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情報価値があると判断し、転載投稿させていただきました
http://www.asyura2.com/0502/senkyo8/msg/780.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 20 日 05:29:01: ogcGl0q1DMbpk

(回答先: Re: 北朝鮮、核保有宣言!6カ国協議参加を拒否! その背景を探る!! (行政調査新聞) 投稿者 縄文ビト 日時 2005 年 2 月 19 日 16:18:31)

縄文ビトさん。おはようございます。

行政調査新聞(http://www.gyouseinews.com/index.html)サイトは2003年頃からアクセスしており、
海外展望コーナーの国際情勢分析がなかなか読み応えがあると、おらはそのつど阿修羅に転載投稿させて
いただきました。

今回の2月17日記事:北朝鮮、核保有宣言!6カ国協議参加を拒否! その背景を探る!! (行政調査新聞):
も、情報価値があると判断し、転載投稿させていただきました。

「支那」という言葉がいつ文部省で「禁止用語」になり、いつ国会で「禁止用語」として議決されたのか
自分は新聞もとっていない貧乏人でありますので、無知であります。

阿修羅は国家と政治屋から統制されている公共電波放送のNHKではありませんので、「禁止用語」は「使用厳禁」
となってしまいますと、掲示板空間が貧困になってしまうと思います。

この不景気でもはや無名なアンダーグランド芝居を見にくるお客様もいなくなり、自分の知っている舞台裏方の
人も「おら、もう廃業するだ」と芝居屋も追いこまれております。

アンダーグランド芝居とは60年代後半頃に出現いたしまして、それまで西欧・ロシア翻訳劇の公演ばかりやって
おりました新劇(俳優座・文学座・民芸・青年座など)に対抗いたしまして
「日本人の俳優が西欧人の真似をして舞台にあがってもしょうがないのではないか」と
日本深部の情念に向かっていったのがアンダーグランド芝居です。

新劇の近代芝居たる西欧人物真似舞台を「赤毛芝居だ」「毛唐芝居だ」と軽蔑していたそうであります。

寺山修司さん、唐十朗さん、鈴木忠志さんたちのグループの他に、紅テント芝居に対抗する黒テントとか
銀色テントとか、野外芝居も多かったそうであります。
日本アンダーグランド芝居からは、数々の演劇論、そして演劇批評が誕生しております。

土方巽さんによって形成されました白塗り暗黒舞踏も世界で評価されてまいりました。
暗黒舞踏の身体の基礎は田植えにあります。足が泥に入り、腰を低くする、かがめる、土とほとんど
一体化するといいますか、田んぼのカエルがおのれに憑依するといいますか・・・
ほとんど近所世間様から見ますと異様であります。

この暗黒舞踏を評価してくれたのが、三島由紀夫であり、澁澤龍彦でした。

芝居屋とか暗黒舞踏屋は、「肉体の叛乱」といいますか「むきだしの裸力」といいますか
本音の言葉の応酬とか、裸体の踊りなどで、お客様と勝負していきます。
お客様の心を舞台に引きつけなくては、お客様が帰ってしまうわけであります。
芝居屋の用語で「つかみ」と言います。

芝居屋に「禁止用語」が統制されますと、芝居は壊滅し、ますます廃業するしかありません。

お客様はNHKのアナウンサーを見に劇場に来るわけではなく
「いろいろな人間がいるもんだ、こんなに馬鹿な人間もいるんだ、人間とは実におもしろいもんだ、
人間のドラマとはこんなに壮絶なんだ」とか、おのれたち社会の裸体象を見に
劇場や野外テント芝居に来てくだいます。俳優や舞踏者が本音の裸体でなければ
お客様は「なんだこれは・・・」と落胆と幻滅を味わってしまいます。

お茶の間にテレビがあり、そこからNHKアナンサーが「おはようございます」「こんちわ」
「こんばんわ」と語りかけてくれる日常光景とは、全くはずれてしまったおもしろい人間の世界を
味わいに、お客様はやってきます。
「他人の不幸は蜜の味」これも芝居屋の用語ですが、悲劇とか不幸の物語はお客様にとっては、ドラマを味わう
蜜の味でもあるのです。

芝居屋も国際情勢とか国内情勢に、おおいに関心があります。
ほんとど「この政治屋の裏とは」など、事件に登場したこの人物の背景とは?など
ドラマツルギーとして見ております。いずれこの人物をこの事件を台本にしてみたいという
芝居屋特有の動物的本能であります。

芝居屋とか暗黒舞踏屋はニュースの社会科学にはほとんど興味がなく
ニュースの人間模様といいますか、そこに関心があります。
国会中継などをテレビ見ているときも、政治屋の裸体像しか見ておりません。

芝居屋とか暗黒舞踏屋は、人間裸体が素材でありますから、人間を観察しております。
街を歩いても電車に乗っても、ひたすら人間を観察することが商売根性となっております。
とくに街の人様と話すときは、笑顔でどうもどうもなどと会話しながら
背中の回路では、「どういう人間なのだろう」と興味と好奇心が作動し、身体では、いつでも
その人間を演じられるように、人様姿態の情報を回収しております。

俳優は街を歩いているときでも、「どうも、どうも」と人に話しかけ、
人様の心を開き、そこに入っていける訓練を商売根性でしております。

俳優とは「人にあらず、なおかつ人より優れたな動物的特異性がある」という意味でもあります。

観察とは、セリフや俳優の所作、舞踏であれば振りつけなどのアイデアを引き出す
収納蓄積庫になります。
暗黒舞踏屋は赤ちゃんのみぶりとか動物の動きを観察しているそうであります。

テレビドラマでも俳優がさまざなな職業人を演ずることができますのは
日常的に近所世間様人様を観察しているからであります。

この世界は民主主義とか市民主義によって構成されているのではなく
さまざまな人間の思い、情念、さまざまな生活、そしてさまざまな階級によって構成されているとするのが
前提であります。
その前提から事件を現出させる人間深部に、それぞれのドラマ生成方法によって
構成していきます。

芝居屋と暗黒舞踏屋がめざしているのは社会科学の普遍ではなく
固有のドラマです。
俳優は普遍化されない固有のオリジナリティその存在力によって、お客様を魅了いたします。
芝居屋と暗黒舞踏屋にとっての普遍とは、特異的な舞台がお客様の心と回路が開かれ、応答関係が
成立した時であり、お客様が劇場の外に出たとき、どれだけ思い出してくれるかであります。

日常においてテレビのニュースなどをみております
芝居屋とか暗黒舞踏屋の演出家は、報道の背景にありますドラマ構成を推理しております。
この報道は今後、どのようい展開していくのだろうか、とか
お客様はこの報道にどれだけ関心を向けるだろうか、など、
演出家とは日常的に「報道ドラマを構成しているものとは何か」その特異性を推理するのが
どうしようもない商売根性となっております。

ゆえに演出家とは話しが実にうまいです。構成力を日々訓練しているからです。
人様を話しに引き込む才能があります。

仕事がないとき、演出家はよく街を歩いたり、パチンコをしたり、一日中テレビをみたりしている
そうであります。演出家は近所世間様と人様の情報を再度おのれの身体で再構成しているのであります。

演出家は俳優以上に近所世間様に溶け込んで、街の生活人といいますか人様の姿態を観察して
おります。近所世間様のさまざまな人様の観察こそ演出家特有の商売根性であります。
さまざまな職業の人様を観察していなければ、俳優の演技を修正し、所作をつける演出ができません。

演出家は「禁止用語」に魅了されてしまいます。
昔、NHKの紅白歌合戦でみた渡辺はま子の唄「シナの夜」でありませんが
「中国」より「支那」の方が演出家の想像力を喚起することは間違いありません。
「支那」という言葉の匂いには、染み付いた時間帯があるからです。

文化大革命時代の日本を舞台にした庶民ドラマをつくる場合は、
ある街角の庶民の台詞は「中国の文化大革命のニュース、読んだ?」となります。
名称は「中国」となります。
昭和の安部定事件をドラマにするときは、どうしても「支那」でなければ、リアリティがありません。
真昼間、安部定の愛の部屋、部屋の窓から見える路には行進する兵隊。
「兵隊さんは支那に行くの?」という街角の庶民の台詞となります。

「禁止用語」なるものによって、言語統制されますと
表現は死滅し壊滅いたします。

60年代からの日本演劇史をみましても、民主主義啓蒙演劇を上演する劇団は現在ほとんどありません。
日本の情念その深部へと降り、そこから方法論を産み出したアンダーグランド芝居屋の
特異的な演劇論が評価されております。

例えば、若い世代の女性が結婚を後悔するのは、トイレに原因があるそうです。


妻  「何でトイレのふたをしなかったのよぉ!」

夫   「えっ!」

妻     「わたし、寝ぼけて、トイレにおしりごと落ちてしまったわよ! あんた!」
      「いつも言っているじゃない! おっしこをした後は必ずふたを降ろしてって!」
      「女は男と違って立ちションじゃ、できないのよ! あんた!」
      「女は座ってションベンするのよ! あんた! あんたがうんこをする格好と同じなのよ!」
      「もう〜、結婚なんてするんじゃぁ、なかった!」
      
 夫     「ごめん、気をつけるよ・・・」
 
 
このように男と女の身体所作が明確に違うという差異こそが
芝居屋と暗黒舞踏屋の他者概念であります。

人はひとりひとり違う、思いも生活も感情も経験も個別であります。

言語はまた複合でもあります。批評とはおのれの基準で切って捨てるのではなく
見えないものを思考身体によって言語化するのが批評であります。

北朝鮮、核保有宣言!6カ国協議参加を拒否! その背景を探る!! (行政調査新聞)
は、ひとつの批評であると判断し、転載投稿させていただきました。

「禁止用語」なるものを、批評基準にすることは無理があると思います。

80年代におきましては、「批評の基準」をめぐって民主主義文学運動は混乱し
多くの文学者が日本共産党から離党したそうであります。

縄文ビトさん。ありがとうございました。
今後もご指摘ご批判よろしくお願いします。

人間の言葉とは複合であり二重言語かもしれません。
その人間が言葉を発する言葉の裏側にある情感、そして心のひだ・・・、
読み手はそれを読むことができるのでしょうか・・・

言葉の背景こそ、人間固有の世界であり身体でもあります。

ある評論に「禁止用語」で基準を設定することは、できないのではないかと・・・そう思います。

      


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 真実とは、人間の価値意識をもって構成されるものである以上、言語によって
 媒介された形をとる以外ないということである。要するに、言語によっていっ
 たんは対象化される以外、事実といわれるものが、真相なり事実として感受さ
 れることはない。だから本来、事実というものはいつも不可触なのであり、そ
 れを可触的にすることができるためには、どんな独自な体験的事実すら、一度
 はフィクショナルな世界へ転化させられる必要がある。

                      鈴木忠志演劇論集『内角の和』

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 想像上の体験はしばしば現実生活の同義語であり、現実生活は、気がついたとき
 想像によって支配されていたりする。この両者は定義づけられて区別されるより
 も前に、相互的に運動しながら、私たちの生活そのものの二輪の車となっており
 ドラマツルギーは両者の区別が提起するものの本質にではなく、その両者が混在
 し、区別不能化している事実の上にこそ、うちたてられるべきだからである。

寺山修司演劇論集 1983-11-5 初版発行 国文社

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『世界は破粋された鏡や廃虚や残骸の構造のあいだからしかみえてこない』

70年代冒頭、「5月」の残像は消えず、「制度」はショック状態から完全には
回復せず、時間は完全に停止していた。

歴史と演劇の双方を解読する格子の役割を負わさたモリエールは、まるでなんと
いうか――下半身を「民衆」の場所にどっぷり浸していたがゆえに、上昇を開始
したとたんに苦悶し、苦悶のなかでおのれの出身階級の限界に挑戦した男である。

天上の「言語」を握るものは歴史の《意味》をわがものにする。

   「20世紀演劇」の精神史 著 佐伯隆幸 1982-7-30 初版発行 晶文社

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 我々が、もし世阿弥に教えられるところがあるとするならば、どんな場でも、人
間的な事象に対する内省の徹底性さえあれば、人間の象徴的な在り方を鋭く射抜く
ということであろう。思想の恐ろしさとは、経験や学識の広さではなく、自分の
経験した事物が、何を言わんとしているかを徹底的にときあかす、その情熱の深浅
にある。そして、自分の経験の本質を追求することが、どれだけ他人や、他人の
行為まで及ぶ普遍性を獲得しているかだけが問題なのだ。
          鈴木忠志演劇論集「内角の和」 而立書房
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3

支那
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
支那(しな)は、中国大陸とも呼ばれ、ユーラシア大陸の東端の地域または、その地域に存在した歴史的な国々を指す。最近は中国とも言う。「至那」、「脂那」とも書く。英語のChina(チャイナ)と同じ意味で、外国(支那の場合は日本)から中国を呼ぶときの呼称である。

支那という言葉は、中原初の統一王朝秦に由来するとされるインドの言葉が中国に逆輸入され、宋代にインドの使節が皇帝に「支那皇帝」として出した書状が初出とされる。 日本においては、江戸時代末期、「支那」と同じ語源を持つとされるChinaなどの訳語として、広く使われるようになった。 近年、中国共産党は「シナは蔑称ではない」ということを認めた。ただ、シナの漢字表記「支那」は「支」という漢字に「末端」「支店」などというマイナスイメージがあるという理由で、日本が支那と漢字で表記するのは許されないとした。

目次 [表示非表示]
1 呼称への賛否

1.1 反対派の意見
1.2 賛成派の意見


2 その他

3 外部リンク

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呼称への賛否
[編集]
反対派の意見
支那という言葉は、日本が日清戦争時、中国を占領下に置いていた時代にも使っていた呼称であることや、その当時に中国人を蔑んで支那人と呼ぶ風習があったため、一部の人々には日の丸・君が代と共に、軍国主義者が好んで用いる国粋主義的な概念と認識されている。1946年の外務省の次官の通達により、放送・出版物においては中国のことを支那とは呼ばないようにしている。そもそも現在は中国を支那と呼ぶ人が少ないのに、支那と呼ぶ必要はない。

[編集]
賛成派の意見
支那はChina(チャイナ)と同じく単なる外国から中国を呼ぶときの呼称であって、江戸時代末期から1946年の外務省次官の通達まで日常的に使われてきており、中華民国との戦争当時に限って使われた呼称ではない。それに戦争当時の中国人の蔑称は「チャンコロ」であり、「支那人」ではない。日本に戦争で勝ったアメリカが、第二次世界大戦中に日本をジャパンと呼んだといって、ジャパンが蔑称であるとはいえない。中国人自身もsina.comというサイトを開設しているし、蔑称であるならそのような呼称をサイトのアドレスに使用しないはずである。また「中国」という呼称は、日本国内にも中国地方、中国山地などの地名がある事から紛らわしいという意見もある。

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その他
Microsoft Windowsなどの日本語入力にて、出荷時の状態では「支那」という単語が辞書登録されていないため、「しな」を「支那」に漢字変換しようとしてもと出来ないようになっている。これについて、何らかの抗議があった、あるいは国際問題に巻き込まれるのを危惧した、などとする噂がある。携帯電話では、「しな」と入力して「支那」と変換される機種もある。

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外部リンク
WWW.SINA.COM (http://www.sina.com/)
支那=CHINA (http://kan-chan.stbbs.net/word/pc/sina.html)
「シナ」という言葉が差別的とは? (http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/990429_faq.html)


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日本共産党・知りたい聞きたい

http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/990429_faq.html

 〈問い〉 東京都知事になった石原慎太郎氏が中国を「シナ」と呼んだことについて、「差別的だ」という批判がでました。このことばは、なぜ差別的なのでしょう。(和歌山・一読者)

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日本共産党・知りたい聞きたい

 〈答え〉 「シナ(支那)」ということばは、中国古代の王朝の一つ「秦(シン)」が語源といわれ、英語の「チャイナ」も同じ出所だとされています。日本にも、仏典を通じてこの名称が伝えられ、江戸時代にしだいに普及し、明治時代にも引き継がれました。

 このように、「シナ」は、外国人が中国を呼ぶ用語として、それなりの歴史的根拠をもっています。しかし、問題は、それが、戦前・戦中、日本の中国侵略と結びついて、中国にたいする侮蔑(ぶべつ)語として使用されたことであり、中国国民はこの呼称を拒否しています。当時、日本政府は、「中華民国(中国)」というその時期の正式国号を無視し、ことさら「シナ」、「シナ人」などと呼んで、中国と中国人をさげすむ態度をとりました。これは、中国侵略戦争のさい唱えられた「膺懲(ようちょう)支那」(「支那を懲罰せよ」)などというスローガンに端的に示されています。

 戦後は、侵略戦争への反省を重要な柱とする憲法が施行され、中国(一九四九年十月以降、正式名称=「中華人民共和国」)との関係でも、日本は「戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」(七二年の日中共同声明)ことを確認しています。

 こうした歴史の真実を直視すれば、中国を「シナ」と呼ぶことは、単に時代錯誤というだけでなく、過去の侵略戦争への無反省がその根底にあることは明らかでしょう。

 中国の当局やマスコミは今いっせいに石原氏の一連の発言を批判しています。三月十二日の新華社(中国の国営通信社)電は、「戦時中日本が中国を侮辱するために使った『支那』」を口にしている石原氏は「大日本帝国の思想を持った」人物である、と指摘しました。(平)

〔1999・4・29(木)〕 

http://www.jcp.or.jp/faq_box/001/990429_faq.html
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