戻ったのだ、などと推察した読者がいれば、落胆することになろう。キーツの愉快さとかミルトンの豪胆な精神について口にするだけで充分だった時代に帰ることなどできない。慈愛に満ちたいくつかの魂が合図し開始されたプロジェクトをまるごと酷い失敗であったかのように振舞うこと、ひいては、フェルディナン・ド・ソシュールが地平線に立ち現れる以前になされていたことなら何にでも立ち返ることができるかのように振舞うこと、それはできない相談である。もし、理論というものが、わたしたちの思考を導いている諸前提に対する合理的そして体系的な反省的思考を意味するのだとするならば、それは以前にもまして必要欠くべからざるものであろう。それを踏まえ言うならば、わたしたちは、こう呼んでよければ、高位の理論といったものが過ぎ去った後に生ぎているのである。すなわち、アルチュセールやバルト、デリダといった思想家の洞察が豊かに熟してしまった後、がゆえにまた、そういった洞察の射程を越えることともなってしまった時代にわたしたちは今生ぎているのである。
こういった、時代を切り開いた人物たちの後に続く世代は、続く世代というものが普通おこなうことをおこなった。彼ら彼女らは、先駆者たちのアイデアを発展させ、膨らませ、また批判し、応用したのである。
そうできる人たちは、フェミニズムや構造主義を案出し、そうできない人々は、『白鯨』や『キャット・イン・ザ・ハット』に先駆者たちの方法論を適用したのである。だが、新しい世代は、先駆者たちと比較しう るような、自分たち自身の思想を生み出すことはなかった。そして、先行世代の仕事は、いまや付き従っていくことが難しいものであったことが判明したのである。疑いなく、新しい世紀は、新しい世紀に見合った導き手を輩出していくことになろう。なのだが、わたしたちは今現在、なお過去を活用しながら生き延びているという有り様なのだ。フーコーとラカンがはじめてタイプライターの前に座って以来すでに長い時問か経過し、世界は劇的に変わってしまったはずなのだが、それでもなおこういった状態なのだ。新い時代はどのような新鮮な思考を欲しているのか?

この問いに答えようとする前に、今現在わたしたちはどのような場所に生きているのかをしっかり計測しなければならない。構造主義、マルクス主義、ポス卜構造主義といったようなものは、かつてそれらが身に帯びていたセクシーさをもはやまとってはいない。いまセクシーなのは、そうではなく、セックスそのものである。アカデミアの先端的一角において、フランス哲学に対する関心が、フレンチ・キッスの魅惑ヘと取って代わってしまったのである。マスターベイションが中東政治よりもより魅力をもつものとなっている文化サークルさえあるだろう。社会主義はサドマゾ趣味に屈したのである。文化に興味を持つ学生たちの間で大人気トピックは身体であるが、それはまずもってエロティックな身体であり、飢えた身体ではない。結合しあう身体に対する強烈な関心があたりに濫れかえっているのだが、労働する身体には何もない。落ち着いた物腰で話す中産階級出身の学生たちは熱心に図書館に通い、吸血鬼信仰や眼球切除、サイボーグやポル ノ映画といった人目を煽るテーマについての調査研究に励んでいるのである。

ある意味で、これほど分かりやすいことはないのかもしれない。コンドームに関する文献を漁ったり臍ピアスについてリサーチしたりすることは、学業なるものは楽しくあるべしという古くからの箴言を文字通り実行したものでもあるからだ。モルト・ウィスキーの味わいに関する比較研究、あるいは一日中ベッドで横たわっていることの現象学、といった主題を扱う修士論文とこれはよく似たものであろう。こういった研究は、知的活動と日常生活の間に継ぎ目のない連続性を確保する。テレビの前から少しも離れることなしに博士論文を書くことができるということにはなんらかの利得がある。一昔前であれば、ロック・ミュージックは、勉学からの気晴らしであったわけだが、今日ではまったくもって正当な研究対象なのである。知的な営みは、もはや象牙の塔が関わる事柄ではなく、むしろ、メディアやショッピング・モール、寝室あるいは売春宿が構成する世界にこそ属しているのである。そのような仕方において、知的営為は、日常生活との結びつきを取り戻したのだ。批判的な思考の姐上に載せる力を失うというリスクを払って、なのではあるが。

今日、ミルトンの作品における古典的な引喩の有り方について研究する年老いた頑固者は、近親相姦やサイバーフェミニズムに嵌る若き急進主義者たちを横目でみやっている。他方、足フェティシズムや十五-十六世紀の貴族が股間にぶらさげていたコッドピーの論文にペンを走らせる利発な若者は、ジェーン・オースティンはジェフリー・アーチャーよりも偉大だとただただ語る年老い痩せた学者を猜疑心に染まった眼で眺めている。熱狂を集めたひとつの権威のある慣行が、別のものに屈したのである。かつてであれば、ロバート・ヘリックの作品における換喩を言い当てることができないような者は学生街の飲み屋から叩き出されたものだが、今は、換喩あるいはヘリックなる言葉を耳にしたことがあると口にしただけで救いがたいオタクであるとみなされるのがオチなのである。

であるから、セクシュアリティがありふれた研究対象になってしまったということにはアイロニカルなところがある。というのも、文化理論によってなされた、衆目を集めた成果のひとつが、ジェンダーとセクシュアリティを正当な研究対象として、しかし同時に強固に政治的な重要性をもつ問題系として、確立したことであったはずだからである。実際のところ、人間存在には性器などというものはないという暗黙の前提のもとでどのようにして知的生活というものが何世紀にもわたって営まれてきたかということは注目に値する(知識人はまた、男性女性問わずあたかも胃袋を欠いているかのように扱ってもきた。これは、ハイデッガーの高尚な概念、現存在について哲学者エマニュエル・レヴィナスが、人間に関して極めて奇妙な存在形態を意味していると云い述べたところでもある「現存在は食べることがない」のである)。誰かが二つの欲求を持つ下半身そしてひとつの欲求を持つ上半身についてあからさまに口にしているとき、知を愛する者であるならば注意深く耳を傾けるベきである、とフリードリッヒ・ニーチェはその昔書いている。だから歴史に残る前進であると思われるが、セクシュアリティはついにアカデミズムにおいて人間の織り成す文化のなかの要めのものとしてしっかりとその位置づけが確保されているのである。人間存在は、真実と理性に関わるのと少なくとも同じくらい夢想と欲望に関わるものなのだとわたしたちはようやく認識するにいたったということだ。文化理論の現在の姿は、セックスなるものにうっかりと足をすくわれ失われた時を狂ったように取り戻そうとしている独身の中年教授に讐えられよう。

文化理論のいまひとつの歴史に残る収穫は、ポピュラー・カルチャーもまた研究するに値するものであるという認識を確立したところにある。いくつかの敬うべぎ例外を除き、伝統的な学問体制は、何世紀もの間、普通の人々の日常生活というものを無視してきた。実のところ、日常生活だけではなく生活それ自体が学問によって看過されてきたといえるだろう。伝統のある大学のなかには、つい最近まで、生存している作家についてのリサーチはしてはならないというところさえあった。これは、霧の深い夜作家たちの肋骨にナイフを落としてしまいたくなる衝動を少なからず与えるものであったし、自分が選んだ作家が頑強でいまだ三十四歳であった場合、忍耐力を試す恰好の自己鍛錬のヂャンスであったりもした。日常自分の身の回りで見かけるものなどまず間違いなく扱ってはならないものだったのであり、そういったものはそもそも定義上研究に値するものでなかったのである。人文諸科学において研究に適していると考えられていたもののほとんどは、ネイル・クリッピングやジャック・ニコルソンといったように目にみえるものであってはならなかった。そうではなく、スタンダールや、主権概念、もしくはライプニッツのモナド概念におけるしなやかなまでの優雅さ、といった目に見えないものだったのである。日常生活がワーグナーの作品と同じくらい入り組んでいて奥が深く容易には見定めがたくさらには時としてうんざりするものであるということ、がゆえに探求するにまったもってふさわしいものであるということが、今日広く認められるようになったのである。ひと昔前であれば、何が研究に値するかの基準はしばしばいかに無益でいかに単調でそしてまたいかに秘儀的かということだったわけだが、今日では、それは、当人とその友人が毎晩おこなうようなことであるかどうかということが決め手となったりする場面さえあるだろう。学生たちはその昔、フローベルについて、判断基準ももたないままうやうやしく論文をしたためたものだ。だが、そういった構えはまったく相貌を変え、いまや学生たちはテレビドラマの『ラレンズ』について判断基準もないままうやうやしく論文を書くのである。

とはいえ、体裁の整った研究課題としてセクシュアリティとポピュラー・カルチャーが位置づけられるようになったことが、根強い神話のひとつを失墜させたことも間違いない。それは、真剣であることと快楽を求めることが別々のことであるという、清教徒的潔癖主義のドグマを打ち砕く助けとなったのである。清教徒的潔癖主義者は、真剣であることを厳粛なことと見間違えているので、快楽を求めることは軽薄なことだと見誤るのである。快楽なるものは、知の領域の外部にあり、したがって危険なほど無秩序であるとみなすのである。清教徒的潔癖主義者は、快楽を求めることと真剣であることが、次のような意味で関係し合っているということがみえないのだ。すなわち、どのようにすればより多くの人々にとって生活がより喜ばしいものになりうるのかを探ること、それは極めて真剣な事柄であるということがみえないのである。伝統的には、こういった問いは道徳的な問いを形成する言説として捉えられたぎた。しかし、それは政治的な言説として考えても同じくらい適切なのである。

だが、快楽、それは現代文化における流行語のひとつといってよいが、これもまたそれ自身の限界を抱えている。どのようにすれば生活がより喜ばしいものになりうるかを探ることは常に喜ばしいことであるわけではないからである。

科学的な探求がなべてそうであるように、この問いの探求にもまた、忍耐、自己修養、それに退屈さに対する疲れを知らない許容力を必要とするからである。いずれにせよ、快楽を究極のリアリティとする快楽主義者は、張り裂けんばかりの声で反乱を叫ぶ潔癖主義者にすぎないことが少なくない。両者ともに、たいていセックスが頭の中から離れない。両者とも、真理と熱心さを等しいものとする。旧来の清教徒的資本主義においては、人は楽しむことを禁じられていた。一旦楽しみなどというようなものの味を覚えてしまったら、二度と仕事場へと目を向けることはないであろうとされたからである。もし現実原則というものがなかったら、わたしたちは、さまざまなかたちの、穏やかではあれ顔を赤らめたくなるよう な享楽のなかで一日中寝そベっているだけになるだろうとジグムント・フロイトはいった。けれども、一層抜け目のない消費主義的資本主義においては、わたしたちは、己の官能にひたすらに耽り恥も外聞もないほどにただただ自らを満たすことだけが奨励されるばかりなのである。このような意味で、わたしたちはただ商品を消費するというだけでないのだ。自らの充足と資本のシステムの持続とを違わないものとして理解するようになってしまいもするのである。官能的な喜びの絶頂に溺れることをしくじった者には、夜が更けると超自我として知られる恐ろしい暴漢が訪れるが、快楽を得なかったことに対するその刑罰は残酷なまでである。とはいえ、この悪漢は、お楽しみの時間を過ごしたなと難詰したりもするので、痛みはあっても少しは利得もあり結局のところ愉快に過ごすことになったりもするのではあるが。

であるので、快楽というものには、それ自体において転覆的な性質はない。まったく逆で、カール.マルクスが認識していたように、それは、まったくもって貴族階級の信条に近いようなものなのである。伝統的な英国紳士は、快楽のない労働などというものをさせられると、それを心底嫌っていたので、きちんと話すということに心を砕くことさえできなかった。結果、もったいぶって、わざわざ不明瞭に発音したり、もの うげな語り口調になったり、という性癖が生まれることになったのである。人間的であることは、カタロニア語を学んだリバグパイプを演奏したりするのと同じで常に実践することを通して上手に身につけていくべきものであるとアリストテレスは信じた。他方、もし英国紳士が有徳であったとしたなら、時にはいやいやながらそうであろうとした場合もあったようではあるが、彼の善良さは、まったくもって自然発生的なものであった。道徳的努力などというものは、商売人や事務員のものだったのである。

世界人口の半分が充分な衛生設備がなく一日二ドル以下で生活を続けている時に、陰毛の歴史についての研究に従事するという西洋的ナルシシズムに、文化を学ぶ学生全てが盲目的であるわけではない。実際、今日へ文化・研究(カルチェラル・スタディーズ)の最も活気のある領域は、いわゆるポストコロニアル研究であり、まさしくこの差し迫った状況を扱っている。ジェンダー及びセクシュアリティの言説と同様、これは、文化理論がなしえた最も貴重な達成のひとつである。なのだが、この方向の思考は、若い世代、つまりは、世界を揺るがした政治的重大事について自らの落ち度ではないにせよほとんど何も知らない世代のなかで流行っているものなのである。いわゆる対テロ戦争の登場前、ヨーロッパの若者たちにとって、自分たちの孫たちに伝えるべきこととして、ユーロ通貨誕生以上に重要なことなどなかったようなのである。一九七○年代以降続いた保守主義路線の殺伐とした数十年の間に、歴史的な感覚というのは目に見えて鈍くなっていった。そしてそれは、わたしたちが同時代の状況に対して対抗代替案を想像することができなくなっていったという点で、時の権力の座に就いていた人々にまったく適合したものだったのである。未来は、現在の無限の繰り返しにしかすぎないだろうあるいは、ポストモダニストが述べたように、「より多くのオプション付ぎの現在」にしかすぎないだろう−−−という思考の登場である。いまや、信仰心厚く「歴史化」作業を施し、一九八○年以前に起きたことはすべて太古の昔の話だと信じて疑わない人々までいるのである。

もちろん、興味深い時代を生ぎるということが、混ざり気のない授かり物であるというわけではない。ホロコーストを思い出すことができるということ、あるいはヴェトナム戦争を生きて経験したということは、何か特別な慰めというわけでない。無知と忘却はそれぞれに利点がある。週末毎にハイド・パークで警官頭蓋骨を割られそうになった胱惚の日々をわざわざ悼むことにいま意味はない。世界を揺るがしたような治の歴史を辿り直すことはまた、少なくとも政治的に左翼の者にとっては、ほとんどが敗北の歴史であったことを思い返すことでもある。いずれにせよ、新しくそして不気味な段階の世界政治がいまはじまってしったということであり、それは、アカデミズムの最も閉じ篭った連中でさえ無視し得ないものである、そ述べることに間違いはない。そうではあるが、少なくとも反資本主義運動の出現の前、最も大きい損害だったのは、集団的で、実効性のある、政治活動の記憶の消滅だったのである。この消滅こそが、文化に関する現代の思考の多くがゆがんでしまうことになった原因なのだ。わたしたちの考え方のど真ん中に歴史の渦がひとつがあり、それがために、思考が真なるものから引ぎ離されてしまっているのである。

わたしたちが現在知っている世界のほとんどは、その外観に体よく覆いを被せてはいるが実のところ最近出来上がったものにすぎない。それは、第二次大戦の後この地球を席巻した革命的ナショナリズム、すなわち、西欧諸国の植民地主義のくびきからひとつのネーションまたひとつのネーションともぎ取っていった革命的ナショナリズムの何度も何度も打ち寄せる波によって産み落とされたものなのである。第二次大戦中の連合国の戦い自体、人類史上類のない規模での協同の実践活動であった欧州の心臓部に現れたファシズムという悪を粉砕し、その戦いのなかで、今日わたしたちが知るこの世界の基盤のいくらかの部分が調えられていくことになった、そんな実践活動だったのである。わたしたちが現在周りにみる世界規模の共同性の多くは、比較的出自が新しく、集団的で革命的なプロジェクトによって形成されてぎたのだということなのであるしばしば、弱く飢えた人々によって開始されたにもかかわらず、外国の略奪的な支配者たちを追放することに成功したプロジェクトによってである。実のところ、こういった革命によって解体された西欧の帝国自体ほとんどは、また別の革命の所産でもあった。単に、それら帝国が最も勝利に輝いた革命で、それらが革命として出来したということをわたしたちが忘れてしまっているだけ、のことなのである。このことが一般に意味していることは、わたしたちと同じような人々を生んだ、別のさまざまな革命の歴史もまた存在するということである。他の国の革命は常に、己の国の革命よりも目に付くものなのである。

だが、革命をおこなうことと、それを持続することはまったく別のことである。事実、二○世紀において最も名高い革命の指導者にとって、当初革命をもたらしたものが、最終的にはその失墜の究極的な原因ともなったのである。ヴラジーミル・レーニンが信じるところでは、帝政ロシアの後進性こそが、ボリシェビキ革命を可能にする助けとなったものであった。ロシアは、国家ヘの市民の忠誠を確実にするタイプの、と同時にそうすることで政治的暴動をどうにか食い止めるタイプの、市民制度が貧しい国(轟菖9)であった。 その権力は、分散されていたというよりは中心に集められており、合意によるものであるというよりは強制的なものだったのである。つまりは、国家機構に集中し、それを打倒するということは、直ちにその統治権の奪取を意味したのである。しかし、この、まさに同じ貧しさと後進性が、革命がいったんなされた後、それを座礁させてしまう後押しをすることになったのである。経済的に取り残されている場所で、また、より強力で政治的に敵対する強国に取り囲まれ、さらには、社会制度や民主的自治組織をもたない未熟練で文字の読めない多くの労働者や農民を抱え込むなかで、社会主義をつくりあげることはおよそ不可能なことだったのである。無理にでもそれを打ち立てようとするとき、スターリン主義が推し進めたような力ずくの措置が必要となったわけで、それが最終的には、自らが打ちたてようとしていた社会主義それ自体を転覆してしまう結果になったのである。

同じよう逓命は程度の差こそあれ二〇世紀西欧諸国の植民地支配らの自由をどうにか獲得しようと試みた多くの国々を苦しめたものでもあった。悲劇的なアイロニーといってもよいのかもしれないが、社会主義は最も必要とされた場所において最も実現の可能性が少なかったということなのだ。実際、ボストコロニアリズムの理論は、第三世界の国々が自らの国だけでやっていこうとして失敗した矢先に褒ず生まれたのである。それは、第三世界的な革命の時代の終わりを記し付けていたといえ、同時に、グローバリゼイションとして現在わたしたちが知っているところのものの最初の兆候でもあった。一九五○年代と六〇年代における、中産階級のナショナリストによって指導された一連の解放運動は、政治的な主権と経済的な独立という名の下に、植民地支配者との関係を絶つというものだったのである。そのようなゴールへ向けて痩せこけた人々の要求を結びつけていくことによって、第三世界のエリートたちは、人民の不満を背景に権力の座へと自らを導いたのである。けれども、いったん政権が誕生するや、彼らは、下からの激しい突き上げの圧力と外からの世界市場の攻勢との間でバランスをはかる不様なまでの離れ業に従事せねばならなかったのである。

マルクス主義は、その核心において国際主義者の思潮であるといえるが、そうした面から、これらの解放運動に支持をおこない、これらの政治的自立ヘの要求に敬意を払い、そのなかに世界資本主義に対する、痛々しいまでの踏ん張りを認めたのだった。そうなのではあるがしかし、多くのマルクス主義者は、こういったナショナリストの動きの先頭に立った大志ある中産階級のエリートたちに幻想をもつことはまずなかったのである。より感傷的な色合いの強いポストコロニアリズムとは異なって、マルクス主義は、第三世界は善、第一世界は悪として考えるといった図式を受け入れることはなかったのである。そうではなく、植民地主義及びポスト植民地主義の政治について階級的な分析をおこなうことをこそマルクス主義者は主張したのである。

孤立し、貧しさに打たれ、りベラルもしくは民主的な市民の伝統が根付いていない、こういった政体のいくつかは、スターリン主義の道を歩み、破滅的な鎖国主義へと陥ることとなる。ほかの政体も、自らだけで生き延びていくことはでぎないということ政治的な主権の確立がしっかりとした経済的自治をもたらすことはなく、また、それはこの西洋支配の世界情勢のなかでは決してありえないということ--を認めざるを得なくなっていく。一九七○年代以降世界資本主義の危機が深刻化するにつれ、また多くの第三世界諸国が停滞と腐敗へと沈み込んでいくにつれ、自らが厳しい時代を迎えていた西洋資本主義が攻撃的なまでに建て直しを図り始め、国民的-革命的独立にまとわりついていた幻想を一気に清算するという事態となる。それに応じて、「第三世界主義」が「ポストコロニアリズム」に取って代わられたのである。一九七八年に出版された、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』は、知的活動の脈絡においてこういった移行を記し付ける仕事であったということがでぎる。その跡を追うことになるポストコロニアリズムの理論の多くのものに対して、この著者自身が、当然あってしかるべぎ留保をつけていたということはあるにせよ、である。この本は、国際派左翼の大きく揺れ動く潮流のなかの転換点に登場したのだということである。

第三世界といわれる場所で起きた国民的な革命が部分的にではあれ失敗したということがあるので、ポストコロニアリズムの理論は国民性に関して論じることに警戒心が強い。ナショナリズムが往時驚くべきほどの実効性をもった反植民地主義的な勢力であったことを思い起こすには若すぎたり鈍感であったりする理論家たちは、ナショナリズムに暗愚な同属偏重主義や民族至上主 義しか見出せないでいるのである。ポストコロニアリズムの思想の多くは、その代わりに、脱植民地主義的な国家が世界資本の軌道の中に容赦なく放り込まれてしまっている世界情勢における、国家を超えた動ぎの次元に関心を集中したのだ。そのような方向をとっているという点で、ポストコロニアリズムはまさしくリアリティを反映していたといえる。だが、国民性(nationhood)という観念を拒絶するという点において、この思考もまた、階級という考え方を放棄してしまう傾向にあるのだ。階級なるものは、革命的な国民といった考えに過度に結び付けられていたからである。新しい理論家のほとんどは、単に「ポスト」植民地主義というだけではないのであって、そもそもの発端において数々の新しい瞭民を生んだはずの革命的な機動性に対しても「ポスト」なのである。こういった国民国家が部分的にではあれ失敗し、豊かさを誇る資本主義世界との折り合いをうまくつけられなかったとき、国民なるものを超えて物事をみようとすることが、階級というものをも越えて物事をみようとすることを帰結したのだといえるかもしれない。資本主義がかつてないほどに強力で略奪的である時代であれば、なおさらそうなるしかなかったのかもしれない。

ある意味革命的なナショナリストたち自身、階級というものを超えて物事を見ていたのではないかということは正しい。国民と呼ばれる人々を糾合することによって、対立する階級利害に対して擬似的な統一性を強引に与えようとしたのは事実である。実際、国民の自立ということから生まれたのは、中産階級が、困窮する労働者や農民よりもはるかに多くのものを得、後者の側からすれば、外国人による搾取が自国の人間たちによる搾取にとってかわったということを発見しただけ、という事態だったのかもしれない。だが、そうではあったとしても、なのだ、このときの統一は、まったくのインチキであったというわけではないのである。たとえ、国民という考え方が階級対立に対する置き換えのようなものであったとしても、それは同時にまた階級対立にかたちをあたえたということでもあるのだ。たとえ、それが危険を孕んだ幻想を育ててしまったとしても、それはまた世界をひっくり返そうする動きに加担しえたのである。実際、革命的なナショナリズムは、二〇世紀において最も成功したラディカルな潮流であった。第三世界の多様な集団、多様な階級が、ある意味、西欧という共通の敵対者に向かい合っていた、といって間違いではない。国民という存在は、この共通の敵対者に抗して階級闘争が企てた主たる形式だったのである。確かに、それは、偏狭で、いびつな形式であったし、結局のところ、悲惨なほど不十分なものであった。『共産主義者宣言』も、階級闘争というのはまずもって国民という形式をとるのであるが、その内容においてこの形式を超えていくものであろうとみている。

たとえそうであるにせよ、だ。国民なるものは、独立に対して立ちはだかる植民地主義勢力に抗するために、異なった社会階級農民、労働者、学生、知識人を糾合しうるひとつのやり方だったのである。それは、己の支持を呼び込む力強い論拠ももっていだし、少なくとも最初の段階においては、成功しえたのだった。

対比的に言えば、新しい理論のいくつかは、関心の的を階級から植民地主義ヘと移すのであるあたかもコロニアリズムとポストコロニアリズムはそれ自体として階級の問題ではないかのように、こういった理論は、これこそヨーロッパ中心主義のひとつの現れであると思われるのであるが、階級問題を西欧のみにあてはまるものとして位置づけ、それを自らの国民の観点からだけでみようとするのである。社会主義者においては、まったく逆で、反植民地主義闘争とは同時に階級闘争にほかならない。それは、国際資本の勢力に対する撃墜をこそ表象していたのである。そういった挑戦的行動に対して、国際資本の側がすぐさま、承認された軍事力で応答することになったのではあるが。反植民地主義闘争は、西欧の資本と世界中の汗水たらして働く労働力との間の戦いだったのである。ではあるのだが、この階級対立は、国民的な観点から枠づけられていたということがあり、後のポストコロニアリズムの仕事において階級という考え方自体が消え失せていく道を用意してしまったようでもある。これが、わたしたちが後にみる事態、二○世紀の中頃ラディカルな思潮は頂点を迎えていたといえるのだがそれはまた下降カーブのはじまりでもあったという事態、のひとつの意味合いなのである。

ポストコロニアリズムの理論の多くは、焦点を、階級や国民から、エスニシティヘと移した。この動ぎのひとつの帰結は、ポストコロニアルな文化に固有であるはずの問題を、西欧の「アイデンティティ・ポリティックス」というまったく異なる問題系ヘと誤って回収してしまうような事態をしばしば引き起こしてしまったということである。民族というものは大部分、文化に関わる事象であるので、この焦点の移行は、政治から文化への移行ということでもあった。それはいくつかの点においては世界状況における実際の変化を反映していたともいえる。だが、それは、ポスコロニアルな状況に関わる問題系を脱政治化し、まさに西欧に広がりつつあったポスト革命的な気運と同調するような仕方でポストコロニアルな状況における文化の役割を膨張させるのを手伝いもしたのである。「自由への解放」といった言葉はもはやあたりに見受けられないものとなり、一九七○年代が終わりを迎える頃には、「植民地からの解放」という言葉さえも、雰囲気だけが漂う古びた興趣しか響かせなくなっていたのである。そして、国内での挫折の後、西欧の左翼たちは根城を国外へ求めたのだった。旅をする中、しかし、彼らは鞄のなかに、西欧ならではの、しかも増幅し続ける、文化なるものヘのオブセッションを抱え持っていたのである。

このような展開を示してしまったとはいえ、第三世界の革命は、独自の仕方で、集団的な行動の力を示す証左ともなっていた。異なった仕方ではあるが、一九七○年代英国政府を引き摺り下ろした西洋の労働運動の好戦的行動もその意味では同じである。さらにはまた、一九六〇年代後半から一九七〇年代はじめにかけての平和運動や学生運動、これはベトナム戦争を終結へと導いたのであるが、これらの運動も同様であった。最近の文化理論の多くは、けれども、こういったことすべてに対してほとんど記憶をもたないのだ。集団的な行動というものは、それ自体の視点からみるならば、弱体化した政府に対して戦争を起こすというものであって、慈悲深い目的へと向かう冒険をおこなうということではないのである。残酷なまでに全体主義的なさまざまな政権が出現しては衰退していった歴史を目撃してきた世界においては、集団的な生という考え方はまるごと、あいまいなままに信用を失っていくことになったのである。

ポストモダンの思想のいくつかのバージョンでは、合意というものは専制的なものであって、連帯など魂を欠いた画一性の押し付けでしかない。リベラル派はこうした順応主義と個人であることを対比させたが、ポストモダニストは、個人というリアリティ自体に関して懐疑的であって、それに対して、周辺やマイノリティといったものを代わりにもち上げたのである。最も政治的に創造的なものとは、全体としての社会にとっては歪んでいると映るもの周縁者、狂人、逸脱者、倒錯者、侵入者としたのである。メインストリームの社会生活には価値あるものなどほとんどありえないというわけだ。しかし、皮肉になことではあるが、こういった姿勢こそ、ポストモダニストがその敵対する保守対勢力において最も許しがたいものとみなしていた類のエリート主義的で融通の利かない態度ではなかったか。
--続く

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