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三村文男(著)『米内光政と山本五十六は愚将だった』 近衛、広田、杉山は死刑で、米内が無罪はおかしい。
http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/495.html
投稿者 TORA 日時 2005 年 4 月 29 日 16:30:28: CP1Vgnax47n1s

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu93.htm
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三村文男(著)『米内光政と山本五十六は愚将だった』
近衛、広田、杉山は死刑で、米内が無罪はおかしい。

2005年4月29日 金曜日

◆米内光政と山本五十六は愚将だった 三村文男(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/490133106X.html

近衛声明と米内光政

北支事変といわれた日中戦争初期の段階で、戦火の拡大が日本の命とりになることを予見して、最大の抵抗を続けたのは、参謀本部第一部長石原莞爾少将であった。戦争熱をあおり立てるマスコミをバックにして、優柔不断な堂上人の近衛首相に圧力をかける積極派の力のゆきつくところ、戦火が上海に及ぷにいたって、海軍の主唱で日中全面戦争となり、その名も第二次上海事変をあわせた支那事変となった。上海居留民の引揚げと、揚子江上艦隊の撤収を主張した戦略が却下された失意の石原は、辞意を表明して、昭和十二年九月二十三回関東軍参謀副長に転出した。

石原が北支事変の拡大に反対した最大の理由は、対ソ戦備にあった。日本に二正面作戦をする戦力が無いと、知りつくしていたからである。彼が昭和七年八月満洲から帰還して、昭和十年八月参謀本部に着任し、最初に着手したのは、日本の戦力の正確な調査把握ということであった。その結果、想像していたよりはるかに弱体な現状を知ることになった。

昭和七年に満洲国が出来て、日ソ勢力の接触する長大な国境線に包囲された形の、内戦作戦を考えると、寒心に堪えぬものであった。昭和七年の関東軍三個師団に対して、極東ソ連軍は六個師団であった。北支事変の起る前年の昭和十一年には、関東軍五個師団に対して、ソ連は十六個師団どなっていた。昭和十四年には彼の三十個師団に対して、我は十一個師団、しかも一個師団あたりの戦車数は、彼の七十二台に対して、我は十八台であった。それでいてこの時、関東軍はノモンハンでこちらから事を構えたのである。

昭和八年(一九三三)から始まったソ連の第二次五か年計画は、事変勃発時には最終年度を迎え、成果が宣伝され、翌年から第三次計画に入ることになっていた。これに比して日本の生産能力を考えると、隔差はひらくばかりではないかと思われた。事変の拡大は対ソ戦略の欠陥を増大するばかりで、国防上許されない、というのが石原の反対理由の第一であった。事実北支事変が支那事変となってから、弾薬が不足し、弾薬増産のために、他の兵器の生産が圧迫されるという、構造上の欠陥が暴露され、産業上も泥沼の様相を呈してゆくのである。

蒋介石の国民軍は、ドイツ軍事顧問団ファルケンハウゼン中将の指揮の下に、交通不便な華北決戦を避け、重要な上海地区に全力を注いでこれを要塞化し、日本軍を邀撃しようという計画であった。後になってわかった事だが、上海を避ける石原戦略は、その裏をかいていたのだった。海軍の米内戦略を採用した日本首脳部は、敵が全力を傾注し、万全を期して待機した地点に、正面から攻撃を強行することになった。果たせるかな、予想せぬ犠牲の続出で、攻撃は失敗した。

十一月五日の第十軍杭州湾上陸による側面からの攻撃態勢で、戦局は漸く打開され、蒋介石は七日上海からの退却を決意した。そこで浮足立った敵を、どう扱うかが問題となって来る。上海出兵の目的は居留民の保護であった。敵軍が退却してしまえば、戦闘目的は達成されたことになるのだ。だが頽勢をたてなおした戦勝の勢いは、とめ様がなかった。ことに第十軍編成の際に、上海決戦で大成果をあげ、敵の戦意を喪失させるという目標がかかげられていたことが、軍首脳の意志を拘束した。退却されたのでは面目が立たない。マスコミは戦勝気分をあおり立てていた。犠牲はかくされ、勝った勝ったの連続で、中学生だった私も、この頃上海大場鎮陥落の提灯行列に、学校行事として参加した。

はげしい戦闘に敗ければ敗けたで、勝てば勝ったで、将兵の気持はたかぶり、戦いのいきおいは、激しさを増してゆく。はやる現地軍が南京攻略を呼称するのは、当然の成り行きであった。すでに米内海相は八月の閣議で、上海に陸軍の派遣を要請した時、南京攻略まで主張していたのである。彼こそは事変拡大の張本人であった。

石原の去った後、中央で戦争拡大に最も抵抗したのは、参謀次長多田駿中将であった。石原が参謀本部に残した九月十三日と二十日の文書がある。十月中に中国軍に大打撃を与えられない場合は、北支と上海を確保しつつ、謀略、政治工作、第三国の仲介などで、和平に持ちこむようにしよう、というものであった。多田の戦略も概ね石原のそれに近いものであったと思われるが、真向からこれに反対の行動をとったのが、石原の後任として九月二十八日第一部長となつた下村定少将であった。彼は多田のとった作戦地域を限定する方針を、覆えす策動に終始した。

第三課長河辺虎四郎大佐が十一月十六日上海に派遣され、中支那方面軍司令官松井石根大将、参謀長塚田攻少将、参謀副長武藤章大佐と会見し、そのいずれもから、上海派遣軍の疲労が指摘され、進撃作戦は無理だと聞かされた。その報告をきいても、下村は考えを変えなかった。

はやる第十軍では、十一月十五日の幕僚会議で「全カヲ以テ独断南京進撃ヲ敢行ス」と決議していた。司令官柳川平助中将は十七日「敵ノ戦意ヲ喪失セシムル目的ヲ以テ、独断南京二向ヒ進撃ス」との「作戦指導要領」を決裁した。きらに十九日上海派遺軍と第十軍がともに参謀本部の訓令による停止線に到達すると、柳川は「機ヲ失セズ一挙南京二敵ヲ追撃セントス」と作戦命令を出し、松井司令官の意向にも、多田次長の指示にも反抗した。

十一月二十日南京では重慶への遷都宣言が出され、東京では大本営が設置された。第十軍からは参謀本部あて南京独断進撃の報告が電報で届いた。多田次長は何とかして停止線を守らせようと、下村に指示を出すが、面従腹背の彼にていよくあしらわれ、「いかん、いかん」の連発であったという。上司の意図が下僚の実務で柾げられることはよくあることだが、下村の「今一押し」論のねばりがついに勝って、十二月一日「敵国首都南京ヲ攻略スベシ」の大本営命令が出た。しかし多田はなおもあきらめず、上海に飛んで命令を伝達する際、南京の手前に停止線をひき、とどまって攻略準備の態勢をとれ、との命令を松井司令官に出させた。現地軍はこれに憤激し、一旦は従う姿勢をとったものの、緒局は無視してふたたび独断専行、南京をおとし、勲功が嘉賞されることになった。それが十年後の東京裁判で刑死者を出すことにもなるのである。

多田が南京の一気攻略に反対した大きな理由は、和平交渉が進行中だったからである。駐中国ドイツ大使オスカー.トラウトマンが、日中両国とドイツの国益を考えて、十一月初旬から行っていた、いわゆるトラウトマンエ作である。この戦争は蒋政権を弱体化し、中共とソ連を利するのみだという彼の見解は、ドイツ外務省のものでもあった。今から観ても正確な見通しで、日本側が必ずしも同調しなかったことが惜しまれる。

広田外相は十一月二日ドイツ大使ディルクセンに日本側の和平条件を提示した。北支と上海の非武装等で、従来の方針としていた満洲国承認をはずしており、大使も温和な条件だから、中国側も受諾の可能性ありと、ノイラート外相に報告した。命をうけたトラウトマンは五日に蒋と会見した。蒋は受諾を拒否したが、会談を厳秘にしてほしいと発言し、日本側発言のコピーを求め、持ち帰った。蒋の信頼するドイツ軍事顧問団のファルケンハウゼン中将も、十一月九日に蒋夫妻はじめ、要人たちと会って、工作につとめている。

儒教国を相手の戦争である。一挙に首都を陥落させて、蒋の面子を失墜させるよりは、その手前で交渉し、和平に導くことが、礼節にかなうものであるというのが、多田の信念であった。その政略的判断は、この時期の日本首脳部内で、きわ立ってすぐれたものであった。しかし彼は参謀本部内の部下に足をすくわれ、陸軍省、海軍省にそむかれ、最終的には現地軍の暴走をとどめることが出来なかった。多田の志が生かされて居れば、半世紀を経てわれわれ日本人が、虐殺事件の汚名にわずらわされることも無かったのだ。

十二月二日トラウトマンと会見した蒋は、北支の宗主権、領土保全権、行政権を変更しないことを条件に、講和交渉の基礎として、日本側条件を受諾する意志のあることを表明した。しかしさきの松井司令官の命令を受領した第十軍は翌三日、上海派遣軍は五日に、進撃開始ときめていたのである。攻撃停止線について、第十軍は「甚ダ残念ナルモ已ムナク」とただし書きをつけて、下達はしたがまもられず、現地軍ではどの部隊が一番乗りをするか、先陣あらそいが最大の関心事となり、マスコミのあおりもあって、進撃の勢いはとどめ様がなかった。国内では南京陥落が十二月二十日以前と予想され、ディルクセン大使のドイツ外務省への報告では、十二月末までという予想になっていた。

だが、十二月十回南京の光華門に突入した大隊が、城壁に日章旗をかかげたのが、国内ではこの日の夜、南京陥落の号外として、誤報された。実際は南京城総攻撃の前夜であったのだが、提灯行列までが行われ、私も中学生として神戸で参加した。翌日は旗行列となった。

国内の興奮は前線にも伝えられ、辻棲を合わせるために、それからの攻撃では無理が強いられることになる。予想より早い十三日に南京は陥落し、十七日には入城式が行われた。戦勝のムードは国内で朝野にひろがり、第二の満洲国の誕生まで予想して、進出を考える傾向まで生じた。すべてが和平への障碍となって、多田次長の和平努力に困難を加えてゆくのだが、彼はひるまなかった。

十二月十四日の閣議で、さきの和平条件のことが出た。内相末次信正海軍大将は「これで国民が納得するかね」といい、広田外相は「犠牲多ク出シタル今日、斯クノ如き軽易ナル条件ヲ以テシテハ、之ヲ容認シ難シ」と嚢言した。陸相杉山元大将が同意というと、首相の近衛文麿は「大体敗者トシテノ言辞無礼ナリ」と言った。

新しい和平条件は十二月二十一目の閤議で決定され、ディルクセン独大使に文書として渡された。前の条件に満洲国承認が付け加えられると共に、北支に日満支三国の新しい機関を設置し、内蒙古に防共自治政府を樹立する。中支に非武装地帯を設置する等々、甚だしく主権をそこなうものであった。其の他にも資源開発、関税交易の新協定締結とか、賠償支払い等の追加条件があった。相手の弱みにつけこんだ条件加重は、甚だ道義にそむくものといわねばならない。

八月十五日の日本政府の声明に「帝国ノ庶幾スル所ハ日支ノ提携二在リ…:・固ヨリ毫末モ領土的意図ヲ有スルモノニアラズ」とあり、「南京政府ノ反省ヲ促ス為」の正義のいくさと宣伝されていた。新聞には毎日のように「聖戦」の文字が見られた。筆もここまで来て、今さらながら私も裏切られたおもいである。敵方はなおさらだっただろう。

陸軍にも具眼の士があり、参謀本部第一部第二課の戦争指導班は、条件加重の閣議決定を取消すべしと決議した。その一員堀場一雄少佐の記録に「支那側に念をおした上での本措置は、国家の信義を破るとともに、日本は結局口実をもうけて戦争を継続し侵略すると解釈するのほかはない。これは道義に反する」とある。この決議は陸軍省にも伝えられ、次官梅津美治郎中将も共鳴して、杉山陸相に閣議決定を取り消すように進言したが一蹴され、決定内容はそのままディルクセン大使に伝えられることになったといわれる。小室直樹氏は「昭和史の本を読んでいて、この条にいたるたびに、いまだかって嘆息痛恨しないことはない。あの時、なぜ、講和条件を加重するなどという、トンデモナイ愚行を演じたのか」と書く(「前書」)。

蒋介石はすでに十一月十二日首都を南京から重慶へうつすことを決定し、二十日に遷都宣言をしていた。彼が南京をはなれたのは十二月七日であった。何といっても首都の拠棄は、蒋にとって大きな打撃であった。内外の信頼がそこなわれるのは、やむを得ない事であった。開戦以来最大の苦境に立っ蒋に対して「ドブに落ちた犬を叩け」という中国のことわざをそのままに、さきに和平の意志を表明した相手の顔に、泥をぬったのは、日本の政府であり、参謀本部の和平派をのぞく軍部であった。中でも前に引用した高橋文彦氏が「(蒋と)人間的にひきあうものを感じた」と書いた米内海相は、それと裏腹の行動をとったのである。

後に知れたことだが、十二月二十七日蒋が招集した国防最高会議で、加重条件が論議された時、それでも交渉に応ずべしとする意見も出たという。しかし大勢はこのまま呑むわけにはゆかない、というものであった。中国側の回答がないまま、翌年一月十一日政府と大本営首脳が、御前会議に参加し、中国側の回答期限を一月十五日に設定した。回答は十四日ディルクセン独大使によって、広田外相に伝えられた。新たに提議された条件は範囲がひろすぎるので、その性質と内容を、具体的に確定してほしい、という内容であった。加重条件に対する拒否を娩曲に示したものだが、その日の閣議では攻撃が集中した。結局これは遷延策の逃げ口上にすぎないとの判断から、蒋政権を否定し、新しい政権を育成するという政府声明を出すことがきまった。多田の最後の努力は、ここから始まった。

一月十五日の大本営政府連絡会議で、広田外相は、政府としては交渉打切りを決定しているから、陸海軍統帥部もそれに同意してほしい、と求めた。参謀本部の多田次長は、この回答文で脈なしと断定するのは軽率だ。駐日中国大使許世英を通じて、中国側の真意をたしかめるべきだ。僅かの期日をあらそって、「前途暗潜たる長期戦に移行」するのは、あまりに危険で承服できない、と主張し、海軍軍令部総長伏見宮博恭元帥、次長古賀峯一中将もそれに同調した。

ところが政府側の陸相杉山元大将、海相米内光政大将が、もはや交渉は無用と、強硬に反対した。杉山は蒋介石には和平の誠意がないから、屈服するまで作戦せよといい、広田外相は「永キ外交官生活ノ経験二照シ」支那側に和平解決の誠意なきことが明らかであるのに、参謀次長は外務大臣を信用しないのか、とひらきなおった。近衛首相は、すみやかに和平交渉を打ち切り、我が態度を明瞭にすべきだと、かん高い声で叫んだ。

それでも多田はひるまず、交渉継続を主張し、海軍も軍令部次長古賀峯一中将がそれを支持する発言をした。論争に終止符を打ったのは米内であった。彼は古賀の発言を途中で制し、つまり問答無用ということだ、政府は外務大臣を信頼している。統帥部が外務大臣を信用しないのは、政府不信任ということだ、政府は辞職する外ない、と放言した。これは甚だ重大な発言なので、阿川弘之氏の大著「米内光政」(新潮社)をのぞいて、諸書にとり上げられている。米内の発言は「参謀本部がやめるか、内閣がやめるか、どちらかだ」とも伝えられている。

多田は「朕に辞職なし」との明治天皇の理言葉を引用し、国家重大の時期にあたって、政府が辞職を云々するのは穏当でない、と条理をつくしたが、政府は裏工作に出た。陸軍省を通じて参謀本部にはたらきかけ、内閣が総辞職すれば、政府側の強硬論が統帥部の弱腰に屈した形になり、世論は統帥部を非難するだろうとおどした。結局政府と統帥部の対立が外に洩れるのはまずいということで、参謀本部は屈服し、政府一任に態度を変えてしまった。首脳部の体面ばかりで、国益は二の次というわけだ。

これによって支那事変拡大の最後の歯止めが、取りはらわれてしまった。米内は戦後に平和主義者とたたえられているが、真赤な嘘だ。論議を尽くすことをせず、辞職を切札にして主張を通そうとする傲慢不遜な態度は、後の連合艦隊司令長官山本五十六大将を連想させる。山本は真珠湾作戦の時も、ミッドウェイ作戦の時も、自らの作戦計画が軍令部に猛反対された時、これを通さぬなら辞職するといって、承知させたのだった。米内は後に終戦前の重大な時にも辞職を口にするのだが、彼も山本も、いざという時、とっておきのこんな手口をっかう人間であった。

翌一月十六日午前、広田外相はドイツ大使ディルクセンをよび、交渉中止をつたえ、仲介の労を謝した。大使は、決定を早まって、交渉決裂の責任が日本にあるような印象を、対外的に示すのは不利ではないか、と忠告したが、広田は耳をかさなかった。この日正午の政府声明が、すでに決定していたからである。声明の「帝国政府ハ、爾今国民政府ヲ対手トセズ。帝国ト真二提携スルニ足ル新興支那政権ノ成立発展ヲ期待シ…:…・更生新支那ノ建設二協カセントス」という茎言は、これだけで蒋政権を侮辱するに足るものであるが、政府は十八日、それを補足する声明を出して、「爾後国民政府ヲ対手トセズト云フノハ、同政府ノ否認ヨリモ強イモノデアル」「之(国民政府)ヲ抹殺セントスルモノデアル」とまでいい切ってしまったのだ。

いわゆる近衛声明の中で、最も問題とされるこの声明によって、日本は戦争で屈服させるべき相手も、こちらが降伏する相手も、自ら失ってしまった。それから七年半の間に和平の試みはあったが、正式の軌道に乗ることはなく、支那事変という、宣戦布告なき有史以来の大戦争は、いたずらに目の前にした敵とたたかうのみの、戦争のための戦争に堕してしまった。昭和二十年ポツダム宣言受諾による停戦交渉と、ミズーリ艦上に於ける降伏文書調印が、正式交渉の回復となり、中国大陸に展開していた百万の帝国軍隊は武装解除された。石原や多田のおそれた支那事変の結末の予想のとおりになってしまったのである。

戦勝ムードに浮かれていたとはいえ、近衛声明に加担した政府軍部の人たちの、リアリズムの欠如は何ということだろうか。実在する敵を無いものとして、ひとり相撲しようとしたのだ。中学五年だった私は、「対手トセズ」の文言を新聞紙上に見て、近衛首相のようなエライ人が、どうして市井人の口喧嘩のようを言葉を使うのか、甚だ奇異に感じたことを覚えている。

戦後に近衡はこの声明を回想して、非常な失敗であったといった。多くの史書も、日米開戦にいたる道を拓き、帝国没落の契機となったこの声明を、近衛の責任に帰している。たしかに南京陥落時、「国民政権はやがて一地方政権に転落するであろう」とか「百年かかつても新興支那を建設して、これと日支関係を根本的に調整することが、基本的とならざるを得ない」と放言していた近衛の政治責任は重い。しかしこの声明を最も積極的に推進したのは米内であった。広田、杉山も強硬に主張したが、多田の和平論と正面からわたりあい、内閣総辞職問題にすりかえる論理まで駆使し、ついには寝技までつかって屈服させたのは米内その人であった。

阿川氏は米内がポツダム宣言受諾時の論争で、継戦派に対して「挺子でも動かず」戦争終緒に持ち込んだと讃えるが(「文蓼春秋」平成九年六月号)、蒋との和平に際しては、挺子でも動かず、国内の和平派に反対し、和平交渉を葬り去ったのだった。張本人とされる近衛のごとき、口では強硬論の筆頭のようでも、右翼のテロをおそれて、陸軍省や末次内相に同調したにすぎないともいわれている。

近衛声明を推進した主役の四相のうち、近衛、広田、杉山は、東京裁判による追及と断罪で非業の最期をとげた。ひとり米内のみ訴追を免かれ、戦後の生を全うした。のみならず昭和天皇の厚遇に浴し、それによって今も「一等大将」とか、「昭和最高の海軍大将」といった阿諌に事欠かない。しかし東京裁判史観によってでなく、われらの祖国日本の歴史の上で彼等の残した足跡は、功罪ともに正しく評価されねばならないのではないか。ことに近衛声明に於ける米内の責任は、他の三者の比ではない。その罪万死に値すといっても過言ではあるまい。

それを追及する者が無かったわけではない。例えば池田清氏は「海軍と日本」(中央公論社)の中で「多田次長の交渉継続論をはねつけてその後の事態収拾を困難に陥らせた点で、政治家としての米内、ひいては日本海軍の責任は免れないのである」と書いた。

また生出寿氏は「米内光政」(徳間書店)の中で、「大本営政府連絡会議での米内の発言は、軍部は政府に従うべきだということでは、まちがいではなかった。だがそれによって米内も、戦争終結の道をふさいだひとりになった」と書く。しかし生出氏がこの書の副題を「昭和最高の海軍大将」としたのは矛盾している。

,これに比べて阿川氏の「米内光政」(新潮社)はひどいものだ。近衛声明の記述について、.「陸軍という『武家』にかつがれた近衛首相は、一月十六日、有名な『国民政府を相手とせず』の声明を発表した。日本はこれで、事態がどう変化しようとも中華民国の実質上の統治者蒋介石と直接交渉が出来ないように、自ら道を閉ざしてしまうことになった。再びつながりが生じるには、七年半後『怨に報いるに徳を以てせん』という蒋の言葉を聞く時まで待たなくてはならない。個人的に蒋介石を識っていた米内は、公家流の無定見で無責任な総理大臣に、大きな不満をいだいていたようで、『私は近衛という人があまり信用できんのでね』と洩らしたことがある」と記すのみである。

まるで近衛声明は、陸軍のかついだ近衛のした事で、米内はそのような近衛を信用せず、批判的にみていたかのような書きぶりである。トラウトマン調停を米内がつぶした事など、全くの頬かむりだ。井上成美大将の言を引用して、米内を「一等大将」とたたえる阿川氏は、これで米内のアリバイづくりをしたつもりかもしれないが、彼の責任を近衛に転嫁するのみならず、近衛に対する米内の非難がましい言葉さえ披露するのは、いささか強引というものではないか。

今を時めく司馬史観では、大日本帝国憲法の構造的欠陥から、統帥が独走して政治をおさえ、無謀な戦争と敗戦をもたらした、という事になっているが、それは正しくない。支那事変を収拾不能にして、日米開戦への道を拓いた近衡声明は、政府が統帥をおさえて強行したものであった。政治家としての米内、近衛、杉山、広田の罪は、敗戦の責任者、戦禍を国家国民の上にもたらし、国運を傾けた責任者として、改めて裁かれねばならない。(P55〜P66)


(私のコメント)
日本がなぜ大東亜戦争にまで到ったかについては、研究されているようですが、私にはどうもはっきりとわからない。中国の蒋介石とはいくらでも和平交渉が出来たはずなのに、近衛内閣は日中戦争に突き走ってしまった。問題のポイントは上海事変にあるのですが、居留民の救出に目的があるのなら、海軍は蒋介石軍が撤退したらそれで済んだはずだ。

陸軍の石原莞爾少将は中国からの撤退を主張したが、大勝して敵の戦意をくじくという理由で戦争が拡大してしまった。いったん戦争が始まってしまうとなかなか止められない実例を示してしまったのですが、拡大させた一番の張本人が米内海軍大臣であり、和平交渉を主張した多田参謀次長の主張は退けられた。

戦略的に見れば中国との戦争に深入りすればソ連や中国の共産党を利するだけという、ドイツ大使の意見は目先の戦勝ムードにかき消されて、国内世論も強硬論が大勢を占めて、兵を引くという冷静な意見はほとんどなかったようだ。結局は戦争は拡大して南京後略まで突っ走り、和平の機会は近衛内閣自ら摘んでしまった。

近衛文麿自身が隠れ共産主義者であり、朝日新聞の尾崎記者とゾルゲとの関連からも、近衛内閣が中国との戦争拡大に突っ走ったのは、そのためかもしれませんが、近衛自身が東京裁判の前に自殺してしまったので明らかなことはわからずになってしまった。

根底には日本国内の世論が強硬論で、ほとんど戦争反対の意見が見られないことだ。むしろ参謀本部の石原少将や多田中将は戦争拡大に反対していたが、戦略的に見ればそれが正しいのですが、マスコミも民間の言論人も陸軍の参謀本部に賛成する意見は見られない。日本軍が弱体であることを知っているのは参謀本部しかなかったのだから当然なのかもしれない。

本来ならばマスコミこそが日本軍は弱体であり、戦争をしたら負けるということを報道すべきだったのですが、戦前のマスコミにはそれだけの知性はなかった。むしろ日清日露戦争大勝利を書き立てて、二つの戦争の実態を知らせる努力を怠った。日露戦争の時も軍部も戦争の実態を公表しなかったし、アメリカ・イギリスの仲介がなければ負けていた戦争であった。しかし国民は日比谷の焼き討ち事件に見るように国民に日露戦争の実態は知らされなかった。

日中戦争についても、司馬遼太郎史観や阿川弘之史観が主流を占めて、戦争の実態よりも自分達の責任逃れ的な観方がまかり通ってしまっている。阿川史観では海軍は平和を望んでいたが陸軍の暴走を止められなかったような見方はまったく逆であり、陸軍の参謀本部は不拡大を主張していたのに米内海相や近衛首相が強硬論を主張していたのが真実だ。

東京裁判で近衛や広田や杉山が死刑になったのに、米内だけは起訴もされずにいたというのはなぜだろうか。三国同盟にも反対し終戦工作にも働きがありましたが、日中戦争を拡大させた責任者でもある。重慶の無差別爆撃にも責任を問われてもおかしくはない。ところが米軍は米内を起訴しなかったのは、山本五十六と同じようにアメリカの工作員であった可能性もある。

山本五十六がなぜ強硬に真珠湾攻撃に固執したかは謎ですが、ミッドウェイ開戦も勝てる戦争も負けるように仕組んだとしか思えない。三村文男氏の書いた「米内光政と山本五十六は愚将だった」という本は、司馬史観や阿川史観に鋭く批判しているが、司馬遼太郎も阿川弘之も小説家であり歴史家ではない。ところがNHKなどの左翼メディアでは司馬史観がまかり通っている。

大東亜戦争についても戦略的な見地から分析をした見方があまりないのは小説家が歴史を描いているからだろう。欧米では政治家や軍の司令官が回顧録をよく書いているが、日本の政治家や軍の司令官が回顧録を書く例は少ない。だから学術的な研究も進まず、司馬遼太郎のような小説家が書いたものが真実だと思ってしまう。東郷元帥や児玉源太郎などが回顧録を書いていれば、日本の歴史も変わったかもしれない。

政治家にしても「原敬日記」ぐらいがある程度で、当時の政治家が何を考えていたのか回顧録など残してくれれば歴史研究も進み、小説家が歴史を左右することも少なくなるだろう。最近の日本でも回顧録を書いた首相は中曽根氏と宮沢氏ぐらいで、クリントンやサッチャーなどが書いたものに比べると物足りない。

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