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職場から  今やストレス職になっている教育現場U  【SENKI】
http://www.asyura2.com/0502/social1/msg/563.html
投稿者 愚民党 日時 2005 年 7 月 26 日 12:03:31: ogcGl0q1DMbpk

職場から

今やストレス職になっている教育現場U

http://www.bund.org/culture/20050725-1.htm

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重要な国家行事となった入学式・卒業式

佐伯 透

 今年も多くの公立学校で「日の丸」・「君が代」の強制に抵抗する教員が処分を受けた。卒業生の門出の日、また新入生の歓迎の日なのに憂鬱な気持ちになるのは私だけではないだろう。  

 私の勤めている小学校でも春は卒業式の練習に余念がない。練習の様子を見ていると、卒業生が「君が代」を歌っているときに、担任教師の「もっと元気良く、大きな声で! もっともっと大きな声が出るはず!」という叫び声が、ひときわ大きく体育館に響いている。歌詞の意味も教えられていない歌を、どうして元気よく歌えるのだろうか?  

 歌はその歌詞の意味や、歌の背景を知ることにより感情移入し、心を込めて歌うことができる。歌の意味を教えたら心を込めて歌うことができないから、形だけ大きな声で歌うように子供に指導しているのだ。当の教師も歌の意味を知るものは少ないだろう。  

 国家行事としての卒業式。当の教師も当該生徒に、大きな声で「君が代」を歌わせるように指導を受けている。文科省、教育委員会からの学習指導要領は絶対で、それに忠実に従うことが教師の責務と今やなっている。  

 意味や理由を考える余地は教師にはない。教師は国の学習指導要領を果たす一兵卒にしかすぎない。「日の丸」や「君が代」の意味を知らない教師が、意味もわからない国歌・国旗として子供たちに指導していく。なんとも無責任な話ではないか。  

 私から言わせてもらえば、教師なんて無責任者の集合体だ。現在、全国の学校で不審者侵入に対する防犯訓練を行っているが、私の知る限りにおいては子供の命に真剣に向き合っている教師はいない。防犯訓練を非常に面倒なこととして考えている。「どうして私がこんなことしなければいけないの!」程度にしか考えていない。先日、刺股訓練を行った。ある女性教師は、刃物を持った不審者に対して、刺股などで抵抗することが過剰防衛にはならないのか? と心配していた。どういうことか?  

 「過剰防衛とされたときに私はどうなるの? 過剰防衛になって懲戒免職になるなんてごめんだわ。だったら手を出さないほうが利口よ!」  

 教員としての自分の身分を防衛することを一番に考えているのだ。この教師は、過剰防衛かどうかと考えている間に殺されてしまうだろう。  

 防犯訓練の指導をした地元の警察署の警官は、「防犯設備を整えることも大事だが、まず職員が危機管理意識を持つことが一番です」という。適切な意見だと思う。  

 学校は、地域の大切な子供の命を預かっている。その責任意識が教師の側に希薄だ。  教師の責任感は学習指導要領を守り、国家の決定を「責任を持って」、忠実に子供たちに指導することなのだ。それが模範的な教師の姿だ。  

 公立学校の教師に命の指導を期待するのは無理な話。国家百年の計を変える以外ない。卒業式・入学式でのこのような露骨な強制を目の当たりにしていると、この子供たちは天皇の赤子として扱われているのだなと、つくづく感じる。学校行事は国家行事である。今やそれは国家(天皇)に敬意と忠誠をつくす、子供たちの門出を祝う式典なのだ。全国どこの学校でも、学習指導要領に定められている通りに、そつがなく敬意と忠誠を払いながら厳粛に行われることが求められている。しかし参加者の誰が敬意と忠誠を国に対して持っているのだろうか。私は誰もいないと思う。

(用務員)


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教師になるなら社会の現実とむきあう経験が必要だ

南 音弥

 大学で教育学部に入ると、学校教師の教員免許を取得することが卒業の要件になる。教員免許を得るためには、文部科学省の定める数の単位の認定が必要なのだ。だから学生は、より上級の教員免許を取得するために単位をとることに躍起になる。教員の免許を得た後、実際に教師という職業に就くためには、地方教育委員会の採用試験を受けなければならない。これが非常にテスト主義的なもので、一部適性面談などはあるにしても、その大部分は学習指導要領の内容を、どれだけたくさん暗記しているかで点数が決まる。学生生協の本屋には、採用試験対策のマニュアル・ガイドブックがずらりと並ぶ。教師を目指す学生は学習指導要領をバイブルにして、試験前にはその暗記に追われる。  

 そのためか、教育学部の学生は社会の問題に対して鈍感になっている部分がある。学校の勉強さえしていれば教師という仕事にありつけるのである。それで自分の生きる社会をリアルに捉えることができずに、まるで教科書の中の1ページであるかのように捉えている学生が多い。そうして学生が教師になったとき、一体子どもに何を教えられるのであろうか。

  *    *

 私は、教師は学校の勉強を教えて、子どもの学力を伸ばしてやることだけが仕事だとは思わない。子どもにとって勉強ができるようになるのは喜びである。成功体験で子どもを充実させてやることで、人格形成によい影響を与えるということもあるかもしれない。しかし私は子どもを伸ばすということには、教師自身の人間性や、それまでの経験がものを言う部分が大きく関わると思っている。  

 私は、くぬぎ山のワークや新潟県中越地震での炊き出しボランティアなど、人と人とのふれあいを通してこれまで多くのことを学んだ。被災地をこの目で見て、復興に全力を傾ける地元の人々の姿を見て、人の生き方を少しは勉強できたと思っている。教師を目指す者には、学校で学問を学ぶだけでなく、リアルな体験を通して人間性や価値観を磨くことが必要なのではないか。  

 教師は、授業中には勉強も教えるが、それ以上に教師自身の人間性や価値観を子どもたちに示すことが本来の仕事なのだと思う。実際私は、小・中学校の頃、勉強を教えてくれた先生の姿よりも、その先生の人柄や、どのような価値観を持っていたかのほうが記憶に残っている。そういった先生の価値観や人間性は、少なからず自分の考え方にも影響している。教師は子どもに対して影響をあたえる立場なのだ。特に小・中学生の子どもは思春期で、考え方や人格を形成するのにも非常に重要な時期である。教師になる人は、自分たちが子どもに影響を与える存在であるということを自覚しなければならない。     

 そこで私は、教師は社会問題に対しても無関心であってはならないと思う。例えばイラク戦争にしても、現在イラクで何の罪もないイラクの民衆がアメリカの石油政策のために殺されている。それを教師は子どもたちに教えないわけにはいかない。「教師は学習指導要領に書いてあることだけを教えればそれでいい」と言うのは間違いだと思う。かたや道徳教育で「命は宝物、限りある命を大切に」と教えたとしても、イラクで人々が次々と殺されている現実を教えなくては、まったくの戯言である。  

 社会の事実を教える上で、教師は社会の問題にどう向き合い、それをどう受け止めるかも子どもたちに示す必要がある。教師になった後のほうが教育現場の毎日におわれ、自分以外の社会への関心は希薄になっていく。それならば教師を志す学生は、学生のうちから社会の動きに対して敏感であるべきだと思う。教育学部に入学したからといって、必ずしも教師にならなくてはならないというわけではない。しかし本当に教師を志すというのであれば、勉強ができるだけのお利口さんではいけないと思う。ある教育者は「教師とは自分の人生を切り売りする商売」だと言った。子どもは大人の生き様を見て育つのである。この社会の中で自分自身がどのように生きてきたのか、あるいはどのように生きていくのか。それがこれからの教師に問われることだ。

(教育学部学生)


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理科離れは見たことがないものが問題に出るから

和泉菊蔵

 最近は学力低下が言われている。しかし、私はそうだとは考えていない。熱心に勉強する人は勉強するし、受験戦争もいささかも衰えてはいない。ただ、勉強する人としない人との差がはっきりと出ている。いわゆる二極化が進んでいるように思われる。  

 理系離れも言われている。理科が嫌いな生徒が増えているということだ。これは的を得ていると思われる。私自身、家庭教師や塾講師の経験からも感じたことである。  

 生徒たちは、理科は難しいという。わけがわからなくて全く理解できないともいう。数学と比べて、それほど難しいのだろうか。社会や受験英語のように覚えなければならないことが多いわけでもない。しかし何回か理科を教えているうちに、その理由が理解できた。中学生の理科の教科書を見てみよう。一年生の最初に学習する内容には、『身の回りの植物』などという題目で、植物の分類や成長過程について書かれている。試験の問題にも、いくつかの植物の名前を挙げて、分類わけをするような問いが出る。例えば、桜、イチョウ、マツ、タンポポ……。  

 名前を見てすぐにどういう植物であったか思い浮かべられる人にとっては、分類分けもそれほど難しい問題ではないだろう。だが中学生の多くは、植物の名前と実際の木が結びつかないのだ。  

 イチョウと言われて、草なのか木なのか海草なのか、そもそも植物の名前なのかが分からなければ問題は解けない。学校の授業ではイチョウとは何かは説明してくれない。教科書を書いている人たちは、当然知っているという前提で書いているのだ。これでは生徒たちが理解できずに混乱する。私は塾では植物について教えるときには、植物図鑑を持ってきて写真を見せながら勉強した。

 「これがタンポポというやつだよ」と、図鑑を見せて言うと、「ああ、それなら見たことがある」と答えてくれる。そこから始めると、生徒たちは興味をもって勉強してくれた。  

 動物に関する内容でも試験問題に「トノサマガエル」などとある。「カエルは両生類」という内容を一生懸命覚えた人でも、いきなりトノサマガエルまでは分からない。  

 カエルにいろいろな種類があることを、一体どれだけの中学生が知っているのか。日常生活でカエルを目にすることがあったとしても、アマガエルがせいぜいだろう。トノサマガエル? それはどういう生き物なのか? テスト問題を持って質問に来た生徒に、私は図鑑を見せながら、このくらい大きいカエルがいるんだよと説明した。すると、「えっ!」そんなに大きなカエルがいるのか! と驚いていた。「もっと大きなカエルもいる?」彼は熱心に図鑑を見ている。「このカエルは大きいよ。なにせザリガニを丸呑みしてしまうんだ。そうそう、ザリガニっていうのは、これね」  

 興味をもって図鑑を眺めている生徒を見ながら、私は、最近の理科の内容がとても冷たく、つまらないものになっていると感じた。それは教科書や試験問題を作る側が、学ぶ側のことを全く考慮していないからなのではないだろうか。  

 教科書を書いている世代は、おそらく子供時代に山や川で多くの生物を見ながら育った人達だろう。日が沈む頃には、西の空の金星が目に入っていたはずだ。だから『夕方に西の空に一番明るく輝いて…』と、金星についての試験問題が出るのだろう。しかし、その時間、今の子供たちは学習塾か、家でテレビゲームをしている。  

 理科の教科書に出てくる植物や動物のなかには、私自身も見たことが無いものや、見たとしても水族館くらいのものも少なくない。トノサマガエルにしても、私もここ15年以上目にした憶えがない。教える側も実物を見たことがない、経験したこともない、学ぶ側も全く分からない。教え方の改革が必要なのではないかと思う。

(塾講師)


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(2005年7月25日発行 『SENKI』 1185号6面から)

http://www.bund.org/culture/20050725-1.htm

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