★阿修羅♪ 現在地 HOME > 掲示板 > 日本の事件16 > 154.html
 ★阿修羅♪
次へ 前へ
日本の病弊――データなき対応(かわもと文庫世相百断 第67話)
http://www.asyura2.com/0502/nihon16/msg/154.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 1 月 22 日 00:44:33:0iYhrg5rK5QpI

【世相百断 第67話】日本の病弊――データなき対応

http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/sesou67.html

野田正彰の『共感する力』(みすず書房)を読んだ。新聞・雑誌に書いてきた、四百字詰原稿用紙にして4、5枚の短い評論集であるが、人間、文化・文明、社会、宗教、民族、政治、歴史、教育、精神、犯罪、医療等々、専門分野の精神医学にとどまらないこの著者の幅広い関心と行動を反映した多彩なテーマが、目線の低い視点からの鋭い分析と辛口の表現でつづられていて、刺激に満ちた評論集だった。

 なかでも事件・犯罪の背景を考える一遍「止まらぬ少年凶悪犯罪」には考えさせられた。続発する少年の凶悪犯罪を取り上げ、「気分社会のなかで、重要な問題が〈そんな気がする〉として処理されていく」ことの危うさを警告している。

 たとえば特異な凶悪犯罪が起きると、マスコミは警察からのリークによる特ダネ競走に狂奔し、その結果、虚実入り乱れた報道が洪水のようにどっと世間に流れ出る。これは警察側の報道操作を可能にし、こうした狂奔状態のなかで何が虚で何が実であるかの検証も行なわれないまま、事実と似て非なるイメージが膨張していく。そしてさらにはそうした事件報道が生み出した怪物のようなイメージに立脚した解説や"識者"の論評がつづき、対応策がとられていく。

「こうしてこんな凶悪事件があったという記憶と、誤った解説がセットになって、人々の間に蓄積されていく。これらの蓄積情報は〈予断の澱〉とも言うべきものであり、事実に立脚しない予断の発生源となっている」と、野田は読者・視聴者の興味に情緒的に訴える報道の洪水とそれによって引き起こされた社会の狂騒状態が、社会的な予断と偏見を再生産していくことの危険を警告する。

 もちろんこうした現象は少年の凶悪事件にかぎったことではない。

 古くは、戦前の翼賛体制による権力の報道統制の徹底で、新聞・雑誌に氾濫した「八紘一宇」「暴士膺懲」「北支は日本の生命線」といったプロパガンダにおどらされて、国民もまた熱狂的に侵略戦争に突入していき、大本営発表に狂喜したあの十五年戦争。最近では、北朝鮮のミサイルや特殊船による領海侵犯を今にも日本が武力侵略されかねない不安にまで膨張させたマスコミ報道の洪水と、それを裏で巧みに操り利用した政権党による強引な有事法制の成立。

 現在の日本にはかなりの程度の思想や表現の自由があるとわれわれは無邪気に考えているが、じつは情報を握るものと、それを読者・視聴者に報道するマスメディアの意図的、あるいは無意識的な行動によって、情報操作されている意識すらもたずにわれわれが情報操作されている面がかなり大きい。

 こうした事実に基づかない情報の情緒的な伝達は、国民の情緒的な反応を呼び起こし、国民を熱狂させ、とんでもない方向に疾走させて取り返しのつかない結末を生み出しやすい。普通の市民とオウム真理教の信者は、遠く離れた地平に生きている別種の人間ではない。

 こうした情緒的な反応にもとづく狂騒状態による社会・個人の悲劇を防ぐためには、まずなによりも事実に基づいた出来事の検証が必要であるが、少年犯罪について野田は、

「上記の反省に立って、過去の少年犯罪を振り返ると、私たちは確かな討論のためのレポートを持っているといえるだろうか。何が事実で、何が虚報だったのか、批判的に検討してきただろうか」と懐疑的な問題提起をしている。

 野田がいう「確かな討論のためのレポート」とは、何が事実で何が虚報であるかを見抜くための基礎資料で、これは調査対象に含まれる"事実"のみを抽出し、さまざまな視点でデータ化し、データを通して対照を俯瞰できるように再構築したものだといえる。"事実の抽出"や"データの再構築"といった作業にももちろん作業者の主観は反映されるが、すくなくともこうした基礎資料を持てて初めて、客観的な分析と冷静で合理的な議論や対応が可能になる。

 日本人は論理下手で、自分の思うところをきちんと論理に組立てて主張することが苦手だといわれる。9・11事件以後のアメリカ人の反応などを見ていると、大きな事件が起きたときに対象を冷静に見るよりも、まず情緒で反応してしまうのは人間共通の、というよりもむしろ動物としての本性なのかなと思ってしまう。

 ただし日本人が特に論理的思考が不得手であることは否定しようもない事実で、これは『異見を述べる勇気を』でも書いたように、多分、日本人が長いあいだ同質社会を形成し、異を唱えたり、自己主張したりすることを忌むべき行為とした価値観を刷り込まれてきた結果だろう。われわれは主張よりも、同調を、社会を形成するためにより価値の高いものとして信奉してきた。

 単純な社会や小さな群なら、こういう価値観で快い社会を形成することができた。だがいまや社会は複雑化し、さまざまな分野で価値観が根本的に異なる異国・異民族の人々と広範に交わらねばならなくなってきた。同質社会で重んじられた価値観ではもう対応できなくなっている。自分の主張を論理的に述べる力を磨かないことには、社会や組織を合理的に運営していかれないばかりか、小さくなっていくばかりの地球で自分の考えるところを多様な価値観や文化をもった人々に正しく受け止めてもらうこともできない。

 しかし長い歴史と文化の中で身についた無意識的な価値観は、衣服を着替えるようにそう簡単には転換できない。その結果、野田が凶悪化する少年犯罪について象徴的に述べているように、少年事件の残酷さが質的転換をしつつあるなかで、「何が問題なのか、個々の事件を犯罪精神医学の視点から調査した基本資料はない。ただ気分として、少年事件に厳罰が必要(自民党案)とか、保護主義の少年法は十分に機能している(弁護士会)といった意見が飛びかっているだけである。予断の澱の上に作られたこれらの意見のかたわらで、凶悪少年犯罪はつづいている」

 つまりデータに基づいた論理構築と議論ができる風土を作らないかぎり、重要な事象の抜本的な対応策はとれないし、それはとりもなおさずあるべき社会への変革も進まないということだ。しかしデータなき対応はさまざまな分野であいかわらず蔓延し、日本の病弊はいっこうにあらたまらない。

 例えば企業経営。ほんの短い期間であったが事業計画や経営管理にかかわる仕事をしたことがあるのでよけい痛感するのだが、日本にはどうしてこうもだらしない大企業が多いのだろうか。バブル期に採算がとれるかどうかの合理的な検討もせずに不動産や新規事業に横並びでこぞって投資し、揚句に莫大な借入金を固定させ、評価額の大幅な下落と採算悪化、キャッシュフローの悪化を招いて事業が立ち行かなくなると、兆円、千億円単位の借金を棒引きしてほしいと金融機関に泣きついて、責任の所在もはっきりさせない。こんな破廉恥としかいいようのない大企業経営者をわれわれはいやというほど見てきた。

 だらしない大企業の陰には、話題にもならず報道もされないだらしない中小企業も数限りなく存在しているのだろう。

 どうしてこんなことになってしまうのだろう。

 企業経営は科学だと私は信じているのだが、こうした破綻企業はデータに基づいた事業や市場の分析も、意思決定もしていないことに根本的な原因があるのだろう。データに基づいた分析や意思決定をしていないから、失敗しても検証ができず、したがって失敗の再発防止策も打てない。企業経営にリスクはつきものだが、高い月謝を払ってもほとんど何も学ばず、またすこし違った形で失敗を繰り返すから、リスクは大きくなることはあっても減少しない。

 のみならず、検証ができないから、原因だけでなく組織内での責任の所在も明確にならず、こうした勘ピュータによって経営をしている企業トップは正面切って責任も問われず、企業は無責任組織に堕落していく。こうした企業経営者のモラルハザードのなかで、借入金は焦げつき、社員の給料は切り下げられ、安易な人員整理が行なわれていく。これでは社員や投資家、取引先はたまらない。たまらないけど、データなき対応という日本の病んだ風土のなかで、こうした現象はやむをえないことと許され、やむをえないことはいっこうになくならない。上に立つものにとっては非常に安楽な世界がつづくことになる。

 こうしただらしない企業経営が、われわれの社会の活力を殺ぐ一大要因になっている。

 このところさまざまな機会に考えることの多い日本の山岳地域の環境保全の問題についても同じことは指摘できる。

 日本の山岳地域の自然環境が目を覆うほどに荒廃し、抜本的な対応策の実施が待ったなしの状態であることは、環境省をはじめとする行政や管理機関、心ある利用者の共通認識だろう。それぞれのエリアで、管理機関をはじめとする関係者は精いっぱい努力をして、環境の保全・回復を図ろうとしている。だが有効な対策のもとに環境の保全・回復が着実になされているかといえば、首を傾げざるをえない例があまりにも多い。

 山歩きを始めて25年ほどになり、これまでも自然環境に過度に負担をかけない歩き方を心がけてきたつもりだが、正直なところ私がこの問題を真剣に考えるようになったのは、数年前から犬を連れて山歩きを始め、それを非難されたことによる。非難されてよくよく調べてみると、登山口に犬禁看板が立ち、犬を連れて山に入れないエリアがたくさんあることもわかってきた。

 ライチョウなどの希少生物の生息地や、高山帯のお花畑などに私は犬を連れて行きたいとは思わないし、それがいいことだとも思わない。しかしそうした極端に負荷に弱いエリアだけでなく、多くの登山者が列をつくるように利用しているごく普通の山域でも、犬の同伴を制限している場合が多い。

 納得できる禁止なら、気持よく従いたい。しかしいくら考えても、禁止の理由がよくわからない。

 問答無用に「禁止」の文言しか書かれていない看板が多いのだが、もちろん問い合わせれば管理者はそれらしい理由を挙げてくる。曰く、犬は山岳地域に雑草の種を運ぶ。犬は野生動物の脅威になる。犬の糞が野生動物に病気を感染させる可能性がある。

 で、管理者が述べ立てるこうした理由が納得できるものなら、私も気持よく従いたいと思って調べてみると、ほとんどが彼らの"懸念"や"おそれ"であって、行動制限を受ける側を納得させるだけの根拠をもっていない。

 こうして犬連れ山歩きをとおして山岳地域の観光開発や環境保全の問題を考えてきて痛感するのは、この分野でもやはりデータなき対応がなされていることだ。

 百歩譲って、仮に犬連れ登山が山岳地域の環境荒廃の大きな要因と疑われるとして、では、それを検証できるデータがあるのかというと、これが皆無に等しい。それぞれの山岳地域のそれぞれのコースを、どのくらいの犬連れの登山者が利用しているのかという基礎データすら、地域管理者はもっていない。

 例えばある山岳の高山帯に、本来そこに存在しなかった移入植物が増えはじめたとしても、その植物がいつから、どういう経路で、どのように増えていったかという経年データなどほとんど持ち合わせていない。だからその移入植物の侵入が人間によるものか犬によるものか、またはその他の原因なのか、まるでわからない。わからないままに、雑草の種は犬が持ち込むという思い込みだけが広がって、安易なイヌキンが行なわれていく。

 野生動物に対する犬の害にしても然りで、一定エリアの野生動物の種類や生息状況がどのように変化したか、そのエリアの野生動物にどんな病変がどの程度発生しているかといったデータをもっている管理機関も少ないだろう。

 こうした基礎データの収集は非常に困難だと管理者側はいう。しかし現状の問題点をデータで把握する努力を初めから放棄しているような状態だから、犬は自然環境に有害だという偏見と誤解の上に、つまりははなはだ情緒的な思い込みに基づいて、恣意的としか理解できない禁止が平然と行なわれ、それを指摘してもいっこうに改める気配もない。こういう管理者には、思い込みで広範な不特定多数の国民の山岳地域を楽しむ権利を不当に制限しているという自覚もない。

 この問題を考えてきてよくわかったのは、犬連れ登山を禁止するエリアはまず間違いなく、過剰な開発や過剰な利用によって自然の自己回復力を超えた負荷による環境の荒廃が進んでいる、いわゆる過剰利用(オーバーユース)地域だということだ。はっきりいうと、登山者や観光客がどっと押し寄せると、犬禁看板が立つようになる。イヌキンをすれば、地域管理者はその地域の環境保全になにがしかの対策を講じたような気持になるようだ。

 だがこうした過剰開発や過剰利用による山岳地域の環境荒廃のこれ以上の進行を防ぎ、環境の保全とのバランスをとって適切な利用を進めていくには、困難であっても基礎データの収集は不可欠だ。犬連れ登山者だけでなく、すべての利用者に関する基礎データを収集しないことには、客観的な事態の分析と効果的な対応策は進められない。

 雑草の種は犬だけではなく、登山靴やザックや衣服につけて人間も高山帯に運ぶ。野生動物の生息域に一定限度を超えた人間が立ち入れば、そこに生きる動物になにがしかの影響を及ぼすのは必定だろう。犬の声だけでなく、人間の声も、臭いも、無用なラジオのつけっぱなしも、ごみの放置も、野生動物にとっては脅威になり、脆弱な生態系に深刻な影響を与える。

 犬の糞の不始末が問題になり、これも山の環境に対する意識とマナーの向上できちんと飼主が始末するように徹底していかねばならないが、心ある飼主は犬の糞をきちんと持ち帰っているが、大半の登山者は自分の排泄物を持ち帰ることなどしないだろう。

 近年犬連れ登山者が増えてきたとはいえ、一般登山者の絶対数に比べれば比較にならない数である。山岳地域の環境に与える負荷を減じようとすれば、人間がどのような行動でどう環境に影響を与えているかが理解できるデータの収集こそがまず必要なはずだ。それがないことには、環境のこれ以上の荒廃を食い止めるもっとも効果的な対策である、利用者の総量規制の検討すらできない。

 ある登山ルートの利用者は、一般登山者がどれだけの数で、犬連れ登山者はどれだけなのか。その比率がわかれば、どのような登山行為がそのエリアの自然環境にどのような影響を及ぼすかの分析もある程度できるようになり、より有効な対応策を検討することもできるようになる。利用者がどのような目的でどのような行動をとっているかが把握できれば、問題の所在の分析も対応策の有効度もさらに上がる。

 こうした基礎データの収集はたしかに非常に困難だが、困難であることを免罪符にして管理者が着手をサボタージュしている面も否定できない。本気で山岳地域の環境保全をやろうと思うなら、できるエリアのできる範囲内でもいいから、まずは基礎データの収集蓄積に着手すべきである。自分たちだけでやろうとするから困難だと尻込みするが、利用者を巻き込んで持続的に行なえば、データはだんだん集積されてくる。

 例えば登山計画書の提出に準じて、利用者にアンケートを書いてもらい、登山口に置いてきてもらう。このアンケートの意義と、協力が必要なことを利用者に広報すれば、かなりの利用者が協力してくれるはずだ。ボランティアを募って、毎年一定時期に一定エリアの定点観測を行なうことも考えられる。これらのデータを蓄積できれば、環境の変化に関する経年データが得られる。

 もちろん、犬連れ登山者を敵視して、排除することだけにエネルギーを使っている現在の愚かな犬連れ登山者対策も根本的に転換して、協働関係を構築してこうしたデータの収集や対応策を講じていくことも必要である。なぜなら、社会が人間と犬との共生に向けてどんどん変化していることに背を向けるような、犬に関する時代遅れの価値観と、偏見・誤解に基づく犬害悪論に染まった彼らの犬に対する姿勢では、愛犬家に対する納得性の高い対策も、もちろん効果的な環境保全策などもとてもできないのだから。

 おそらく社会のさまざまな現象に、データなき対応という日本の病弊が蔓延している。ひとつひとつの現象への取組みをとおして、当事者である一人一人がデータに基づく論理的な思考と対応能力を磨いていくことなしに、この根深い病弊を矯正していくことはできないだろう。

(2004年12月24日)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

かわもと文庫の現在進行中のオンライン作品推理小説「雨の村」は更新されています。


ついでに、「鳥獣戯画」より1節。

(ご隠居)
「これまでになかった性格の人。昔の人で言えば人柄は織田信長のようだ。破壊と創造という過程を考え、そう実行している人と理解している」

奥田碩・日本経団連会長、11日の記者会見で小泉首相の性格と政治手法について述べる。
       (1/11 朝日新聞)

(八)そのうち本能寺の変があるって言いてえのかな。

 次へ  前へ

日本の事件16掲示板へ



フォローアップ:


 

 

 

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。