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「自由」で不自由な「野宿者」
http://www.asyura2.com/0502/social1/msg/523.html
投稿者 へなちょこ 日時 2005 年 7 月 08 日 05:17:47: Ll6.QZOjNOr.w

http://npokama.org/siryousitu/jiyuu/jiyuumoku.htm
目次

はじめに

第1章 イメージとしての「野宿者」

第2章「野宿者」の生活〜4つのモデル〜

 1.95年度社会学教室による野宿者聞き取り調査についての概略
 2.「現役労働型」の生活モデル
 3.「炊き出し型」の生活モデル
 4.「廃品回収型」の生活モデル
 5.「定住型」の生活モデル

第3章「野宿者」の実像
 
 2章では聞き取り調査の結果から想定した「野宿者」の4つの生活モデルを提示した。3章ではそれぞれのモデルに対応する「野宿」者の実際のくらしについて描いてみたいと思う。

 私は釜ヶ崎の三角公園で週に2回行われている炊き出しに、約1年前からボランティアとして参加している。そこ知り合った友人たちに聞き取りをさせていただいた。会話の中の「なっちゃん」は筆者のことである。


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1.聞き取り1〜「現役労働型」〜


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Aさんとの出会い〜

 Aさんは炊き出しを手伝いに来ている労働者の1人である。Aさんは釜ヶ崎に長くいて、労働組合の活動にも参加している。常にカメラを持ち歩き、釜ヶ崎の写真を撮り続けている。Aさんは誰にでも気軽に話しかけられる人で、私が炊き出しに行きはじめた頃からよくいろいろな話を聞かせてくれた。
 

〜聞き取りの状況〜

 この日は台風が関東を直撃したにもかかわらず、大阪はまあまあのお天気だった。待ち合わせは阿倍野橋の歩道橋の上で10時ということだった。約束の15分前に着くと、ちょうどAさんが歩いてくるところだった。Aさんは白いTシャツの上に青いワイシャツをさらりとはおり、薄茶色の綿パンをはいていた。黒い帽子がよく似合っていて、とても58才という年齢には見えなかった。
 

〜野宿生活に至るまで〜

 Aさんは鹿児島県で生まれた。漁師町であった。彼も学校を出てすぐにカツオ船に乗るようになる。冬の船を出さない4ヶ月間だけ出稼ぎで釜ヶ崎に来た。最初は地元で土方をしていたのだが、大阪に行けばお金が高いし、同じ土方でも自分の好きな仕事ができると聞いて大阪に出てきた。22才の時であった。季節によって鹿児島と釜ヶ崎を往復していた。
 

〜野宿生活〜

 Aさんは大阪に来ると、天王寺公園の茂みの中で寝起きした。1988年の天王寺博覧会を境に、有料になった場所である。150円払って天王寺公園に入ると、すぐ左手に花壇があるが、そこは以前は腰の位置までの茂みがあったそうだ。そこで有料化されるまで寝起きしていた。寝るときはダンボールを敷き、出かけるときはダンボールをたたんで茂みに隠していった。公園にはたくさんの人が寝ていたそうである。彼は雨の日や寒い日などにはドヤに泊まった。このようなライフスタイルは釜ヶ崎では珍しくない。高いドヤ代を毎日払うのは大変なことだし、夏の暑いときには、クーラーのないドヤよりも外の方が涼しいそうだ。ただし、これは若い人たちの話である。Aさん自身も58才の今は1泊700円のドヤで寝起きしている。
 

〜ある一日について〜

 Aさんの現在の一日について見てもらおう。仕事に行かない日と仕事に行く日では全くパターンが異なるので、先に仕事に行かない日、具体的にはこの聞き取りをした前日のこ

とについて話してもらった。Aさんは現在はドヤに住んでいるが、基本的にドヤに泊まっていてもアオカン(野宿)していても生活のパターンは変わらないそうである。

 Aさんは4時半には目が覚めて、5時に起きて西成労働福祉センターに行った。ここで毎朝求人が行われる。労働者はセンターのシャッターが開く5時までにここに集まる。5時頃、マイクロバスやワゴン車で飯場が求人に来る。彼は仕事に行く気がなくても、毎朝センターの様子を見に行くことにしている。昨日は仕事がたくさんあったそうである。また、労働組合が配るピラがあればこの時に配るのだが、昨日はビラがなかった。

 6時半にセンターの食堂でみそ汁と飯小盛り、かぼちゃ2切れ、サバ1切れ、ゴポウ2切れを食べた。これで350円。「ちゃんと食器を丁寧にすすいでいるところでしかわしは飯を食べない。センターの食堂は解放運動に積極的に参加してくれる女の子がバイトをしているからな、それでその子の顔を立てるつもりで食べに行っとるんだ」

 7時にドヤに帰った。ここは今年の6月から常宿になっている。ドヤに帰って、前の日からつけておいた洗濯物をゆすいで干した。

 9時頃、ナイロン袋をもってセンターの周りにローソクづくりに使うビンを拾いに行った。いつもだいたい15個くらい拾う。このピンは高齢で働けなくなった労働者の内職であるローソクづくりに利用されるものだ。Aさん自身はローソクは作っていないが、いつもピンを拾って作業所にもっていく。

 その後、三角公園に炊き出しの手伝いに行った。この日はスタッフの他にシスターも4人来ていた。近くのカトリックの教会のシスターで、いつも炊き出しに手伝いに来る。「わしはいつものことだが洗い場に行った。わしは楽してあそこにいるんじゃないぞ。他の人はしっかりおわんをすすがんからな」

 炊き出しが終わって、2時半に「ふるさとの家」に行った。神父さんは散髪をしていた。この教会では神父さんが散髪をしてくれる。お金のない人には無料で、お金の余裕のある人からは少額のお金をもらうことにしている。たまったお金で労働者のためにテレビを買ったり、施設の維持費に充てたりしている。「シスターがハリをしとったからな、キリスト教はハリを許してるのか、わしのとこの宗教は体に傷をつけることは一切許されてないんだがなあ、というような話をしてから帰った」

 Aさんは27才の時に食道ガンになった。M教の道場に1ヶ月通い、ガンが治った。それ以来約30年間、AさんはM教の信者である。

 3時にドヤに帰って、M教のビラを配りに、天王寺の歩道橋に出かけた。「やみくもに配ってもみんな捨ててしまうからな、ゆっくり説明して興味を持った人にだけビラを渡すことにしてるんだ。そしたら、後日その人から連絡があったりするんだ」

 それから4時すぎにセンターの地下にあるシャワーに行った。シャワーは100円、銭湯に行くと320円かかる。さるまたやシャツはだいたい1週間に1度替える。自分が気持ち悪くならない限り着続ける。「明日はなっちゃんと会うからと思ってな」

 シャワーで体をきれいにして、4時40分にM教の道場に行った、そこで体の中のくもりを落とすために3時間いた。

 それから歩いて釜ヶ崎まで帰って、センターの食堂が閉まるギリギリに行って、夕飯を食べた。飯小盛り120円とおかず150円とみそ汁70円を食べた。食後はすぐにドヤに帰って、それから祈り言を唱えてから寝た。12時くらいに目が覚めて、御神書を半時間ほど読んだ。「同じところを繰り返し読むんだ。頭が悪いからな」

 これが仕事に行かない場合の一日である。次に仕事に行く日について。

 朝4時頃に目が覚めて、4時半になったら布団をたたむ。前日の夕方のうちに持っていく物の段取りをしてあるから、歯を磨いて顔を洗って、水が冷たいときは目だけ洗って、5時前にドヤを出て、センターに行く。5時になったらセンターのシャッターがザーッと開く。センターに入ったら、バスや労働者の様子を見て、6時頃にはどこに行くか決める。「現金(日帰り)だけどな、今日はここの飯場にしようかなあとか、コンクリ打ちだからここにしようかなとか考えるわけだ」

 6時頃に10人前後の人数がそろって、車に乗って、だいたい飯場に7時頃に着く、だいたい奈良とか京都とかの飯場が多い。着いたらすぐ朝飯を食べて、草履を脱いで地下足袋にはきかえていつでも仕事ができるかっこになって、入り口の庭で、立って待つ。そしてその日の仕事がコンクリ打ちとすれば、コンクリ打ちの仕事のところの車が来るから、7時半くらいにそれに乗って、京都の中の現場に向かう。8時頃に現場について、現場の中でコンクリがついたらすぐに打てるように段取りを始める。そうするうちにポンプ車が来て、ポンプ車の指示に従って、パイプを這わす。コンクリを打つときには、生コン車とポンプ車というのが必要である。生コン車がポンプ車の中に練ったコンクリを入れて、それをポンプ車で押し上げるのだ。ポンプからホースとかパイプとかをつないで、コンクリを打つところまでパイプを這わせる。ポンプを這わすのに1時間くらいかかる。4メートルくらいのポンプや5メートルくらいのホースをつないでいく。ポンプといっても人が1人では動かせない大きさである。ポンプを這わして、段取りができたら30分くらい休憩がある。休憩が終わる頃に生コン車が来る。コンクリを打ち始める。2時問くらい打つ。職人がポンプを握って、トランシーバーを使い「出せ」とか「ストップ」とか「ポンプをもう少し後ろに引け」とか指示を出す。その指示に従ってポンプを移動させたりする。そして打たれたばかりのコンクリを粗く平らにする。そこが一杯になったらコンクリをとめてみんなでホースを移動する。12時になったら休憩。あと1時間くらいで終わりそうなときはそのまま作業を続けて早めに終わる。まだまだかかる時は、下に降りて昼飯を食べて1時間休憩する。

 遠いところからコンクリを打つので、しだいにいらなくなるホースが出てくるが、それを5、6人ではずして片付ける。たとえば7階が終わって次が6階ならば、6階の奥にホースを運んで、そこで段取りをして置いておく。

 3時頃に30分休憩をとる。そしてまた同じ様なことを繰り返す。後は左官屋が固くなる前にコンクリをきれいになでる。彼らは受けで仕事をしているから、夜中まででも固まるまで何回もなでる。そのかわり左官屋は給料がいいのである。

 5時頃になったら、自分たちで使った道具などを片付けて、日当をもらって、服を着替えて、現場から直接電車で帰る。だいたい京都なら「中書島」の駅まで車で送ってくれる。そこから京橋まで30分である。

 6時半にはドヤに着き、カバンをおく。風呂に行く。センターのシャワーは6時までだから、仕事にいった日は使えない。それから食堂で夕飯を食べる。「わしは最近は続けては行かないが、もし続けて翌日仕事に行くつもりなら、夕飯を食べたらすぐに寝る」

 翌日仕事がなければ新世界で10時頃までブラブラする。ドヤに帰って寝る。「今はパチンコをしないが、昔はパチンコで大負けして、翌日急きょ仕事に行く羽目になったこともあった」
 

〜現在のAさん〜

 Aさんは現在釜ヶ崎解放のための運動に参加して頑張っている。仕事には真夏の暑いときか、真冬の寒いときにだけ行くことができる。そういうときには、いつでも仕事にいける若い人たちは休憩をとるから、仕事に行く人が減り、若くない人でも仕事にいけるのだそうだ。若い人が気候の良いときに働き、若くない人は真夏か真冬にしか働けないという構造は、恐ろしく機能的に釜ヶ崎の労働者をすり減らして続けている。

 Aさんは釜ヶ崎の将来についてこう語っている。「釜ヶ崎はな、近い将来なくなるよ。わしが釜に来た頃は、わしぐらいの若い者がたくさんおったけどな、今はわしと同じくらいのおじいさんばっかりやろ。わしと同じように釜ヶ崎も年をとってきたんやな。だから、あと40年もすれば釜ヶ崎はなくなって、ここら辺も他と同じような住宅地になってるよ」

 Aさんは時間が許す限りM教の道場に通っている。「今もまだ体が少し霊動で動くんや。まだわしの先祖がちょっと残ってて、わしの足を引っ張っているんやな。釜っていうのは一番の地獄だから。そこにまだ執着があるっていうことはな、誰かが残ってるってことなんや」「1ヶ月にな、あそこ(M教の道場)に必ず2500円払ってるわけだ、それから一回お清めを受けに行ったら、だいたい100円とか300円とか払う、仕事した日には500円払ったり。だから、1ヶ月にだいたい5000円を使ってるわけだ。わしも月に5000円ならあんまりこたえんし、納得しとるわけや。もっとあればもっとやりたいくらいなんだがな、まあ地味な暮らしをしとるんだから、このくらいでいいだろうと思って」

 Aさんはお茶やお酒などは一切飲まない。M教の教えを守り、健康に気をつけて生活している。Aさんは2月から6月まで故郷の熊本に帰るのだが、熊本でも毎朝M教の道場に通っているそうだ。


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2.聞き取り2〜「炊き出し型」


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〜Bさんとの出会い〜

 Bさんは3ヶ月程前から、時々炊き出しの手伝いに来るようになった。最初に来たときに、「右翼の炊き出しを手伝っている」と言っていた。あまりゆっくり話したこともなく、聞き取りをさせてもらってはじめてBさんをよく知ることができた。
 

〜闘き取りの状況〜

 Bさんがふるさとの家が開くのを待っているところに話しかけて、聞き取りをお願いした。「いいよ」の一言で承諾してくれた。ふるさとの家のすぐ前にある三角公園のベンチに座って話を聞かせてもらった。58才、羊年。「迷える子羊やな」
 

〜野宿生活に至るまで〜

 大阪生まれの大阪育ち。大阪市立大学の前身である大阪市立天王寺商業に入学。卒業後、誰もが名前を知っている大手の商事会社に就職。高度経済成長期で、日本全体が一番のびていた時代に若い時を過ごした。営業をしていたので接待酒や接待麻雀が多く、十二指腸潰瘍になった。2年間入院した後会社に帰ったが、ポストはすでになく、窓際に追いやられる。やけになって酒を飲み、再び入院。そして26年間働いた会社をくびになる。退職金はなかった。最後の肩書きは課長代理であった。ガードマンや警備員などの仕事に就き、再起をめざしたが、会社をくびになった3年後に、奥さんと子供2人を残して家を出た。
 

〜野宿生活〜

家を出てとりあえず天王寺で野宿を始めた。十数万円お金をもっていたので、しばらくは大丈夫だろうと思っていたが、阿倍野職業安定所に行っても仕事がなく、1ヶ月野宿を続ける。その間に炊き出しの噂を聞き、釜ヶ崎を訪れる。ちょうど阪神大震災(1995年1月)のあった頃だった。釜ヶ崎を訪れるようになって、救霊会館に通い始め、洗礼を受けた。現在ももちろんクリスチャンである。救霊会館はパンやおにぎりの炊き出しをしているが、この手伝いもしていた。1ヶ月ほど会館に泊めてもらうこともあった。しかし、今ではここでの炊き出しにも全く行かなくなった。「ここ以外の教会に出入りしてはならないとおかしなことを言うし、寝泊まりもダメだと言われて、もう今は一切関わっていない」

 現在は昼間はたいてい釜ヶ崎の中、特にふるさとの家にいることが多い。三徳寮の図書館に行くこともあるが最近はふるさとの家ばかりだそうだ。

 利用している炊き出しは、四角公園、三角公園、関谷町公園のうどんの炊き出し、右翼の炊き出しである。

 Cさんは右翼の炊き出しで「手元」をしている。右翼の炊き出しは、釜ヶ崎のすぐ側で行われている。早朝3時頃から用意して5時から配る。7時に終わって、1000円から2000円の手伝い賃をもらい、一杯飲むそうだ。右翼の人7人と手元3人で炊き出しをしている。「1年前から行ってるので信頼されているよ。手元の中で、一番古い。朝早いし、仕事がきつくて、その割にはお金が安いので、みんな続かないんだな。段取りと後片づけが主な仕事。かわいがってもらっているよ。右翼の人たちは、墨は入っているけれども、とても優しい人たちだな。でも怒らせたら大変や」

 Cさんは労働組合の関係の裁判傍聴には必ず行っている。高齢者清掃については、まだ53才なので登録はできない。「1ヶ月にたった一度しか回ってこないやろ、1ヶ月に5700円やったら、ドヤにも泊まれない、どうにもならない」
 

〜ある一日について〜

 Cさんは天王寺と釜ヶ崎の間にある商店街のアーケードのあるところで寝ている。そこには他にも3、4人が寝ている。5時に起きて、寝ていたところを掃除して、5時半に釜ヶ崎に向かう。釜ヶ崎の中のある場所に布団や毛布を隠す。「ダンボールはすぐに見つかるからいいけど、布団や毛布はちゃんと隠しておかないと」

 8時から四角公園の炊き出しに並ぶので、それまで釜ヶ崎の中をうろうろする。8時に並ぶと、列の前のほうである。9時半頃に食べ終わる。

 常に連れと2、3人で行動している。これはシノギ(路上強盗)対策だそうだ。「何度か仲間も変わった。お互い仲間を選ぶからな。向こうもこっちを選ぶし、こっちも向こうを選ぶ。昔の仲間もどこかよそに行ったのでなくて、たいがい釜ヶ崎の中にいる。ただ会わなくなっただけ」

 12時になったらふるさとの家が開くので、それまでふるさとの家の前に荷物を置いて、また散歩。ふるさとの家が開いたら、中に入って話をしたり、本を読んだりして過ごす。3時にはお茶が出るのでいただく。3時頃からテレビがつく。「暴れん坊将軍とか時代物をするからみんな見てるな」

 「60才以上の人たちの部屋が1階、60才以下の人の部屋が2階にある。わしは60才以上の部屋にいるけど、みんなしゃべらんなあ。わしはよくしゃべるけどな。他の人たちは静かに目をつむってる。60才以下の人の部屋では、オセロや将棋や碁などゲームをしている人、おしゃべりをしている人などいろいろいるけどな」

 「最近ラジオを2回なくした。ラジオで音楽を聴くのが好きなんだ。他には映画鑑賞も好き。ゴルフ、麻雀も。ゴルフや麻雀は昔接待でしなければならないということもあったんだけどな。金曜の夜から日曜の朝まで麻雀をしていたこともあったよ。でも、もう3、4年していない。パチンコはもう音を聞いても少しも魅力を感じへんな、卒業もええとこや」

 5時になると、また四角公園の炊き出しに並ぶ。食べ終わると、何もすることがないが、9時頃まで布団を引くことができないので、話をしている。寝つくのは10時をすぎる。「金がなく、寝るところがなく、精神的に不安定やな。熟睡もできん。負けちゃいかんとつっぱっている、なんとか歯止めをかけたいけれども、あり地獄のようにずるずると下に落ちていってしまう。どんなにきつい仕事でもいいから行って、ドヤに泊まって、体を休めて、体力をつけて、もうワンステップ上に行きたい。自分で稼げるようにサイクルを作っていきたい。ここにいる人たちは9割がそうだと思うよ。たまに順調に仕事に行って、ドヤに泊まっている人もいるけど、それは若い人やね。あきらめと、なにくそという気持ちが順番に起こる。寝ころんでいたらどうでもよくなるけれども、すぐに頑張ろうこのままでは情けないと思い返すよ。何度か泣いた」
 

〜野宿生活の中で,思うこと〜

 Bさんは「とにかく仕事が欲しい」と繰り返し言っていた。「来週、連れと2人で仕事に行こうと思っている。でも、雇ってもらえるかどうかまだ保証はない。70%大丈夫と連れは言っているけれど、どうなるかな」

 「ガードマンや警備、遺跡堀り、震災の時には後片づけの仕事もした。最近は行ってないが、センターにも何度も足を運んだ。しかし、不況で仕事がないから。あっても顔付けばかり。闇手配で仕事に行ったこともある。仕事から帰ればドヤに泊まることができる」

 「さびしい。体力も落ちてくる。今とくに悪いところは自覚がない、血圧などはまだ大丈夫だと思う。とりあえず健康な今のうちに仕事をしたい。体をこわしたら大変なことになる。アオカンで衰弱している人が多いからな。足腰が弱って、自分より若いのに、もたもたしている人もいる」

 「先立つ物がないのでぐらついている。小さくならざるを得ない。金のない奴は首のないのと同じ、と連れが言っていた。死のうかと思ったこともある、睡眠薬でぼんやりしてそのまま死ねたらなあ。でも絶対実行はできないし、しない」

 「みんな他に楽しみがないから手っ取り早く酒に行ってしまう。仕事から帰ってきたら、疲れた体を一瞬ごまかすためにお酒を飲み、お酒のためにさらに体を痛めてしまう。疲れれば飲み、飲めば疲れるの繰り返しやな。アルコールは一瞬疲れを感じなくさせる。でも本当はもっとヘビーなことになっている。でも飲まずにはいられない。体がとても疲れているからな」

 「過去は帰ってこない。過去の栄光にとらわれていてはいけないが、栄光を吹っ切れない。過去は過去と思うが、ついつい一人でいるとな」

 「年越しは大変、南港は30日から、3日までの5日間だけやろ。野宿をしていると固形のものが食べられなくなる。そして衰弱、病院はただ衰弱しているだけでは入れてくれない。「まだ働ける」と言われる」

 聞き取りの途中で、Bさんの知り合いが「買ったから」とお弁当を持ってきてくれた。「交際範囲が広いからな、ときどき仕事帰りの友人が1000円くれたりする。でもそういうのには頼りたくない。仕事につきたい」

 この生活で楽しみは、と聞くと、「お金がないから自由ではないけれど、好きなときに本が読めて、好きなときに寝ることができる。そういう意味では自由奔放そのものや」と答えられた。印象的だったのは、「働かざる者食うべからず、昔から言うやろ」とおっしゃったことである。働きたくても働けない、という状況を自分で身にしみて感じていても、この言葉を口にされるのだなあと思った。


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3.聞き取り3〜「廃品回収型」


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〜Cさんとの出会い〜

 Cさんとよく話すようになったのは半年前からである。それ以前からお互いに顔を知ってはいたが、個人的に話をすることは全くなかった。Cさんは必要以上に女性に話しかけない人であったし、私も彼には何となく話しかけにくかったからだ。Cさんが3週間程入院し、私がお見舞いに行ったのをきっかけに、よく話をするようになった。
 

〜聞き取りの状況〜

 9月のよく晴れた日曜日、朝10時に四天王寺の門のところで待ち合わせた。10時5分を過ぎた頃にCさんが自転車で走ってきた。青いワイシャツにジーパンである。人との待ち合わせに遅れるのが嫌いなCさんは、たった5分の遅刻を一生懸命謝ってくれた。日曜日の四天王寺は参拝に来る人であふれていた。親子連れとすれ違う度に、Cさんは子供をうれしそうに見ていた。境内を抜けて、少し人通りの減ったところで、階段に腰掛けて話を聞かせてもらった。

 去年の聞き取り調査の話をおおまかに説明すると、「人に話しかけるときは、目線はちゃんと同じにして話さんとだめやで。道路に座っている人に立ったまま話しかけたりしたら、座ってる者にしたら威圧的に感じるんや」とアドバイスしてくれた。

 親友である彼への聞き取りは聞いてよいのかどうか迷うこともあり、心の痛む瞬間もあった。しかし彼は「誰にも言ったことがない話だし、誰にでもできる話ではないで、でもなっちゃんのことは信頼してるから」とこころよく話してくれた。また、「自分を飾ることができん人間やから、本当のことをちゃんと話すから」と約束してくれた。

 彼からの聞き取りが一段落した後、私の提案で、立場を交代して彼が私に聞き取りをすることにした。しかし、私の人生は非常に短く、単調であったし、何より彼が私についていろいろ質問するのを恥ずかしがってしまって、聞き取りはすぐに終了した。

 聞かせてもらった話を文章に直して、誰よりも先にCさんに見てもらった。彼は自分の話したことが間違いなく伝わり、自分の人生が文章としてまとめられているということをとても喜んでくれた。
 

〜野宿生活に至るまで〜

 Cさんは小学生の時に宮崎から大阪に出てきた、父親の都合で家族そろって出てきたのである。Cさんは中学を出るとすぐにスポーツ店で働いた、しかし、自分にあった仕事が見つからず、いろいろと職場を変える。Cさんが18才の時に、お母さんが病気で亡くなった。家族はお母さんを中心に成り立っていたので、この時から家庭は崩壊してしまう。父親が競艇に入り浸りになってしまい、借金を重ね、借金の取り立てが家にまで来るようになった。妹が2人いたのだが、上の妹がお嫁に行くときに、下の妹を一緒に連れていったので、彼は身軽になった。そして、家を出た。

 東京に行き、飯場に入った彼はそこで半年過ごす。やがてその飯場を出て、手配師に誘われるままに広島に行った。そこではパチンコ店の店員をした。この時Cさんは交通事故で足に障害を持つ。5級の障害であった。病院から出た彼は大阪に戻ってくる。Cさんは30才であった。
 

〜野宿生活〜

 キセルで大阪に帰ってきたCさんはでんでんタウンで野宿生活に入る。「家がどうなってるか気になって、大阪に帰ってきたんや。もう売られていて他の人が入っとったけどな。それからでんでんタウンに行って、とにかく寝ようとして。もうどうにでもなれという気持ちが心のどこかにあったんやろうな」

 野宿の初日、Cさんはでんでんタウンのある場所で、拾ったダンボールを敷いて寝ようとしたところを「先輩」に怒られた。「どこで寝てるんや、ここは俺の場所や、言われて。縄張りがあってな。まあ、そういう場所だけが野宿してる人たちの自分のスペースやから。でも、朝になったらちゃんと片付けていくねんで、そうしたら店の人も何も言わへん」それから、彼もでんでんタウンのある位置を定位置にし、半年間そこで野宿する。私も後日そこに連れていってもらった。昼間のでんでんタウンはやかましく、人の混み合った落ち着かない場所であった。彼の寝ていた位置は難波よりの大きな店の前だった。どうという特徴もない場所で、彼は「間口が他より広いやろ」とだけ言った。そこでゆっくり話もできなくて、私たちはすぐに近くの公園に移動した。どんなふうに一日が過ぎていったかをなるべく詳しく聞きたいのだと言うと、「一日がとても長かったな、30時間にも感じられた日もあった」と言って、話し始めた。
 

〜ある一日について〜

 Cさんは、朝5時に起きて、まずダンボールをかたづけ、隠し、それから寝ていたところをきちんと掃除した。一般に野宿者の朝は早い。寝ている場所が店の前などで、シャッターが上がる前に掃除まで済ませておかなければならないからだ。

 「難波の高島屋の側に地下鉄の入り口があってな、その入り口の裏に茂みがあってそこにダンボールをきちんとたたんで置いてたんや。死角になってて、普通に歩いてる人はよう見つけん場所でな。たいがいみんなそうしてはんで。寝る場所は仲間に聞かれれば答えるけど、かぶりもの(寝具)の隠し場所だけは絶対誰にも言わんな。冬場になると新聞紙1枚、ダンボール1枚が取り合いになるからな」

 「5時に起きて、だいたい2時間かかって中之島まで行くんや。歩きながら、アルミ缶を拾ったり、食事を調達したり。足が痛くても中之島までは頑張って行って、そこで10時まで休む。10時になったら百貨店が開くから、百貨店に入ったり、本屋に行ったり、図書館に行ったりして、時間をつぶす。でも、何をしていても結局次の自分の行動をどうしようかと考えてしまうから、本を読んでても頭に何も残らんな。やっぱり自分の落ちつける場所がないとな。そうかといって、一日中公園にもいられんし」

 歩きながらアルミ缶を集めた。「アルミ缶集めだけに集中した時間はないけど、落ちてるのを見つけると拾った。一日100円でも200円でも自分でお金を作ろうと思った。その頃はゴミ袋いっぱい集めて100円くらいかな。ダンポールを集めるにはリヤカーを借りんとあかんやろ、そうするとたいそうなことになるから、あんまりお金にはならんかったけどアルミ缶を集めた。まあ稼いだお金は焼酎に変わってしもうたんやけどもな。130円の焼酎ばっかり。アルミ缶は隠し場所に置いといてな、船場の業者に10日に一度持っていったんや、アルミ缶100キロはえらいで。業者に持っていったら、自分の名前のワゴンがあって、そこにアルミ缶を入れるんや、それである程度たまったらお金をもらえる。その自分のワゴンを持たしてもらうまでにある程度時間がかかるんや、つまり信用を得るまでってことやな」

 食料の調達の仕方は「先輩」が連れていって教えてくれたという。はたから見ればバラバラのように見える野宿者の社会にもこのように先輩から後輩へ生きる技術が伝えられている。ただし、教え合い共有し合う情報と、決して他人には話さない情報があるようだ。他人に話せない情報とは、たとえばかぶりものの隠し場所などである。

 「先輩が、おい兄ちゃん、飯どうしてんねん、言うて、コンビニエンス・ストアに連れていってくれて、ここは何時に出るとか教えてくれた。何でも知ってるんや。僕は朝の5時から7時の間に、歩きながら食料を調達した。袋にはタバコの吸いガラや紙コップやらが一緒に入ってるからな、パックのビニールをはがさずに捨ててくれるから食べれるけど、そうでないと手がつけられんな。全部期限切れではあっても、それでもちゃんと一応日付は見るもんやな、ああこれはまだいけそうやなとか。これは3日過ぎてるからダメかなとか」

 「いつも必ず1人分のその日の分だけをもらってきた。もちろん自分がとった後はちゃんと袋を閉じておく。野宿生活にも秩序とマナーがあるんや」

 彼は毎日1食しか食べなかった。タバコはシケモクですました。「野宿しようと思ったらそれなりに自分で考えて、お金を使わなくても生きていけるような知恵がついてくるもんやねん。あの頃は何か下ばっかり見て歩いてたなあ」

 だいたい9時になるといつもの場所に戻ってきて、寝る場所を確保する。一般に野宿者といえば、まず食べ物に困っていると思われがちであるが、本当につらいのは寝る場所にまつわる問題であると何度か聞いたことがある。「9時を過ぎると他の人が場所を取ってしまうからな。わざわざ寝てる人を起こされへんし、つらいのは一緒やから。寝る場所がない、自分のある程度プライベートを守れる場所がない、ていうのはほんまにつらいんやで、空腹は水を飲んででも何とかできるけど、寝る場所がないつらさは何とも言えんで」夜の恐怖は想像を絶するものであろう。夜のでんでんタウンは人通りも少なく、様々な暴力やいやがらせの危険が、路上生活者には常につきまとう。

 私も一晩だけある駅の前でシュラフにくるまって1人で寝たことがある。夜中に知らないおじさんが「ここは朝が早いからそっちに移ったほうがいいよ」と声をかけてくれたのだが、その親切な言葉さえ本当にびくびくしながら聞いていた。「夜は熟睡できんかった。常に不安な気持ちがあるやろ、こっちは捨て身の姿勢で寝てるわけやから。変な足音がしたらすぐに目が覚めた」

 冬の寒さにどのように対処するのかは野宿者として生き残れるか、行路死亡者となってしまうかの別れ道であろう。釜ヶ崎では未だに毎年300人以上の人が冬に路上で亡くなるのだと聞く(注1)。「冬の寒いときはダンボールで風避けをつくり、新聞紙を体に直接巻いて、その上から洋服を着んねん。新聞紙は保温効果があるから。それから冷蔵庫用のダンボールにもぐりこむんだ」

 大阪の公園にはトイレが少ないが、野宿者が生きていくためには公園のトイレと水道はぜひとも必要なものである。「水は公園のトイレでもらって、ペットボトルに入れて持ち歩いた。洗濯も公園の水道でした」
 

〜野宿生活の中で思うこと〜

 足に障害があったので自分が生活保護を受けられることは知っていた。しかし、生活保護の申請には行かなかった。「かっこよく言うと、お上の世話にはなりたくない、ていう気持ちがあってんな」

 生活保護を受けるためには住所が必要なので、もしかしたら申請に行ってもどうにもならなかったのかもしれない。

 30歳という若い野宿者である。周りは50歳くらいのおじさんばかりであった。「生活はそれなりに楽しかったよ。自分の部屋が欲しいとかいう気持ちはその時にはなかった。誰にも束縛されないことがうれしかった。世の中にはこんな生活もあるんやなあって。こんな生活もいいもんやなあって。友達は作らんかった、とにかく1人でいた。人と接するのを避けてたから。誰か人としゃべるとすぐにもめそうやった」

 「野宿している人たちも、みんな家族のことは心の中で気にかけてんねん、でもな、それを口に出してしまうと愚痴や言い訳になってしまう。だからあまり話さんねんな、みんな。野宿してる仲間で話しててもな、昔のことをこっちから聞くのは、絶対ダメやな。向こうから話し始めたら聞くけど」

 ルーティーンワークの有無について尋ねてみた。「人間お金がないとな、できることは限られてるから。楽しみとか趣味とかとは無縁の世界やな。毎日同じことしかできん。すぐ働きたくなるから、駅手配でときどき飯場に入った。駅手配は今から考えるとセンターから行くのの半分の日当や、半分弱くらいかな。僕は足悪いやろ、だからいつも仕事に行けるわけじゃなかった」

 野宿者とホームレスの違いについてどう考えるかと尋ねると非常に的を得た答えをいただけた「野宿者は寝るところが定まらない人たち。たとえ一定のところで寝起きしていても、そこは仮の寝場所でしかないやろ。ホームレスっていうのは、生活空問というか自分の拠点を持っててやな、たとえば公園でテントや小屋を作ってくらしている人たち。外国

では子供も一緒にくらしてたりするやろ」「今はベンチにしきりがあるやろ、あれがあると野宿者が寝ころばれへんねんな。あるのとないのとえらい違いや。中之島公園のベンチは今ほとんどそうなんだ。野宿者対策なんだろうな。阪急グランドビルの32階にもベンチがあってんけど、今はないからな」

 野宿を意味するアオカンとは、青空簡易宿所の略だと教えてくれた。「青空全部が自分の部屋の屋根や、てことやな」というその言葉には、アオカンせざるをえない人々が何とか明るく日々を乗り切ろうというたくましさが潜んでいると感じられた。
 

〜野宿生活の終わり〜

 Cさんは半年間釜ヶ崎を知らずにいた。Cさんが釜に来たのは、1983年、彼が31歳の時である。彼はある日通天閣を見ようと新今宮の方に来た。そして、1枚のビラをもらった。釜日労が配っているビラであった。「山谷闘争に参加しよう」とそのビラには書かれていた。「東京に行くのもいいな」と思い、Cさんは三角公園の場所を人に聞き、釜を訪れる。そして、バスに乗って山谷に向かった。冬のことであった。

 ここでCさんは「自分の生きる道を付けてくれたHさん」と出会う。デモが終わった後、立ち去ろうとしたCさんにHさんが声をかけ、大阪に連れて帰り、上から下まできちんと整えてくれた。「そりゃもう髪は伸び放題で、どろどろのかっこしとったんやから」それからCさんはHさんの後について、釜ヶ崎の労働組合で運動をするようになる。こうしてCさんの野宿生活は終わった。
 

〜現在のCさん〜

 現在CさんはK会の主要スタッフとして、K会の事務所で共同生活をしている。つらいことが多くてお酒の量は増えたけれども、現在のCさんは明るく、取っ付きやすく、炊き出しの場での人気者である。でしゃばりすぎないように気をつけてはいても、いろんな人がCさんを頼りにし、話しかけて来る。しかし、Cさんの歩んできた人生を知っている人はほとんどいない。

 Cさんはいつも一生懸命である。「昔から今日一日をめいっぱい楽しもうというふうに考えるようにいつのまにかなってて。ああ、今日も目が覚めたなって。あまり長い展望で人生設計を立てたりするんじゃなくね。すぐ先に何があるかなんて誰にもわからないし、わかってしまったらおもしろくないやろ。今の生活は自分に合っていると思うから、とりあえず今のところは、これからもK会でずっと働き続けたいと思っているけど、先のことはわからへん」

 「人間の運命というものは他人との関わりによって大きく左右されるものだ」とCさんは話の途中で何度も言った。本当にその通りだと思う。Cさんの運命はいろいろな人に左右されてここまで流れてきている。


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4.聞き取り4〜「定住型」


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〜Dさんとの出会い〜

 Dさんは4ヶ月ほど前から炊き出しに手伝いに来るようになった。出会った頃は施設に入っていた。現在は公園でハウスをつくってそこで生活している。DさんもCさんと同じくK会の仕事や労働組合の仕事をしている。しかしDさんは事務所で寝泊まりはしていない。
 

〜聞き取りの状況〜

12月の中旬、朝10時半に西成公園を訪れた。西成公園は縦350メートル、横120メートルのほぼ長方形の公園である。1ヶ月ほど前に来た時よりハウスの数が3倍に増えていた。約60人の人が現在くらしているそうだ。

 どのハウスにDさんがいるのかわからなくて、3人の人に尋ねた。2人の人は、「やあ、ちょっと名前ではねえ。顔を見ればわかると思うけど」と答えてくれた。3人目に尋ねた人がEさんで、お向かいの家だと教えてくれた。私はEさんとは以前から顔見知りであった。Eさんはこの公園に3年9ヶ月住んでいる人で、この公園の村長さんのような存在である。前日にお願いしておいたので、Dさんはハウスの中で待っていてくれた。
 

〜野宿生活に至るまで

 Dさんは昭和23年生まれ、49才。石川県のお寺の息子として生まれた。大学時代に宅建、危険物取り扱い、調理師免許、社交ダンスの教員免許を取得。大学をでて、石川県で不動産の仕事につく。会社に入って、初代取引主任になった。28才で課長になり、70万

の月給をもらうようになるが、お酒と芸者に囲まれた遊蕩三昧のくらしがいやで会社をやめる。この時、奥さんとも別れた。娘はまだ生後5ヶ月であった。奥さんは石川県長者番付の7位に載る家の娘だったので、現在もお金には困らずくらしているそうである。

 それから、10年ほど東京で、板前や、書籍の営業、建築会社の営業などをする。話がうまいので、売り上げが多く50万の月給をもらっていた。

 35才の時に、営業の仕事をやめ東京の山谷に行って土方を始める。以後、名古屋の笹島や、大阪の釜ヶ崎などで土方をしながら労働運動に参加する。営業をやめて、なぜ急に土方を始めたのかを尋ねると「特に理由はなかったけど、若くて体が動くうちは体を使わなければ、体がだめになると思ったんや。もうちょっと歳をとったら、調理人かダンスの教師でもしようと思ってる」と答えた。
 

〜野宿生活〜

 Dさんのハウスはたたみ2畳を縦に並べたような形である。金網にロープを張り、そこにブルーシートをかけて三角形に裾を広げている。中を見ると、ハウスと言うよりはベッドという広さである。地面に発泡スチロールの箱を並べて置き、その上にベニヤ板をしいて布団を敷いていた。他の人のハウスに比べれば小さいものである。Dさんはここに1ヶ月前から住んでいる。それ以前は廃品回収をしてリヤカーで寝ていた。さらにその前は施設でくらしていた。

 「テントのことをね、みんなハウスって呼ぶんだ。最初は何のことかわからなかったけどテントのことなんだな」

 DさんはK会の仕事や炊き出しのある前日にはK会の事務所に泊まることにしている。

翌日何もないときは自分のハウスで寝る。
 

〜ある一日について〜

 Dさんは朝4時に起きる。「日の出の前に起きるんだ。ちょうどこのころ寒くなるので目が覚めるんです」

 それからたき火を焚いて、米を研いで朝飯の準備をする。ご飯を炊くのは一日でこれ一回である。「水場が遠いと何度もくみに行かなければならないでしょ。ここなら近いからなんてことないけど。僕は携帯コンロ、鍋、釜、茶碗などを持っているけど、もうちょっと上等になると洗剤やスポンジを持ってる人もいる。何もない人はコンビニに取りに行く。夜中の2時と早朝6時、つまりゴミ屋さんの来る時間に出すでしょ。初めてアオカンをする人は袋をちぎって中の物を出すんだ、それで最近心斎橋では出さなくなってる」

 8時に食事が終わる。食事の後にテントの中の片づけをする。10時頃からダンボールが出始めるので、集めにでかける。「だいたい夜中に大ゴミを取りに行くか、昼間にダンボールを集めるか、夜中にダンボールを集めるか、みんなこの3つのうちのどれかだな」

 仕事が終わるのは3時か4時頃になる。寄せ屋が6時からだから、6時に難波の寄せ屋にダンボールを持っていく。それからそのまま心斎橋の方に向かう。心斎橋で、ドーナツショップやハンバーガーショップからパン類をもらって帰る。「これが翌日の朝食や昼食になったりするんだ。賞味期限が過ぎてても一日は大丈夫でしょ」
 

〜野宿生活の中で思うこと〜

 ハウスをつくることの意味についてDさんはこんなふうに語ってくれた。「テントをつくるとね、テントそのものに生活したいという形が出てくるわけだ、そうすると日用品など物が増える、やがてそれを守らなくてはならなくなる。それでハウスを離れられなくなるんだ。たいていの人は仕事(ダンボール集め)に行ってる間にとられてるな。ハウスをきっちり作っているということは、中に何か大切なもの、衣類や少しの家財道具があるということを証明してしまっているようなものだからな。だからねらわれるのは当たり前なんだ。一番取られやすいのがモク(たきぎ)、それから衣類、食物」

 つまり、ダンボールハウスというのは鍵のかからない家のようなものである。人によっては頑丈につくって、留守の間はひもでしばっておいたりするようだが、壊そうと思えばすぐ壊せる。結局そばを離れないのが一番ということになる。そしてハウスの前にいる姿を見た通りがかりの人は、「いつもあそこでぼんやりしている」と思うことになるのだ。しかし、実際は一度ハウスをつくるとおいそれと離れられない、というのが真相のようだ。

 誰に取られるのかと尋ねると、「周りの人」と答えた。「自分が限界だからね。人のことにかまってられるか、という考え方になるのが当たり前だ。カツカツのところで生活しているんだから。もしなっちゃんが今何も着る物がなくて裸でここにいるとと考えてごらん。目の前に服があれば、とりあえず今だけ借りておこうと思わない?」

 「本当は水と火と便所があれば人間他には何にも必要ないんだ。だから俺のテントなんかいつも開けっ放し」「自分が仕事に行っている間に周りの人にハウスを見てもらったり、食べ物をわけあったりすることもあるけど、俺に言わせれば身を守るための連帯だからな。あまりいいものじゃないな。なにかみんなでしようっていう連帯ならいいけどな」と、Dさんはこのように言うけれど、同時に「俺のテントのあのベニヤは、こないだ風でシートがめくれたときに、Eさんが持ってきてくれた物なんだ。Eさんにはいつもよくしてもらっているよ」とも言っている。
 

〜Eさんのある一日について〜

 Dさんからの聞き取りを終えた後、Eさんのハウスにおじゃまし、焚き火を囲んで3人で話をした。

 Eさんはこの公園で4回目の冬を迎えるそうだ。Eさんのハウスは寝室になっているテントと「庭」で構成されており、「庭」にはブルーシートの屋根がある。「庭」はベニヤ板で囲まれているが、完全に外と遮断されておらず、地面も土が見えている。この「庭」にかまどがあった。火にあたらせてもらった。たき火というより、自家製のかまどなのである。ブロックで高さを作り、その上に冷蔵庫の後ろについているアミをとってきて乗せていた。その上にやかんと鍋がおかれていた。お茶をいただきながら、簡単に一日の過ごし方を聞かせていただいた。

 Eさんは4時になると目が覚める。そして5時までは布団の中でラジオを聴いている。5時になると起きて、ダンボールを寄せ屋に持っていく。だいたい90キロのダンボールを持っていって、700円の収入になる。2、300円ずつためて、500円の米を買う。寄せ屋の帰りに170円の食パンを買って帰る。コーヒーと食パンを朝食に食べる。朝食は6時半からである。「朝食を終えるとフリータイムだな。洗濯したり、ダンボールを集めに行ったり。毎日はなかなか集まらないから、隔日で行くことにしている」

 昼にご飯を炊く。3合炊くので、あまりが夕食になる。「ご飯がないときはそ一めんを炊いたりな」

 お風呂は隔日で芦原橋の部落解放会館の北津守温泉に行く。160円である。夜は8時頃に寝る。

 「若い頃、戦争で朝鮮、満州、シベリアに行ったよ。シベリアに1年8ヶ月おった。昭和23年に日本に帰ってきたんだ。その頃鍛えたのが今役に立ってるんだろうな」

 Eさんの隣に住んでいる人が通りかかったので、Eさんが「あの人にもきいてごらん」と声をかけてくれた。

 Eさんの隣人は1ヶ月前からこの公園に住んでいる。毎日廃品回収をしていて、一日の収入が1000円から1800円になるそうだ。毎朝8時から昼の3時まで、ダンボールだけでなく、新聞紙、広告の紙なども集めている。毎日400キロのリヤカーを引いているのだと教えてくれた。400キロのリヤカーを引くのはかなり体力のある人でないとできないことだと思う。

 廃品回収で一日1000円を割らないというのはすごいことである。しかし、考えようによっては、7時問働いて1000円にしかならないというのはとんでもないことである。「廃品回収は馬鹿らしくてやってられない」という言葉も聞き取り調査の中で何度か聞いたが、本当に割に合わないと思う。

第4章「野宿者」のイメージを支えるもの

おわりに

参考文献

(資料)聞き取り調査

大阪市立大学文学部人間関係学科社会学専攻

平成8年度卒業 T・N

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