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現地ルポ ”ファルージャで何が起きたのか” 『静かな農村を襲った 真夜中の無差別攻 (「週刊朝日」2004.06.04)
http://www.asyura2.com/0502/senkyo9/msg/581.html
投稿者 外野 日時 2005 年 5 月 15 日 06:47:34: XZP4hFjFHTtWY

(回答先: <中東和平>日本、イスラム諸国にイスラエル国家承認促す (毎日新聞) 投稿者 外野 日時 2005 年 5 月 15 日 06:44:30)


 ジェニンとの共通点は、他にもあった。
 米軍が陣地に使った住民の家で、米兵たちが食物やコーランの上に脱糞していた、とある住民は証言した。そういえば、ジェニンでもイスラエル軍に占拠された民家で、ベッドや家族の写真の上に兵士が脱糞していたと住民が話し、私にその痕を示した。侵攻した側が「征服の証し」として行う共通の行動パターンなのだろうか。(文中より)

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 「週刊朝日」2004.06.04号

 現地ルポ ”ファルージャで何が起きたのか”
 『静かな農村を襲った 真夜中の無差別攻撃』 土井敏邦(稿)

 どい・としくに
 1953年、佐賀県生まれ。85年からパレスチナを取材。著書に『アメリカのユダヤ人』など。近著に『現地ルポパレスチナの声、イスラエルの声』(岩波書店)。
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 米軍が1カ月近く包囲攻撃を続け、700人以上が犠牲になったとされるイラクの都市ファルージャ。この街ででいったい何が起きたのか。現地入りしたジャーナリストの土井敏郭さんが、すさまじい破壊の実態を報告する。
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 居間を通り抜けると、天空が広がり、壁に囲まれた空間は瓦礫の山となっていた。
 一瞬中庭かと思ったが、この家の主人は、「爆撃で天井が崩れ落ちた」と説明した。
 瓦礫の角に哺乳ビンが残っている。その近くに頭皮のついた髪の束、さらにミイラ化した足の一部。その指の大きさから、子供のものと判別できる。瓦礫の下から出てきたものだったという。
 戦闘機や武装ヘリで激しく攻撃された市内北西部のジョラン地区。ザーヒ家のアハマド(28)は、4月6日に突然起こった、その事件を一」う語った。
「当時、叔父や従兄弟など親戚を含む4家族が、安全だと思ってこの家に避難していたのです。午後10時ごろ、突然、まず家の門の近くに米軍の戦闘機から爆弾が落とされ、家の入り口付近にいた男たちが殺されました。その直後、30人を超える女性と子供たちが避難していた部屋にミサイルが撃ち込まれ、崩れた天井の下敷きになって31人が殺されました。子供も16人いました。瓦礫の下に埋まった遺体を片付けるのに2日間もかかりました」
 バグダッドの西方約60キロにあるファルージャは人口およそ30万人、イスラム教スンニー派住民の街である。
 米軍の占領が始まった直後の昨年4月、市内の小学校に陣地を構えた米軍に対し、市民が撤退を要求するデモを行った。そこに米軍が銃撃し、十数人が死亡。この事件を契機に反米意識が一気に広がった。以後、ファルージャは米軍に対する武装闘争の拠点のひとつとなっていた。
 反米感情が一層高まっていた3月31日、市内に侵入した4人のアメリカ人(「民間人」と報じられたが、米軍や情報機関の出身者または関係者といわれる)が市民に殺される事件があった。遺体は焼かれ、鉄橋に吊るされた。
 米軍はこのあとすぐファルージャ攻撃を宣言し、4月5日から戦闘機と戦車で爆撃・砲撃を加え、街の一部を制圧した。だが地元住民の激しい抵抗にあい、街中心部への侵攻はできなかったようだ。
 4月末、米軍とファルージャ出身の旧イラク軍将軍との停戦協定によって米軍は撤退を開始した。私がバグダッドからファルージャに入ったのは、包囲が解かれて数日がたった5月11日だった。
 幹線道路の検問場所には米軍とファルージヤ出身のイラク軍が共同で警戒に当たっていた。だが、検問所のイラク兵の一人は「米軍はわれわれを全く信用せず、車などの最終チェックは米兵がやるんです」と不満をこぼした。
 今のファルージャは一見、平穏が戻ったように見えるが、外国人が単独で動き回るのはまだ危険だ。私はイスラム党の支部を訪れ、取材への協力を要請した。
 米軍の攻撃で負傷した患者たちが入院するファルージャ総合病院。停戦協定から2週間たった5月中旬でも、負傷者たちがまだ残っていた。
 12歳の少年アブドゥル・ワドゥットの右脚は腰までギブスに支えられていた。レントゲン写真を見ると、大腿骨の付け根あたりが骨折している。神経も切断され、ペニスと睾丸を失っていた。
 叔父の説明によれば、停戦協定が成立した直後、久しぶりに友達と遊べると、家の外へ飛び出して、突然米軍の狙撃兵に銃撃されたという。
 眼以外の全身の機能をすべて失った15歳の少年モハマド・イスマールは、もう1カ月も入院していた。脳のレントゲン写真には、小さな爆弾の破片が数個写っている。
 4月上旬、モハマドは、空になった調理用のガス・シリンダーを交換するため肩に担いで家を出た。その後、どこで、どのように爆弾の破片を受けたのか、家族にもまったくわからないという。母親は途方に暮れたように言った。
「高校生ですけど、もう学校へ行くこともできません。この子のために何ができるでしょうか。鼻からの管で食べ物をとるだけです。語しかけても何の反応もありません。死んだ人間のようです」
 ファルージャでの戦闘について、米軍は「武装勢力だけを選んでいる」という言い分を繰り返してきた。だが、私が「民間人への『無差別攻撃』だった」という確信を強めたのは、街から10キロほど離れた郊外の農村地帯・ナイミヤ地区で、米軍のすさまじい攻撃の痕跡を目の当たりにした時だった。
 たっぷりと水をたたえた川、緑が広がる畑、椰子の林。ナイミヤ地区はのどかな農村の田園風景が広がる静かな一帯だ。ここで住民13人が殺害され、27人が重傷を負ったという。本当にこんなのんびりとした場所が攻撃されたのだろうか。私を案内するイスラム党関係者の情報が、にわかには信じられなかった。
 目的地の農家は、田園のなかにあった。周辺にはほとんど他の民家は見えない。
 だが、出迎えたこの農家の主人ハイテム・アブジャーセム(32)に案内されて、数軒の建物が並ぶ敷地内に入ったとき、それまでの疑念は、一気に吹っ飛ばされた。
 4棟の建物の内部が1棟を除きほとんど破壊されている。天井に大きな穴が開き、壁は大きく崩れ落ちている。中は瓦礫の山だった。
 ハイテムの説明によれば、4月24日の真夜中午前1時ごろ突然、米軍の戦車による砲撃と戦闘機による爆撃が始まったという。
「ここにはまったく戦闘員も、米軍のいう『テロリスト』もいませんでした。この家には、銃さえもなかったんです。だからもちろん誰も銃で反撃などしていません」
 そう言ってハイテムは私を1棟の建物の中へ案内した。瓦礫が広がった床に、布団と枕が残っていた。
「戦闘機からのミサイル爆撃でこの部屋が破壊されました。ここには私の弟夫婦と3人の子供が眠っていました。一番上は5歳の娘。爆撃されたとき、弟は子供を抱えて避難させようとしましたが、長女は瓦礫の下敷きとなって死にました。弟自身も右腕の肉をえぐりとられました」
 次の建物は壁一面が崩れ落ち、支えきれなくなった天井は今にも落ちそうな様子だ。
「最初の砲撃はこの壁からでした。私のもう一人の弟とその家族6人がこの部屋で眠っていました。13歳の娘がここで殺されました。名前はブラシュラーです。これがその娘の血の痕です」
 床にころがるブロックの塊に染み付いた血痕があった。
「彼女の母親は手の甲の肉をえぐりとられ、顔も首も焼かれていました」
 ハイテムは崩れ落ちた壁から身を乗り出し、外の中庭を指差して言った。
「21歳の弟はあの中庭で寝ていました。爆撃が始まったとき、弟は叔父の子供を抱えてコンクリートの建物に避難させようとしましたが、その途中で撃たれて死にました。叔父の息子は今も負傷したままです。叔父のもう一人の息子は他の家に寝ていましたが、自分の子供を外に連れ出そうとしたとき、戦闘機からの爆撃で殺されました。弟はモアイヤットで、叔父の息子はアリ・アブジャーセム22歳です」
 ハイテムは、爆撃から逃れようと別の家族が向かった20メートルほど離れた灌漑用水にも私を案内した。

 ■壁に飛び散った肉片と血の痕が

「私の弟アリは2人の娘を抱えて爆撃から避難しようとして、この水路まで逃げ、川の中に身を隠しました。そこにクラスター爆弾が落とされ、アリと六つになる長女のザハラは即死、4歳の次女のグルランは重傷を負って、翌日病院で死にました」
 別の建物の鉄の扉は砲撃で穴だらけだった。中に入ると、中庭が広がっていた。
 ここではファルージャ市内から避難していた親子、32歳の母親と4人の子供が犠牲となった。中庭の隅の床がにじんでいた。ハイテムはその母親の血の痕だと説明した。
 母親と5人の幼児たちは、この中庭でマットレスを並べて眠っていた。ミサイルがその中庭に命中し、赤ん坊をのぞいた全員が即死だった。ほとんど遺体の姿をとどめず、中庭一面に頭部や肢体、肉片が散乱していたという。壁の一面にはセメントを叩きつけたような無数の小さな塊が点在しこびりついていた。黒ずんだ泥のように見える。
「これは壁に飛び散った肉片と血の痕です」と、ハイテムが言った。さらに床に落ちている木の皮のような物体を手に取ると、彼は付け加えた。
「2歳のイブラヒムの手の肉片です。イブラヒムの遺体はばらばらになっていて、頭はこの角にころがっていました。まるで首をナイフで切ったようでした。後頭部は切れてなくなっていました。脚は何日もたってから、あの角でみつかったのです」
 生後6ヵ月になる赤ん坊だけが生き残った。母親がとっさに赤ん坊を洗面所に運んだからだ。他の子供を助けようと中庭に戻って来たときに被爆し即死したという。
 この攻撃で死んだアブジャーセム家の家族のうち10人が2歳から14歳までの子供たちだった。
 深夜から始まった砲撃が止んだ朝、米兵たちが爆撃跡の家に捜索にやってきた。
 亡くなった弟の部屋に入ると、戸棚のドアをたたき壊して中を調べた。中から弟の身分証明書の入った財布と50万ディナール(およそ330ドル)の現金が出てきた。
「米兵はその身分証明書と現金をポケットに入れて出ていきました」(ハイテム)
 米兵たちは他の部屋でも家具を破壊して捜索した。さらに屋外の車の窓ガラスを銃尻でたたき割り、中を調べた。しかし、もちろん武器は何も出てこなかった。「誤爆」だったとわかったのか、米軍の将校がハイテムに「アイム・ソーリー(申し訳なかった)」とだけ言ったという。
「事件を知った周囲の村人が私たちを助けようとここへ来ましたが、米軍は村人たちを拘束しました。地面に座らせ、両手を頭の上に組ませたまま2時間ほども放置しました。生き残った私たちは27人の負傷者を救助しようとしました。しかし薬もなく、ただ包帯だけ。負傷者を救助するときも狙撃される危険があったために立ち上がることができず、這って移動しました」(ハイテム)
 米軍は負傷した家族をヘリコプターで米軍の病院へ運び応急手当てをした後、イラク人側の病院に移送した。その後、米軍から何の補償も公式の謝罪もないという。
 中庭の一角にテントが建てられていた。ファルージヤ市内のイスラム党から寄贈されたテントだという。中には病院から戻った重傷の2人の家族が横たわっていた。
 ハイテムの弟のバラカット(25)は、右腕の肉をえぐりとられ、両脚と腰にも重傷を負っていた。もう一人の弟ユーセフ(31)は、右頬の肉を失い、顎の関節を砕かれている。100ドルほどを寄付したイスラム党以外に支援する団体もない。病院に長く入院することもできず、2人は傷口に蝿が群がるこのテントの中で療養するしかないのだ。
 単純な「誤爆」なのか。
 なぜ米軍は街から遠く離れた農家を狙って、何の反撃もしない相手に数時間にわたって攻撃を続けたのか。
 イスラム党の幹部は「米軍は、殺された4人のアメリカ人の1人当たり、100人のファルージャ住民を復讐のために殺害するまで止めないのだろうと思った」と語った。私はベトナム戦争当時の米軍による「ソンミ村虐殺事件」を思い出した。

 ■コーランの上に残された糞

「700人を超える犠牲者」という住民側の統計が誇張ではなかったことを実感したのは、街の中心地のサッカー場に設けられた「集団墓地」の前に立ったときだった。ここだけでもおよそ500人が埋葬されて、新しい土盛りの列が何十も並んでいる。
 私は前にも似たような光景を目撃していた。2002年4月、パレスチナのジェニン難民キャンプ。イスラエル軍に2週間近く包囲され、空と陸から猛攻撃を受け亡くなった数十人のパレスチナ人住民の集団墓地だ。そこでは急ごしらえの「墓石」は、名前を書いた段ボール紙だった。
 一方、ここファルージャでは「墓石」は歩道の石版だ。中には三つの名前が並んでいる「墓石」もあった。遺体の一部しか見つからなかった幼児3人の墓だという。
 小さな墓もあった。手しか発見できなかった少年の墓だった。一つの土盛りの横に、もう一つ、小さな土盛りが寄り添う墓もある。3歳になる幼児を抱いたまま亡くなった母親の墓だった。
 命を絶たれても抱きしめて離さなかった子供を、その母親の墓が今でも抱いているように見えた。
 ジェニンとの共通点は、他にもあった。
 米軍が陣地に使った住民の家で、米兵たちが食物やコーランの上に脱糞していた、とある住民は証言した。そういえば、ジェニンでもイスラエル軍に占拠された民家で、ベッドや家族の写真の上に兵士が脱糞していたと住民が話し、私にその痕を示した。侵攻した側が「征服の証し」として行う共通の行動パターンなのだろうか。
 墓地で白い髭の老人が号泣しながら、私を導いた。大学生と高校生だった2人の息子が他の3人の親戚たちと自宅でお茶を飲んでいる最中、戦闘機によって爆撃され、5人とも即死した。
 この他にも市内のあちこちに小さな墓地が作られ、自宅の庭に埋葬せざるをえなかった例もあったという。
 集団墓地を取材する私に男たちが群がってきた。私が日本人だとわかると、一人の男が怒気を含んだ声で訴えた。
「私たちイラク人はどんな国からの人も受け入れます。しかしあなたたちが軍隊を送るなら、私たちはその軍隊と闘う。軍隊を送るどんな国でも、私たちの敵なのです。イラクに軍隊を送る国はアメリカと同様、犯罪者で、そのパートナーなんですよ」

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