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Re:[基礎]ヤマトの王が天皇を名乗った理由[知識]
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/286.html
投稿者 かずや 日時 2005 年 4 月 16 日 14:11:53: JZNWUTEyM5co.

(回答先: ローマ法王葬儀 投稿者 はてな? 日時 2005 年 4 月 15 日 15:07:16)

ヤマトの王が天皇を名乗った理由
http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20050413A/index.htm

女性天皇論議や、皇太子殿下のご発言をめぐる報道など、最近何かと注目される「天皇制」。そこで、そもそも「天皇」とはいったいなんなのか、歴史をひも解きながら、月1回ペースで3回にわたって考えていきます。まずは、なぜ、天皇を名乗ったのか、です。

1ページ目 【天皇は皇帝である、としたら皇帝という名前の持つ意味って何だろう?】
2ページ目 【列島の外にまで勢力を及ぼした大和政権が直ちに天皇を名乗らなかったのは?】
3ページ目 【日本で始めて「スーパー・パワー」を打ち立て、「皇帝」になったのは誰か】

【天皇は皇帝である、としたら皇帝という名前の持つ意味って何だろう?】


「天皇」の意味とは?
「天皇」がどういう由来でできた言葉なのか、ハッキリとした根拠になる文献はなかなかありません。よくいわれるのは、道教(道家思想が発展して普及したもの)でいうところの最高神の1つ、「天皇大帝」から来ているのではないか、というものです。

しかし、異論も数々あり、中国から見て、「天に近いところ(日が昇る方向の東)」にいる「皇(すめら)」である、という意味で「天皇」である、という主張もあります。

しかし、いずれにせよ、天皇という称号は、「皇帝」の意味で使われる言葉だ、ということです。これは、戦前の日本の国号が「大日本帝国」であったことから明らかです。


皇帝とは何か?
皇帝とは、王の上に立つ存在であり、あるいは、ある文明地域全体を支配する絶対者のことです。

秦の国王であった政は、紀元前3世紀に中国を初めて統一、そこで王の称号をやめ、中国の伝説上の支配者である3人の「皇」と5人の「帝」の名を取り、「皇帝」と名乗ったといわれています。つまり、彼が「始皇帝」なのですね。

一方、紀元前1世紀の末、地中海世界を制圧したオクタヴィアヌスは、ローマの元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を授与され、「プリンケプス(第1の市民)」としてローマの国政を掌握します。これが、ローマ皇帝の始まりです。

ヨーロッパでは、ローマ帝国の滅亡後も、教皇(ローマ法王)が西ローマ皇帝の後継者として認めたものに、皇帝の位が贈られました。それが、8〜9世紀のカール大帝であり、10世紀に神聖ローマ帝国皇帝となったオットー1世であり(これが後のオーストリア皇帝の源流)、18世紀のナポレオンであったりしたわけです。

また、16世紀のモスクワ大公だったイワン四世は、自ら東ローマ帝国の後継と宣言、皇帝を意味する「ツァーリ」を名乗りました。また、19世紀後半、フランスに勝利しドイツの統一に成功したプロイセン王ヴィルヘルム1世は、ドイツ諸邦(ラント)の上に立つ絶対者として、皇帝を名乗ったのです。

また、イスラム世界の支配者スルタンも、イスラム文明の支配者であるという意味で、皇帝と呼んでいいでしょう。オスマン‐トルコのスルタンや、インドをほぼ統一したムガル帝国の首長も、皇帝と呼びます。


天皇は、現代の世界で唯一残る「皇帝」
ですから、天皇が皇帝である、というのは、天皇が日本文明の支配者であり、王の上に立つ、ということを意味しています。

現在、「王」は皇族しか名乗れません。すなわち、天皇の直系の子孫が名乗る「親王」「内親王」(男性は親王、女性は内親王)であり、傍系の子孫が名乗る「王」「女王」です。天皇は、この上に立つ存在として、皇帝であると言えます。

ちなみに現在の世界では、皇帝を意味する称号を名乗るのは、天皇しかいません。もっとも、だからといって今は日本は「帝国」を名乗りません。天皇は国の象徴であり、国家主権をもつのは国民だから、ということでしょう。

現在は、「帝国」というのは、別の意味で使われることが多いです。つまり、それは世界の覇権国を指す言葉です。そういう意味では、アメリカ合衆国は、今の世界で唯一の「帝国」であるということができます。


日本列島の支配者が「皇帝」なのはなぜ?
さて、そうはいっても、なぜ、日本のように、確かに文化的にユニークな場所柄とはいえ(確かに、ハンティントンは『文明の衝突』のなかで日本を中華文明とは異なる独立文明だとしていますが)、なぜそんなに広くない国土で、皇帝を意味する「天皇」を名乗る必要があったのでしょうか。

たとえば、「大英帝国」を築いたイギリスの支配者、ナポレオンらを除くフランスの支配者、海外に多数の植民地を持ったスペインの支配者などは、いずれも「王」であり、「皇帝」を名乗っていません。

(もっとも、ヴィクトリア女王はイギリスの「国王」ではあったものの、支配下においたインドにおいては「皇帝」を名乗ったりして、ややこしくなるのですが。)

ヨーロッパや世界の覇権を握った君主たちが、必ずしも皇帝を名乗っていないことを考えると、おそらく7世紀の終わりまでに、北海道を除く日本列島のほぼ全域を支配していたにすぎない天皇が、なぜ皇帝なのか、疑問が生まれます。

というわけで、次のページから、その謎を探るため、日本の古代史をひも解いていきたいと思います。


ヤマトの王が天皇を名乗った理由2

【列島の外にまで勢力を及ぼした大和政権が直ちに天皇を名乗らなかったのは?】


大和政権の成立と覇権の確立
日本では、紀元前後に、複数の集落を束ねる「クニ」ができ、これがいくつもにわかれていたようです。

やがて、クニをさらに束ねる強力な政権がいくつかできたようですが、定かなものは限られています。その1つが、いわゆる3世紀にあったとされる「邪馬台国」ですが、これがその後どうなったのか、説はいろいろありますが、よくわかりません。

ともかく、最終的に覇権を握ったのは、今の奈良県周辺を本拠地とした大和政権でした。この勢いはすさまじく、またたく間に各地の有力な豪族=キミを服属させ、列島を支配していきました。

その勢いは、古墳としては世界的規模を誇る大阪府の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)や同じく大阪府の誉田御廟山(ごんたごびょうやま)古墳(応神天皇陵)によりみることができます。これらは、大和政権のリーダー「大王(オオキミ)」の墓であるとされます。

そして、この大王こそが、後の天皇になるわけです。


朝鮮半島にまで進出する大和政権
この勢いは朝鮮半島にも及び、しばしば今の朝鮮半島北部〜中国東北部を支配していた高句麗(こうくり)とも争うようになります。

強大な勢力を誇った高句麗を破ることは容易なことではなかったようですが、これにより朝鮮半島経由で最新の大陸文化を導入することができたことは成果でした。

また、列島が鉄資源に乏しかったため、大和政権は朝鮮半島南部の伽耶(かや)諸国と密接な関係を結び、鉄資源の確保に努めたようです。

日本書紀では、伽耶諸国を任那(みまな)といい、あたかも大和政権が支配していたかのように記述していますが、それを裏付ける証拠は乏しいのが実情です。

そしてその勢いは中国にも轟きます。中国の歴史書に記述されている「倭の五王」は大王のことだといわれていて、そのなかの一人である武、これは大王雄略であるとされているのですが、彼が中国の宋王朝に使いをして、将軍の称号を授かったと『宋書』に記述されています。

しかし、ここに疑問が生じます。これほどの勢いをもった大王は、なぜ中国の皇帝からわざわざ将軍の位をもらう必要があったのか。それは、この当時の東アジアの情勢を見ると、さらに大きくなっていきます。


なぜ大王雄略は中国皇帝から将軍の位をもらったのか
すなわち、この時代、中国はながらく南北朝時代という分裂時代でした。しかも、北朝も南朝も、たびたび分裂・交代を繰り返し、政情は不安定でした。

ですから、この時代、むしろ周辺諸国は、中国の力から自由になった時代でもありました。

そして、朝鮮半島は、高句麗・新羅(しらぎ・しんら)・百済(くだら・ひゃくさい)そして日本と関係の深い伽耶諸国に分かれ、特に日本に脅威のある存在は、いませんでした。

いるとしたら、伽耶諸国を圧迫するおそれのあった高句麗ですが、実際には高句麗もそこまで力を及ぼすことはできませんでした。

そして大王雄略の武名は列島各地に轟き、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣にも、彼を指す「ワカタケル大王」の字が刻まれているほどです。これだけの勢威をふるった大王雄略が、将軍の称号を受け取る理由は何だったのでしょう。

ここからは私の仮説になりますが、おそらく大王家内部の事情が背景にあったのではないかと思われます。『日本書紀』によると、大王雄略は即位の際に反対勢力の大粛清を行っていたり、さらに彼の死後、後継者をめぐる争いが起こったりしています。

おそらく、大王家の内部でなんらかの争いがあり、それを制するため将軍の称号をもらいにいった……というのが、私の仮説です。地方の豪族や朝鮮半島をしずめるため、というのは、そのときの大和政権全体の力や、中国や周辺諸国のパワーの弱さを考えるに、ちょっと説得力がないと思われるのです。


東アジア情勢の激変が「天皇」を名乗るきっかけに
ともかくも、この時代までは、東アジアにスーパー・パワーは存在せず、したがって大和政権はその存在を脅かされることもなかったので、あえて皇帝を意味する天皇を名乗ることはなかったし、その発想もなかったと思われます。

しかし、東アジア情勢は6世紀末から7世紀にかけて激変していきます。そのため、大王は、ヤマトの国がはっきりとした独立国であることを、内外に示す必要がでてきたのです。

それが、中国の属国的な国号「倭」を否定して「日本」という国号を使用することであり、そして大王が皇帝を意味する「天皇」という称号を名乗ることだったのです。

次のページでは、大王が天皇を名乗るに至った経緯を、見ていきたいと思います。


ヤマトの王が天皇を名乗った理由3

日本で始めて「スーパー・パワー」を打ち立て、「皇帝」になったのは誰か】


大和政権と大王家を脅かす数々の要因が生まれた
天皇を名乗ったのはどの大王なのからか、説はさまざまあって定着していないのですが、ここはあくまで有力な説に基づいてお話していきます。

まず、日本と密接な関係にあった伽耶諸国が、新羅と百済によって6世紀後半までに支配下に置かれてしまいます。日本は改めて今度は百済と関係を深めますが、次第に新羅の勢力の方が強まっていきます。

ほどなくして中国は北朝の隋によって統一され、高句麗は隋の度重なる遠征により弱体化します(やがて唐によって滅ぼされる)。こうして、東アジアにスーパー・パワーが生まれ、大和政権は大きな岐路に立たされます。

しかし、大和政権内部では、それまで大王を支えてきた豪族たちが争い、その結果、蘇我馬子率いる蘇我氏の覇権が確立、蘇我馬子は時の大王祟峻の殺害を図り、実行させるなど、大きな権勢をふるい、大王家を脅かします。


王子厩戸(聖徳太子)の改革
これに対して、大王の力を強め、大王集権主義をうちたてて大和政権の力を周辺諸国のように強めようとしたのが、大王用明の子で、初の女性大王である大王推古の摂政となった王子厩戸、後に聖徳太子と呼ばれる人です。

彼は、冠位十二階の制や十七条の憲法制定などで大王の権威を高め、また、隋に遣随使を送り、大王が隋の皇帝と対等な地位にあることをアピールしようとします。

しかし、王子厩戸の改革は、志半ばで終わります。彼の政治的業績が前半生に集中しているところを見ると、蘇我馬子との対立に負けたか、仏教への信仰心の厚さから嫌気がさしたのか、とにかく後半生ではあまり政治的業績がないまま、彼は亡くなります。

もっとも、このころから、王子厩戸の意向が影響したのか、大王家周辺では、大王のことを、皇帝の意味をさす「すめらみこと」とよんでいたようです。


「大化の改新」と王子中大兄
さて、蘇我氏の権勢はさらに強まり、大王家は脅威を感じはじめます。そんななか、中国王朝は隋から唐にかわり、さらに発展していきます。

こうしたことを受けて、大王集権を実施するため、クーデターにより蘇我氏を滅ぼしたのが、唐から帰ってきた留学生などの情報などを熱心に聞いていたため、危機感を募らせていた、大王皇極の子、王子中大兄です。

中臣鎌足(藤原氏の祖)をパートナーとして、電撃石火のクーデターにより蘇我氏を滅ぼした王子中大兄は、後に「大化の改新」と呼ばれる大王集権的な改革を行っていきますが、急速な改革に対する反動も強く、彼は次第に反対勢力との争いに忙殺され、改革はなかなか進みません。

さらに、同盟国百済が新羅と唐によって滅ぼされると(半島の統一)、王子中大兄は唐・新羅連合軍に戦いを挑みます。しかし、これは大敗に終わり(白村江の戦い)、彼は国防の整備、そして近江(大津、琵琶湖のほとり)への遷都などでまた忙殺され、改革はうまく進みません。

その後、ようやく大王天智として即位した王子中大兄は、なんとか初の人民戸籍(庚午年籍)を作成するところまでこぎつけますが、結局、彼も志半ばで亡くなることになります。


列島に「スーパー・パワー」が出現=天皇の誕生
大王天智の死後、後継者をめぐって争いが起こります(壬申の乱)。これに勝利したのが、大王天智の実弟、王子大海人でした。

彼はいったん吉野(奈良県)に逃れた後、豪族勢力を一気に終結させ、電撃的に近江政権の後継者とされた王子大友を討ち、政権を奪取します。

そして大和(飛鳥)に都を戻した王子大海人は、大王天武として即位します。ここに、全国の豪族勢力を一気に束ねたスーパーパワーが、日本にも誕生したのでした。もう、大王が絶対的支配者=皇帝を名乗ることに、なんの障害もありませんでした。

実際、このころから、大王天武を「神」と表現する和歌なども見受けられるようになります。電撃的に政権を奪取した大王天武が、どれだけ尊敬と畏怖の対象であったかが見て取れます。

そして、彼の死後、即位した皇后鵜野=持統天皇は、大宝律令の前身となる「飛鳥浄御原令」を施行し、正式にすめらみこと=「天皇」を名乗ることになります。

こうして、大和政権は皇帝である「天皇」が治める「日本」国の朝廷となり、中国や朝鮮半島の統一勢力と対等な地位であることと、日本国の絶対的支配者であることを、国の内外に示すことができたのでした。

そしてそれは、持統天皇の孫にあたる文武天皇の時代に制定された日本国の基本法である「大宝律令」により、決定付けられることになります。

さて、次回は、この天皇家が、日本の「皇帝」として、どうして明治維新までその地位を保つことができたのかをお話したいと思います。

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