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Re: ある老年キリスト者の(苦しい)思索 - 長文引用につき分割1
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投稿者 NAVI 日時 2004 年 11 月 13 日 02:33:35:HX//G5Ne7CBAk
 

(回答先: 福音派ロックとファルージャ総攻撃 [町山智浩アメリカ日記 2004-11-09] 投稿者 レイ 日時 2004 年 11 月 13 日 00:10:09)

米英合同軍のイラク攻撃に関して、いくつかの断章を書きました。全くの私的な文章です。
求道者の質問に答える(その1)
  米英軍のイラク攻撃が必至となった段階で数人の求道者から、アメリカはキリスト教国(そのように断定してよいかどうか疑問はある)であるのに、なぜイラクにあのような攻撃的な態度をとり続けるのかというような質問を受けた。これからも同様な質問を受けるであろう。そこでその回答を作成した。勿論試案であるが、疑問解消の一助ともなればと記した。
 
★正戦論 bellum justum (正義の戦争論)とイラク問題
2003/3/21   井上圭典
 ローマ帝国においてキリスト教が国家公認宗教になって、キリスト教会はそれまでとってきた非戦・平和主義の立場を変更し、キリスト者が軍人になるのを否定しなくなった。
それまでは異教的な儀式が中心となって軍隊が統率されていたが、それが取り除かれたという事情が働いた。しかし、それとともに戦争は殺人行為であって、殺人を禁じた教えに反するという面もあって、教会も国家の宗教と個人の宗教との関係に苦慮している。それは聖と俗、教会と国家との関係。国家が持っている軍隊の精神的な支柱をキリスト教が請け負ったからである。
 アウグスティヌス(354-430)は、キリスト教は正義の戦争を禁止してないと説いた。戦争はその意図において平和を獲得するための手段として遂行される場合には、そしてその原因において敵対する側の不正を正すものであれば正当化される。侵略者の不正行為を防止し、それを罰することを狙いとし、その成員の犯した悪事に対して賠償を払うことを拒否した国家に対する戦争と、不正に占有された財産を返却することを怠った国家に対する戦争と、を正戦とみなした。
 トマス・アクイナス(1224-1274)は「戦争論」で、戦争が認められる条件として、(1)
合法的な権威の命令によって行われること。すなわち、主権者の命令うぃを要件とする(私人の武力行使を認めない)。(2)正しい理由(justa causa)のあること。不正を正すこと、すなわち、被った悪または害に対する匡正救済であるべきこと。(3)志向の善であること。すなわち、善を勧め、悪を懲らしめるという意図に基づくこと。たとえ正しい理由による場合でも、敵に対する残忍な復讐感情とか、権力欲というようなものによって動かされるときは、正義の戦争としての資格を失う。(4)正しい方法によって行われること、などがあげられている。
 宗教改革者ルター(1483-1546)は、「二つに王国論」において聖権は教会に属し、俗権は王国に属するとし、キリスト者は職業を通してこの世と関わるとする。剣の権能すなわち「正義の戦い」の権能は社会の平和を維持し、国を守るためのものであるとした。そこで、教会が宗教的な理由から行う戦争や、武器を用いる何の権威も持たない者による公共の秩序に対する反逆は承認してない。
 同じく宗教改革者カルヴァン(1509-1564)は、世俗の権力は教会の純粋さを擁護するものとみなした。しかしそれは教会国家主義でも国家教会主義でもない。もし行政の施策が「敵意をもって攻撃される」なら「武力に訴えて」防御することは聖書が保証するところだと論じた。戦争は平和回復を目的とし、しかも最後の手段であるべきで、憎しみをもって行ってはならぬとする。
 国際法の父と呼ばれるグロティウス(1583-1645)の開戦法規(jus ad bellum)には次の6つの条件をあげている。(1)開戦の理由が正義に基づいていること(Just Cause)。(2)正当な権威が開戦の決定を下すこと(Right Authority)。(3)正当な目的をもって開戦を決定すること(Right Intention)。(4)戦争が最後の手段であること(Last Ressort)。(5)戦争の目標が新たな平和にあること(Emergent Peace)。(6)目的と手段の釣り合いが取れていること(Proportionality)。
 交戦法規(jus in bello)には次の3つの条件があげられている。(1)戦闘員と非戦闘員との区別(Discrimination)。無辜の民を攻撃することは、正戦において悪である。(2)二重結果(Double Effect)。戦闘行為は二つの結果をもたらすことがありうる。第一は、正当な軍事目標の破壊という意図した結果であり、第二は無辜の民の殺傷という意図せざる結果である。第二を意図しない戦闘は意図せざる、あるいは付随的損失として許容される。(3)目的と手段との釣り合い(Proportionality)。
 交戦法規は、戦略や戦術あるいは兵器の選択に「限界、すなわちそれを越える型の行動は考えられないような線、を設定し」、軍事行動の遂行を倫理的に制約する。
 (なお、湾岸戦争でも今日の英米軍によるイラク攻撃でも、盛んにミサイルを打ち込むことに倫理的な後ろめたさのないのは、「核兵器は非倫理的な武器であるが、精密誘導兵器は、倫理的な兵器である」との一般的な理解が、軍事的な世界ではなされているからである。)
 今日のカトリック教会では、「正義の戦争論」に大幅な修正が加えられている。たとえば、1963年のヨハネ23世の「国家間の紛争は、武力・謀略・あるいは欺瞞行為によって解決すべきではない。」「正義、正しい理性、人道主義は、軍備拡張を廃止し、個々の国ですでに所有している兵器を、同時に縮小してゆき、核兵器を禁止し、ついには、すべての国が協定を結んで、相互に有効な監視を続けることによって、軍備撤廃に至ることを要求する。」、1965年のパウロ6世の「もし人類が戦争に終止符を打たないならば、戦争が人類を滅ぼすであろう、とのジョン・ケネディの言葉を引用し、もし皆さんが、ともに兄弟であることを望むならば、武器をその手から捨て去らねばならない。好戦的武器を片手に持ちながら、人を愛することは出来ないからである。」の言葉からうかがえる。(中世のキリスト者は、「人を愛しつつ、殺すことができるか、否か」とまじめに論じあっていた。汝の敵を愛しなさいと実践しつつその敵を殺すことが出来るか否かの論争に、カトリック教会は結論を出したといえば言える。日本の時代劇で、相手を切り倒したあと、片手をあげて「ゆるせ」と成仏を念じる場面に出くわすことがある。洋の東西を問わない人間もつ二面性を見せられる。3月21日のテレビ画像では捕虜となったイラク兵に米兵が二人がかりで水を飲ませていた。一人は水筒をイラク兵の口にあてがい、一人は銃口を兵士の胸に向けて。助けたい、しかし自爆するかもしれない。アフガニスタン攻撃では爆弾を投下しつつ片や食料を投下していた。)
 日本長老教会が宣教協力を結んでいる米国長老教会(Presbyterian Church of America,PCA)のホームページにイラクに関しての投稿が掲載されている。たとえば、「イラクとの戦争、それは正義か?」という文章にも、evil(邪悪)という言葉がしばしば出てくる。「邪悪は日が経つにつれ、年が経つにつれ大きくなってきており、独裁者、宗教的アナーキスト、侵略者が増殖しつつあるように見える」というよな風に。
 ダグラス・ラミス(1936生)という日本通の政治学者は次のように発言している。
「それぞれの国で、それぞれのやり方で、それぞれのいわゆるテロリストを取り上げて具体化しようとする。そして、おそろしいのは、何か人間の中にもう一つの種類があるような言い方をしている。ザ・テロリスト。ザ・テロリストは悪です。だから犯罪者と違って反省する能力が心の中のどこにもない。悪はevilと言うんだけれど、evil の前にdを付けるとdevil。だからevil というのは基本的には宗教用語です。本当に悪な人はキリスト教の文脈では悪魔の代表。悪魔がこのように悪くするために、人に苦労をかけるために人を送った、という。人が苦労したということで反省するのではなく喜ぶ。だからその人達に人権を与えても意味はない。ザ・テロリストという今作ろうとしているイメージとその扱い方は合っているわけです。ああいう人に人権なんか与えるなんて冗談じゃない、そういう言い方をしているわけです。」(日本語での発言。文中の「苦労」は「苦難」と置き換えて読むのが、氏の意図に合致するのではないかと思う。井上)
 ブッシュ大統領の背後にあるキリスト教原理主義は、正戦論を自己流にこじつけ、キリスト教の悪を、自分に反対するものすべてに当てはめて、それを悪とみなす、二重の誤りを犯している。キリスト者でない人は、キリスト者のいう正戦論・悪と原理主義者の使う正戦論・悪の解釈・適用の区別がつかないが故に、キリスト教国家が何故あのような形でイラク攻撃をするのか、という非難の一つもしたくなるのであろう。
 日本人の知識人には親米主義者は多いが、その中でも米国の建国精神の基盤にあるキリスト教嫌いも多い。このような人々の反キリスト教キャンペーンに惑わされるようであってはならない。いうなれば、親米日本主義者とでも言える人々が論陣を張っているのである。和魂洋才の現代版である。英語を巧みに操り、米国留学し米国通ではあるが、魂は排外主義、日本的なものへの無条件な心酔者の存在に注意したい。米国の原理主義的な傾向に警告を発すると同時に日本の反動的保守主義の回帰現象にも注意しなければならない。
 
 
●米国キリスト教会の動向はどうなっているのかをインターネットでサーフィンしてみた。かなりの数のイラク攻撃反対の声明文、文章を見ることができた。その一例として米国カトリック教会の声明文を訳出した。カトリック教会は正戦論の立場に立っているが、その正戦論を適用するとイラクへの武力攻撃は否定されている。( 仮訳:井上圭典 )
★ イラクに関する声明
カトリック司教団合衆国会議
ワシントン、DC 2002年11月23日
 我々カトリック司教団がここワシントンで会合を開き、正義と安全保障について探求せねばならぬほどに、我々の国、イラク、そして世界が戦争か平和かの重大な選択を迫られる局面に立たされている。これらは単に軍事、政治に関わるのみならず、生死の問題をはらむ道徳に関わることでもある。伝統的なカトリックの教えは倫理的な原理と、ぎりぎりな状況での選択の指針とすべき道徳規準とを示してきた。
 2ヶ月前、カトリック司教団の合衆国会議の総裁であるウィルトン.グレゴリー司教が、過去11年間数々の国連決議の要求をイラクが拒否してきたこと、大量破壊兵器の開発を続けていることに世界の注目を集める努力がなされていたことを歓迎する旨の書簡をジョージブッシュ大統領に送っている。この書簡は、合衆国司教団管理委員会の公認を得ているものであって、イラク政府を転覆するために軍事力の先制的、一方的な使用の道徳的な正統性への真剣な疑問を提起していた。その後の推移、殊に11月8日の合衆国安全保障会議での満場一致の採決などを考え合わせると、我々共同体の一員としてのグレゴリ司教が提起した書簡の疑問と関心事は我々も共有するものである。
  我々はイラク政府の行動と動向に少しの幻想も抱いていない。イラク指導者は国内における抑圧政策を終えるべきであり、隣国への脅迫行為を止めるべきであり、テロリズムへの支援を停止すべきであり、大量破壊兵器展開の努力を放棄すべきであり、すべての現存するこのような兵器を破壊すべきである。我々は合衆国が、イラクが武装解除の責務を受け入れることを確実にするために、合衆国安全保障会議によって新しい行動を起こす働きかけをした事実を歓迎する。我々は最近の安全保障会議決議に十分従うようにイラクへの働きかけを他の人々とともに連帯しておこなう。我々は すべての団結した意志で、国連の活動が単なる戦争への序曲になるのではなく、戦争防止を確かなものとする活動であるようにと、熱心に祈るものである。
 我々は来るべき数週間に何が起こるかは予測出来ないが、事態収拾までに許される目的と手段についての質問を繰り返したい。我々は決定的な結論を提示することはしないが、むしろ道徳的な判断に向けての我々すべてを勇気づける希望についての真剣な関心と疑問を提示したい。善良な人々の間では簡単に結論が出せない特殊な場合、正戦論の規範を如何に適用するかについて異論があり得る。しかも特に事態が急速に動いている場合、事実はすべて明らかにならないものである。我々が知り得た限りの事実に基づいて、我々は対イラク戦争の正当性、すなわち明らかで重大な事柄への差し迫った攻撃を受けるに十分な証拠が欠けている状況下において戦争に訴えることを正当化するのは無理ではないかと見ている。中東と全世界のからの大司教と司教団の訴えと共に、我々は、現在の状況下で流布され公開されている情報の光に照らして、軍事力行使を強調できるような、カトリックの教え(注1)の厳密な条件を満たす状況が認められない。
  「正当理由」
 カトリック教会の教理は(戦争の)正当理由を以下のような場合に限定している。すなわち「国民あるいは国民共同体に対しての持続的で、重大な、明白な侵略者の打撃によって損害を受けている」(#2309) 場合である。 我々は正当理由に関し、体制転覆の威嚇とか、大量破壊兵器を処分するとかのため、軍事力を予防的に使用すること、すなわち伝統的な制約を早急に拡大解釈して、これを認めさせようとする建議について、深く思案検討した。国際法に含まれている禁止条項とは矛盾しない仕方で、受け入れ難い政権の行動を変更させる働きかけの努力と、その政権の存在そのものを抹殺する行動との間には明白な区別を設けるべきである。
  「正統権威」
  我々の判断では、イラクとの戦争可能性に関する決定に際し、合衆国憲法の緊急権の合法性、国民の間の広範な合意、そして国際的な支持が判断材料として必要と考える。これらは議会と合衆国安全保障会議によって行動を起こす際に考慮すべき重要事項である。大司教が指摘したように、もし力に頼ることが必要なことだと考えるとしても、イラク市民に及ぼす影響の重大性、地域のまた地球規模の安定を考慮したのち、国連の枠内での力の行使にとどめておくべきである。(大司教 ジーン-ルイス タウラン、政府関係ヴァティカン秘書官 2002/10/9)
 「成功確率と均衡」
 力の行使は「成功への真剣な見通し」を持たねばならぬことと、「悪が消されることより重要なのは諸々の悪と無秩序を生み出してはならぬ」(教理、#2309)ことである。我々は軍事行動がそれ自身否定的な結果をもたらすことに使われてはならないことを認識している。この視点から我々は対イラク戦争がイラクにばかりではなく、中東全域の平和と安定に対しても予測不能な結果をもたらすことを憂慮している。力の行使はあらゆる種類の攻撃を誘発する。すなわち防御の名の攻撃、すでに長期間辛抱してきた全市民に新らたな恐怖を植え込み、その地域に一層広範囲の衝突と不安定さをもたらすことになる。イラクへの戦争はまたアフガニスタンへの正義と復興への建設の手助けへの責任を忘れ去ってしまい、テロリズム防止の全世界の努力を台なしにしてしまう。 
 「戦争行為を支配する規範」
 戦争理由の大義は市民社会に存在する「免責と釣り合いの基準」という道徳的責任を無視して掲げられるものである。たしかに、我々は戦争において市民を直接標的としすることを避けるための改良された能力と大きな努力(訳者井上注。ピンポイント攻撃、そのための精密誘導兵器の開発のこと)は認められるが、イラクにおける軍事力の使用は戦争がもたらす非常に多くの抑圧、衰弱した通商停止の苦痛を受ける市民に計算不能の代償を支払わせる結果となる。  
  「戦争当事者相応の損傷」が均衡しているかどうかの判定の際には、イラクに住む男性、女性、子供は、我々自身の家族、我々自身の国の住民と同じの価値(訳者注:人権、生きる権利という価値)を持っているとの基準に照らすべきである。
  以上にあげた数々の疑問の評価は われわれの国民と世界が中東での戦争に使われる資金を他の活動に引き続いて用いることに向けたらという思いを強くする。我々国民は 侵略的なイラクの活動と脅威を阻止し思いとどまらせるための建設的、効果的そして合法的な道筋のための広範な国際的な支持を取り付けた上で、相手にそれを思いとどまらせるという、大変困難ではあるがこのような方法にこだわる。我々は武器の輸出入禁止の効果的な実施と国際政治的制裁の持続を支持する。我々は無垢なイラク市民の生活に脅威を与えないようにより一層注意深く絞り込んだ経済的活動の要求を繰り返したい。イラクの大量破壊兵器破棄はより広く強く拡散防止協定上の判断からのものと合致していなければならない。相互抑制の原理を基礎に据えたこのような努力は、他の事柄の中にあって、大量破壊兵器を保持しているすべての国家がその安全管理と棄却、ミサイルと兵器技術の輸出のより一層厳密な規制、生物・化学兵器協定の改良・実施、核不拡散条約の下での核の軍備縮小の忠実な交渉遂行に関しての合衆国の履行責任、などの作業過程をより強力に推進することも含まれていなければならない。
 「安易な回答はない」
 究極的にはわれわれが選んだリーダーが国家の安全保障の決定に責任を負っているが、しかし、我々は我々の道徳的な関心事と疑問は我々とすべての市民とによって真剣に考慮されるべき事だとの希望を抱いている。我々は他の人々、とりわけカトリック信徒は---彼らは福音の光の下で社会秩序の変革の主要な責任を負っている---「平和と正義の証人であり代理人である」(教理 #2442)信徒の識別力を見守り、引き続いて意見を請うものである。イエス・キリストは言われた「平和を創り出す者は祝福されている」(マタイ 5章)。
 我々はこの潜在的な衝突によっておそらく影響を受けるであろう人々、格別にイラクの民衆、我が軍に身を捧げる男女の関係者のために祈るものである。 我々は我が国を守るために命の危険にさらされている人々を支える。我々はまた、過去においても存在していたような、良心的な異議申し立て、選択的な良心的な拒否の権利を実践する人々を支える。
 我々はブッシュ大統領と他の世界の指導者たちが、イラクとの戦争の崖っぷちから引き下がる意志と道筋を発見するように、即刻それを終わらせ平和のために働くように祈るものである。
 我々は、イラクの脅威に有効な全地球的な対応の様式は従来からの自衛の正当性と軍事力の使用に関しての伝統的な道徳的な限界に踏みとどまることを他国の者とともに認め合い、これを熱心に推進するものである。
 (注1)「正戦の教えは時代とともに発展してきた。戦争を防ぐ努力は、もし戦争が合理的に防止出来ないならば、そのときはその恐怖を限定し切りつめることを探し求める方向で行われる。宗教的条件のいくつかは、 もし戦争に向かうことが決定された場合、それが道徳的にも許されるべきであるとうことが含まれていなければならない。このような決定は、特に今日、平和を愛好し戦争に反対する根拠に立つ人々にも説得できるような格別に強い理由提示を要求する。これが、何故、正義の戦争の教えに良心的な不賛成条項が付加されているかの重大な理由の一つである。」(訳者注1)
 参考文献:平和への挑戦:神の約束ととわれわれの応答(1983) , #83
(訳者井上の注1:正義の戦争だと教会が認めたことに、個人が良心的に反対することは、正義に反する意志・行為を意味しない、ということである。今回の場合は、これは正義の戦争ではないと教会が判断したことを、個人が内なる心の声に従って正義の戦争であると判断しても、それが神のみ心に反したことであると断定はできないというのである。)
 
●イラク攻撃反対の世界的な運動、消えないうねり、を理解するために。次の三点を指摘したい。
 
★非戦論、絶対平和主義、無抵抗主義、非暴力抵抗運動
 キリスト教の教派には絶対平和主義を主張する教派が存在する。ディスペンセイショナリスト、アナバプテスト、メノナイト、アーミッシュなどがその代表例である。戦争を認めないし、戦争に参加しない。このような態度に対する批判は、戦争があり不正が行われているのを傍観することになり、間接的に不正に加担しているというものであった。その批判を真摯に受け止め、この教派の人々は戦争を未然に防ぐために広範な活動をしてきた。学問的には平和学への貢献も大きい。内村鑑三は日清戦争には主戦論を展開したが、日露戦争には非戦論を展開した。マーティン・ルーサー・キングは非暴力抵抗運動の主唱者で、マハトマ・ガンジーからその運動形態を受けている。ただし、新約聖書--->トルストイ--->ガンジー--->キング という流れのなかに、聖書解釈の変質を指摘する学者がいる。運動そのものの批判ではなく根底にあるものへの学問的な検討の結果として。
 日本長老教会はウェストミンスター信仰告白を信仰基準としている。その信仰告白の中に、「敬虔と正義と平和の維持」が政府の義務であり、その為政者の職務にキリスト者が就くことは合法的であり、この政府の義務を果たすために、「戦争をすることは、やむを得ないことであるが、合法的である」という条項がある。
 日本国憲法は前文と第九条で非武装・戦争放棄を明記している。日本政府の有権解釈では第九条には国家の自衛権の放棄まではうたってないとしている。
 この両者の一見矛盾する戦争観を深く、歴史的に検討した結果、その基礎にある平和主義では一致することを見いだし、その調和点として、”われわれは戦う権能はもっているが、その行使は留保する”との結論を得た。
 
★新保守主義
 新保守主義は英国のサッチャー首相、日本の中曽根首相などがその同調者である。保守主義は、現在が過去と連続性をもち、未来は現在の延長線上にあるべきという主張である。新保守主義は、そうではあるが、時代状況では、連続性よりも断絶・変化の必要性があるのではないか、それを積極的に推進すべきとの主張である。修正保守主義といってもよい。勿論革命的な変革ではなく、社会構造は温存しての変革である。その変種としてレーガン大統領の「強きアメリカの復権」をとなえたネオ・コンサバティブの運動が始まった。一方、米国には第一次世界大戦後、キリスト教界ではファンダメンタリスム運動が起きてきた。聖書解釈への根本的な反省からである。このまた変種がブッシュ大統領も信奉するキリスト教原理主義である。一般に、原理主義とは信条なり綱領なりの異なる解釈を一切認めない、積極的に排除する主義である。敵を見つけてはそれをつぶし、存在をゆるさないのである。宗教的なカルトの特徴で、そのためには手段を合法化する。
 ネオ・コンサバティブとキリスト教原理主義とが結びつくと、すでに存在しているグローバリズム(アメリカ文化の世界大の宣布)と単独行動主義(国連無視、超大国の覇権、一人勝ちの傲慢)に拍車がかかることは当然の帰結ともいえる。我々が、「何故なのだという疑問」が、彼らにとっては「疑問のない当然」なのである。
 西欧の近代保守主義は、何を保守するのかというと、「個人の自由」「私有財産」「平和・安全」「秩序」「社会福祉(公共善)」「伝統文化・制度」などである。この保守主義と自由主義との関係、保守主義と民主主義との関係が常に問題となっている。日本の保守主義はその変種である。西欧近代保守主義に手本を求める衝動と、日本の歴史・伝統・文化を根底に据えようとする衝動の二本線が競合しているようである。しかも前者には、キリスト教文化を是認(受容ではない)するものと、キリスト教文化を批判(拒否に近い)するものとがある。これを二本に分けるならば、日本の保守主義は三本線となるといえようか。
 
★「心情倫理」と「責任倫理」
 西欧では、民衆は「心情倫理」で物事を判断し、政治家は「責任倫理」の支えで行動するなどと言われる。民衆は「かく信じて行動するが、結果は神に委ねる」、しかし、政治家は、結果責任をとらねばならぬので、民衆から遊離した決断もあり得るというのである。
 キリスト教倫理の中で「個人倫理」と「社会倫理」とを区別する学者もいる。さらには「キリスト教倫理」と「一般倫理」とに分ける学者もいる。(学問の自由と学者の良心の成果。その実を食うか食わぬかは個人の自由。)
 しかし、アジア人、とくに日本人には、このような分類でよいのだろうか。民衆には対支配者の「体験からの知恵・洞察」がある。それは生きのびるために身に付けたものである。代々の支配者には「責任倫理」はなく、「支配欲からでた狡知と武断主義」だけが存在するよに見える。かえって中間支配層中に希ではあるが、板挟みから追いつめられた代理的な「責任倫理」が窺えるのみである。民衆の中からの飽くなき責任追及を、変質者の仕業とみなす支配者が存在する。すべてを水に流すことを美徳(?)とする精神文化が横溢している。
 今回のイラク問題でも政治家は「状況の推移を注意深く見極わめて」決断するので、結果の責任はとらない。時の流れの読み違いがあったというのである。渦巻く濁流を筏で下る竿師が政治家で、転覆は濁流と竿師の両方にあるとする。「責任倫理」とは程遠い倫理である。敗戦時、「一億総懺悔」という言葉を政治家は振りまいた。民衆にも責任はあると。

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