★阿修羅♪ 現在地 HOME > Ψ空耳の丘Ψ39 > 801.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
ブラジルの大地に残した「ジャポネース・ガランチード」(日本人は保証付き)の足跡
http://www.asyura2.com/0502/bd39/msg/801.html
投稿者 てんさい(い) 日時 2005 年 6 月 04 日 23:51:19: KqrEdYmDwf7cM

■■ Japan On the Globe(397)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

地球史探訪:ブラジルの大地に根付いた日本人(下)

 ブラジルの大地に残した「ジャポネース・
ガランチード」(日本人は保証付き)の足跡
■■■■ H17.06.05 ■■ 33,132 Copies ■■ 1,636,601 Views■
無料購読申込・取消: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/

■1.妻の死■

 ブラジルは広い泥沼のようなもんじゃ。歩きを止めれば、
沼に沈んでいく。そうかと思えば、どんなに必死に、どこ
まで歩いてもぬかるみじゃ。

 マラリアによって「死の島」と化したイーリャ・グランデを
出て、峯夫たちは50キロほど東に移動した。このあたりも米
作の有望地で、入植した日本人移民は千五百人にも上っていた。
しかし、第一次大戦後の不況で米価が下がり、かろうじて食べ
ていくことはできたが、金を貯めて故郷に錦を飾るどころか、
送金すらできなかった。

 働いても働いても、どこまでもつづく泥沼が広がっていた。
歩みを止めれば沼に引きずり込まれるだけだ。ただ歩き続ける
しかなかった。時だけが過ぎ去っていき、峯夫・テルコ夫婦に
は、2男3女が生まれていた。

 1928(昭和3)年10月、テルコは6人目の子供を産んだ。初
めての難産だった。生まれてきた子供はすでに死んでいた。そ
して出産後も出血が止まらなかった。長年の過酷な労働でテル
コの健康は蝕まれていたのだ。峯夫は無我夢中でトラックを借
り、近くの病院に運び込んだが、一週間の昏睡が続いた後、そ
のまま息絶えてしまった。

 峯夫はテルコの遺体に付き添いながら思った。テルコの人生
はいったい何だったのか。彼女も峯夫と同様に貧しい農家に生
まれ、一旗揚げようとはるばるブラジルまでやってきた。峯夫
と結婚して、5人の子供をもうけ、農作業と子育てに追われる
毎日だった。テルコに幸せな時間があったとしたら、それは故
郷に帰る日を夢見た、そんな瞬間だけだったのではないか。そ
う思うと、峯夫の目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。

■2.カノの決意■

 この日から、峯夫は酒浸りの毎日となった。田畑に出ても、
そこにテルコの汗が染みこんでいるかと思うと、働く気は萎え
てしまった。苦労するためだけに生まれてきたテルコの人生を
思うと、自責とも悔恨ともつかぬ気持ちがこみ上げてくる。今
までは家族を連れて故郷に錦を飾ることだけを夢見て、どんな
苦労にも耐えてきたが、最愛の伴侶を失って張りつめた糸が切
れてしまった。

 繁行は何度も兄を諫めたが、あいかわらず酒浸りの姿に、ま
た新しい土地に移るしかない、と決心した。今度は東南20キ
ロほどの新しい土地に移った。

 近くには熊本県天草から入植した古賀久次郎一家とその妹カ
ノが済んでいた。カノも幼いときに実母を亡くしていて、峯夫
の幼い子供たちを見ると、他人事とは思えなかった。毎日のよ
うにやってきては、酔いつぶれている峯夫に一言二言、声をか
けた。

 あんたがそげん様子じゃったら、テルコさんな成仏でき
んと思わんか。

 やがて峯夫は田畑に出るようになった。一生懸命、汗を流す
ことだけが、寂しさを紛らわす道だった。一方、子供たちはカ
ノになつき、彼女がいる時には笑顔を浮かべるようになった。

 繁行はカノに兄の嫁になってくれないか、と頼んだ。自らも
養母に育てられたカノは、今度は自分が継母となって、5人の
子供を育てることが自分の運命だと思った。

■3.根を張り始める■

 峯夫がカノと再婚したのは、1933(昭和8)年8月の事だった。
家庭の安定を得て、それからはまるで別人のように峯夫は働き
だした。

 米は作れば、良い値で売れた。日本移民がブラジルに上陸し
た20世紀初頭には、米は不足して、輸入している状態だった。
しかし、日系移民によって米の生産量は年々増加し、1920年代
初期からは輸出に転ずるようになった。1930年代になると、国
内需要に回される米の80%は日系移民によって生産されると
言われるまでになった。

 峯夫が17歳でブラジルに来て、はや20年が過ぎていた。
子供たちも成長し、農作業を手伝うようになった。それが収入
増大の一因ともなった。どこまでも続く泥沼と思って必死に歩
き続けてきたが、ようやく大地にしっかりと根を張りだした。

 多少の蓄えもできたので、カノの勧めもあって、峯夫は一度、
広島に戻り、ある程度まとまったお金を置いてくる事にした。
実家を楽にさせるという目的でブラジルまで来たのに、今まで
ほとんど仕送りもできていなかった。長男としての責任を何一
つ果たしていない、という思いがあった。

 峯夫は1937(昭和12)年6月に、24年ぶりに帰郷した。日
本に帰ってみると、海外発展の目的地は朝鮮半島や満洲に向け
られていて、ブラジルのことなどすっかり忘れ去られたようだっ
た。峯夫が年老いた母親に金を差し出すと、母親は拝むように
受け取って、亡き父を祀る仏壇に供えた。

■4.国交断絶■

 日米開戦のニュースが日本からの短波ラジオ放送でブラジル
に伝わったのは、真珠湾攻撃の2日後、1941年12月9日の事
だった。日系人たちは真珠湾攻撃の戦果に湧きに湧くとともに、
祖国の非常時に異国で暮らして、何の手助けもできないという
現実に歯痒さを感じないわけにはいかなかった。

 年が明けて1月、リオデジャネイロで開かれた汎米外相会議
でブラジルはアメリカを支持し、日本に国交断絶を通告した。
同時に日本・ドイツ・イタリアからの移民の資産は凍結され、
不動産の売買も禁止された。日本語の使用も禁じられ、サンパ
ウロでは日本語学校の教師が逮捕されたりもした。

 日本語の書籍や雑誌も押収され、日本語新聞の発行も禁止さ
れた。日本との音信も禁じられ、日本移民たちは情報途絶の環
境に置かれた。残された唯一の情報源が日本からの短波放送だっ
た。そのラジオ放送を聞くことも禁じられていたが、日系移民
たちは警察に見つからないようラジオを持つ家に集まって、隠
れて祖国からの放送に耳を傾けた。

 ある日の放送では日本政府が「在留日本人を無法に圧迫する
なら、日本はブラジルに対して強硬措置をとるかもしれない」
とブラジル政府に警告した。祖国が自分たちの事を思ってくれ
ていると知って、25万の日系移民は勇気づけられた。しかし、
実際には地球の裏側のブラジルに対して、日本政府が打てる手
はほとんどなかった。

 ただ、峯夫の周囲のブラジル人たちは、ほとんどが以前と変
わらぬ付き合いをしてくれた。日系移民たちが見捨てられてい
たマラリアの蔓延する土地を命がけで開墾し、豊かな米作地に
変えていった事実をよく知っていたからである。

■5.「日本が戦争に勝った」■

 1945(昭和20)年8月7日、ブラジルの有力各紙は、広島に
原爆が投下されたことを報じた。広島は焦土と化し、多数の死
亡者が出たという。峯夫は"Hiroshima"の文字を見て、郷里の
実家や親戚の安否を気遣った。

 8月15日、日本からの短波放送が玉音放送を伝えた。雑音
混じりの中で、日本が降伏をしたように聞こえた。しかし、今
までの大本営発表では、日本陸海軍は連戦連勝のはずである。
その日本がなぜ降伏しなければならないのか?

 翌日のラジオ放送では、いつもの大本営発表はなく、ラジオ
からは雑音しか聞こえなかった。雑音だけの放送が終わった後、
一人の老移民が「微かだが、大本営が日本の勝利といっていた
ように、わしには聞こえたような気がする」と言った。「そう
だ。日本が負けるはずがない。日本が勝っているんだ」と別の
男が応えた。

 こうして「日本が戦争に勝った」と信ずる「勝組(かちぐ
み)」と呼ばれるグループが生まれた。それは情報が遮断され
たブラジルの地で、祖国の存在を心の支えにしている日系移民
たちの「日本に勝って欲しい」という切実な思いから生まれた
ものであった。サンパウロでは一部の過激な勝組が、負組を襲
う事件までしばしば起こった。

■6.祖国への救援物資■

 日本からの手紙が届くようになったのは、終戦後1年半以上
も経って1947年の年が明けた頃だった。峯夫の一番下の妹から
の手紙が着いた。夫が原爆で亡くなったこと、老母は健在で、
朝鮮から引き揚げてきた上の妹が面倒を見ていること、食糧難
とインフレで大変なこと、などが綴られていた。

 祖国へ救援物資を送ろうという動きが始まった。「日本戦災
同胞救済会」が組織され、募金活動が行われた。峯夫たちも郷
里に食料品や衣料を送った。日本では入手できない高価なスト
レプトマイシンなどの医薬も、郷里の親戚が必要としていと判
るとすぐに送った。母校の小学校にも消しゴム付き鉛筆を7百
本ほども送った。

 今まで苦労して貯めた貯金だったが、それを費やすことは少
しも惜しくなかった。日本に帰りたいという思いが峯夫の心に
渦巻いていたが、原爆で何もかも破壊され、インフレと食糧難
で苦しい生活を強いられている肉親や親戚にしてやれることは、
物資を送ることだけだった。

■7.帰郷をあきらめる■

 そんなある日、峯夫がカノに相談を持ちかけた。「わしはも
う年齢だし、百姓をやめて町に出ようと思っているんじゃが。」

 峯夫も50を数え、長男の覚と嫁のヒサエとの間にはすでに
二人の孫娘が生まれていた。長男一家は日本に帰ろうという気
はなく、ブラジルで暮らすことを決意していた。峯夫とカノの
二人に残された選択は、このままブラジルに骨を埋めるか、あ
るいは全財産を処分して焼け野原になった広島に帰るか、どち
らかしかなかった。

 できることなら、帰国して年老いた母親や苦しい実家を助け
てやりたと思ったが、それだけの資力はなかった。

 広島に帰れたとしても、わしには何もしてやることはで
きん。ブラジルから手助けをしてやるのが一番なんじゃ。

 それは帰郷をあきらめようと自分自身に言い聞かせている言
葉でもあった。町に出て商売でもすれば、年老いた身でも多少
の現金も入り、日本に送金する事もできるかもしれない。どう
考えても、それ以外に残された道はなかった。

 峯夫が町に出ようと決心した理由はもう一つあった。5人の
子供たちには、教育らしい教育を受けさせてやれなかった。い
ずれ日本に帰るからとブラジルの教育も受けさせておらず、ま
た奥地のため日本語学校に通わせることもできなかった。子供
たちは、自分の夢の犠牲になったようなものだ、という思いが
峯夫にはあった。

 しかし、今や5人の子供たちはそれぞれ、日系移民と結婚し
て、孫たちが生まれつつあった。孫たちはそんな目に遭わせて
はいけない。自分が町に出れば、孫たちには、そこから学校に
通わせることもできる。峯夫の決意にカノは反対しなかった。

■8.「真っ直ぐに日本に帰るとよ」■

 1947(昭和22)年、峯夫はミゲロポリスという町に出て、雑
貨屋を開いた。やがて覚一家がよりよい耕地を求めて、奥地に
移ったのを契機に、二人の孫、エレーナとマグダレーナの二人
を預かって、学校に通わせた。他にも奥地に住む日系人の子供
たちを預かった。

 峯夫とカノが孫たちを預かったのには、もう一つの思惑があっ
た。ブラジルの教育を受けさせるのと同時に、自分たちの手元
で少しでも孫たちの世代に日本人としての躾をしたいと思った
のだ。このまま孫たちがブラジルの一員として生きて行くにし
ても、日本人の美徳とされる正直、勤勉、親切さまでが失われ
ていくことには耐えられなかったのである。

 1968(昭和43)年、峯夫はしばらく寝たきりの状態を続けた
後、静かに息を引き取った。医師が死を確認すると、カノは大
声で泣きながら叫んだ。

真っ直ぐにお母さんのところに行きなさいよ。真っ直ぐに
日本に帰るとよ。

 17歳の時に、ほんの数年の出稼ぎのつもりでブラジルまで
やってきた峯夫は、そのまま異国で72歳の生涯を閉じた。一
度だけ、数ヶ月の帰国をしたが、あとは地球の裏側から、残し
てきた家族を思い、故国を想う一生だった。

■9.「ジャポネース・ガランチード」■

 11月1日からの3日間はディア・デ・フィナードス(死者
の日)と呼ばれ、日本のお盆に相当する期間である。この日に
は峯夫・カノの曾孫にあたる四世たちが、花束を抱えて墓参り
に集まる。日本人そのものの容貌を持った曾孫もいれば、黒い
肌の子や金髪の子もいる。それでも一緒に遊んでいる彼らには、
肌の色や髪の毛の色を気にしている様子はまったくない。その
ような混血の果てに、峯夫たち日系一世の苦難の足跡はやがて
失われていってしまうのだろうか。

 ブラジルには「ジャポネース・ガランチード」という言葉が
ある。「日本人は保証付き」という意味である。約束はかなら
ず守る、借りた金は返す、会社でもきちんと役目を果たす。日
系人なら間違いはない。そういう絶大な信用をブラジル国内で
築き上げてきたのである。ブラジルほど日本人が尊敬されてい
る国は他にはないだろう。それも峯夫やカノのような一世たち
が、必死の思いでブラジルの大地に根を張ってきた、その姿勢
が二世、三世、四世と受け継がれているからであろう。

 混血の四世たちにも容貌は白人や黒人そのもので、日本語が
まったく話せなくとも、日本人の美点とされた勤勉さ、正直さ
を受け継いでいる人々がいる。

 ブラジルは豊富な資源と国土を持ち、物質的には21世紀の
大国になりうる条件を備えている。しかし、一国の政治経済が
健全に発展するためには、正直や勤勉といった精神的バックボ
ーンが不可欠である。そのためにも峯夫たち日系一世が残した
「ジャポネーズ・ガランチード」の精神は、ブラジル社会全体
にとっての貴重な財産となるだろう。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(016) 国際親善をそこなうマスコミ報道
 ブラジルの日系紙を怒らせた日本の報道陣
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog016.htm

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 高橋幸春『蒼氓の大地』★★★、講談社文庫、H6
http //www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061856235/japanontheg01-22%22

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■395号「民間人校長、『異界』に挑戦」について

toshioさんより
 「美しい環境」は、すべての根本なのだと改めて思います。

 企業においては、日本電産の永守社長のトイレ掃除が有名で
す。従業員に対して「整理、整頓、清掃をきっちりやってほし
い」ということによって企業の業績が回復しています。

 外国だと厳しい「神」による規律があるのでしょうが、本邦
では、最初から最高の形を身につける「型」による規律があり
ました、いや、あるのですね。

 仕付けとは、型によって、やり慣れることでありますから、
無意識での積み重ねが人の美しさを作りあげていくというわけ
であり、まさに身を美しくと書いて「躾」なのでしょう。

 戦後六十年ということは、二世代が経っているということで
す。生徒たちができていないのは、実は、先生もできていない
からです。躾や道徳の授業は、まず職員室から始めなければな
らない所以です。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 日本電産の永守社長については、近日中にテーマとして取り
上げたいと思います。

 読者からのご意見をお待ちします。以下の投稿欄または本誌
への返信として、お送り下さい。
 掲載分には、薄謝として本誌総集編を差し上げます。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_res.htm

============================================================
Mail: nihon@mvh.biglobe.ne.jp または本メールへの返信で
Japan on the Globe 国際派日本人養成講座
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
購読解除: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/quit_jog.htm
JOGのアップデイトに姉妹誌JOG Wing: http://come.to/jogwing
広告募集: http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jog/jog_pr.htm
============================================================

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > Ψ空耳の丘Ψ39掲示板



フォローアップ:


 

 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。