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徐京植「プリーモ・レーヴィへの旅」(朝日新聞社刊、1999年刊)の「断絶」の章からの一文。
http://www.asyura2.com/0502/war66/msg/852.html
投稿者 たけ(tk) 日時 2005 年 1 月 30 日 22:00:50: SjhUwzSd1dsNg

(回答先: Re: IGファルベンの帳簿 = WTCのがれきから都合よく発見された「テロリスト」のパスポートにそっくり 投稿者 外野 日時 2005 年 1 月 30 日 20:47:20)

実際の囚人や所長や娘達が当時実際に見聞きした事実と、
「と言われている事実」や、
事後的な知識を元にして判断した部分
とをよくよく区別してお読みください。

レーヴィが実際に感じたのは、囚人として差別された、一般人の職員よりも待遇が悪かった、ということだけのようだ。原文を読んでいないので断定はできませんが・・。

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http://blog.livedoor.jp/aikoen111/archives/46825.html

徐京植「プリーモ・レーヴィへの旅」(朝日新聞社刊、1999年刊)の「断絶」の章からの一文。

・・(差別する者は差別されるものの痛みを感じない、という一般論を述べた後)・・

 どうしてこのような理不尽なこと(第三者から見れば−−しかしこの場合、「第三者」は存在しない)が起こり続けるのか? 徐京植のこの文章は、ユダヤ系イタリア人の化学者でアウシュヴィッツから生還したプリーモ・レーヴィの文章と生涯を題材に、〈民族〉によってもたらされた、この不条理な断絶を省察した、珠玉の思考と表現に溢れた本のなかの一章である。

2 ブリーモ・レーヴイの生と死

 簡単にレーヴィの生涯とその時代背景を辿っておこう。レーヴィは1919年、奇しくもドイツでナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)が結成された同じ年にイタリア北西部のトリノ市に生まれた。1933年のアドルフ・ヒットラーによる政権掌握、1938年のドイツによるオーストリア併合、イタリアでの「人種法」発布、1939年のドイツによるポーランド侵攻、1940年のアウシュヴィッツ収容所建設開始、イタリア参戦、1942年のヴァンゼー会議の決定を受けたドイツ占領下のユダヤ人の絶滅収容所への移送開始といった時代状況のなかで、1941年にトリノ大学を卒業したレーヴィは、反ファシズムのパルチザン闘争に参加、1943年末ファシスト軍に逮捕される。1944年にアウシュヴィッツへ移送され、モノヴィッツ収容所(通称ブナ)で強制労働に従事する。1945年1月、ソ連軍によるアウシュヴィッツ解放。その時点で約6万5千人の囚人が生存していたと言われるが、大半は撤退したナチスが連行していったため、解放されたのは約7千人、そのうちの1人がレーヴィだった。

 彼はソ連、東欧を経て1945年10月にトリノに生還、その後、化学会社に就職した。「アウシュヴィッツ体験」を証言すべく、『これが人間か』(1947年)、『休戦』(1963年)、『周期律』(1975年)、『今でなければいつ』(1982年)、『溺れるものと救われるもの』(1986年)ほか、短編集や詩集など数冊を出版する。だが1987年、トリノ市の自宅で自らの命を絶った。

 徐京植のこの著書は、トリノ市郊外のレーヴィの墓を訪ねる自らの旅と、自分自身の生のこれまでの軌跡を重ね合わせながら、レーヴィの著作を丹念に読むことを通して、レーヴィの自殺という答えのない問いに迫ろうとする魂の出会いの記録である。そこから浮かび上がってくるのは、ほかでもないかつての冷戦状況により分断された東アジアに生きる私たち自身の問題なのだが、まずは「断絶」と題されたこの章を読んでいくとしよう。

3収容所における断絶

 1944年の末、プリーモ・レーヴィを含む3人の囚人が、「ブナ」の研究室の作業に配属された。ブナとはアウシュヴィッツ近郊のモノヴィッツ収容所の通称で、ドイツの大企業I.G.ファルベンの化学コンビナート建設のための労働力供給を目的とした強制労働収容所である。ブナという名は合成ゴムの成分であるブタジェンとナトリウムの頭文字から来ているという。アウシュヴィッツはポーランド南西部の小さな町で、本来の地名オシフィエンチムをナチス占領後にドイツ式に改称した。「アウシュヴィッツ」とは、1940年に開設されたこの町の第1収容所(周辺の収容所群を統括する基幹収容所)と、そこから北西に3キロほど離れたビルケナウの第2収容所(1941年~)、さらにモノヴィッツの第3収容所(1942年~)を中心に、周辺地域に存在した45の強制収容所群の総称であり、そこで110万から150万人(その9割がユダヤ人)が殺されたと言われている。このような絶滅収容所は、アウシュヴィッツのほかに、トレブリンカ、ソビブル、ヘウムノ、マイダネク、ベウジェツなどが知られており、これらの収容所やほかの場所でのユダヤ人犠牲者は概数600万人と言われている。ナチス・ドイツによる「絶滅政策」の犠牲者は、ユダヤ人だけでなく、「ジプシー」と呼ばれたシンティ・ロマ人、同性愛者、身体・精神障害者、新興宗教の信者、政治犯、戦争捕虜などにも及んだ。
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ここまでは「と、言われている」という話。

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 それでは、レーヴィの収容所での生活はどのようなものだったのだろう。

 「ブナ」の研究所は強制労働とは言え、「暖房のある部屋でのデスクワーク」であるから、ほかの囚人よりは楽な労働だ。しかし、そこでレーヴィは、自分たちのみすぼらしい姿と研究所で働く娘たちとの差異を目の当たりにせざるを得ない。〔中略〕この娘たちはすべすべしたばら色の肌を輝かせ、清潔で暖かそうな服を着て、長い金髪を美しく整えている。話し方は優雅で上品だ。囚人独特のかすかに甘ったるい臭気に顔をしかめる。飢えている彼らの視線もはばからずジャムつきパンを食べる。彼ら囚人とは直接口もきかない。(159頁)

 I.G.ファルベンに雇われたドイツの民間人として「クリスマス休暇をどう過ごすかのおしゃべりに興じる」彼女たちと、「文字どおり永劫の囚われ人であるレーヴィたち」とは、同じ労働場所を共有しながら、人間としての接点がない。民間人にとって囚人は本質的に差別に値する存在だと見なされているからだ。

 囚人たちは「泥棒で、信頼できず、どろだらけで、ぼろをまとい、死ぬほど飢えている」。それは収容所という地獄の暮らしが急速に彼ら囚人にもたらした変化なのだが、民間人は「原因と結果を混同して」、囚人たちが「こうしたおぞましさにふさわしい存在」だと判断してしまうのである。(159‐60頁)

 このような民間人の態度のなかでもレーヴィが忘れることのできなかったのが、ブナで彼に化学の知識を試験したパンヴィッツ博士の「別世界に住む生き物が、水族館のガラス越しにかわしたような視線」だった。その視線こそが、レーヴィにとっては、こちら側とあちら側の「断絶」の証しだったのだ。

 それは「廃棄にふさわしい物質」を前にして、利用できないかどうか点検する視線だった。それほどまでの無視と蔑視が当然のこととしてまかり通っていた。世界は真っ二つに断絶していたのだ。民間人と囚人、アーリア人とユダヤ人、貴族と賎民、奴隷主と奴隷、人間と人間以下、こちら側とむこう側〔後略〕。(160頁)

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4 「加害者」との再会

 1967年、アウシュヴィッツからの解放後22年たって、レーヴィの民間人に対する疑問に答えてくれる機会がやっと訪れる。ある偶然からブナの研究室に出入りしていた民間人のミュラー博士という人物と連絡が取れたのである。ブナでは、こちら側に相手を見つめる目がないかのような態度を取っていた「あちら側のものとの出会い」(163頁)、それは復讐のためではなく、レーヴィ自身が今後生き抜いていくために是非とも必要なことだったのだ。ミュラーからの返事には、「それ[2人の個人的出会い]は私にとっても、あなたにとっても有益で、あの恐ろしい過去を克服するために必要である」と書かれていた(164頁)。

 この「過去の克服」という言葉が鍵である。レーヴィは最初そこに、「赦免のようなもの」を自分に期待しているミュラーの気持ちを感じたが、後になってこの言葉が、ドイツ語の決まり文句、腕曲語法として「ナチズムの贖罪」を意味し、過去を正面から見つめるよりは、むしろ過去を歪曲することに重点が置かれていることを知る。そしてミュラーからの再度の手紙もそのような態度を立証するものだった。

 ミュラーは「アウシュヴィッツの出来事を、区別なしに『人間』のせいにしていた」。

 ミュラーはブナの実験室でレーヴィと「対等な人間同士の、友情に近い関係を結べた」と断言していた。レーヴィと「化学上の問題を論議し、そうした状況で、どれだけ『貴重な人間的価値が、単なる野蛮さから、他の人間によって破壊されているか』考え込んだ」と述べていた。レーヴィにはそんな記憶はない。それはあのブナでは現実離れした話だった。

 「おそらく善意から、都合のいい過去を作り出したのだろう」。(165頁)

・・・

 さらにミュラーは手紙の中で、ブナの工場がユダヤ人の「保護」のため建設されたのであり、自分はアウシュヴィッツ滞在中もユダヤ人殺戮についてまったく知る由がなかった、と書いていたという。
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* ここまでが事実。ミューラーもレーヴィも「ガス室」を知らなかったし、その工場であった「と言われている」「労働による絶滅」も知らなかった。

* 以下の「結論」には奇妙な一文が入っている。「晴れた日には、ブナ工場からも、(収容所で死体を焼却する--引用者注)焼却炉の火が見えたというのに。」という一文だ。これがなければ、単に、囚人差別は犯罪的だ、というだけの文章になる。

* ところが、この一文が入ると、「焼却炉の火が見えた」(これは事実だろう)、「その焼却炉の火は重大な犯罪行為のしるしであった」「重大な犯罪行為のしるしが見えれば、その犯罪行為を質問すべきである」したがって「焼却炉の火が見えたというのに(犯罪行為に気がつかないのはけしからぬ)」という意味になる。

* ここから事実を読み取るなら「収容所での重大な犯罪行為」を収容所内の工場の誰も「知らなかった」というべきであろう。しかし、「ガス室はあった」という思いこみを前提にして読めば「けしからぬ」という結論になる。巧妙な一文だ。

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ミュラーのような典型的な民間人の態度について、レーヴィは次のように結論する。

 逆説的で、腹立たしいが、例外ではなかった。当時、静かなるドイツ国民の大多数は、できるだけ物事を知らないように努め、従って、質問もしないようにするのを、共通の技法にしていた。明らかに彼も、誰にも、自分自身さえにも、質問をしなかったのだ。晴れた日には、ブナ工場からも、(収容所で死体を焼却する--引用者注)焼却炉の火が見えたというのに。(165‐66頁)

 自分自身に問いを発するということは、それほど易しいことではない。ことに問いを発するという行為自体が、自分が属する組織や自分自身に有形無形の不利益をもたらし、自らの存立基盤を脅かすような場合には。ミュラーはそのような、私たち自身もそこに含まれる可能性があり、私たちの周りに日常的に多く見受けられる人間の典型だったのだ。

 ミュラーは善意で小心であり、正直で無気力だった。大多数のドイツ人と同じように、無意識のうちに当時の自らの無関心や無気力を正当化しようとしていた。直接の加害者でなかったとしても、少なくともナチの犯罪の加担者ないし受益者だった人物が、犠牲者に向かって、重々しい口調で、「敵への愛」や「人間への信頼」を説くのである。そのことの浅薄さ、いやらしさ…。しかも、彼が頑固なナチだったなら話は単純だったのだが、当惑させられることには、「過去の克服」を願っているというのである。(166頁)
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