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ファルージャから届いた話 イラク情勢ニュース
http://www.asyura2.com/0502/war67/msg/101.html
投稿者 木田貴常 日時 2005 年 2 月 10 日 18:52:17: RlhpPT16qKgB2


 URUK NEWS イラク情勢ニュース> 占領への抵抗 2005 

ファルージャから届いた話
Stories from Fallujah
http://www.geocities.jp/uruknewsjapan/2005Stories_from_Fallujah.html

Dahr Jamail's Iraq Dispatches
ダール・ジャマイルのイラク速報
2005年2月8日
http://dahrjamailiraq.com
 ここに紹介するのは、ファルージャの瓦礫(がれき)の中から、何年間も出現しつづけるであろう話である。何世代もではないだろうが・・・。

 その医師は、匿名という条件のもとで、アンマン(ヨルダンの首都/訳註)にあるホテルの一室で私と同席した。彼はここで難民となっている。イギリスの支配下にあったファルージャで目にしたことについて、彼は話をした。そこは今、もし彼がイラクに帰ったなら、米軍による恐怖に支配されている。

 「記憶を呼び覚ますために、二度の包囲攻撃の期間、ファルージャで起こったことについての話を始めました。アメリカ軍は私の家に三度も襲って来たのです」と彼は言った。早口で話されたので、私はついていくのにやっとだった。彼はファルージャ市内で働いていた医師として、自分が見たことから話をし、私に話したすべての証拠となるビデオと写真を持っていた。

 「私は12月末に、イギリスの医療・人道支援の車列と一緒にファルージャに入り、1月末まで滞在しました」と彼は説明した。「しかし、私は住民と一緒に働き、彼らが必要としているものを確認するために、前にもファルージャにいたことがあるので、12月の初めからそこにいたわけです」。

 彼が何を目にしたのか、そして12月に最初にファルージャに入ったのはいつなのかを尋ねると、彼はツナミ(津波)が市を襲ったようだったと答えた。

 「ファルージャの周囲には難民キャンプが配置され、人々はそこでテント生活や古い車のなかでの生活を送っています」−−彼は説明した。「パレスチナ難民のことが思い出されました。寒さのために咳(せき)をするこどもたちを見かけましたが、そこには医薬品はありません。ほとんどの者が何も持たずに家を離れて、お金もないし、人道援助だけでどうやって生活できるでしょうか?」

 ファルージャの北側にある難民キャンプの一つでは、7個のテントに1200人の学生が住んでいた、と彼は言った。

 今回の包囲攻撃によって引き起こされた災厄は、1回目の包囲攻撃よりもずいぶんヒドイ」と彼は言い、例として一つの話をしようと言った。

 「話は16歳になる少女についてのものです」−−彼はこう言って最近ビデオに収録した証言の一つについて話した。「彼女は自宅で殺害された家族の死体と一緒に、三日間を過ごしました。兵士が入ってきたとき、父親、母親、12歳の弟、2人の妹と一緒に家の中にいたのです。その兵士が入ってくるや、何も言わずに、母親と父親を射殺するのを彼女は目撃しました」。

 少女は弟と一緒になんとか冷蔵庫の背後に隠れて、最悪の戦争犯罪を目撃することになった。

 「彼らは2人の妹を殴りつけ、その後、頭を撃ちました」−−と彼は話した。このあと、彼女の弟は怒って、叫びながら兵士の方へ走りだしたために、兵士たちは弟を射殺した。

 「彼女は兵士が去ったあとも隠れて、妹たちと一緒に家にとどまりました。2人の妹は、血を流していたけれど、生きていたからです。彼女は恐くて助けを呼ぶことができませんでした。兵士たちが戻ってきて自分も殺されるのを恐れたのです。彼女は水も食料もないまま、三日間、家の中にいました。たまたま米軍の狙撃兵が彼女を見つけて、病院に連れていきました」−−医師は彼女の全証言を収録したフィルムがあると付け加えた。

 彼はさらに、包囲攻撃のあいだ自宅にいたある母親から聞いた別の話をした。−−「包囲攻撃の5日目、彼女の家は爆撃され、屋根が息子の上に落ちて、彼の足を切断したのです」−−彼は足を切る仕草を手でしながら話した。「何時間ものあいだ、彼女は外に出ることができませんでした。なぜなら、通りに出る者は誰であれ射殺されるだろうと彼らは宣告されていたのです。それで彼女にできたことは、息子の足をくるんで、目の前で死んでいく息子を見つめることだけでした」。

 医師は一休みして深く息をしてから、また話を続けた。−−「私に言えることは、ファルージャは津波に襲われたみたいだということです。包囲攻撃のあとには、大勢の家族がいなくなって、すべてを失っていました。被災のほどは、あなたの想像を超えていました。米軍が私たち住民を市内に戻したとき、住民は毛布を探し求めるのに必死になりました」。

 「私の同僚の一人であるサレハ・アルサウィは、彼ら米兵について、ひじょうに腹を立てながら話をしていました。彼らが包囲攻撃の最初に病院を襲ったとき、彼はその主要病院にいたのです。彼らは医師たちが患者の治療をしているとき、手術室に入ってきました。彼は麻酔医だったので、手術室にいたのです。彼らは軍靴のまま入ってきて、医者たちを殴りつけて連れ出し、手術台の上の患者を死に至らしめたのです」。

 この話は、既に、アラブ・メディアでは報道されている。

 医師は私に、包囲攻撃の第1週に起こった、ハイ・ナザレ医院への爆撃のことを話した。

 「この医療施設には、私たちが持っていた外国からの援助物資と医療機器のすべてを収納していました。彼らがここを爆撃しないよう、私たちは彼らに通知していたので、米軍の全指揮官がこのことを知っていました。しかし、ここは爆撃された医療施設の一つとなり、しかも包囲攻撃の第1週に、彼らはここを2度も爆撃したのです」。

 そして彼はつづけた−−「もちろん、彼らは全部の救急車と医者を標的にしました。このことは誰もが知っています」。

 彼と何人かの医者たちは、以下のできごとに関して米軍を訴えようとしており、そのために証拠となる証言をテープに収めている−−彼は私に話した。

 私はバグダッドにいる幾人かの避難民からも、同じような話を聞いている・・・包囲攻撃がまだ続行中だった11月末のことだが。

 「包囲攻撃の第2週には、彼ら(米兵)は市内に入ってきて、全家族は自宅から去らなければならず、白旗をかかげて、通りの交差点まで来るように、とアナウンスしました。米軍は住民に家を去るまで72時間の猶予(ゆうよ)を与え、その後は、敵とみなされるだろう、と」。

 「7歳を年長とする子どもたちと親類も含めて12人のある家族の証言を、ビデオを添えて文書化しました。−−彼ら(この家族)はさっきのアナウンスを聞いたので、持てるだけの食料とお金を持って、そして白い旗を手にして、家を出ました。彼らが一族の集まっている交差点に来たとき、誰かが英語で「今だ!」と叫ぶのが聞こえ、そして射撃があちこちで始まったのです」。

 証言をした若い男性によると、この家族は、指示されたとおりに、全員が白い旗を手にしていた。それでも彼は、母親と父親が狙撃兵に撃たれるのを目にした。母親は頭を、父親は胸を撃たれた。彼の2人の甥(おい)も撃たれ、それから彼の兄弟も首を撃たれた。男は、地面から起きあがって助けを求めて叫んだとき、彼のすぐそばに弾丸が飛んできた、と証言した。

 「何時間かが過ぎて、彼が腕をあげて助けを求めると、彼ら(米兵)は腕を撃ちました」と医師は話を続けた。「それで、しばらくして今度は手をあげると、彼らは手を撃ったのです」。

 その家族のなかの6歳になる男の子は、両親の死体のそばに立って泣いていたが、彼もまたその後に撃たれた。

 「起きあがると、誰であれ撃たれました」と医師は続け、さらに負傷した生存者を射撃している写真のほかにも、彼は死者の写真も持っていると話した。

 「暗くなってきて、私に話をしたこの男性といっしょにいた数人が何とかその場から這(は)いだすことができました。彼の子どもと、義理の姉妹、妹です。彼らは建物まで這って、そこに8日間いました。1杯の水を持っていたのは、子どもにやりました。彼らは料理用のオイルを傷口に塗り、ナツメヤシと根菜類を見つけて食べました」。

 彼はここで話をやめた。濡れた外の通りを車が走り、水がタイヤの下で音をたてるのを機器ながら、彼の目は室内を見回していた。

 彼は1月末にファルージャを離れたというので、私は最近のファルージャはどんな様子だったか尋ねてみた。

 「今では、おそらく住民の25%が戻ったでしょう。しかし、市内にはまだ医者がいません。今のファルージャでは、あらゆるアメリカ人に対する憎悪がひどいのですが、あなたは彼らを非難してはいけません。検問所での屈辱が、住民をいっそう怒らせる一方なのです」と彼は言った。

 「振り返るだけでも、アメリカ兵とイラク人兵士の両方から警告され、撃たれる−−それを私はその場で目撃しました。・・・ある男性がそのようにして、イラク兵は彼に屈辱を味あわせようとしたとき、その男は近くの兵士の銃を奪って、2人のイラク兵を殺しました。もちろん、その後で彼も射殺されました」。

 医師はこう話した−−彼ら(米兵およびイラク兵)は時には住民を何時間も列に並ばせ、米軍はその状況をプロパガンダ用の映画に編集したりする。

 「私はそれがメディアで放映されているのを見たことがあります。またファルージャの北側の検問所では、1月2日、米軍がファルージャに戻る家族に200ドルを支給していました。そうして彼らは、列をなしている市民をフィルムに収めるのです・・・実際には、そのとき、ファルージャに戻る家族は誰もいなかったのに」と彼は言った。私の同僚が1月にファルージャで見たことを話してくれたが、私はその話を思い出した。そこでは、CNNのクルーが米軍に付き添われてやって来て、小道具がわりに動員された道路清掃人と、子どもたちにキャンディーを配っている兵士が撮影されたのだった。

 「あなたは憎悪が生みだされていることを理解しなければなりません・・・それは私自身を含めて、イラク国民がアメリカ政府とアメリカ国民を区別することをいっそう難しくさせているのです」と医師は私に告げた。

 彼の話は、他にも数え切れないほどある。

 「私の従兄弟(いとこ)はファルージャの貧しい男です」と彼は言った。「彼は妻と5人の娘と一緒に暮らしていて、自宅から歩いて仕事場に行き来していました。2003年の7月、アメリカ兵が彼の家に侵入してきて、彼ら全員をたたき起こしました。彼らは家族を一室に集め、家族の目の前で従兄弟を処刑しました。あとは、彼らはそのままにして去りました」。

 彼は一呼吸おいて、両手をふりあげ、そして質問した。「さあ、この家族はアメリカ人にどんな感情をいだいているだろうか?」


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