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世界とは、愛の子供のようなもの
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投稿者 無始無終 日時 2005 年 7 月 23 日 13:24:52: YmWbcR44xo8mE

(回答先: 愛は統合するものではなく、統合そのもの 投稿者 無始無終 日時 2005 年 7 月 20 日 22:34:00)

愛を知るには、愛でないものを知ることが必要になるのでしょう。つまり愛しかないのであれば、それは愛とは呼べません。すべてが無であるのなら、それは無とは呼べないように。
世界とは愛(統合)を知るために意識の中で創りあげられたものだと私は考えております。

この世界に存在する生命が、全て一つのものである(統合)とするのなら、一つを知るためには分離した状態を知る必要があります。
しかし全てが統合(愛)であるとするなら、愛を知るために、統合されたものの中に分離(非愛)を見出すという矛盾を創りあげる必要性が出てきます。そこで意識の中に仮想現実を創り上げ、そこに仮想自己(マインド)である分離した個人(自我)を設定させたのでしょう。
それは、自分の右手と左手が真剣に喧嘩をする様なものです。
自己を右手に置くのか、左手に置くのか、自己を仮想的にどこに置くかということで、分離は経験されます。
つまりこの世界においては、自己をどこに同一化させるのかといったことで分離は経験できるということになります。マインドなのか、感情なのか、感覚なのか、記憶なのか、脳なのか、肉体なのか、所有物も含むのか・・・。
つまり自己を「あれだ、これだ」と指せた時点で、自己同一化は成功し、それは偽りの自己が完成するということであり、分離を経験することができるということになるのでしょう。


この世界は愛そのものであり、愛の子供のようなものではありますが、この世界における分離したマインド(自我)が行動し、知覚されることは、すべて非愛(分離)を経験することになるのだと思います。
しかしそれはこの世界に生まれ死んでいく個人としての存在にとっては自然なことであるとも思っております。
愛が統合であるのなら、愛から生まれた生命は、この分離した世界で常に統合を試みます。しかし統合しようとする試みは、結果的に統合されていないという現実感しか生み出さないのではないでしょうか。またこの世界が統合できるのであれば、世界自体は無くなってしまうことにもなるのでしょう。つまりこの世界においては、非愛(分離・恐れ・不安・嫉み)が無くなることはありえないということになります。

しかし世界を越えた自己から観たその世界観は、自分の中で起こるただの戯れにしかほかなりません。
自己を「あれでもない・これでもない」と否定することによって、自己を知り、自己が世界を越えていくと、世界は自己そのものであったと気づくことができると私は思っております。
その時、愛を与えなくても愛そのものであり、救わなくても救われている世界をそこに観ることができると考えております。
少なくとも私は自分の世界をそう観ております。

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