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あの戦争は何だったのか 共存から共生へ (2)    杉浦正健
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 1 月 28 日 16:16:39:ogcGl0q1DMbpk

(回答先: あの戦争は何だったのか (1)    杉浦正健 投稿者 愚民党 日時 2005 年 1 月 28 日 15:57:08)

あの戦争は何だったのか (2)    杉浦正健

七.お上から与えられた明治憲法

 尊皇攘夷から討幕、そして開国から大政奉還――王政復古の大号令へといった幕末から明治維新へ向けての歴史の大きなうねりの中から、明治二十二年、明治憲法が誕生した。明治維新を遂行した元勲たちは、徳川将軍家と幕藩体制に代えて、わが国の近代化を推進するために天皇の統治する中央集権的国家体制を選択したわけである。明治維新から、あの敗戦までのほぼ八十年間のわが国の近代史は、明治憲法の歴史と言い換えてもよい。善きにつけ悪しきにつけ、あの時代は明治憲法と共に歩を進めた。あの戦争が何だったのかを省みるについては、明治憲法への省察を避けて通るわけには行かない。

 司馬遼太郎氏は、その著『この国のかたち』の中で、「日露戦争の勝利が日本国と日本人を調子狂いにさせた」(「雑貨屋」の帝国主義 Iの三二頁)とし、日露戦争が終わった後の明治四十一年、参謀本部が、関係法令の改正によって内閣はおろか陸軍大臣からも独立する機関となった点を鋭く指摘する。やがて、参謀本部は、「統帥権」という超憲法的な思想を持つに至り、あの戦争に至る軍部独走につながって行くわけである。そのへんの詳細については、同著の『統帥権の無限性』(Iの三六頁〜)、 『機密の中の国家』 (Iの五五頁〜)に詳しく述べられているが、氏は「明治憲法は、いまの憲法同様、明快に三権分立の憲法だったのに、昭和になってから変質し、統帥権がしだいに独立しはじめ、ついには三権のうえに立ち一種の万能性を帯びはじめ、・・・」(Iの四五頁)、かくて「昭和十年以後の統帥機関によって、明治人が苦労してつくった近代国家は扼殺されたといっていい」(Iの六三頁)と言い切る。

 私は、司馬氏の説に異論を唱えるつもりは毛頭ないけれども、氏の言われるように、明治憲法が「明快に」三権分立の憲法だと言えるかどうかについては疑問をさしはさむ余地があると思う。また、統師権についても、明治憲法第一一条に、天皇は陸海軍を統帥す、と明文があり、これが、第五五条一項の大臣の輔弼責任の外にあるという説を生む根拠となっていることを全く否定できないのではないか、とも思う。私が言いたいのは、歴史の所産である明治憲法そのものの中に、後にその国家そのものを破産の淵にまで追いやった原由が潜んでいる、ということである。

 「わが近代国家は、明治人が苦労してつくった」と司馬氏の言われるのは、その通りだと思う。わが先人たちの血のにじむ努力のお陰で、我々が今日ある、それはまさにその通りである。だが、明治憲法の発布については、いささか違う。維新後、近代国家には、国の基本法である憲法と民意を反映する議会が不可欠という世論の高まりを受けて、明治二十三年に国会を開くという天皇の勅諭が出されたのが明治十四年になってからである。それを受けて政府は、憲法制定の準備に取りかかり、伊藤博文を主任として、欧州の憲法、とりわけ君主の権力の強いプロシア憲法をもとにして草案を作成したことはよく知られている。そして、国会開設の前年である明治二十二年、天皇が国民に与える、という形で明治憲法が発布される。欽定憲法と言われる所以であるが、明治憲法発効の日は、憲法前文に当たる勅語で「帝国議会ハ明治二十三年ヲ以テ之ヲ召集シ議会開会ノ時(明治二十三年十一月二十九日であった)ヲ以テ此ノ憲法ヲシテ有効ナラシメルノ期トス」と定められ、憲法に定められた通り翌明治二十三年に第一回総選挙が行われ、引き続いて第一回帝国議会が開かれたが、そこでは憲法は効力を発生しており、所与のものとして、承認の手続きはおろか、議論すらなされなかった。

 現行憲法について、これは占領軍に押しつけられたとし、自主憲法制定を主張する意見が根強いが、敗戦という厳しい現実から出発して、明治憲法から現行憲法へといわば新憲法の制定に等しい大改革がなされたについては、明治憲法第七章補則の第七三条に定める改正手続きに則って行われたのである。明治憲法、現行憲法ともに「お上」から実質的には国民に押しつけられたものであるが、国民によって選ばれた国会で議論され決議されているか否かという点では決定的に違うのである。

 明治憲法の制定によって、わが国はアジアで初めての立憲君主国となり、国民の意思を政治に反映する道が開かれ、近代国家として進むうえに大きな力となったのであるが、その出生においての未熟さの故に、その構成上のさまざまな欠陥の故に、その後の先人たちの血のにじむ努力にもかかわらず、あのいまわしい戦争に至ってしまったと言えるのではないか、と思わざるをえない。

八.明治憲法の欠陥

 旧帝国憲法が、司馬氏の言われるようなはっきりとした、「三権分立」のものであるか否か、学問的な詮索はさて措いて、それを制定した明治の元勲たちが、維新後のわが国の将来像として、当時、彼らが見聞きし学んだ西欧社会のような、三権分立の国家社会を描いていたことは想像に難くない。それは、旧憲法第二章以下の、三権の構成の骨格を見れば明白に読み取れる。

 そして、帝国憲法発布後、多くの先達たちが、国家運営の現実において、三権分立の実をあげるように、血のにじむ努力を傾けた。例えば、帝国議会は、内閣総理大臣を指命する権能がないという憲法上の欠陥に対しては、帝国議会の第一党の党首を指命させるという慣行を徐々に作り上げていったり、議会の解散権は天皇にあるという欠陥も、内閣総理大臣などの信任・不信任に議会の意思を働かせることなどで是正していき、大正の一時期には、いわゆる「憲政の常道」が慣行として成立しかかったのも歴史上の事実である。

 しかし、旧帝国憲法が、その冒頭の第一章を天皇とし、第一条から第一七条まで、天皇が立法、行政、司法の三権のみならず軍事大権も総攬する、わが国の統治権者であることを詳細に定める条項を置いたことは、その後のわが国の国家運営の根幹を歪め、あのいまわしい戦争に至る破局への道の出発点となった、と私は思う。そもそも統治能力のない天皇家を、国家権力の頂点に据えた、が故にである。

 古来、東西を問わず、権力者の栄華が長続きしたためしはない。その多くは、血なまぐさい結末を迎えている。わが国の天皇家は、そういった中で、有史上、何らかの形で政治権力と係わり続け、そして絶えることなく存続してきたという意味で世界史の中での例外的存在、と言えるかもしれない。しかし、わが国の歴史を詳しく見てみると、古墳時代は別として国家としての実質を備え始めた律令制の確立以後は、平安時代の摂関政治といい、鎌倉以降の征夷大将軍による統治といい、天皇家は政治の実権を他に委ね、権力から遠い位置にあってその存続が保たれてきた、と言ってよいであろう。天皇家が、統治能力を有して自ら政治権力を掌握しようとした時、例えば白河上皇による院政や、建武の新政の折りには、かえって権力をめぐる闘いを激化させ、世は乱れ、政治の瓦解を早めている。明治維新を遂行した元勲たちが、この歴史の教訓を知らないはずはない。知らないなずのない彼らが、なぜ、あえてあのような体制を選択したのか、彼らがすべてこの世を去った今は、その理由を直接確かめる術はない。

 その理由については、講学上いろいろに説かれているが、私は、要するに、明治の元勲たちは満々たる自負と確固たる信念を持っていたのだ、と思う。わが国を欧米を範とした近代国家に蘇生させる、そのために命を賭けて討幕に驀進する。「尊王」「王政復古」は、その大義名分だった。維新成った後は、近代化の推進に天皇の権威を借りる。大改革は、天皇の名で行う。しかし、政治の実権はあくまでわれらが手中に留める、われらの責任で維新を全からしめる、と本気でその使命に燃えていた。旧帝国憲法は、その自信を形に変えたものだ、と言えるのではないだろうか。

 形のうえでは、天皇にすべての権力が集中しているが、しかし、実際には天皇には何らの実権も与えられていない、法形式と実態とがまったく、一八○度ちがう体制が誕生したことになる。別の見方からすると、実際にはまったく責任を負えない天皇が、法形式からすると全責任を負う、という、おそろしい無責任体制が生まれたのである。明治の元勲たちは、この乖離をいささかも意に介さなかったようである。自分たちが実権を掌握し、自分たちの責任で革命を遂行する。枢密院という、自分たちの体制上の牙城も旧帝国憲法にしっかりとビルトインされていた。

 法律は、いったん制定されると制定者の意図とは無関係に、時代とともに一人歩きを始める。旧帝国憲法の運命もそうだった。明治の元勲たちが健在の間はまだよかったが、彼らが一人去り二人去り、政治の舞台から消えていくにつれて、旧帝国憲法の欠陥は繕い難くなっていく。明治の元勲たちが、元老として政治の実権を掌握できなくなっていくにつれて、わが国家は維新の大業を知らない指導者たちの手で責任の所在の定かでない国家になっていき、やがては、軍部が元老たちに代わってその実権を掌握するに及んで破局を迎えることになる。

九.神道について

 明治政府は維新直後の明治初年、天皇家の信仰にかかる神道を、いち早く国教と定めた。このことが、天皇家を権力構造の頂点に据えたことと相まって、あの敗戦に至るわが国の歴史に国粋主義的な色彩を色濃くしたことと深く関わっていると思われる。

 神道については、私は充分な知識を持ち合わせてはおらず、それを語る資格はない。私的なことで恐縮だが、わが家は先祖代々、浄土真宗大谷派に帰依している。しかし、この国土に生を享けた人々のほとんどがそうであるように、神道は自然に受け容れ、その説かれるところの八百よろずの神々を心から崇敬してやまないところでもある。神道は、いにしえから、人々の生命の源である食べ物、海の幸・山の幸の恵みの豊かさを願う心に発したものであったのではないだろうか。それが、稲作の普及とともにわが国土全域に広がり、だんだんに今のような形式を整えていったように観察される。

 筆者は三十年前、マレーシアを訪問した際、その古代博物館に展示されていた、稲作を始めた頃の古代マレーシア人の衣装が、日本の神官のそれに酷似していたのに驚いたことがある。稲の原生地中国(雲南省とされている)から稲作が高温多湿の東部アジア一帯に広がっていった頃、それは当然のことながら、現在の四大宗教が生まれるはるか以前のことであるが、その頃は、稲作とともに神道類似の自然崇拝がかなりの地域的広がりを持っていたのではないか、とも思われる。それはさておき、わが国土で人々に受け容れられ発達した神道、社と鎮守の森に鳥居、といった様式、神事の形式は、他の地域には見られず、わが国の歴史的風土に深く根ざした独自の信仰と言ってよい。言い方を換えれば、わが神道は、地球上のさまざまな地域、多様な人々に根付いている無数の伝統的宗教の一つにすぎないとも言えるのである。

 神道は、いわゆる「多神教」のカテゴリーに属する。わが国には、聖徳太子の頃から仏教が伝わり、天皇家もそれに帰依し、一時は国教の地位も得るが、神道はそれによって排除されなかったし、神道も仏教を排斥することなく、共存した。その後、キリスト教はじめ他の宗教も伝わったが、神道との関係は仏教同様であった。私どものふるさと三河地方は、仏教が盛んに伝わった地域である。集落には、神社とお寺が隣り合わせて、村人たちに守られている。村人は、豊作を神社で祈り、お寺で先祖の供養をする。お寺と神社は、村の行事、人々の冠婚葬祭の中心でもある。最近は変わってきつつあるが、私の小さい頃は寺や神社の境内は子供の遊び場で、いわば集団生活・社会訓練の場でもあった。

 その神道が、明治維新とともに、国家宗教となった。地球的な広がりを持つ仏教でなく、わが国独特のと言ってよい神道にその地位を与えた明治の元勲たちの意図は、天皇家を体制の頂点に置いたことと軌を一にしていると思われるところであるが、近代化に突き進んだ維新初期は別として、あの戦争に向かう破局への道を歩んだ時期には元勲たちの意図をはるかに超えた作用を生んでしまったと思料される。

 私は昭和九年生まれ。ものごころついた頃は、太平洋戦争へ突入する寸前、それから敗戦までの子供心に映った世間は、今から思い返すと、きつねつきが取り付いたような、狂熱に浮かされた状態だった。天皇は「現人神」(あらひとがみ)であり、日本は「神国」である。戦いは「聖戦」であり、敵は「鬼畜」である。天皇イコール神の国は、戦いに負けるはずはなく、神の民である大和民族は、すべての民族に優越し、「八紘」を広めて世界を「一宇」にすると教え込まれた。神社からは、若者たちが出征兵士として歓呼の声に送り出され、そしてその多くが、還らぬ人となった。神道は、その罪ではなく、それを利用した人々の罪ではあるが、日本国中を巻き込んだ、排外主義的民族主義、国粋主義の支柱の役割を果たしてしまった、と言えるのではないだろうか。

 宗教は、人間の心と生きざまに深く関わるものであり、その本然の姿からして、政治と微妙な関わりを持つことは古今東西を問わない。わが国の当今でも、オウム真理教という極端なものも出てきたし、創価学会の問題も政治問題化しつつある。政治と宗教の問題は、あの戦争の反省のうえに、未来を指向する私どもにとって、避けて通れない大きな問題であることは間違いのないところであろう。

十.共存から共生へ

 あの敗戦に至る歴史から、未来へ向かって何を学ぶべきか、今まで触れてきた問題の外にも、民主主義の未成熟の問題など、省察すべき問題は多くある。しかし、私の人生の節目に当たっての感慨も、そろそろ結論をまとめる時が来たように思われる。

(一)過ちを正面から見据え、国家の理念を明確にしなければならない

 教訓の第一として、あの戦争は、大きな過ちであった、ということを自分自身の問題として受容することが、これからの私ども日本人の出発点でなければならない、と私は思う。あの戦争を、いわゆる軍閥であるとか、天皇や特定の個人・グループの責任として逃れられるものでは決してない。若い世代の一部にある、僕らがやったことではない、という論理も他民族・国際社会には通用しない。

 植民地解放の戦いであったとか、米英など列強の不当な圧迫に対する正当な戦いであるとかいう大義も、二百万人を超える同胞の戦闘要員を死に至らしめ、それに数倍する軍・民間人を殺傷し、官民の国富を甚大に消耗した事実の前には空しく響くだけである。何としても、あの戦いは回避すべきであったと言わざるをえない。あの戦いによる同胞の尊い犠牲もさることながら、韓・中はじめ周辺諸国の人々に与えた災禍、苦痛は計り難い。どのように謝罪慰謝しようとも、今後、永久に消える去ることはないであろう。あの戦争は、あらゆる意味で、断じて正当化できるものではない。

(二)新たな理念を求めて

 「理念のない国家は亡びる」という名言がある。理念は、国家・国民にとっては、心を一つにして向かう道しるべである。この国のために生命を賭してもよい、という国民のコンセンサスのある国こそ、真に強い国である、と言い換えてもよい。国力の強さは、軍事力や経済力ではない、国民のいわば団結の力である。その団結を生み出すのは優れた理念である、と前記の箴言は言っているのである。あの戦争は明確な理念のないまま、というよりも誤った理念に導かれて、国民が一致結束して暴走した結果、国を亡国の淵にまで追いやってしまったのではないか。孫文がいみじくも警告した通り「西方覇道の手先」となり果ててしまったのである。

 あの敗戦の後、わが国は、平和主義、民主主義、基本的人権、国際主義を基とする新憲法の下で廃墟の中から再出発した。高邁な、人類普遍の理念を高く掲げてのスタートであった。そして、五十年、半世紀が経過した今、経済は復興し、世界の経済大国と言われるまでになったのであるが、果たして、高邁な理念の下での国民の団結があるか否かとなると、いささか疑問符をつけざるをえないように思料される。一九九五年の戦後五十年の節目の年に当たっての国民的論議に耳を傾けてみて、その感をひとしお強くしたのは私だけであろうか。その原因は、私には、あの大きな過ち、あのやくたいもない戦争に対して、われわれ日本人が正対していないことがその基本にある、と思われるのである。

(三)文化的自己中心主義を是正する

 国際交流が盛んになったのは喜ばしいことである。企業の海外進出、とりわけアジア地域への生産拠点の移転は目覚ましい。大企業のみならず中小企業に至るまで、その活動はグローバル化しつつある。それはそれで結構なことであるが、アジアの各地から、日本企業は自己の利益ばかり追及して、進出先をないがしろにする、という批判が絶えない。途上国に対する経済・技術協力にしても同様である。わが国に留学するアジア各国からの留学生も増えてきたが、日本人の受け入れ態度は概して冷たく、アジアの留学生だというだけで下宿を断られるという苦情もよく耳にする。脱亜入欧という、明治維新以来、正確には日清戦争以後のアジアの人々を低く見る、尊大な日本人の精神的退廃がそれらの事象の陰に見え隠れする。アジアの心ある人々の多くは、日本人は本当にあの戦争の反省をしていないのではないか、と未だに思っているのである。

 われわれは未来に向かって、平和、自由、民主、人権という人類普遍の理念とともに、真にあのやくたいもない戦争に至った大きな過誤の反省に立脚した、他民族との共生という理念をしっかりと打ち立て、国際社会に対して謙虚に臨んでいかねばならないと思う。政府も民間も個人に至るまで、あらゆる民族、あらゆる人々に対して、対等の立場で、一対一で和合できて初めて心を開いた協力関係が生まれて行くであろう。孫文が期待した「東方王道の于城」に日本がなれるのかどうか、われわれが、あの大きな過ちを反省し、明治維新の原点に立ち返ることができるかどうかにかかっていると言ってよいであろう。


十一.軍事的鎖国を

 ところで戦後五十年を省みる時、そして、あの敗戦に至った歴史的反省に立つ時、私はこの際、わが国が天下に改めて明らかにしなければならない国策の根本は、わが国の防衛力=軍事力は、他国を侵略したり、他民族を殺傷したりするために行使しないこと、であると思う。

 このことは、戦後の歴代政府が、過去の反省のうえに、新憲法の下で一貫して採ってきた政策である。専守防衛、防衛力は国土を敵から守ることに専念する、というものである。

 しかし、冷戦終結後、仮想敵であった共産圏の崩壊とともに、また、経済大国となって国際的影響力が増すとともに、外交的には国連安保理事会常任理事国メンバーに推す声が国際社会で広がる中で、いわゆる「ふつうの国」論が台頭し、国際社会の要請があり、その中での共同行動であるならば、軍事力を国際秩序維持のため使用していいかのような主張がなされるようになった当今、この従前からの国策の根本を宣明することは格別の意義を持つものである、と私は考える。敢えて分かりやすく理解しやすい表現として、軍事的鎖国と言わせていただいたが、中身は今までの政策と変わるものではない。私は、われわれ日本民族は、あの敗戦に至る歴史の教訓としてこの原則を遵守し、子々孫々に至るまで未来永劫に伝え承け継いでいかなければならない、と考える。

 わが民族は、わが版図の外に武力を行使して成功した例がない。有史上、神功皇后、豊臣秀吉、そして今度のやくたいもない戦いである。このことは、わが国土がアジア大陸から海を隔てた海上に位置した島国であることと無縁ではない。他と比べて異なる人種・民族と交わる機会が著しく少ない特異な民族と言ってよい。勢い、他民族・異文化に対する理解の度は著しく低くならざるを得ない。孫子の兵法に「敵を知り己を知らば百戦危うからず」とあるが、わが民族は、異民族については「敵」を知らず、知る能力も本質的に極端に低いのである。この点は、そもそも多くの民族が集合して国家を形成している米国とは好対照である。誤解を恐れずに言えば、「世界の警察官」になり得る資格は、米国にはあるが、わが国には全くない、と言ってよい。反面、異文化の受容能力は高く、古来から東洋、そして近代は欧米と先進文化を吸収同化して独自の文化を醸成し、小さな島国ながら経済大国と言われるまでになったのは誇ってよい。われわれが国際社会に出ていくとすれば、断じて軍事力であってはならず、経済・文化など他のお役に立つ部分による外はない。

 われらが生まれ育ったふるさとを外敵の侵略から守らねばならないことは、当然のことである。そのための軍事力の保持・行使も、同様である。現行憲法には、国民の義務として国土の防衛は謳われてはいないが(明治憲法には兵役が義務づけられていた)、これは当然の前提であろう。教育をはじめとして国民の意識を高める努力は、これから大いにしていかねばならないところでもある。軍事力の量は少ないに越したことはない。国際的な安全保障の枠組みを強化し、国際間の緊張を緩和することに努めて、世界が軍備を縮小する方向に向かえるようにすることも大事である。しかし、何よりも大切なことは、わが国が軍事的鎖国の国策を国是として宣明し、守り、経済・文化の面で、謙虚に国際社会と交わる努力を積み重ねることであろう。古今東西、故なく他国を攻める無法者は数少ないのである。こちらが守りのみに専念し、他に対して友好協力的であれば、不法に攻め込まれることはまず考えられない。

 あのやくたいもない戦いによって、中国大陸・朝鮮半島はじめアジア各地に与えた惨禍は言語に絶するものがある。あの豊臣秀吉の朝鮮侵略のような小規模なものでも、未だに朝鮮の人々の中に残っているのであるから、あの戦いの記憶は、永く被害を受けた人々、地域に語り伝えられるに違いない。それは、われわれ日本民族が未来永劫に担い続ける重荷であり、十字架と言うべきであろう。その償いは、賠償金の支払いなど賠償協定の履行によって終わる、といった事柄では毛頭ない。われわれが、軍事的鎖国の国策を堅持し、さまざまな努力を重ねても、彼らの恨みは容易には解けることはないと思われる。しかし、われわれにとっては、この敗戦の歴史的教訓をありのままに受け容れ、それと正対し、子や孫にも正しく伝え、未来に向かって再びその誤りを繰り返さないようにしなければならない。アジアの被害者たちの心を、その鏡として。

十二.栄光の二十一世紀をめざして

 私の政治の恩師である、故福田赳夫先生は、その晩年の著書『回顧九十年』のなかで、二十世紀を省み、二十一世紀を展望して次のように述べられている。


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 今は、二十世紀と二十一世紀の節目にいるわけだが、私はこの節目が人類始まって以来の変わり目になるだろう、と考えている。

 二十世紀は大変な変化のある世紀だった。新エネルギーの開発、科学技術の発展と相まって、物質文化、つまり人間の物質的側面において大変革が起こった。これは特に経済発展において顕著で、GNP(国民総生産)でいうと実に十五倍の大発展を遂げた。人類始まって以来の経済繁栄である。

 人々の暮らしも革命的に改善され、地球上挙げての大量消費社会が出現した。しかし、物質文化が目覚ましく発展した結果、「作りましょう。使いましょう。捨てましょう。」これが当然の世の中になってしまったわけだ。地球上に存在するありとあらゆるものを使い荒らし、捨て散らすことに何の不安も感じず、それが当たり前だという気持ちでわれわれは今日に至った。

 いまやその「栄光の二十世紀」が終わり、新しい世紀が始まろうとしている。経済発展、生活の改善とは裏腹に、地球上のありとあらゆるものを荒らしまくったツケを払わなくてはならない段階がやってくる。資源、エネルギー、生活環境はことごとく悪化していき、このままで推移すると人類の生存すら危ぶまれる事態にならないとも限らなけいからである。つまりわれわれはこれから先、人類の存亡をかけて二十一世紀を考えなればならないのだ。(福田赳夫『回顧九十年』三四五頁以下)


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 いささか長文ではあるが、ご紹介させて頂いたのは、この部分が、福田先生のわれわれへのいわば遺言ともいえる右著書の核心といってよいからである。同時にまた、「栄光の二十世紀」と共に歩まれ、その人生後半にわが国内外の政治に偉大な足跡を残された先生の「遺言」は、そのままわれわれ残された者に課せられた大きな課題である、からでもある。

 「ありとあらゆるものを荒らしまくったツケ」は、われわれの身のまわりにもいっぱいある。地方自治体を悩ませるゴミ処理、産業廃棄物の処理問題、生活廃水などによる海や川や湖の汚染、自動車排気などによる大気の汚染や騒音、さまざまな公害など、生活の便利さと引換えに抱え込んだ難題は数多い。トドの詰まりが、四四〇兆円を超える国、地方を通じての借金であり、肥大化した非効率な「大きな政府」である。目を国外に転じても、事態は大同小異である。開発途上国のかなりの部分の人口爆発は続き、食糧問題の深刻化が懸念されると同時に、貧富の格差は拡がる一方である。資源・エネルギー問題、環境の悪化といった人類の存亡にかかわる問題も改善の兆しが一向にみられない。冷戦の終結はみたものの、地域紛争はかえって多発し、核の廃絶や軍縮をめざす動きも遅々とし、先進国はそれぞれ内部の病弊に苦悩を深めている。地球全体が、混乱・混迷のなかで、明日へ向かっての光明を見い出せないでいるのが、厳しい現実の姿ではないだろうか。

 当面の国政の課題は、この「ありとあらゆるものを荒らしまわったツケ」を支払うことであり、自民党が今回の総選挙で公約として掲げた「抜本的行政改革」は、その重要な第一歩になる、と私は確信する。国民が自民党に勝利を与えたのも、それを期待してのことである、と私は思う。国・地方を通じて、民業に移管できるものはすべて民に移し、行政組織をスリムにし、行政経費の大幅な節減を図らねばならない。小さな政府の実現によって浮いたお金で、財政再建を軌道に乗せ、社会インフラや科学・技術振興への先行投資を思い切ってできるようになる。あの赤字の塊だった国鉄をJRに再生したのは、その良き先例であろう。わが国自身が、福田先生の言われる「人類始まって以来の変わり目」に当たって、その再生に成功すれば、国際社会にとってもまたとない良い模範となるであろうし、そうしなければならない、と思考する。それと並行して、地球全体がより良い調和を取り戻すため、国際社会とは協調と連帯の姿勢を堅持すべきであることもいうまでもない。

 福田先生は、二十一世紀についてはいささか悲観的に考えておられたようであるが、そのような結果にならぬよう、その教えを受けた者の一人として微力を尽くさねばならない。「栄光の二十一世紀」をめざして。

http://www.seiken-s.jp/
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