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ジェノサイド研究の展開 報告C「ナチ・ジェノサイド研究の最前線」(ズザンネ・ハイム)−− 日本学術振興会 
http://www.asyura2.com/0502/war67/msg/474.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2005 年 2 月 19 日 07:56:31: 0iYhrg5rK5QpI

(回答先: ヒトラーはシオニストの傀儡でイスラエル建国のための資金付き人材の追い出し役だった 投稿者 木村愛二 日時 2005 年 2 月 18 日 09:30:18)

日本学術振興会 人文・社会科学振興のためのプロジェクト研究事業

 領域U 平和構築に向けた知の再編
  ジェノサイド研究の展開

http://www.cgs.c.u-tokyo.ac.jp/ws/sympo_040327/sympo_040327_Heim.htm

長年にわたり、ヨーロッパユダヤ人の殺害は不合理や文明の断絶(Zivilisationsbruch)と同義であると考えられてきた。工場のように体系的に組織されていながら、狂信的な人種妄想の表われでもあったためである。アイヒマン裁判でのある生存者の言葉を借りるならば、アウシュヴィッツは「人類文明の従来の規則や慣習が適用されない世界つまり『別の惑星』」であった。通常世界と絶滅世界のあいだのこの断絶こそが、収容所からの解放の後、死にいたるまで生存者の多くを苦しめつづける悪夢の原因であるとL.ランガー(Lawrence Langer)は論証している。生存者の多くは迫害によって、以前の自分がどうであったかを自分自身でも分からなくなるほどに変わってしまった。身体的に変わったというだけではない。永続的な死の恐怖の中で生き延びようとするあまり、他者−たとえその「他者」が親友や家族であっても−の苦しみには無関心であることを強いられ、自身の規範にも周囲の価値観にも反する行動様式をとらざるをえなかったことも少なくなかったのである。長年にわたって生存者を苦しめ、その体験を伝達不能なものとし、彼らが世間と隔絶してしまったことの理由とされてきたのはまさにこの矛盾であった。いかに体系的に組織され、合理的に実行されたにせよ、ホロコーストは被害者にとっては恣意的で予測不能な体験であった。今日でも、ホロコーストを他の諸々のジェノサイドと分かつ特異な点は実利的合理性の完全な欠落にあると考えられている。H. アーレント(Hannah Arendt )がかつて述べたように、ホロコーストは多大な犠牲者を出したために特異なのではない。殺人者の側が実利性や利害を一切考えていないがために特異なのである。
 近年のジェノサイド研究は、ホロコーストは他の大量殺戮と比較可能であるが特異でもあるという点から出発する。特異である点を挙げるならば、他の大量殺戮犯罪の犠牲者とは異なり、ユダヤ人は下等人間(Untermenschen)であり、アーリア人を堕落と退化から救うためにはユダヤ人を完全に抹殺しなくてはならないとされたことである。また、ヨーロッパユダヤ人の殺害が「ヨーロッパで科学的・産業的に最も進んだ国の一つ」によって行なわれたという点も挙げられる。さらに、ホロコーストを歴史上の他の諸々の大量殺害と分かつのはその近代的・官僚主義的な組織性である。つまり、被害者集団を登録しそれとわかるように明示すること、巧妙なプロパガンダ、ゲットーや収容所へのユダヤ人の集中、「高度に専門化された移動殺人部隊」の利用、絶滅収容所とガス室、ドイツ人社会のあらゆる職種の動員およびユダヤ人絶滅政策への他国の取りこみである。
 私の以下の報告の焦点となるのは、ホロコーストはそうした殺害方法のみならず、加害者の追求する長期目標および彼らの描く社会変革構想という点からみても近代的「犯罪」であったという考察である。したがって、単に加害者を告発し、犯罪を生じさせた力学を再現することにとどまらず、加害者社会(Tatergesellschaft)の構造を分析することこそが重要になる。以下に、ホロコーストと関わる社会的変容過程ならびに「加害者社会」の構成という二つのテーマについて詳細に考察し、このシンポジウムで取り上げられる三つの大量殺害の類似点と相違点について議論するための一助としたい。
 その際、次の三つの局面に注目することになる。
1)ドイツ支配下の新ヨーロッパ構想
2)この構想の科学的基盤
3)ドイツ人社会の全領域がユダヤ人迫害および殺害に同意したことの物質的基盤

人口過剰、再定住、選別
 ヨーロッパユダヤ人殺害の決定が下されたのは1941年の何月であったのか、それとも[ヒトラーによって]あるひとつの決定が下されたわけではなく、長期にわたる試行錯誤の中で次第に自発的急進化が進んでしまったのかについて、歴史家は今日にいたるまで論争を続けている。しかし、ユダヤ人殺害への方向性が東方での侵略戦争によって定められたことには疑いの余地がない。「大規模な大量殺害をともなう東方への帝国主義的[膨張]衝動は軍事作戦であると同時に人種戦争であり、そのジェノサイド的な論理は何よりもソ連への攻撃を準備したイデオロギーに内在するものであった。アメリカ参戦によって戦争が大戦へと拡大したときには、ヨーロッパの全ユダヤ人の抹殺は主要目的と化していた。そのため戦争はユダヤ人に対する戦争ともなり、それは1939年1月にすでにヒトラーによって予告されていた通りでもあった。」まずポーランド、次いでソ連に侵攻したことにより、ドイツ支配下の地域に住むユダヤ人の数は飛躍的に増加した。約50万人のドイツユダヤ人は、多くが自分はユダヤ人ではなくドイツ人であると考えていた。ところが今や問題となるにいたったのは何百万人もの「東方ユダヤ人(Ostjuden)」である。東方ユダヤ人は、第一次世界大戦中にドイツ人兵士が貧困、低開発、未開そのものとみなしていた存在であった。軍事占領の二〜三週間後には早くもドイツ人はポーランドでいわゆる「新秩序」の実験を開始したが、ポーランドを手始めとして東欧全域に新しい経済的社会的秩序を押しつけることが計画されていた。それは「遅れた」農業国と考えられていたこの地域を「大ヨーロッパ」、つまりドイツ人の「生存圏」の生産的一部へと変えるためであった。
 ドイツのみならず西欧諸国、アメリカの経済計画担当者の目にも、ポーランドおよび東欧の大多数の国々は開発が遅れ、経済が効率的に組織化されておらず、資本不足であると映った。とりわけ、農業によって生計を立てている人口があまりに多すぎるのが問題であった。全人口の三分の一、地域によってはそれ以上が過剰と考えられ、近代的な耕作方法を導入する必要があった。したがって、経済の大部分を占めている農業部門では、意味をなす程度にまで資本が蓄積されることもなければ、産業生産物を購入するために必要な購買力を農民がもつこともなかった。経済学者の試算によれば、南東欧も同じく過剰人口を抱えており、ドイツの産業経済の利益を考えるならば、1200〜1500万人の農業労働者を「移動」させる必要があった。家族を含めると5000万人もの人々が排除されなければならないということである。これらの「未利用の労働力」はインフラ整備、道路建設、河川整備、湿地干拓に利用できると考えられた。強制労働のために彼らをドイツに輸送することも可能であるかもしれなかった。
 外部からの強制的介入がなければ貧困と人口過剰は悪化し、労働効率は低下の一途をたどるものと思われた。このような経済的思惑に加え、「住民の貧困化の進行」は当該国の政治的安定性を脅かすとされた。このような見解に立っていたという点では、ドイツの東欧専門家も西欧の東欧専門家も同じであったが、ドイツの科学者は過剰人口に対してある特殊な「処方」を案出した。彼らは「非ユダヤ化」をポーランドの経済的社会的構造を安定化させるための第一歩と考えたのである。占領下ポーランドの経済相は将来の経済政策構想を次のように略述している。「経済活動の成長の前提条件」は「経済構造全体の根本的な変化」であり、それはまず何よりも「ユダヤ部門の大幅な合理化」である。「ユダヤ部門を縮小することにより、ポーランド部門が遅れを取り戻す機会が生じるであろう。[・・・]無論、この商業移住は無秩序、無規律に行われることがないよう適切に組織されなければならない。」小規模事業や零細事業からなり、地域的に限定されたユダヤ人の商業コミュニティは、経済にとって障害となると経済相は考えていた。それに対して、彼の構想する「商業移住」は東方に市場を開拓することを目的とするものであった。人工的に新たに作り出されるポーランドの「中規模事業」は監視、統制がしやすいものとなるはずであった。これらの計画の前提条件は大規模な再定住であり、ヒムラーの言葉を借りるならば「民族集団全体の移植」であった。このような民族的思考は「価値」に応じて階層化された様々な集団へと住民を分類することと分かちがたく結びついていた。そしてこのヒエラルキーの最下層に位置したのがユダヤ人であった。
 大戦勃発から五週間後の1939年10月6日、ヒトラーはヨーロッパにおける「民族新秩序の創出」を宣言した。ヒトラーはこの目的を「諸民族の再定住」によって達成しようと目論んだ。期待されていたのは「明確な境界線の現出」であった。ヒトラーは同時に、「ユダヤ人問題を明らかにし、解決するための努力[が払われることになる]」とも宣言した。翌日、ヒトラーは諸民族の暴力的放逐を組織する権限をヒムラーに与え、ヒムラーはただちに「ドイツ民族性強化のため帝国全権委員」として、「ドイツ民族性強化全権部」を設立した。この部局は、二〜三ヶ月のうちに、銀行、有限会社、計画担当スタッフ等のネットワークに支えられて政策決定にも影響力をもつ巨大かつ強大な機関となった。そこに属するすべての組織は既存の諸機関に対して指令を出す権限を与えられた。これらの組織ではSS隊員、ソーシャルワーカー、地方共同体の連絡スタッフ、建築家、監査役、行政官、農学者、帳簿係などが働いていたが、それらの様々な技術と活動がただ一つの目的に供されていた。ポーランドの帝国編入地域における再定住政策の組織化である。財産を没収され、住居から追われる者がいれば、代わりに連れてこられる者もいた。[ドイツ民族性強化]全権部は村や町全体を組織しなおし、「地方の様相を完全に変化させる」べく取り組んだ。
 ドイツ人の再定住の専門家は、人種政策、人口政策、社会構造政策を結びつけ、「東方におけるドイツ再建」のための総合的かつ統一的な構想を作り上げた。最も単純かつ安上がりな「解決」は人口政策であり、それは入念に計画されたものであったが、残虐なものでもあった。人口政策は、ナチ社会の人種主義的規範に立脚しつつも、そうした人種主義的規範を社会工学のための実用的手段へと発展させていった。全住民集団の再定住によって、巨大なプロジェクトを実現するための自由な行動の余地が作り出され、資金調達の必要がなくなり、社会的経済的組織化とインフラの効率性という点で模範的な社会を建設するための道が多くの犠牲の上に力ずくで拓かれることとなった。そのため、肯定的な意味でも否定的な意味でも[ドイツ民族性強化]全権部の職務の重点は人口政策に置かれた。被害者は差別され、「排除」された。恩恵を受ける側の者は優遇され、促進された。ポーランド西部はできうるかぎり早急に「ドイツ化」されるべきであり、その経済システムはドイツ帝国の需要にあわせて変えられるべきであるとされた。何十年にもわたって東欧諸国で少数民族として生きてきたドイツ人が、占領下ポーランドに移住させられることになった。
 この目的のために、[ドイツ民族性強化]全権部の計画担当者はユダヤ人住民と一部のポーランド人住民を当該地域から追放し、東方に移送することを提案した。移送される者たちの住居、農場、店、工場は閉鎖、解体されるか、さもなければバルト諸国やソ連占領下のポーランド東部、後にはルーマニアから「送還」されてくる民族ドイツ人に配分された。
 ポーランド人およびユダヤ人の追放は、民族ドイツ人の移住とひとつの統一体を形成しており、制度上もハインリヒ・ヒムラーという同一人物の手に委ねられた。ラインハルト・ハイドリヒもまたポーランド人およびユダヤ人の追放と民族ドイツ人の移住を管轄していた。ドイツ人の再定住は常に経済的合理化と結びつけられた。ドイツ人一家族のために、しばしば二〜三、時として五家族もの少数民族、ナチ用語でいうならば「異民族」(“Fremdvolkische”)が移動、送還されることもあった。様々な参考数値等に基づき、各地の計画担当者は最適な「人口構造」を計算した。土地の質に応じて1平方キロメートルあたりの農業従事者数が規定されると、そこから最適な「非農業労働者」数が割りだされた。同様の計算が個々の職業集団について行われた後、条件に応じてポーランド人のいくつかの農場や工房が合併され、続いてドイツ人の農業主や職人に配分された。こうしてパン屋であれ、靴屋であれ、農場主であれ、ドイツ人は「健康な」事業を与えられることになるのである。結果として、強制的に移住させられる者の数は新たに定住することになるドイツ人の数よりも常に目に見えて多いということになった。
 この[再]定住措置においては、ポーランド人およびユダヤ人が選択、分類されたのみならず、民族ドイツ人も同様に選択され、分類された。民族ドイツ人は、出身地、社会階層、資産状況、「政治的態度」、健康状態などに応じて様々なカテゴリーに分類され、再分配された。そのような分類を行うための基準は科学的根拠に基づいて確立すべきであるとされた。
 1942年夏に帝国食料農業省次官H. バッケ(Herbert Backe)はカイザー・ヴィルヘルム財団(KWS)に人種生物学と[再]定住問題のための研究所を設立するよう勧告した。当時、バッケは科学振興のための機関として国際的にも高い評価を受けていたKWSの副総裁であった。食料農業省において影響力ある地位にあったため、バッケは広義の農業研究に携わる KWSのあらゆる研究所の財政にとって重要な人物であった。新たに設立される研究所では、人種生物学的な観点から「東部領」の将来の入植者が選ばれることになっていた。「とくに重要な問題は、個々の種をある地域に閉鎖的に定住させるのか、混住させて定住させるのかという問題であろう。すべては特定の気候条件、土壌条件に対する定住者の生物的適性によるのである。」したがって、この問題に関する科学的資料を扱うのは食料農業省でもSS帝国指導者でもない。それはこれから設立される研究所が決めることである、とバッケのあるメモには記されている。
 東方での[再]定住をめぐる科学的研究は1942年夏に始まったわけではない。すでに様々な分野の専門家が占領下の東部領への定住者の選択に関与していた。とはいえバッケによって提唱された基準に従っていたわけではなかった。バッケの実現されなかった提案は、獲得した東方でナチの政策が直面した新たな課題が、いかに科学的に取り扱われるようになっていくのかを示す一例である。

科学の役割
 [再]定住政策は生物学的モデルを社会再編に適用したものであった。この政策に如実に表われているように、ナチの政策は科学的な立場からの政策提言に相当程度に依拠していた。各地域の計画担当者、社会学者、人口学者などが大量に協力していたことを考えればこのことが社会科学にあてはまるのは明らかであるが、自然科学、とくに生物学についても同様のことがいえる。19世紀末に人文科学において優生学のパラダイムが台頭するにつれ、次第に生物学が社会現象を解釈する際の主要概念となっていった。優生学の発展にともない、人種学、人口学の意味も極めて大きくなった。「市民階層のあいだで当時広く感じとられていた危機的状況に関する推測―全般的な社会的文化的衰退は貧困、非行、反社会性、売春、アルコール依存などに特徴づけられる「社会問題」の影響によるものである―は、優生学=科学的思考様式に通ずるものであった。しかしそうした危機的状況は[…]優生学的アプローチ、つまり優生学独特の解釈と現実の再構成の仕方によって強められた面があったばかりか、優生学によってはじめて引き起こされたものでさえあったともいえた。」優生学の主要科学への台頭によってこうした社会現象が遺伝的なものであると考えられるようになり、そのことが逆にあらゆる種類の「異常性」についてその遺伝的根拠を調査する差し迫った必要性があるかのように思わせることになったのである。
 優生学研究は「逸脱のない」社会というユートピアに適合させられた。このことにより「病的」もしくは「劣等」とみなされるあらゆる遺伝的要素を再生産から排除すべく科学的に定義し、精密に記述することが求められることになった。「民族体(Volkskorper)という生物的集合体は優生学的な思考においては至上の規範的権威であり、そこでは個人の価値が遺伝的要素から予測される資質に照らして定められる。優生学の論理によれば遺伝的には万人が平等とはいえないことになるのである。」
 優生学と人種衛生学の興隆はナチに特殊な現象でもドイツに限られた現象でもなかった。同じような展開は他の諸国にも同様にみられたことが知られている。しかしナチに特徴的であったのは、科学と実践が密接に結びついていたことであり、優生学や人種学の科学的提言がすぐさま政策決定に移されたことであった。 KWSの科学者もその専門知識をナチの人種政策のために提供し、新たに設立されたあまたの理事会や委員会で政策顧問として活躍した。人類学、遺伝学、優生学関連のカイザー・ウィルヘルム研究所の指導的科学者たちは「ユダヤ人問題」を検討したり、専門家会議で「ユダヤ人問題の全体解決」について協議したりした。中には、人種証明書や家系証明書を作成し、人間を「完全ユダヤ人」「二分の一ユダヤ人」「四分の一ユダヤ人」に分類して差別を進めていくための基礎を準備した者もいた。また「東方諸国の人種的生物的調査」を行った者もいた。 ほぼすべての学問分野が占領下の東欧の従属と長期的変革に関与した。
 科学者は、すでに占領下に置かれた、もしくは間もなく占領下に入る国々の人口比率、社会的経済的状況、食料供給、国内資源に関するデータを提供した。たとえば統計学者は、ユダヤ人とシンティ・ロマを国勢調査でそれぞれ独立した項目として登録したり、全ヨーロッパユダヤ人をマダガスカルに移送する可能性を算定するために三種類の異なる証明書を用いたりした。経済学者は供出割り当てを決定した。つまり占領地域の住民を飢えさせることを決定したということである。栄養生理学者はレニングラード包囲を大都市の住民を飢えさせるためにはどれだけの日数がかかるかという実験ととらえていた。社会学者は「民族境界の適正化」や「小規模市場都市の非ユダヤ化」などの提案を行った。内科医はゲットーは疫病の危険な温床であるとして、ゲットーを厳格に分離するか、望むらくは移送によってゲットーを解体すべきであると主張した。
 ナチの統制計画の策定に政策顧問として関与したとして問題になる科学者は、一般にきわめて若い世代の知的エリートであった。この世代は「ヴェルサイユの恥辱」や世界恐慌時の失業の恐怖を経験した後、ナチ国家の勢力拡大によって思わぬ機会をえたのである。1933年以降に行われたユダヤ系および社会主義者の科学者の追放、(地域計画、遺伝衛生学、軍事技術、代用品生産などの分野における)国家機能の拡張、さらには1938年以降の領土拡張は、科学者が取り組むべき新たな課題を生みだした。戦争は科学の使命に関する科学者の認識を変え、科学は倫理的制約から解放された。ドイツの研究エリートは正義や倫理は科学とはなじまず、新しい政治条件の下では無視しうるものであると考えるようになった。
 ある地域の住民も基本構造をも顧慮する必要がない、というとくに占領下の東欧諸国で広がっていた確信は新機軸、計画のための計画という雰囲気を強めた。占領下ポーランドで働いていたあるドイツ人経済学者の言葉を借りれば、「東方で経済計画担当者は完全に新しい状況に直面している。既知の経済要因が定まっている上で、個々の産業工場をどこに設立するか、輸送のためのインフラをどのように作るのが最もよいかということを考えるのではない。経済用語で言うならば、ここにあるのはまさにタブラ・ラサ(白紙)状態なのである。」
 政治信条のためであれ、出世願望のためであれ、科学への貢献のためであれ、科学者はその技能をナチ体制のために役立てた。しかし、科学とナチ支配の関係はあくまでも相互的なものであった。したがって、「科学の悪用」、犯罪的政策のための科学の動員、という言い方には語弊がある。科学者は自らのプロジェクトを通じてナチに協力し、協力に対して報酬を受けた。つまり、きわめて良好な研究環境に恵まれ、専門とする研究を大戦中にも続けられるようになり、金銭的報酬をもえたのである。このことは政治と関係の深い社会科学者のみならず、科学的客観性の重視をもって自認する自然科学者にもあてはまる。
 ドイツ軍がソ連に侵攻した後、ドイツの科学者はソ連の有名な研究所を訪れ、その多くをわがものとした。このような搾取はたとえば植物品種改良のようにソ連の研究者が主導的地位にあった分野の科学者にとってとりわけ魅力的であった。中でもドイツの植物学者および生物学者は先を争うように世界的に有名なソ連の植物品種改良工場を訪れた。戦時下で貴重な資源が破壊されてしまうことを恐れたためでもあり、スターリン下のソ連科学がいわゆる「ブルジョア」遺伝学を敵視しており、遺伝学研究所を破壊したり、放棄したりすることが考えられたためでもあった。ドイツの科学者にとってこれは、ソ連の研究資源を奪うことによりソ連の進んだ遺伝学を継承するまたとない機会であった。ドイツの科学者はソ連の有名な植物コレクションを争って求め、ソ連の研究所に殺到しはじめた。
 ソ連の研究所の接収をコーディネートし、占領地域での研究を組織し、ドイツ人占領者に進んで協力しようとするロシア人科学者を引き入れたのは東方研究センター(?Zentrale fur Ostforschung“)という特別の機関であった。東部占領地域省の管轄下にあった東方研究センターはカイザー・ウィルヘルム研究所から複数の科学者を雇用した。これによって彼らは単にドイツの一研究所の部門長という従属的な立場から占領下の東部領の科学部長へと格上げになったわけである。「東方研究センター」は国防軍が東方から退却するときにも科学コレクションや研究設備の撤去を組織した。ドイツ人は持ち去ることのできないものをすべて破壊しつくした。悪名高い「焦土」作戦である。種子コレクションの場合、これを実行すれば残された住民が飢えに苦しむことになることを十分に認識していながらこの焦土作戦は遂行された。
 ヨーロッパユダヤ人の絶滅に関する研究の中でR. ヒルバーグ(Raul Hilberg)はあらゆるレベルで自発的な開始を促進するような雰囲気があり、それが絶滅プロセスの効率性を高めたと述べている。この指摘はヒルバーグが扱った官僚機構のみならず、科学についてもあてはまる。占領地での出世のチャンス、研究所を荒らしまわって手に入れた研究材料が侵略政策への熱心な関与の物質的基盤となり、政治指導部と科学者コミュニティのあいだの利益同盟を生み出した。忠誠を誓うことによって恩恵を被ることができるというこの種の関係はとくに科学においてみられたが、科学だけに限定された問題ではない。
 ドイツは全ての植民地を奪われ、膨大な人口に対して十分な資源をもたない貧しい国であるという考えはあらゆる層のドイツ人に広がっており、食料と資源を供給するためという名目の下に東方での戦争を正当化することになった。加えて、ドイツ人のあいだには幅広い反セム主義的なコンセンサスが存在したため、「東方ユダヤ人」は「下等人間」であるとのレッテル貼りがなされたのみならず、ナチの政権掌握につづく数年のうちにユダヤ人を社会から排除する動きが助長されることにもなった。
今回の講演の中で私は、当初は躊躇し、疑念を抱いた非ユダヤ系ドイツ人が、熱狂的ではなかったにせよ最終的にはナチの反ユダヤ人政策に加担するにいたった個々の段階を詳細に論じることはできない。
 しかしそれに関連して私が最も関心をもっているのはユダヤ人から没収した財産が果たした役割である。科学者にとっての研究資源の強奪と同様、ドイツ社会の大部分ではユダヤ人財産がナチの政策に対するコンセンサスと忠誠心を喚起する意味をもった。レベルはまったく異なるが、非ユダヤ系ドイツ人はユダヤ人から収奪することで利益を受けたのである。
 ドイツ人は亡命するユダヤ人から家具、宝石、その他の貴重品を市場価値よりはるかに安く買い、ユダヤ人が狭苦しい「ユダヤ人住居」での共同生活を法的に強制されるようになった後にはそのアパートを好条件で入手し、商店や工房を奇妙なほど安く買った。こうした個人的な利益享受は「再分配」のひとつの形態であり、大衆がナチ政府を承認する基盤となっていた。このようにしてナチ体制は元手もかけずに「一般大衆」の期待に応ええたのである。個人財産の所有権が移ったことに加え、ユダヤ人の病院が軍の病院に、老人ホームが「アーリア人」の子供のための施設に指定されるなどといった措置もとられたが、それがなければ、非ユダヤ人に対する社会保障が大戦中にあれほど高いレベルで維持されることは不可能だったであろう。
「[ユダヤ人財産を]公共の場で販売することの目的は『住民のできるだけ多くの者に商品を適正な値段でばらまくこと』にあった。」資料状況にめぐまれたハンブルクの事例研究によれば、「アーリア化」の恩恵を受けたのはとりわけ退職したサラリーマン、自立を計画している若手の商人、事業を新規に拡張し、もうかる商売をしたいと考える者、ナチ党関係者であった。
 他の諸国も個人的に利益を与えることによってユダヤ人の移送に対する世論の同意を取りつけようとしてユダヤ人財産を利用した。そのような形で利用されたのはとくに不動産であった。文化財と動産は容易にドイツに輸送できたが、不動産と住居はその土地に残され、一般に特価で地元の非ユダヤ系住民に提供されたのである。
 Ch. ゲルラッハ(Christian Gerlach)はアルメニア人とハンガリーユダヤ人の財産没収にみられる類似点を指摘している。ゲルラッハによれば、「どちらの場合にも略奪願望が暴力の使用に拍車をかけた。どちらの場合にも、政府は略奪財産をできるかぎり完全な状態で手に入れ、戦争による国民負担を軽減、もしくは吸収するために再分配しようとした。しかし両国政府の政策構想は全く異なっていた。第二次世界大戦期のハンガリーの場合、(ドイツの占領を受けた、もしくはドイツと同盟関係にあった他のヨーロッパ諸国と同様)ユダヤ人財産の没収はいくつかの点で役立った。第一に戦争にともなう消費財の不足を緩和し、闇市活動も不満も抑えることができた。第二に、ユダヤ人財産を販売することによって余剰の購買力を吸い上げることができ、第三に、その利益は即座に国家財政を潤し、安定化させることになった。ハンガリーでは、ユダヤ人財産に含まれる衣服、靴、家財道具の没収までもがしばしば国家によって組織された。貴重品と不動産はほぼ完全に国有化され、戦争に向けて国民の意識を高めるために一部は社会政策に利用された。しかし1915年のアルメニア人虐殺の際にはアルメニア人財産の個人所有物はほとんど地元住民によって略奪された。貴重品も何度も私的に横領されたが、何十万人もの難民を入植させるための財源として不動産が利用されたという点では、[ドイツ帝国に]編入されたポーランドでのドイツ人[再]定住政策ときわめて似通っていた。」
 「再分配」にみられるようなユダヤ人財産の計画的利用は、道徳的制約から解放された手段としての行動の支配(Peukert)というナチ像と一致する。私利に動かされていたにせよ、困窮していたにせよ、ドイツ人に対して特価で提供されたユダヤ人財産は、占領地域からの略奪品と同様、ドイツ社会においてナチ体制への同意を促進する効果をもった。科学エリートの場合には、国家権力との協力の基盤となったのは物質的利害よりはむしろ研究と計画の地平が拡大されたことにあった。科学者とその専門知識には需要があり、大胆な計画と実践が直結していたようである。(ヨーロッパ再編というユートピアに関してはその殺人的な部分が実現された。ただしドイツ人支配人種による大陸全土の最終支配という妄想は実現しなかった。そして最終的には体制は自ら作り出した矛盾に陥ったのである。)この道具的で、無慈悲で、反道徳的なプラグマティズムは加害者社会を説明するためには重要である。ただし、ホロコーストを「説明」することはできないだろう。加害者の実利的な計算と被害者が経験した予測不能性、無力感のあいだには深い溝が残り続けるのである。しかしホロコーストが人間の文明を超えたところにある多かれ少なかれ古典的な暴力犯罪であるという考え方とは異なる。ホロコーストは文明が生み出しうるもののひとつなのである。

(翻訳 川喜田敦子)

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