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けっこう「お上」に強かった日本の民衆 百姓一揆は組織された異議申し立てだった (大塩八平)
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投稿者 愚民党 日時 2005 年 2 月 20 日 07:35:57: ogcGl0q1DMbpk

今年は秩父困民党蜂起から120年

けっこう「お上」に強かった日本の民衆

百姓一揆は組織された異議申し立てだった

http://www.bund.org/opinion/20041205-1.htm

大塩八平

 神山征二郎監督の映画「草の乱」が話題をよんでいる。1884年11月1日秩父郡吉田村椋神社に、刀・槍・猟銃で武装した農民3000人が集まった。明治政府にもの申す世に言う秩父困民党の蜂起だ。今年は蜂起から120周年にあたる。

百姓一揆は自然発生的だったのか?

 「草の乱」の神山監督は秩父困民党は明治政府の打倒を目指していたから、単なる一揆ではないと強調している。一揆は自然発生的、革命は目的意識的と考えているようだ。

 学校の歴史教科書にも、江戸時代に「百姓一揆」という農民反乱や「打ちこわし」という都市暴動がしばしばおこったことが記録されている。それは飢饉や貧困で、それほどまでに庶民が困窮していた例として紹介される。

 しかし最近の近世民衆史研究によると、百姓一揆や打ちこわしは、困窮し絶望した庶民の暴走による破壊的な暴動などではなかったのだ。明確な目的・要求をかかげ、作法(戦略と戦術)を守る組織的な政治行動であり、その目的・要求は何らかのかたちで達成されるのが一般的だった。

 幕末期に日本を訪れた英国公使オールコックは、上級者の下級者に対する言動が丁寧なことを日本人の特徴として特筆している。戦国時代に日本に滞在していたキリスト教伝道師たちも、下級者の面目を潰した上級者は必ず復讐されるので、地位が高くても他人を侮辱しないよう常に注意を払っているのが日本人だと書き残している。そこから次のようなことが言えるのだ。

一揆は組織だった反乱だった

 260年間の江戸時代を通して、記録に残っている百姓一揆は3212件、打ちこわしは488件。ここで言う「百姓一揆」とか「打ちこわし」というのはどういうものか。

 百姓というのは、もともと農民というだけの意味ではなく、漁民や山地狩猟民、さらに商人なども含めて「百姓」と呼ばれていた。また「一揆」も、元来は結社とか連合組織とかを意味する言葉で、反乱や蜂起の意味はなかった。

 しかし江戸時代には日常の生産関係と無関係な結社をつくること(徒党を組むこと)一般が幕府によって禁止されていたので、徒党を組むこと自体が「反乱」だった。つまり「百姓一揆」とは、江戸時代の農民主導の組織的反乱ということになる。

 「打ちこわし」は、一言でいえば都市暴動だが、偶発的な暴力沙汰とは全く違い、こちらも組織的行動原則にのっとって行われるのが常だった。庶民生活を圧迫していると見られた豪商や高利貸しの店などを集団で襲撃し建物を破壊するのが具体的な行動内容で、@人身の殺傷はしない、A便乗しての略奪行為もしない、B火災を引き起こさないよう注意する、この3原則が基本的には厳格に守られた。

 百姓一揆の一環として、農民が敵対する有力者の邸を打ち壊した実例もある。つまり打ちこわしと百姓一揆とで、本質的な性格の違いがあったわけではない。行動主体の中心が農漁村部の百姓か都市住民かの違いにすぎず、いずれもきわめて組織だった反乱だったのだ。

百姓一揆は大体勝利した

 江戸時代の日本は、一般庶民の識字率が近代以前の社会としては世界に例を見ないほど高く、一揆に参加した民衆の側が残した記録も膨大に残されている。これと権力側が作った記録とを照らし合わせると、今からでも相当に客観的な「百姓一揆の実像」に迫ることができる。保坂智著『百姓一揆とその作法』(吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」)や青木美智男著『百姓一揆の時代』(校倉書房)等によると、百姓一揆の実態は以下のようなものだった。

 一揆は年貢の減免、米価の引き下げ、深刻な飢饉の際には公的責任で食糧を確保して住民に配給するよう迫る、あるいは特定の政策担当者の罷免など、具体的な要求項目を明示して行動する民衆運動だった。

 要求が具体的だったから一揆での民衆の要求が完全に無視された例は数えるほどしかなく、大半が要求項目を相当程度まで実現した。例えば、凶作の年に年貢の支払い免除を求めた一揆が「支払いの10万日繰り延べ」の回答を引き出した例がある。10万日は273年。要するに権力側の顔を立てた上で、事実上の年貢支払い免除を勝ち取ったのだ。要求がほとんど通るのなら、民衆は常時一揆を起こしていればよさそうなものだが、もちろん現実はそんなに甘くない。徒党を組むこと自体が非合法とされていたから、一揆の要求が受け入れられても、多くのばあい指導者は獄中死させられたり処刑されたりした。

 一揆や打ちこわしで多くの人々が結集しているときには、これを現場で鎮圧することは幕府や藩主にとっても容易ではなかった。無理に武力鎮圧しようとして現場で死傷者を出したりすれば、更に激しい一揆を引き起こしかねない。民衆の行動が人身殺傷にまで至らないかぎり権力側も現場での実力行使には慎重だった。かわりに、参加者が解散し日常生活に戻ったあとで、権力は行動の指導者を摘発して逮捕、処罰を行った。

 こうした権力の弾圧に対して民衆は、できるだけ犠牲者を出さないように努力した。権力側と145日間にもわたる交渉を続けた結果、所期目的を達成した上に、一人の処罰者も出さないですませた1853年の「南部三閉伊(さんへいい)一揆」など、犠牲者皆無で大勝利した一揆も複数例ある。

村ぐるみ一揆から連立一揆へ

 百姓一揆の場合、17世紀半ばまでは、一揆は村単位または最大でも数ヵ村のまとまりで決起した。この段階では、日常の生産単位である村がそのまま一揆の主体であり、日常会話の中で権力への不満が言い交わされることから村ぐるみの蜂起へと発展していった。

 当時は、徒党を組むこと一般についての禁令は存在していても、民衆が権力機関に集団で押しかけて政策要求することを直接とりしまる法令が存在しておらず、一揆指導者を死刑にするとの原則も確立されていなかった。だからこの時期、要求実現・処罰皆無という一揆側完勝の事例が存在する一方、地域権力者の独自判断によって参加者が何十人も処刑された事例もある。

 江戸時代も中頃、17世紀末になると、一つの藩の中のほとんどの村が百姓一揆に参加する「全藩一揆」が多発するようになる。いわばゼネストだ。全藩一揆は、村々の間を廻状が回覧されて一揆が呼びかけられるところから始まる。参加を決めた村の代表者が廻状に署名を連ね、合意が明文化されていく。多数の村の合意が確認されるのと並行して、村ごとに蜂起の準備が整えられ、いよいよ大音量の合図(ほら貝や鐘、猟銃の発砲音など)で一斉に蜂起する。非合法の行動を呼びかける廻状にはリスクが伴う。廻状には神々への誓いを述べた起請文が付けられ、遊び半分の誘いでも「おとり捜査」の罠でもないことを保障する形になっていた。

 全藩一揆が急増するのは、この時期に全国的な経済流通システムができあがり、各藩とも藩内一律の経済政策を立案するようになったことに対応してのことだ。

 こうした一揆の大規模化に対応して幕府は、18世紀前半になると全国一律の百姓一揆禁令を発する。禁令では、蜂起の指導者(頭取)1人を死刑にすることが定められた。逆に言えば、最高指導者と見なされた1人以外の参加者は処罰されない原則が確立されたのだ。幕府はこれによって、指導者と一般参加者との間に亀裂を入れることを狙った。

 これに対し、一揆の側の合意文書(一揆契状、連判状)の内容は、一揆で処刑された者が出た場合にその遺族の生活を参加者が共同で保障することなど、具体的な契約内容を明文化するものになっていく。その他、一揆費用の分担方法なども連判状に明記されることが一般化し、民衆の側は一揆が指導者個人の煽動によるものでなく共同責任によるものであることを意識的に明示するようになっていった。

 1780年代を境に、人通りの多い場所に一揆の呼びかけ文を掲示する張札が、廻状にとってかわる。もともと都市部での「打ちこわし」ではこの動員方法が採られていた。百姓一揆もこの方法を採るようになったのは、商品経済の進展によって農村内部でも富農と貧農との格差が拡大、同じ村の農民どうしでも利害が対立するようになったからだ。村単位の回覧・村ぐるみの一揆参加を前提とする廻状では動員ができなくなったのだ。つまり、この1780年代以降は一揆は個々人の自主的結合によって実現されるようになったのである。

 多くの百姓が参加した一揆に同郷の富農が敵対したような場合、一揆がこの富農の邸を打ち壊しの対象とすることもあった。また、利害関係において共通するはずの者同士でも、一揆参加者(「立ち者」)と一揆参加を尻込みし見送ってしまう者(「寝者」)との分離が生まれた。あくまで個人の自主参加による闘争であることがハッキリしたわけだ。

 なお、一揆の合意文書への参加者の署名は、一般に名前を放射状に書き込んで円形に配置する形になっていた。これを「車連判」または「傘状連判」という。この形の連判がなされた理由は、一揆の筆頭者を不分明にして指導者処刑を避けようとしたためと言われてきた。が、連判状で筆頭者が判断できなくても、権力側は適当な判断で参加者の一人を首謀者扱いするだけのことで、一人の犠牲者も出さないようにするには傘状連判は役立たない。最近はむしろ、一揆参加者が日常の上下関係とは無関係にここでは対等である、との理念を表現したものと理解するのが通説になっている。ちなみに同様の車状の連署方法は、東南アジア全域から朝鮮半島、さらにイギリスにまで存在する。

一揆で鉄砲は楽器だった

 このような一揆は、一体どれほどのレベルで「武装」していたのだろうか。豊臣秀吉の「刀狩り」で、日本の農民は完全に武装解除され、権力への抵抗の手立てを奪われたと考えられてきた。ところが実は、秀吉の刀狩りでは鉄砲類は全く「狩られる」ことがなく、農民も猟銃を普通に所持しつづけていたのだ。

 鉄砲は百姓一揆でも当然のように持ち出された。ときには鎮圧部隊の何倍もの銃を一揆側が所持していた例もあった。にもかかわらず、百姓一揆で民衆側が発砲して人員殺傷をした事例は1件も記録されていない(鉄砲以外の持ち物で相手を殺害した例は、幕末に近づくにつれ散見されるようになる)。

 百姓達は鉄砲を鳴り物として、つまり発射音でアピールをするための道具として使ったのだ。武器を少なからず所持しながら、それを人身攻撃にではなく専ら意思表示に使う。百姓一揆は高度な目的意識性に支えられて行われていたのである。

 都市部での「うちこわし」でも同様の目的意識性が発揮された。経済的弱者が金目のものの集中する大商家などを襲撃するのだから、どのような理念を立てようと現場では略奪行為が起きる。だが、これが見つかれば必ず当人は仲間たちから殴りつけられ、盗んだものはその場に捨て去ることを強要された。自分たちは権力の政策変更を迫るための抗議行動をしているのだから、盗みの要素を間違っても混入させてはならない、というのが相当強固な共通認識になっていたのだ。

 映画「ラスト・サムライ」では侍たちは全く鉄砲を持たず、あたかも高潔なネイティブ・アメリカン同様の文化の保持者であるかのように描かれていた。実際には、日本は戦国時代末期には自前で銃の製造を行い、ヨーロッパのどの国よりも大量の銃が日本中にあふれていた。江戸時代にも銃は、物としては決して廃棄されたわけではなく、鳥獣狩りのために実用されつづけてもいた。

 にもかかわらず幕末の日本は、兵器に関しては全くの小国になっていた。それほどまでに江戸時代は兵器の使われることが少ない社会だったのである。それは、実力闘争は行っても武器の力にモノを言わせる闘い方は選択しなかった一揆参加者たちの冷静さが、結果的に生み出した果実だったのだ。

権力とは闘い続けるのが民衆だ

 江戸時代の中頃以降、財政難に苦しむ幕府はたびたび行政改革を行って権力基盤強化を試みた。経済的余裕の増大した農村に新たな税負担を求めたり、大資本に特権を与えて金融の活性化を図ろうとした。しかし、庶民に新たな負担を負わせようとする政策への抵抗は強く、民衆は一揆を繰り返し、「享保の改革」「天保の改革」といった幕府の中央集権政策を見事に挫折させた。江戸時代の一揆には、国政そのものを動かす力があったのだ。

 要求貫徹力が高く、闘争犠牲者も最少限に抑える、そんな一揆の方法が確立されていったのは、民衆の側が一揆の記録を意識的に後進に書き残し続けたことの成果だった。記録の内容が「次はこう闘えばいい」という教訓として広く共有され、それが全国的レベルにまで広がっていたことも、近年あきらかになっている。

 江戸時代の民衆反乱=一揆は、権力一般の廃絶も最高権力者の交代も、それ自体として目指したものではなかった(初期の島原の乱と幕末の一部の闘争を除く)。しかし、誰が権力者であろうと関係なく、現実に必要な政策を実現させるためには「お上」に逆らってでも行動し、一定のリスクを自覚的に引き受けながら、同時にそのリスクを最小化させることにも知恵を絞った。権力と闘うことが全く必要なくなる理想郷が実現するなどとは考えず、制度も為政者も不完全であることを前提としながら、具体的で切実な要求は着実にクリアしていくことが目指されたのだ。

 以上から「草の乱」に戻ると、一揆と蜂起は違うとか、一揆は自然発生的、革命は目的意識的なんて考えはすべて無意味なことが分かるだろう。秩父困民党もまた一揆だったのであり、それでよいのだ。ロシア革命にしてからがボリシェヴィキのスローガンは「平和・土地・パン」だったのだから。政府打倒のスローガンなどというのは、たまたまあったり、蜂起の後からかかげられるものということだ。権力とは闘い続けるのが民衆なのである。


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(2004年12月5日発行 『SENKI』 1163号3面から)

http://www.bund.org/opinion/20041205-1.htm

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