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「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア (4)、(5)、(6)
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投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 10 月 14 日 04:01:14:0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア (1)、(2)、(3) 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 10 月 14 日 03:58:46)

「大東亜共栄圏」の実態--日本軍占領下のアジア (4)、(5)、(6)

(4)経済の破綻と民衆生活

東南アジアの諸地域はイギリス、フランス、オランダなどの宗主国やアメリカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。また1930年代になると中国や日本の軽工業製品も入ってきていた。たとえば英領マラヤでは、輸出品としてはゴムとスズが中心だった。開戦前、ゴムは世界総生産の約4割、スズは約三分の一を占める、マラヤの二大産業だった。輸出先は圧倒的にアメリカだった。輸入品としては、シンガポールが中継・加工貿易の拠点であったことから、石油(蘭印、英領ボルネオから)、ゴム(蘭印)、スズ(蘭印、タイ)、米(タイ)などを輸入していた。要するにゴム、スズのマラヤの特産品と蘭印などから輸入した原材料を中継あるいは加工してアメリカに輸出し、食糧はタイなど周辺地域から、工業製品はアメリカやイギリスから輸入するという構造になっていた。

蘭印の場合は、石油などの鉱産物やゴム、キナ皮、コショウ、コプラなどの農作物を輸出し、工業製品を輸入するという構造であった。輸出先は、アメリカ、オランダ、イギリス、日本などである。シンガポール向けも多いが、これはすでに述べたようにそこを経由して上記の国々に輸出されていた。輸入はアメリカ、オランダ、日本などからである。

フィリピンの場合は、輸出入ともにほぼ全面的にアメリカに依存していた。砂糖、ココナッツ製品、マニラ麻などをアメリカに輸出し、工業製品をアメリカから輸入するという構造で、貿易に占めるアメリカの比重は1930年代には70%台にもなっていた。フランス領インドシナはフランス本国と、ビルマはイギリス、インドと密接に結びついていた。

このように東南アジアはその域内ならびにアメリカ、イギリスなどの先進工業国と深い交易関係を結んでいた。

日本とこれらの地域との関係は、1930年代においてはフィリピンにとっては輸出入ともに日本はアメリカについで第2位、タイと蘭印にとって輸入で第2位の位置をしめていた。 ただその比率は大きくても十数パーセントにすぎなかった。日本からの輸出品は綿織物を中心とする繊維製品であり、ほかに雑貨類や加工飲食料品などを含めて、消費財の軽工業品が圧倒的な比重を占めていた。日本の輸入品は生ゴム、石油、鉄鉱、マニラ麻などの燃料・原料が中心であった。

日本軍による占領によって、東南アジアと外部地域との交易関係は断たれ、また東南アジア内の交易関係も寸断された。日本にはこれらの地域の産物をすべて引き受け、またこれらの地域で必要な工業製品を供給する力はなかった。日本国内でも日中戦争開始以来、物資不足が深刻化し、食糧や衣類などの配給制、切符制が実施されるようになっていた。軍需生産のために、国民にとって必要な物資さえも満足に供給できなくなっていたのであり、広大な「大東亜共栄圏」に工業製品を供給することははじめから不可能であった。

ゴム、砂糖、コーヒーなどの輸出品は輸出先を失い、そこで働いていた労働者は職を失った。必要な工業製品は入ってこなくなった。そのうえ日本軍は「現地自活」方針をとって駐留する日本軍に必要な食糧や物資を現地調達したために物不足は深刻になり、軍票の乱発とあわさってひどいインフレに陥った。

日本は1943年後半よりこの地域で必要な工業製品を地元で生産する方針に転換したがうまくいかなかった。食糧を輸入に頼っていたマラヤ、フィリピンなどでは食糧自給のために商品作物から米やとうもろこしへの転換が図られたが、日本軍に食糧を供出させられたこともあり、深刻な食糧不足に陥った。食糧の多くを輸入に頼っていたマラヤでは人々はさつまいもやタピオカを作った。タピオカはキャッサバから作ったでんぷんであり、マレーシアでは日本占領時代が食糧難の時代であったことから「タピオカ時代」と呼んでいる。

食糧問題で最も深刻だったのはベトナムだった。ベトナム北部では1944年末から45年にかけて、100万とも200万人とも言われる多数の餓死者を出した。タイビン省だけの調査でも人口100万人のうち約28万人が犠牲になった。この原因としては、日本軍による強制的な食糧の徴発、水田を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)への作付けの転換を強制したこと、戦況の悪化などの理由により南部のデルタ地帯からの米の輸送が途絶えたことなどが指摘されている。

日本軍の占領地域ではないが、インド東部のベンガル地方で1943年末から44年にかけて大飢饉が発生し、約150万人(一説によると約350万人)が餓死した。これはビルマが日本軍によって占領されたことによって米の輸入が途絶えたこと、日本軍のインド侵攻(44年3月よりインパール作戦開始)にあたって、英軍が牛車や小船などの輸送手段を徴発する一方で食糧輸送の手だてを行なわなかったことなどによる。日英の二つの帝国主義国の犠牲になった出来事であった。
(5)民族対策と民族主義

東南アジアには多様な民族が混在していた。それらの民族間の違いや矛盾を日本軍は利用しようとした。

英領マラヤ(マレー半島とシンガポール)はもともとはマレー人の地であったが、彼らは主に米作などの農業に従事し人口も少なかった。そこで19世紀以降、植民地化したイギリスが労働力不足をおぎなうために、スズ鉱山の労働者として中国人を、ゴム園の労働者としてインド人を連れてきた。特に19世紀末から20世紀にかけて、缶詰の普及によるスズ消費の拡大、自動車生産にともなうゴム消費の拡大はこうした移民に拍車をかけた。移民してきた中国人はスズ鉱山にとどまらずゴム園や商業にも進出し、マラヤ経済に強い影響力をもつようになった。そしてついに人口でもマレー人を追い越すにいたった。インド人は少数派であったが商業や金融業にも進出していった。1941年6月末の推定によると、マラヤの総人口552万0275人、うち中国人238万2529人、マレー人228万3930人、インド人74万4430人、欧州人・欧亜混血人5万0836人、その他5万8550人となっている。

宗教については、マレー人はイスラム教、中国人は仏教や道教、インド人はヒンズー教やシーク教というように民族ごとに異なっており、住居も民族ごとに住み分けられていた。一般的に言えば、中国人はマレー人より自分たちの方が優れているという意識が強く、一方、マレー人は自分たちの土地なのに後から来た中国人の経済力が強いことに反発を感じているという傾向がある。ただ戦前までは職業的にも地域的にも住み分けがおこなわれていたこともあってその対立はあまり表面化していなかった。

中国人は中国を祖国と考え、インド人はインドを祖国と考えていた。これらの地域に住む中国人を当時は華僑と呼んでいたが、その言葉には今住んでいるところはあくまでも仮の住まいであって、いつの日か一旗あげて郷里に帰ろうという意識を持った人たちという意味が込められている。ただ戦後は住んでいるところが祖国であるという意識に転換し、華人と呼ばれるようになっている。

マレー人は各地のサルタンを政治的宗教的に支配者として仰ぎ、マレー人としてのナショナリズムはまだ未成熟だった。こうした事情からマラヤの民族運動は周辺地域に比べて未発達だった。マラヤを植民地にしたイギリスもこれを利用して分断統治をおこなった。

1931年(昭和6)の満州事変、特に1937年(昭和12)の日中戦争の開始以来、東南アジア各地の華僑は抗日救国運動を展開、中国への義援金募集・日貨排斥(日本製品のボイコット)・抗日宣伝などをくりひろげた。この運動の中心になったのがマラヤ、特にシンガポールの華僑だった。たとえば重慶政府が発表した海外華僑からの献金総額2億9400万円(1937年7月から40年10月)のうち1億2500万円(42.5%)がマラヤの華僑からのものだった。こうしたことから日本軍はマラヤ華僑全体を「抗日的」と見なした。マラヤの占領とその後の軍政を担当した第25軍が作成した「華僑工作実施要領」によると、「占領直後ノ応急要領」として「服従ヲ誓ヒ協力ヲ惜シマザルノ動向ヲ取ル者ニ対シテハ其ノ生業ヲ奪ハズ権益ヲ認メ 然ラザル者ニ対シテハ断乎其ノ生存ヲ認メザルモノトス」とし、さらに「第一期作戦終了直後ニ於ケル対処要領」として「協力ニ参加セザル者ニ対シテハ極メテ峻厳ナル処罰ヲ以テ処理ス 即チ財産ノ没収、一族ノ追放、再入国ノ禁止ヲ行フト共ニ反抗ノ徒ニ対シテハ極刑ヲ以テ之ニ答ヘ華僑全体ニ対スル動向決定ニ資セシム」ときわめて厳しい姿勢を打ち出している。また「華僑全体ニ対シ最低五千万円ノ資金調達ヲ命ズル」としている。

この政策の表れがシンガポールやマレー半島各地での華僑虐殺であり(後述)、また5000万円(ドル)の献金の強制だった。1942年4月献納の予定で5000万円の目標額がマラヤの各州ごとに割り振られたが、なかなか集まらず、2200万円を横浜正金銀行から借入れ、6月に献納式がおこなわれた。第25軍軍政部の4〜6月期の経常部歳入(予算)が294万ドルであることと比較すると膨大な金額であることがわかる。

こうした残虐行為を含む華僑に対する強硬策は華僑の反発を強め、華僑主体の抗日運動を激化させ、また経済的実力を持つ彼らの協力を調達することを困難にしてしまった。

一方、マレー人に対してはどうだったのか。すでに開戦前に日本は急進的な青年らによる民族運動であるマレー青年連盟(代表イブラヒム・ヤコブ)と接触して反英宣伝のために資金を提供し、開戦後はマレー進攻作戦のなかで、政治工作を担当した藤原機関がかれらと接触、マレー人に対する宣伝工作などをおこなわせて日本軍に協力させた。こうしたなかで青年連盟の幹部らは「マラヤ共和国」の樹立を提案したが日本軍に拒否され、さらに民族運動を行なう政治結社として認めることを求めたが日本軍は文化団体としてのみ認めた。日本軍のそうした姿勢にもかかわらずマレー青年連盟は各地で急速に勢力を伸ばし、戦前は200〜300人程度しかいなかったのが、日本軍のマラヤ占領後二カ月で1万人を越えるに至った。ところが日本軍は1942年6月青年連盟を解散させた。日本軍はマレー作戦を有利にするために青年連盟を利用したが民族運動としてさえも認めず、勢力が拡大するとそれを危険視して解散させてしまった。ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤでの民族運動に対する日本軍の姿勢がはっきり示されている。

その後、戦局が日本軍に不利になってきた1943年12月、日本軍を補うためにマレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成した。この時、青年連盟の代表であったイブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。しかしイブラヒムなどの青年連盟の幹部たちは密かに各地の抗日ゲリラと連絡をとり、さらにイギリス軍がインドから送り込んできた136部隊とも連絡をとって、連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。かれらは裏切った日本軍をけっして信用しなかったのである。

こうしたことは東南アジア各地でも見られた。

ビルマでは、民族主義団体のタキン党(主人を意味する)が第二次世界大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否して弾圧されていた。日本軍の謀略機関だった南機関はタキン党の活動家30人を脱出させ海南島で軍事訓練をおこないビルマ独立義勇軍を編成させた。南機関はビルマを独立させると約束してかれらを日本軍に協力させ、日本軍とともにビルマに進攻させた。ところがビルマを担当した第15軍の「占領地統治要綱」(1942年3月15日)では、「緬甸ニハ将来独立政権ノ樹立ヲ考慮セラルルモ之ガ実行ハ差シ当リ大東亜戦争終了後ト予想ス 従ヒテ将来ニ対スルノ処理ニ関シテ当分之ニ触レザルモノトス」というように「独立」問題を戦争終了後に先送りし、差当りは独立の言質を与えないという方針をとった。こうしてビルマを占領した日本軍は独立を与える約束を反故にし、軍政を開始するとともに、2万人以上になっていた独立義勇軍を解散させ、3千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。

1943年8月日本はビルマに独立を与えたが、首相にはタキン党から登用せず、タキンの指導者アウンサンは国防相になった。アウンサンは地下で抗日活動をおこなうグループと連絡をとり、44年8月ビルマ国軍、共産党、人民革命党などとともにファシスト打倒連盟(のちに反ファシスト人民自由連盟パサパラ)を組織した。そして翌45年3月連合軍がインドからビルマに進撃してくると、それを迎え撃つという名目でラングーンを出撃した後、反転して連合軍とともに日本軍を攻撃、5月にはビルマ国軍の手で首都ラングーンを日本軍から奪い返した。

日本軍はビルマ進攻にあたって、民族主義運動を利用したが、勝利を得ると途端に約束を反故にした。後に彼らに頼らざるをえなくなり再度登用するが、彼らはもはや日本軍を信用することはなかった。
(6)領土拡張と大東亜会議

日本軍が占領した地域を日本の領土にしてしまうのか、それとも独立させるのか、それは日本の戦争目的に直接関わる、きわめて大きな問題であった。

シンガポール占領前日の1942年2月14日大本営政府連絡会議はシンガポールを昭南島に改称することを決定し17日に発表した。これはシンガポールを日本の領土とすることの意思表示とも見なされうるものだが、将来の帰属についてしばらくは公にはされなかった。

1943年1月14日大本営政府連絡会議は「占領地帰属腹案」を決定した。このなかで「大東亜防衛ノ為帝国ニ於テ確保スルヲ要スルヲ必要トスル要衝並ニ人口稀薄ナル地域及独立ノ能力乏シキ地域ニシテ帝国領土ト為スヲ適当ト認ムル地域ハ之ヲ帝国領土ト」すること、「従来ノ政治的経緯等ニ鑑ミ之ヲ独立セシムルコトヲ許容スルヲ大東亜戦争遂行並ニ大東亜建設上得策ト認ムル地域ハ之を独立セシム」ことという「基準」を定めた。そして後者の「基準」によりビルマとフィリピンに独立を与えることとし、その他の地域については「追テ定ム」と決定を留保した。

ビルマに関しては、すでに1937年にイギリスがビルマをインドから分離し、ビルマ人の自治政府を組織させていたこと、日本軍のビルマ進攻にあたって、民族運動家に独立の約束をしてビルマ独立義勇軍を組織させて日本軍に協力させたにもかかわらず、占領後はその約束を反故にして軍政をしいたが、連合軍の反攻に備えて彼らの協力が再び必要になったことなどの事情が背景にあった。フィリピンについては、1934年アメリカは10年間の準備期間をおいてフィリピンの独立を与えることを決定した。これに基づいて憲法が制定され、総選挙を経て1935年フィリピン・コモンウェルス政府が発足し、1946年には独立することになっていた。ここに日本軍が入ってきたので、建前上、独立を認めざるをえなかった。

しかしこの独立は実質的には「独立」の名に値しないものであった。ビルマに対しては、 軍事的には「帝国トノ間ニ共同防衛ヲ約セシメ兵力ノ駐屯、軍事基地使用及設定等ヲ認メシメ特ニ軍事的結合ヲ鞏固ナラシム」、「外交」では「緊密提携」、「経済」では「緊密協力」を「約セシム」ことを条件とし、フィリピンに対してもほぼ同様の条件を規定している。この内容は言い換えると外交・経済は実質的に日本が掌握し、軍事的にもフリーハンドを確保しようとするものであった。

1943年2月1日の衆議院秘密会において南方の軍政状況を説明した佐藤賢了陸軍少将は「行政府ヲ軍政監部ノ下部機関トシテ置イテ居ラウガ、コレヲ奉ツテ独立政府ト致シマセウガ、実際ニ於テ大シタ変リハナイ―――ト云フト具合ガ悪イノデアリマスルガ、率直ニ申シマストサウデアリマス」と述べている。要するに「独立」しても軍政下にあるのと変わらないということであり、このような条件下ではとうてい「独立国」といえるようなものではなかった。

この方針に基づき1943年8月1日ビルマが、10月14日フィリピンが「独立」した。

その他の地域の扱いについては、1943年5月31日の御前会議で決定された。ここで決定された「大東亜政略指導大綱」によると次のようになっている。

六 其ノ他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通リ定ム 但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セズ

(イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム

(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ応ジ努メテ政治ニ参与セシム

(ハ)「ニューギニア」等(イ)以外ノ地域ノ処理ニ関シテハ前二号ニ準ジ追テ定ム

(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継続ス

つまり現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアにあたる地域は日本の領土にするということである。さらにニューギニア(現在、西部はインドネシア、東部はパプア・ニューギニア)などについて、ここでは決定していないが日本の領土にするという方向で考えていくことも決められている。しかもそうしたことは秘密にされた。

このことは日本が東南アジア諸国を欧米帝国主義から解放し独立を与えようとしたのではなく、石油などの重要資源があり戦略的にも重要な地域は日本の領土にし、日本が欧米に代わって新たな支配者になろうとしていたことを明確に示している。

この御前会議の決定のなかで同年10月下旬ころに大東亜会議を開催することが決定された。

1943年6月大本営政府連絡会議はマレー北部の4つの州、ペルリス、ケダ、ケランタン、トレンガヌをマラヤから取り上げ、タイに割譲することを決定した。タイの日本に対する戦争協力を確保するためにとった処置であり、同年10月にこの4州はタイに移譲された。しかし、これら4州はマレー人の多い地域であり、マラヤのマレー人にとっては日本への反発を与えることになった。

1943年11月5〜6日に東京で大東亜会議が開催された。この会議には、日本から東条首相、国民政府の汪兆銘行政院長、満州国の張景恵国務総理、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバ・モー主席、タイのワン・ワイタヤコン首相代理、自由インド仮政府のスバス・チャンドラ・ボース首班が出席した。タイは首相を派遣せず、朝鮮、台湾、マラヤ、インドネシア、インドシナからの代表はいなかった。

会議では「大東亜共同宣言」を決議した。この中には「大東亜ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放」「道義ニ基ク共存共栄」「自主独立ヲ尊重」などの言葉がもりこまれた。これには連合国の理念として反ファシズム・民主主義を打ち出した大西洋憲章に対抗して日本側の理念を出そうとする重光葵外相のねらいがあった。しかし日本の本音は必要な領土の拡張であり、また日本軍による占領の実態はこうした美辞麗句とは正反対であった。

インドネシアに関しては、1944年9月小磯首相は議会で、将来独立を認める旨の演説を行なった。すでにサイパンが陥落し、米軍のフィリピン攻撃が日程に上ってきていた段階であり、インドネシアからの資源の日本本土への輸送はほとんど分断され、軍事的にも重要性を失っていた。その後、戦争最終盤の1945年7月17日になって最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議が改編されて設置された機関)が「東印度」(インドネシア)に独立を与えることを認めた。しかし独立が実現する前に日本は降伏した。

インドネシアと同じく日本の領土と決定したマラヤについて、外務省内で独立問題について検討がなされたが、結局、独立には困難があるとして見送っている。したがってマラヤに対しては最後まで独立を付与することはなかった。

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