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11月に解放された同行運転手の生々しい証言 [media@francophonie]
http://www.asyura2.com/0411/war65/msg/138.html
投稿者 現在無色 日時 2004 年 12 月 22 日 13:23:06:adCEM5M2s20Yg
 

(回答先: Re:2人解放、フランス国内は喜びに沸く(JNN)TBS系動画News 投稿者 珍米小泉 日時 2004 年 12 月 22 日 10:36:08)

この事件は長かった・・・“おめでとう”よりも“おつかれさま”な印象だ。
おそらく彼らが、武装勢力について、イラクの真相について、詳しく報告してくれるだろう。フランスの世論にも注目だ。

途中経過ではあるが、状況がすごく良くわかる文章を付けておきます。
ありがたい引用元はこちら:http://blog.livedoor.jp/media_francophonie/archives/10046599.html

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イラク:フランス人誘拐、シリア人運転手の証言
"Vous êtes Français, des amis. Tout cela va se régler en un ou deux jours"
「君たちはフランス人だ。我々の友人だ。明日か明後日にはすべて丸く収まるだろう」

11月29日付け リベラシオン Didier FRANÇOIS
元記事はこちら

フランス人のジャーナリスト(クリスチアン・シェノとジョルジュ・マルブリュノ)がイラクで誘拐されてから、今日で103日目になります。最後に関連記事をご紹介して以来、目だった進展はほとんどありません。数少ない情勢の変化の一つが、2人の運転手を務めており、一緒に誘拐されていたシリア人が脱出したことです。この運転手、モハメド・アル・ジュンディさんがリベラシオン紙の取材に答えた長い記事をご紹介します(ネット上の元記事は抜粋のみ)。


(翻訳はじめ)
8月中旬に2人の記者とともに誘拐されたモハメド・アル・ジュンディは、20日ほど前、アメリカのファルージャ攻撃の隙をついて監視の目を逃れ、脱出に成功した。11月20日以来、近親者とともにフランスに避難しているアル・ジュンディが、自分の拘束時の生活について語った。

誘拐

「8月19日木曜日の夜遅く、ジョルジュが電話をかけてきたんです。ジョルジュは私に、彼とクリスチアンを翌日ナジャフに連れて行くことができるか訊ねました。私はあまり乗り気ではありませんでした。すでに2日前に、私たちはナジャフ潜入を試みていました。しかし町の中に入ることはできませんでした。町へ通じる道はすべて戦闘によって遮断されていました。ただ、米軍のアリ廟総攻撃通告後、ジョルジュとクリスチアンはそれぞれの編集局からしつこくせっつかれていたのです。そこで私たちは金曜の朝8時に、彼らの投宿しているホテルの前で待ち合わせをすることになりました。私たちは国道を南下し、ナジャフ方面へ向かいました。道中、ジョルジュは一本の電話を受けました。ラジオ・スイスの電話取材でした。そのため、私たちはたっぷり15分ほど、駐車せざるをえませんでした。(犯人から)目を付けられたのはこの時だったのではないかと思います」

「私たちは再び出発しました。2〜3Km進むと、行く手に韓国製の車が立ちはだかりました。それと同時に、私たちの後ろを付いてきた一台のメルセデスが私たちの車に横付けしました。すぐさま覆面をした男たちが車から降りてきて、武器でもって私たちを取り囲みました。私たちは両手を挙げました。ジョルジュはアラビア語で「我々はフランス人の記者だ!」と叫びました。男たちは私たちを車から降ろしました。最初、私たちは彼らが車狙いの強盗だと思っていました。しかし彼らは私たちを後ろ手に縛り、目隠しをしました。クリスチアンはメルセデスの後部座席下の床に横たえられました。ジョルジュと私はそれぞれ車のトランクの中に押し込まれました。目隠しをされる直前、彼らの一人が私の車でバグダッド方面に向かうのが見えました。後部ドアはまだ開いたままでした。馬鹿げた話ですけれど、私は彼らに車を傷つけないように頼んだのです。買ったばかりの車だったんです」

「車でアスファルトの道を20分ほど進んでから、舗装されていない道に入りました。それから私たちはトランクから出されました。壁に囲まれた場所で、どこかの中庭のようでした。見張り番が「気をつけろ!アメリカのパトロールだ!」と言うのが聞こえました。それから別の声が『こいつらをどうする?』と訊きました。誰かが『隊長のところに連れて行け』と答えました。
それからまた30分ほど悪路を揺られて、私たちは畑の中の一軒家に連れてこられました。犯人達は、私たちの手の縛めをほどいてくれました。目隠しも外されましたが、彼らは覆面をしたままでした。この一軒家の農家の中には女性が数人いましたが、全員イスラム復古派(サラフィスト)風に厳重にヴェールをかぶっていました。タバコを喫う者は一人もいませんでした。タバコは禁忌、『ハマム』だったのです。非常に原理主義的なスンニ派の農家にいるのだと、すぐに解りました」

「誘拐犯はすぐに立ち去り、見張り番が私たちを最初の部屋に閉じ込めました。独房のような、最近建設された部屋で、牢屋のように鉄の扉と便所が設置されていました。非常に不潔な部屋で、蚊がたくさんいました。私はサソリも一匹殺しました。とても暑かった。私たちにはマットレスも与えられず、地べたで眠りました。常に電灯が点されていました。この部屋の中には、他に4人の囚人がいました。2人はチェコ人で、そのうち1人は脚を怪我していました。それからチェコ人の運転手をしているイラク人がいました。このイラク人運転手の顎は銃弾で砕かれていました。しかし誰もこの運転手を手当てしませんでした。とても辛かった。それから、残りの1人はアメリカによって設置された暫定政府で大臣を務めていたアハメド・チャラビのボディ・ガードでした。このボディ・ガードが属していた一団は、数日前にナジャフ行きの道路上で襲撃されていました。彼は肩を怪我しており、脚には手榴弾の破片が突き刺さっていました」

「罵言を投げかけられたり、殴られたりなど、虐待されたことは一度もありませんでした。しかし15日間の間、味付けのされていないねばねばしたオクラしか食べ物が与えられませんでした。幸いなことに、2日目の日曜日から、ジョルジュ、クリスチアン、私の3人は農家の母屋にある三ツ星の部屋に移されました。ベッドはなく、狭い部屋でしたが、清潔で、ここに入れられたのは私たち3人だけでした。台所から女性と子どもの声が聞こえました。それから、飛行機が飛び交う音も聞こえました。サダム時代の旧宿営地に設営された米軍基地からあまり遠くないところにいたはずです。というのも、農家のトイレのとなりにあった倉庫の扉は、宿営から盗まれたものだったからです。扉の上に『士官室・立ち入り禁止』と書かれていたのがまだ読めました」

イラク・イスラム軍

「日曜日、覆面の男たちが私たちのところに来ました。見張り番は彼らのことを軍隊風に『隊長』と呼んでいました。この男たちは司令部から派遣されたに違いありません。彼らは私たちの写真を撮り、我々の身元を調べるために質問しました。彼らがイラク・イスラム軍と名乗るグループであることが判ったのはこの時です。彼らはかばんや身分証明書など、私たちの私物を返してくれました。そして、コンピューターとジョルジュの電話は、誘拐の実行者が盗んでしまったので返却できないと謝りました。しかし、彼らはジョルジュにこの埋め合わせをすると言い張り、現金で結構な金額をジョルジュに渡しました。そして『君たちの書類をこれからイスラム法廷に提出する。しかし心配することはない。君たちはフランス人だ。我々の友人だ。明日か明後日にはすべて丸く収まるだろう』と言いました。私たちは安心して、残りの時間を数え始めました」

「月曜日、別の男が私たちに会いに来ました。彼は一枚の紙に私たちの名前と私たちの健康状態が良好であると書かせ、それに署名させました。彼は私たちが『今日明日中にも』解放されることを約束しました。彼は満足そうでした。私たちの心は希望で膨らみました。しかし2日間の待機の後、私たちは失望し始めました。別の代表団がバグダッドから到着しました。見張り番たちは私だけを縛って部屋から出しました。部屋の中で、彼らがジョルジュとクリスチアンと話し合っているのが聞こえてきました。彼らはイラク・イスラム軍は5000名の戦闘員を統率しており、フランス政府が学校でイスラム・ヴェール着用を禁止する法律を廃止するか、2人が殺害されるか、二つに一つだと言いました。私が部屋に戻った時、この団体の横断幕の下で2人がビデオ撮影されたということを知りました。
私たちは意気消沈してしまいました。一番悲観的なのはジョルジュでした。私はジョルジュを安心させようと思って、これが単なる宣伝活動で、もっと具体的な犯行声明がこのあとに行われるはずだと話しました。クリスチアンは達観しているようでした」

「拘束されたから15日経った9月3日金曜日(記者註:彼らが拘束されていたラティフィヤ周辺を米軍が攻撃する前日)、私たちは部屋から出されました。そこには一団の男たちと、おそらくバグダッドから来たと思われる彼らのリーダーがいました。リーダーはジョルジュとクリスチアンに、場所を移すので長旅に備えるようにと説明しました。私は出発前に私物をまとめてもいいかと訊ねましたが、彼らは『お前は残るんだ』と言いました。それで、私たちが引き離されること、なんらかの問題が迫っていることが判りました。非常に悪い気分でした。私たちは抱擁し合いましたが、どのような言葉を交わしたのかは思い出せません。非常に辛い瞬間でした。私は生き延びることしか考えていませんでした。二人は連れ去られ、それ以後私は再び二人に会うことはありませんでした」

「10日ほど後のある朝、別の集団が私のところにやってきました。縛られ、目隠しをされて私は車のトランクに入れられました。未舗装の道の上をおよそ90分ほど車で運ばれました」

「それから2週間ちょっと経ってから、私はまた別の隠し場所に移されました。イスラム軍の幹部が私のところにやって来て、私が数日後に解放される予定だと言いました。私は涙をながして感謝しました。しかし私が移されたのは戦闘員の隠れ家でした。彼らのリーダーは残虐で野蛮、無礼ないやな奴でした。彼は私をある部屋に閉じ込め、壁に鎖でつなぎました。これが私の拘束中でもっとも辛い時期でした。ラマダンの間、絶食の戒律を破って、凝固した脂肪分が浮いた冷たいスープが与えられました。お茶も与えられましたが常に冷めていました。リーダーは私にジョルジュとクリスチアンのことを尋問しました。彼らがユダヤ人かどうか、彼らがスパイかどうか尋ねられました。彼は部屋の中を歩き回りましたが、殴られたことは一度もありませんでした。しかし罵詈雑言は殴られるよりも辛いものでした。この時のことを話す時、今でも神経が高ぶってきます」

解放

「その後、ファルージャで戦闘が始まり、私は別の隠れ家へ移されました…。その界隈はもぬけの殻でした。アラブ人は学校の中に二人の怪我人を置き去りにして、ピック・アップ・トラックに乗って消え去りました。街角で、私は一人の少年に気づきました。私は脱走したムジャヒディンのふりをして、彼に『ぼうず、俺はもう戦えない。お前と一緒に連れて行ってくれ』と言いました。しかしこの少年もまた、どこに行けばいいのかわからないでいました。彼のいた界隈はすでにアメリカの海兵隊に占領されていたのです。最終的に、私たちはもう一人の別の少年が隠れていた廃墟の中に身を隠しました。この廃墟の台所にはナツメヤシの実と水が少し残っていました。私たちは連合軍が来るまでここに隠れていました。町の中を歩き回りたくはありませんでした。アメリカ人が無差別に発砲するからです。アメリカ人にとって、無差別射撃はごく当たり前の行為なんです。とうとう、海兵隊の一隊が私たちの隠れていた家を調べに来ました。彼らは私たちを組み伏せて後ろ手に縛りました。それから、廃墟の中にある米軍の陣地にまで私たちを連れて行きました。道中、多少乱暴な振舞いをされましたが、命を助けてもらったのですから100万ドルでもよろこんであげたいくらいです」

「主任軍曹の前に引き出されたので、私は脱走した人質だと名乗りました。1時間にわたって、私一人がある部屋の中でやや厳しい取調べを受けました。その後、一人の大尉と、通訳がきて、私の解放を祝ってくれました。大尉は私の縛めを解くように命令し、二名の記者によって写真撮影されることに同意するかどうか訊ねました。自分が救われたこと、メディアが私の存在を知っていたことが解って、私は30分ほど嬉し泣きしました」

「その後、明け方の3時ごろ、病院に運ばれました。この病院に2日間入院した後、私は監獄に移されました。そこで再び、FBIの捜査官とFBIのような別の組織の人間に、4〜5日の間何度も取調べを受けました。でも辛くはなかったです。私にとってこの事件が終わりに近づいていることが判っていたからです」
(翻訳おわり)
Posted by media_francophonie at 23:57 2004年11月30日

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