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日本共産党の丸山眞男批判について(田口富久治−−−−宮地健一HPより)
http://www.asyura2.com/0411/senkyo6/msg/736.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 11 月 18 日 07:59:48:0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 天皇制への屈服のさらなる一歩(さざなみ通信「雑録」、2000年6月のもの) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 11 月 18 日 07:35:25)

日本共産党の丸山眞男批判について
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/taguchi.htm

(前略)

 2、日本共産党の丸山眞男批判について

(注)、これは立命館大学人文科学研究所・現代史研究会発行『現代史研究会月報、第30号』(1997.9.30)に掲載された田口富久治政策科学部教授の『戦後日本政治と丸山眞男――若干の個人的回想をまじえて――』の報告と討論の抜粋です。

 報告の目次は、1、丸山青年の特高体験、2、原爆体験と敗戦体験、3、丸山眞男と八月革命説、4、平和問題懇談会と丸山眞男、5、安保闘争と丸山眞男、6、東大紛争と丸山眞男、むすびにかえて……となっています。

 日本共産党の丸山眞男批判についての関連部分は、「むすびにかえて」の一部と、「討論」の一部で、以下その部分だけを抜粋しました。 
  

1)、「むすびにかえて」の一部

 さて丸山は、1956年『思想』3月号に「思想の言葉」(後に「戦争責任論の盲点」という表題をつける)を執筆します。この小品は、戦後日本における戦争責任論の盲点として、昭和天皇の戦争責任と共産党のそれを提起したものですが、当時、前者については若干の討議があったものの、後者にかかわってはほとんど論議されることがなかったようです。ところが、それから40年近くたって、1993年から94年7月の日本共産党第20回党大会の時期にかけて、日本共産党側は、その機関紙誌で、この小品を中心とした激しい丸山眞男批判キャンペーンを行い、党大会での公式報告などでも、丸山の共産党戦争責任論を「反動的俗論」「反動的支配層の願望にかなう」ものと断じ「こうした議論の根本には、だれが真理の旗をかかげて歴史にたちむかったか、それが歴史によってどう検証されたかをまじめにみようとせず、冷笑をもってとらえようとする観念論的・傍観者的歴史観がある」と決めつけていたのです(この問題について管見のかぎりでの唯一の体系的な批判的考察として、武藤功「丸山眞男と日本共産克」『葦牙』23号、1996.12 田畑書店があります)。私自身が、このキャンペーンをどう受け取めたかといえば、批判者の側は、丸山の議論とその趣旨を正確に理解する能力(「意欲」)を欠いており、また『前衛』批判論文の一つで、丸山かこんなことをいい出したのは、彼が戦争中、東大法学部助教授の地位を保証され、天皇制批判も戦争反対もいわなかったうしろめたさを隠すためであった、という趣旨の文章を見出したとき感じた「絶望感」、「どうにもならない」という印象でした。私は助手として丸山の1953年度の演習に参加していたのですが、ある時、丸山はイデオロギー批判の一形態としての「イデオロギー暴露」の手法について解説し、ある論者の言説を、その論者の個人的利害や動機に還元して「暴露」する手法は、批判の仕方としては最低のやり方だ、と教えられていたからでした。(なお、イデオロギー暴露というやり方の丸山による、より体系的な理解は「福沢における実学の展開」論文に見られる)なお、石田雄は『みすず』427号の丸山眞男追悼号(1996.10、後に『丸山眞男の世界』みすず書房1997年に収録)に寄稿した小論「『戦争責任論の盲点』の一背景」で丸山が共産党の責任論を論じた動機の一つに、1952年のメーデー事件で、東大法職組の女性職員二人の逮捕事件があったということを丸山自身から聞いた(95年11月25日の最後の「比較思想史研究会」において)と書いております。つまり、このような事態・結果に対して、当時の共産党の指導部が責任意識をもっていたかどうかを問題としたことが執筆動機の一つであったということです。

 日本共産党が、このような無理解、低級な批判、そして「反動的俗論」というような(私の目からみた)丸山に対する誹謗を撤回するようになる日がいつか来るのでしょうか。

2、「討論」の一部……司会・末川清

 (質問)、丸山さんの「戦争責任論の旨点」(1956年3月)で気になっているのですが、あの時点であれが出たことの意味です。従軍慰安婦等の戦後責任の問題に関して左翼を含めて戦争犯罪を追求したとは60年代以降思えない、戦後に戦争責任をとらなかったという戦後責任の問題です。あの論文は共産党の戦争責任について言ったけれども、もう一つは国民の戦争責任というところまで読み込んで良いのかなと思います。あの文脈が時代背景を無視して唐突感を与えたでしょうし、丸山さんのあの時点での戦争責任論というのはストレートにはなかなか難しかったのではないでしょうか。もちろん現在の戦後責任論から見ると、単に支配層の責任ではなくて非支配層、国民の責任をトータルに問うという視点は貴重だったと思いますが。そういう文脈から見ると先生は今どうお考えかなと思います。

 田口、 これが出たのは56年の3月で、ちょうど日本共産党の六全協の後ですが、丸山さんがあそこで言っていることは要するに戦後日本の戦争責任――先生が言われた民衆の戦争責任を含めて――の問題が決着がつけられていない。というのは、一つは主権者統治権者の役割を実際に担っていた天皇裕仁の戦争責任に対する問題を結局すっぽかしてしまったということです。あの論文の4分の3以上は前置きと天皇の責任論なんです。最後のところに日本共産党の戦争責任論が出てくるわけで、日本共産党がもし――これは戦前の党を問題にしているわけですけれども――日本の労働者階級の前衛党ということであれば、前衛党として結局戦争を防止できなかったということについて、政党として自分達の力不足の故に国民を戦争に駆り出させてしまった、そのことについてのウエーバー的意味での結果責仕の問題は残るのではないか、ということです。あの論文で丸山が言いたかったことは一番最後のところなんです。つまり一方では天皇が全く戦争責任をほうかむりしている、日本共産党も結果として国民を戦争から救えなかった前衛党としての結果責任というものを明らかにする必要がある。しかし明らかにすることによって実は非常に広範なマルキストだけではないリベラル左派とかそういう人達まで含めた広範な統一戦線が結成されていく芽が出てくるのではないかということです。丸山の言葉はきついですが、したがって不破哲三の言葉もきつくなってくるわけですけれども、そこのところを見逃して、われわれは歴史的真理の立場にたっていたんであって、それが戦争責任になるとはとんでもない話だ、というのは理解能力の欠如だと僕には思える。

 それからさっさご紹介した石田さんの伝えるエピソードは、これは戦後の問題ですね。僕は実は1952年のメーデーの時は助手ではなく学部の4年生だった。僕はあの時メーデーに行かなかったけれども二人の女性職員が警察に捕まった。東大法学部は変なところで助教授以上は事実上組合員になってはいけないが助手は組合員になれるというので、助手になってから僕は組合員になり、一緒に付さ合ってきた方々ですが、皇居前広場に突入するというプロットは出来ていたんだけれども、何気なくハイヒールをはいてメーデーに参加した女性職員が二人とも捕まってしまった。それについて東大の法学部はもちろん責任は無かった。法学部には共産党の職員の細胞もあったでしょうし、学生の細胞もあったでしょうけれども、それも全く何も言わない。また全体のプロットを書いた勢力もいたはずです。その人達から何の挨拶もなかった。デモに誘われた人達に対して彼らは実に無責任だったということが、56年3月の小論文の執筆の一つの動機になったということですね。

以上(共産党の丸山批判関連部分のみ)

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