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”人選”などについて
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投稿者 外野 日時 2005 年 3 月 20 日 16:32:00: XZP4hFjFHTtWY

(回答先: 法律は条文がすべてです 投稿者 外野 日時 2005 年 3 月 20 日 14:00:11)


『人間を幸福にしない、日本というシステム』(カレル・ヴァン・ウォルフレン著)でウォルフレン氏は、「権力が偽りの現実によって栄え、嘘と幻想によって維持されている」と言っています。
たとえば、審議会なるものは、日本の統治システムをより民主的にする制度だとという偽装が施されている。国民の代表によって構成されているとされるが、内実は官僚に従える召使によって構成されており、その召使たちは審議会を設置した官僚の意向に沿って結論を出さなければならないことをよく心得ている。その官僚の意向──審議結果は関係省庁によって事前に用意されている。ただし、ごくわずかな変更の余地は残され、審議会のメンバーが手繰り人形に見えるのを防いでいる。そう彼は指摘しています。
科学者として原子力の現場で働いたのち、市民の側から原発の問題にたずさわり「市民科学者」といわれた高木氏もまったく同じことを述べています。
(新聞・テレビなどのマスメディアも、「偽りの現実」を市民にうえつけるのに手を貸しているとウォルフレン氏は言います。これもまったくその通りです。)


以下は参考まで。
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 『原発事故はなぜくりかえすのか』高木仁三郎著(2000年刊)より
 
 私は日本の原子力の事故調査をいくつか見てきましたが、完全な意味での事故の究明、これしかないという形での事故の調査結果が明らかにされた例はほとんどなくて、だいたいこんなことだろうというようなシナリオで済んでしまっています。それも、こういう結果が生じたのだからこういうことが起こったに違いないというような、非常に現象論的な解釈で済んでいます。これは徹底究明のなさ、自己検証のなさを如実にあらわしています。これでは、同種の事故をくりかえさないということの保障が十分に得られません。また、その事故から学ぶことによって、技術が進歩するということもありません。事故から学ぶことができれば、それを教訓として技術的な改良を加えて、今度はもっと有効な、たとえば再処理ができるのではないかというような進歩もあり得るのですが、そういう進歩がないのです。

 委員会への誘われ方

 よく「日本の事故調査は第三者機関によって行われない」ということが言われます。それはやはり自己検証を忌避する態度にかかわっていると思います。私にもいろいろな経験があります。
 事故調査委員会の委員になってくれと頼まれたことはありませんが、放射性廃棄物問題や高速増殖炉の今後の計画を検討する懇談会など、審議会的なものの委員への要請は二度ほどありました。
 科学技術庁の役人が私のところに依頼に来るわけですが、私の場合には露骨に、事故調査では高木さんにA委員会に入ってもらうことは難しいなどと言うのです。つまり、徹底して事故の是非を争わなくてはならなくなって、専門的にかなり突っ込んだ議論をやらなくてはならない。そうなってくると高木さんのような人がいると結論がどこに落ちつくかわからないから、政府としてはあなたを委員に選ぶことはできない。だから、A委員会には入ってもらうわけにはいかない、などとはっきり言うのです。
 A委員会ではなくて、もう少し漠然とした、あまり技術的ではない場で政府の計画を審議するようなB審議会くらいだと、委員としてぜひ入ってほしいと言われました。そして、もしも全体意見に満足しなければ、少数意見として自分の意見を述べて立場を留保してもよい、などと言われたりもしました。しかも、A委員会では高木さんではなくて、もう少し立場の甘い別の人を推薦してもらえないだろうかというようなことを、政府は露骨に私に言ってくるのです。B審議会は、その性格からして入ってもらっても構わないから入ってもらう、そういう言い方なのです。私は結局、A委員会にもB審議会にも入りませんでしたが、そういうような言い方をしてくるのです。
 日本の原子力の安全を、私は本当に心配しています。きれいごとで済ませていては、これを徹底してよくすることにはならないと思いますので、内輪のいきさつをお話ししたわけです。
 こう言われて腹が立ったからといって、感情的にすべてを拒否するだけではなく、必要に応じては政府の委員会に入っていって、少数派の意見をきちんと述べたほうが、社会全体にとってはプラスになります。全体の公益性がそれによって高まると判断できれば、政府の委員会に入ることもあるでしょう。私は全体としての公益性というのが一番大切だと思っています。それにしても、政府のこの言い方は非常におかしいと言わねばなりません。

 結論を内包した委員会

 こうしてみると、政府の各種の委員会というのは、すでに最初から結論の大枠の方向が予定されていて、委員の構成もそれにそって決定されていると考えられます。委員会が三ヵ月間開かれようと、一〇ヵ月間、あるいは一年間開かれようと、すでに委員会ができた段階において、およその結論の方向づけが内包されてしまっているのです。
 原子力の場合には、この種の人選は、原子力委員会や原子力安全委員会、科学技術庁や通産省の役人がやっているのでしょう。人選の結果が新聞に発表されると、推進派ばかりだとか、同種の人たちばかりが含まれているではないか、ということがよく言われます。それは、一般的に政府の好みの人たちだという以上に、私が内うちにやり取りした際の感触からすると、最初からかなり緻密にある種の結論を内包するような作業をやって、それから人事を決めているという感じがあります。
 くりかえしになりますが、こういうことも自己検証がなされないということに通じると思います。結局、他者による検証を受けないで自己採点をやっている限りは、徹底した検証をせずに済むので、第三者的な客観的な評価を最初から避けることになるのです。公的な委員会の公の立場というのは、政府が決めています。前章でも述べましたが、一人ひとりの個人が公の立場を持っていて、それのぶつかり合いで最終的に公共的なものが決まってくるというよりは、最初から政府が公共的な立場なるものを持っていて、その枠の中で都合のよい結論が出るように人材を配置するというのが政府のポリシーになっているように思えます。

 アカウンタビリティー

 これと密接に関係してくるのは、昨今よく言わているアカウンタビリティーという言葉です。近頃は政府も積極的にアカウンタビリティーという言葉を使います。だいたい日本の法律では横文字の言葉は通用しないことになっていますから、政府も以前はあまり使いたがらなかったのですが、日本にはアカウンタビリティーに対応するうまい言葉がないらしいので、政府も最近はアカウンタビリティーという言葉を盛んに使うようになりました。
 いま、政府の政策の透明性ということが問題になっています。原子力問題だけでなく、たとえば薬害エイズの問題であるとか、長良川の河口堰建設の問題など、いろいろな問題で、はたしてその計画に合理性があるのか、費用対効果の関係においてメリットがあるのか、住民の意見は反映されているかなどが厳しく問われ、政府はおのれの行った計画について透明性やアカウンタビリティーを持たなくてはならないということが盛んに言われるようになりました。多分これはアメリカあたりから国際的な交渉の中で言われるようになったために出てきた言葉でしょう。
 原子力の分野でも、『原子力白書』にアカウンタビリティーという言葉が登場するようになりました。アカウンタビリティーというのは、政府はふつう「説明責任」と訳すようですが、原子力の場合にはご丁寧にもただの説明責任ではなくて、「分かりやすく説明をする責任」というような訳し方がなされました。
 しかしこんなふうに言われると、私にはこれは違うという気がするのです。ふつう、わかりやすい言葉というと、どういうことを連想するでしょうか。原子力には難しい専門用語が多く、たとえば「もんじゅ」の温度計のさや管の取り付け部分の曲率半径とか、あるいは放射性廃棄物の地層処分に関連してガラス個化体とか、さらにもっと専門的になってくると地下における水の流れの動水勾配などという専門用語があり、それらは我われ一般人が見ることのできるようなレポートにも出てきます。そうすると必ずレポートのうしろのほうに比較的わかりやすい言葉でその専門用語の説明がついているのですが、必ずしも正確な説明ではなく半分宣伝のような説明も多いのです。たとえば核燃料リサイクルという言葉については、一回使った核燃料を処理して燃える成分を取り出し、もう一回燃やして燃料をリサイクルすることである、というような説明がついています。この説明だと、いかにもリサイクルして得をするような気がします。けれども、核燃料リサイクルの場合は、実際にはリサイクルされるのは燃料のうちの一%以下にすぎませんし、その過程でまた新たな核のゴミ(放射性廃棄物)が出ますから、実際にはリサイクルになっていないのです。「わかりやすい説明」などといっても、実は少しも説明になっていないわけです。
 アカウンタビリティーというのは、むしろレスポンシビリティー、責任という言葉に近い語感を持った言葉です。ですから、説明ということに力点があるのではなく、責任ということに力点があります。
 責任というのはどういうことかというと、たとえば何か政府の計画があった場合に、それがどういう意味を持っていて、国民の税金にどの程度値しているか、そこからどういうネガティブな影響が出るかというようなことについても、詳く検討をして、国民に明らかにする、そういう説明の責任を指しているわけです。
 別の面から考えると、アカウントという言葉には会計という意味があります。ですから、アカウンタブルというのは、お金の使い道がはっきりしているということになります。たとえばタックスベイヤー、すなわち税金を払っている人に対して、税金の使い道を具体的に示し、金を使ったメリットが国民にこれだけ反映されて返ってきますというように、わかりやすく説明する。わかりやすくという意味は、この場合には言葉をやさしくするという意味ではなくて、筋道がはっきりつくような形で説明する。これがアカウンタビリティーだと思います。
 そもそもアカウンタビリティーは、いつも自分のやっていることが公的に説明できるというようなプロセスを踏んでいない限りは、成り立ちようがないでしょう。委員会をつくる場合に、こういう人選なら政府に都合の悪い結論は出ないだろうというようなことを、密室であらかじめ打ち合わせ、そこから人が選ばれて、委員会が構成される。こういうプロセスはきちんと説明しようとしても説明できない。だから、アカウンタブルではあり得ません。そもそもアカウンタブルでないことをやっているのですから、アカウンタビリティーなどと言っても、「わかりやすく説明をする責任」というように逃げてしまって、理科の先生が理科の授業をするのにわかりやすい言葉を使って生徒に説明する、そういう責任が政府のお役人にもあるんですというような言い方をする。これは私には国民を愚弄する言葉だとしか思えません。本来の意味でのアカウンタビリティーが、日本の政府にはまったく欠如しているのです。こういうことがやはり事故を生む体質につながってくるのではないかと思います。
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 『ドイツの森番たち』広瀬隆著(1994年刊)より

 これら審議会は、大衆の代表者には、門戸がとざされている。税金浪費のシンボルである審議会や評議会に参加するこの権威集団は、官僚が間違った政策を提示しても、それを変更するようなまともな議論など、一度でもしたことがない。
あらかじめ官僚が、[ある性格]を持った学識経験者と文化人を選んでくるからである。これは、論理的に絶対に間違いが出ない手順である。もし人選を間違えて、筆者のような人間がそこに座れば、会議は大混乱になる。
 つかみあいとなって、テーブルが倒れ、灰皿がとんで、収拾がつかなくなったという話は、日本の審議会で聞いたことはない。たとえ何万人、何百万人の生命が危機にさらされようと、結論が変わらないように、結論を変えない穏やかな人間を集めたものが、審議会と評議会だ。穏やかとはいっても、学識経験者や文化人の側にも、はっきりした腹黒い利権の目的があり、官僚とは阿吽の呼吸によって、互いにそこで意志の疎通をはかる。裏金が動く。
 審議会だけではない。前述の公害等調整委員会は、一体何の仕事をしているのか分からないが、数年前の数字でも委員が年収千五百万円、委員長が千六百万円ほどである。国家公安委員会で国民を監視する委員に就任すれば、やはり同じぐらいの俸給がもらえるのだ。
さらにまた、その審議会と評議会の実働機関として、法律上、大きな権利能力を与えられた財団法人というものが無数に組織され、私たちの知らないところで活動が行われてきた。
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 『無謀な挑戦』藤原肇著(1984年刊)より

 敗戦後になって戦禍のなかから立ち上がった日本は軍事膨張に代えて経済膨張を国策の基本にしたというのに、国際舞台において経済政策を推進する上での機構が三権分立の形をとって、バランスをチェックし合う状態で存在していない。頭脳集団として戦略を担当する軍令部に当たるものはないし、教育は行方不明のまま、すべてが政務主導の縦型のヒエラルキーになっている。
 最近では、マスコミの世界までが官界の住人の草刈り場で、元役人の小説家、評論家、ニュース解説者として登場している。これは戦前のファシズム時代の再来を思わせるものがあり、日本中が言論報国会や産業報国会に似た翼賛色に塗りこめられようとしているのだ。
 このような役人天国が現在の日本に出現した最大の理由は、日本人の精神を根強く支配している官尊民卑の思想と、長いものには巻かれろという隷属的な蓄群の伝統のせいである。それとともに、役人の無責任体制を監視し追及するシステムが、巨大化した日本の官僚機構に比べてあまりにも微弱なせいである。だから、自民党の総裁が自動的に日本の最高指導者の椅子を手に入れる習慣の恐ろしさがここにある。
 中曽根内閣の誕生は、旧警察官僚が決め手になる役職を独占し、裁判所の権威への挑戦をくわだて、行政を背後から操る闇将軍の田中角栄は、中曽根傀儡内閣を公判対策に作りあげたともいわれる。
 それでなくても、戦後の日本が主権在民を基礎に再出発したときに、司法、立法、行政の三権分立を採用して、民主国家であることを誓ったのに、その後は、なし崩しに行政優位の政治慣行が定着し、議会と裁判所の形骸化が危惧されているのである。
 経済危機は一国の産業界や国民にとって大きな不幸をもたらすが、単なる経済破綻が直接亡国に結びつくことは稀である。それは国民の忍耐力と士気にかかわっていて、たとえ、困難がどれほど大きくても、指導力とリスポンスの関係で、再び経済復興が可能だからだ。だが、そこに政治と結びついた腐敗が加わると悲惨であり、社会における基本的な信頼関係が崩れてしまう。しかも、愚民政策による独裁体制化に対しての批判が高まることへの予防措置の意味もあって、一九八二年十月の商法改正を通じて、言論界には大きな鉄の口輪がはめられてしまった。
 こういった日本におけるソフトなファッショ化が進展している状況に比べると、カナダはそこまで全体主義が国政の中枢を犯しておらず、せいぜい上院議員が、首相の任命で権力者の第五列と化する程度で、言論界にも自由の空気が漂っている。だから、カナダ全土が不況に支配され、経済界が苦境にあえいでいても、カナダ人たちの気持ちはそれほど暗くない。その辺にカナダ人独特の善良さと持てる者のおおらかさがある。
 一九八二年一二月の段階で、いろいろな人たちに取材してみたが、人びとは、いまだ希望を棄ててはいなかった。
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